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音の向こうの景色

つらつらと思い出話をしながら、おすすめの名曲をご紹介

シューベルト 「主はわが飼い主」Gott ist mein Hirt

2011-09-21 00:19:45 | 宗教曲
 昨日、日本詩の読書会で島崎藤村の詩鈔を読んだ。有名な「初恋」を久しぶりに声に出して読みながら、中3の国語の授業を思い出していた。そして当時、音楽の授業で歌っていたシューベルトの「主はわが飼い主」を懐かしく思い出して、今、CDを聞いている。
 先日企画した中高の同窓会に、高1のときの担任・寺澤先生がいらしてくださった。私は中学3年から高校3年まで、先生に国語と古文を教わり、漢文の最初の手ほどきもしていただいた。「文語の美しさ」に気づかせてくださった、恩師である。藤村の「初恋」が登場したのも、寺澤先生の授業だった。
 教科書に載っていたこの詩は、中3の私にとっては、竹取物語と大差ない「古いことば」であり、語句と文法の解説を聞いてやっと理解できるような世界だった。しかし、とびきり素敵な宿題が出た。それは「意訳と想像をまじえた作文」と書かれた1枚のプリントで、第一連のところに先生の書いた例文があった。私は、やっといくつかの単語がのみこめた程度なのにもかかわらず、とにかくできる限り想像をふくらませて、紙を真っ黒にして提出した。想像というよりむしろ、妄想と呼べるほどの文章だった。
 次の授業で、いくつかの作文が紹介された。先生は書き手の名前を一切出さずに、淡々と読んで下さった。私の書いたものが読まれると、その微に入り細を穿つ内容に、クラスメイトは「誰だよ、これ書いたの…?」と苦笑する。私は最後まですっとぼけていたが、一緒に同人誌を作っていた仲間たちは「あれはぜったい牧菜だと確信した」らしい。いずれにしても、文語の響きとニュアンスを自分なりに感じ取り、好きなだけ想像力を羽ばたかせて良いのだと、その日私は気づいた。
 ところで、現代の日本の子供達が最初に接する文語は、おそらく文部省唱歌ではないかと思う。私にとっては、学校や教会で歌う讃美歌だった。小学生用の讃美歌集にも、いくつか有名な「大人の」讃美歌が入っており、これが基本的に文語体だった。説教中に取り上げられるなどの理由がない限り、解説は一切なしだ。まったく訳もわからないまま歌っていた。
 「などかはおろさぬ おえるおもにを」「おのがさちを いわわずや」「あめよりくべしと たれかはしる」「いましきます あまつきみ」「いそぐひあしは やよりもとし」ひらがなだと、まるで何かの呪文のようだ。さらに、西洋音楽のメロディーの「音符一つに、文字一つ」が割り当てられているので、語句の切れ目すらわからない。高校生になっても、朝の礼拝で「われはげにも幸なるかな」の「は」を、何も考えずに皆で「ハ」と発音して歌っていた。
 それが、時間の経過とともに、少しずつ意味がわかってくる。大人になってから、ある日突然意味がわかって、はっとしたこともたくさんある。「よびとこぞりて しゅをばなみし」とは、いったい何を意味していたのか、ある朝はたと気づく。語句の意味がわかるようになっただけではなく、文全体の意味が理解できるようになったからだ。そして、文語体の力強さに、思わずうなる。だから、子供時分に難しいものをそのまま投げ与えられて、それを鵜呑みにして、良かったのだと思うのだ。長い時間を経て「了解した」この瞬間が、本当に貴重なのだから。
 ちょうど授業で「初恋」を教わっていた中3のとき、音楽の授業で練習していたのは、シューベルトの「主はわが飼い主」だった。女声四部の合唱曲で、文語体の日本語訳詩がついていた。4人ずつでテストまで受けた記憶があるが、授業で与えられた曲として大した感慨もなく歌っていたはずだ。いったいこの難しい曲を少しでも歌えたのか、かなりあやしい。当時使っていた譜面をひっぱり出してきて、CDを聴いてみた。
 歌詞の内容は、有名な詩編23篇の「主はわが牧者」。全体的に平和で、たえずやさしい3連符が流れている。シューベルトお得意の自然な転調が繰り返される。「たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも」の部分の半音進行は秀逸だ。フレーズが長くて、中3の私ではとても息が持たなかったらしく、当時の楽譜にはあちこちに括弧つきのブレス記号が書き込まれている。しかし、こんなに繊細で、美しい名曲だったのか、と今更になって気づく。なぜこの曲が教材に選ばれたのか、やっと今「了解した」。
 そういえば、高1のころ、遅刻ぎりぎりで教室に滑り込んで、げほげほ咳き込み、ぜえぜえ言う胸を押さえていると、寺澤先生がゆっくりと歩いていらして、よくおっしゃった。「牧菜、ロウガイか?」私は「15歳に向かって老害とはなんだ」と内心思っていた。労咳という言葉を知ったのは、最近のことだ。

ブリテン キャロルの祭典

2010-12-08 01:18:27 | 宗教曲
 今年も「メサイヤ」のトランペットを聴いて、「ああ、いい一年だったなあ」と思う季節になった。クリスマスの時期に演奏される曲には、賛美歌からポピュラーまでお気に入りがたくさんある。中でも思い出があるのは、街中でときどきナッキンコールの声で流れてくる「The Christmas song」。
 中2の夏休みに「あなたの好きな詩を訳しなさい」という英語の宿題が出た。人生で一番夢中になってやった宿題だ。ちょうど前年のクリスマスに、小林明子、永井真理子、麗美、辛島美登里の4人がこの歌をアカペラで重唱しているCDを聴き、完全に魅了されていた私は、迷わずこの歌を訳すことにした。
 文法がわからないどころではない。ほぼすべての単語を辞書で引いた。タンクトップに短パンで居間のテーブルに陣取って、夏の真っ盛りに汗だくで「メリー・クリスマス・トゥー・ユー」と何時間も口ずさみ続ける私を見て、母は苦笑した。私は自分なりに韻を踏んだり、七五のリズムに日本語を整えて、大満足していた。未知なるアメリカのクリスマスの、きらきらした世界を垣間見たようで、夢心地だった。
 さて、聴くと夢心地になるクリスマスの音楽と言えば、何といってもブリテンの「キャロルの祭典」だ。ハープの伴奏による少年合唱(女声合唱)が、聴くものを異世界に誘う。中世の英国の詩による短い10曲ほどの三部合唱。ときどき、透明で美しいメロディーが独唱によって歌われる。詩はいずれも、キリストの生誕を寿ぐものだ。不思議な光にあふれた作品だと思う。
 初めて聴いたのは、高校3年のとき。学校で音楽の授業を選択していた同級生と後輩たちが、渋谷教会で行われたクリスマス・コンサートで歌った。理系コースだったので参加できなかった私は、客席で仲間達をうらやましく待っていた。礼拝堂の扉から、グレゴリオ聖歌を歌いながら合唱隊が入ってくる。1曲目を聴いた途端、虜になった。
 一度で覚えられそうな単純な旋律もあるぐらい、やさしく素朴な歌ばかりなのだが、純粋すぎるほどの美しさに、ぞくぞくする。中世の英語は、ほんの一瞬聞き取れるような気がするだけで、あとは魔法の言葉のように耳に心地よい。ハープの音は、天使の奏でる竪琴にもなり、風になびく草のささやきにもなり、星の粉を撒いたりもする。
 「This little babe」や最後の「Deo Gracias」は部分的に輪唱のようになっていて、響きの深い教会で旋律が次々追いかけられると、まるで四方八方から声が聞こえてくるようだ。私は思わずくらくらして、自分がまっすぐ座っているのかどうかさえわからなくなった。音におぼれるという不思議な体験をした。
 強い力でもって、聴く者の胸元を揺すぶる音楽もある。しかし「キャロルの祭典」は、聴く者を静かに揺する。ゆらゆらとあなたを揺すり、そっと恍惚へと導く。固執している価値観も揺らがせて、いったん自分をゼロにしてくれる。クリスマスというのは基本的に「静かな」イベントだが、この曲を聴くと、静かに自分をリスタートできる、そんな気がする。
 歌い終わると、またグレゴリオ聖歌を歌いながら、合唱隊は去っていく。そのときに私はもう生まれ変わっていた。

Although it's been said many times, many ways,
Merry Christmas to you
-From "The Christmas Song"

フォーレ 「レクイエム」より ピエ・イエズ

2010-11-17 23:24:37 | 宗教曲
 数年前の秋、母校の石澤先生に相談があって、放課後の校舎を訪ねた。石澤先生は私が中学2年のときの担任の先生だった。話の途中、先生が用事で席を離れたとき、講堂からオルガンの音が聞こえてきた。私が卒業したあと完成した新校舎の講堂には、大きなパイプオルガンが設置されている。音に吸い寄せられて講堂の2階をのぞきに行くと、音楽の先生が翌日の追悼礼拝のために、歌の練習をしておられた。
「フォーレのピエ・イエズ。弾いてくれる?」
 言われるがままにオルガンの椅子に攀じ登る。こんな大きな楽器に座ったことはない。もちろん足はまったく動かない。それでも良いと言ってくださったので、指をいっぱいに伸ばして黒い鍵盤を押した。思ったよりも遠くで音がする。そうだ、堀先生が亡くなった秋も、追悼礼拝で「ピエ・イエズ」が歌われた。私は友人のくーと二人で泣きながら、同レクイエムの「イン・パラディスム」のヴァイオリンパートを弾いた。
 堀律子先生。私が中1と中2のときに国語を教わった先生で、私が所属していた音楽部の顧問をしておられた。「声楽」の基礎の基礎を私たちに手ほどきしてくれた先生だ。ご自分でリサイタルを開いておられたのだから、おそらくプロに近かったのだと思う。ある日「一番高い音はどこまで出るの?」と尋ねたら、真ん中のドの2オクターブ上のファ(Hi F)だと答えてくれた。本気でびっくりしたものだ。今思えば、私たちにとって最も身近な「ソプラノ歌手」だった。
 堀先生は授業での話しぶりも熱い、エネルギーのある先生だった。明るくて、気さくで、おおらかで、生徒にも人気があった。元気いっぱいでいつも私たちを励ましてくれた。ただ、なんとなく生き急いでいるような雰囲気が、なくもなかった。一日4時間半しか寝ていないと聞いたこともあった。私が中学3年のとき、先生は突然亡くなった。30歳代だったろうか。お若かったことは間違いない。
 私たちが中2で使った国語の教科書に、レイ・ブラッドベリの「霧笛」が載っていた。内容も少し大人っぽく、このテキストを扱っている間、授業はいつもと少し違う空気が漂っていた。堀先生は、自分の中に何か特別な思いがあるようで、それが教室に独特の緊張感を与えていた。
 ノートに写した、その授業の板書。「孤独がその本質」「愛しすぎてはいけない」「孤独をいやす相手を求めるなら、自分を抑え、相手を思いやらなければ」などとある。これが先生自身の解釈だったのか、クラスメイトの意見だったのかは定かでない。ただその日、先生の目は泣いていた。休み時間になると、クラスメイトは先生の過去の噂をささやいたが、私は彼女の中にある人間の本質のようなものを見る思いがしていた。
 「霧笛」の中で、マックダンは言う。『二度と帰らぬものをいつも待っている。あるものを、それが自分を愛してくれるよりももっと愛している。ところが、しばらくすると、その愛するものが、たとえなんであろうと、そいつのために二度と自分が傷つかないように、それを滅ぼしてしまいたくなるのだ』(大西尹明訳)。
 学校の帰り道、親友の桜子と私は「愛する者を滅ぼしてしまいたくなる思い」について、何日も話し合った。桜子は、ユダは愛するが故にイエスを売ったのだと主張した。そのとき私はまだオコサマすぎて、どうしてもその説が呑み込めなかった。愛がなぜそこまで行き過ぎてしまうのか、その理由が知りたかった。
 中2のある日、6時間目の国語が終わった後、教室を出て階段を降りようとする堀先生を呼び止めた。そのとき私が彼女に何を尋ねたのか、一体なんの相談をしたのか、まったく覚えていない。ただ先生が真剣な目で答えてくれた、その言葉を原稿用紙に残しておいた。
 「人を愛すことの幸せ。結果や過去はどうであれ、愛することの幸せに満ちている幸せ。それだけでいい。」以来、私がずっと心にしまってきた大事な言葉だ。「霧笛」の授業で涙するほどの経験をした彼女が教えてくれた、これ以上にないほどシンプルな真理。大人になった今は、その重みが痛いほどにわかる。
 数年前の秋、母校の講堂のパイプオルガンで、「ピエ・イエズ」を弾いた。堀先生のことを思い出していた。大きな筒を抜ける空気の余韻を耳にしながら、孤独と、生のはかなさを感じさせる霧笛のことを思い出していた。弾き終わって振り向くと、扉のところに石澤先生が立って待っておられた。自分から相談しに来た最中に、一言の断りもなく席を立って講堂に来ていたことを思い出し、慌ててオルガンから降りた。中2からまったく行動が変わらない私に呆れもせず、石澤先生が言われた。「たぶん、まきなはここにいると思った。」中2の私が、今の私を支えている。堀先生の言葉が、今の私を支えている。

バッハ マタイ受難曲

2010-03-09 12:50:36 | 宗教曲
 水越くんに出逢ってからだ。年に1,2度は、ミサ曲を聴きに行くようになった。水越啓くん、現在オランダ留学中のテノールだ。バッハにも宗教曲にも、全然興味はなかったのだが、彼が歌う「ヨハネ受難曲」の福音史家を聴いて、ころっと参ってしまった。彼の甘い歌声を聴くとなぜかいつも「生きてて良かった」と、体の奥底で思う。たぶん私にとって、生理的に心地よく感じる声なのだ。
 そして、「マタイ受難曲」に出逢った。名曲中の名曲だとは知っていたが、生で真剣に聞いたのは、恥ずかしながら、ほんの数年前のことだ。最初に思ったことは、「なんだ、オペラと同じじゃないか」。なぜ今まで敬遠してきたのだろう。ストーリーがあって、レチ(しゃべる部分)があって、アリアがあって、劇的な盛り上がりがあって。群集役の合唱がぎゃんぎゃん騒ぎ、オブリガートの楽器が雄弁に語る。そして、ペテロの否認のシーン。涙が頬を伝った。
 思い出したのは、子供のころ大好きだった、松本寛二先生のことだ。母校の小学部の部長先生(校長先生)だった。今思うと笑ってしまうほど、およそ小学校の先生らしくない先生だった。全校礼拝のお話にはいつも、ヨーロッパの街や教会が登場し、低学年の子供にはわからない難しい言葉も平気で使われた。先生の年賀状は毎年、ウィーンでの写真。ちょっと斜めを向いて、ひとり異国の街に佇む写真は、子供心に強い印象を残した。音楽に造詣が深く、母の会のコーラスを指導していて、やさしい色気で母親達にも大人気だった。
 大学時代、オペラ・ツアーで出逢ったご婦人が、たまたま松本先生の仲良しだった。彼女から、先生が「ニュー・イヤー」の常連で、オペラ・フリークだったことを聞かされて、初めて何もかも納得した。今だったら、いくらでもオペラ談議ができたのに。私がオペラに出逢う前に、すでに先生は天に召されていた。
 小学生の私にとって、松本先生は「まだ手の届かない大人の世界」を体現していた。そして学年が上がるにつれ、この人は何やら非常に魅惑的な話をしているらしい、とわかってくる。音楽が大好きだという点では、勝手な仲間意識まで湧いていた。下校中、麻布十番で悪友Cと一緒に道草を食っていると、厚い単行本の背で後ろからコツンと頭を小突かれるのも、嫌いじゃなかった。ところが、私が4年生になるとき、先生は学校をおやめになった。
 悲しくて泣いた。最後の日、私は部長室へ出かけ、サインをもらって「聞き取りアンケート」をした。好きな教科は何ですか、好きな本は何ですか。小学生らしい質問をした。今でもその記録が手元に残っている。「この学校をやめたら何をしますか」「あそぶ」この返答が先生らしい。
 最後の質問は、「好きな聖書の箇所」。先生は答えた。「ルカ22:61-62」。教室に戻って、すぐ聖書を開いた。よく礼拝で聞いていた、ペテロの否認のくだりの最後の部分だった。「主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、『きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう』と言われた主のお言葉を思い出した。そして外へ出て、激しく泣いた。(口語訳)」なんでこんなさびしいところが好きなんだろう。9歳の私にはまだ、わからなかった。
 このシーンこそが、「マタイ受難曲」で最も切なく、最も緊張感が詰まっている部分だ。福音史家の、抑えられ、長く引き伸ばされる嘆き。続いて、アルトとヴァイオリンのアリアが始まると、すべての後悔と、反省と、涙が、どっと流れ出す。大人になるというのは、少しの苦味を伴うが、それでも素敵なことだ。今なら、少しはわかる。「マタイ」の素晴らしさも、松本先生がこの箇所を選んだ意味も。
 2年ほど前に、小説家や脚本家さんたちの小さな文芸サロンに誘われた。主催者が選んだ3点の写真をお題に、短編小説を書くという趣旨だった。中に1枚、聖書の写真があった。私はほぼノンフィクションの回顧録に近いものを書き、「激しく泣いた」という句を最後に借用した。
 ―あんなに愛してくれたのに。あんなに信じてくれたのに。あんなに大事にしてくれたのに。なぜ気づけなかったのだろう。なぜ返せなかったのだろう。なぜあんなことを言ってしまったのだろう。今なら、わかるのに。今なら、少しはわかるのに。―
 レント(受難節)。キリストの受難を覚える季節だという。私には、ペテロの泣き声を思う季節である。

ハイドン オラトリオ「天地創造」より 「天は御神の栄光を語り」

2010-02-07 03:47:40 | 宗教曲
 最近、仕事でかなり頻繁に小学校を訪れている。音楽室は最上階にあることが多い。来客用のスリッパをパタパタ鳴らして階段を登りながら、いつも自分の小学生時代を思い出す。そして心の中で、お世話になった先生方に「ごめんなさい」を言う。
 私は、屈託のない、明るく元気な小学生だったはずだ。友達とも仲良くやっていたし、成績も悪くなかった。ただ高学年になるにつれ、今の「私」に近づいていた。つまり、「積極性」が他人のペースと合わなくてもお構いなしだった。記録の束を開いてみると、5年生のとき、担任の先生からもらったコメントは、こうだ。「共同生活には必ず自分以外にも人がいることを忘れず行動しましょう」
 5、6年生の頃は、ひたすら担任の上村先生の揚足を取ることが日課だった。通知表を見ると、「○○は理解できたか」といった項目は、ほとんど全部一番良い評価なのに、「まじめな態度で授業を受けたか」という項目だけは、どの教科もダメだ。通知表を手にした父が、「お前が学校で何やってるのか、大体想像できるな」と、頷いていたことも覚えている。
 上村先生とは毎日よくやり合った。黒板消しで叩かれようと、チョークで頭をつつかれようと、ひるまず、授業に茶々を入れた。ある日、朝の会の歌で、先生の音程が悪いと指摘したら、廊下に立たされた。行き過ぎる先生達に眺められて恥ずかしかったのだが、私は正しいことを言ったのだ、と自分に言い聞かせた。今となっては、彼を怒らせた本当の理由は謎だ。いずれにしても、上村先生、ごめんなさい。
 いつの頃からか、音楽に関しては、強い自信があった。だから、音楽の授業の態度は最悪だった。特に6年生のときは、ひどかった。先生が座るピアノの反対側の隅に、悪友C、ピアノの上手なH子、私の3人が座っていた。授業中は完全に先生に背を向けて、延々としゃべっているが、筆記のテストは揃って百点という、極めてタチの悪い3人だった。髪の毛の太さを比べ合ったり、絵を描いたり、光GENJIの話で盛り上がったりしていた。
 そして3人して、まったく容赦なかった。先生が伴奏を間違えると、平気で舌打ちした。先生を非難するときは、よく聞こえるように大きな声で言った。初めて四部合唱の曲が配られた日、先生がまず一番上のパートの音取りを始めると、我々は一人ずつ他の声部を歌って悠々とハモり、大満足した。手に負えなかっただろう。照屋先生、ごめんなさい。
 音楽の授業も嫌いではなかったし、歌うことは大好きだったのだが、いくつか不満があった。まず私は「移動ド」ができなかったので、授業でこれをやらされたときには、先生に復讐されているのだと確信した。メロディーがいいのに伴奏がダサイ曲も許せなかった。「紅葉」の輪唱風のハモりも大嫌いだった。私の頭の中では、「山の麓の」の「ふ」のところでF-durだったらA7の和音を鳴らしているのに、下のパートが土足で踏み込んで邪魔するので、いつも気分が幻滅した。(なので今、小学校の声楽ワークショップで、唱歌の伴奏をするときは、当時の鬱憤を晴らしている。)
 最もいやだったのは、大勢で合唱すると、音程が下がることだ。自分の声でなんとか周りの音を上げられないかと、無駄な抵抗を試み、必死になって声を張り上げていた。ちなみに、小6ですでに歌姫だった悪友Cは、幼稚園ではまったく歌を歌わなかったらしい。まわりの子供たちが「なんであんなに汚い声で歌うのか」理解できないと言って、一緒に歌うことを断固拒否したそうだ。さすが、つわものである。
 私が在校していた頃の母校では、5,6年生になると、ハイドンの「天は御神の栄光を語り」を三部合唱していた。もちろん日本語だが、6年生からソリストと伴奏者が出る。1年生からの憧れだった。だいたい、「天地創造」の中でも、最も感動的な名曲なのだ。当然、小学校で演奏される中では、圧倒的にいい曲だった。たたみかけるように盛り上がるところは、いつも鳥肌が立つぐらい感動した。これでもか、これでもかと変わっていく和音。解決するまでの緊張がこんなに長い曲は、歌ったことがなかった。
 ところが、自分が5,6年生になってみると、この名曲も「大勢で歌うと音程が下がる」問題の餌食になっていた。2学年の音につぶされるのは、苦痛以外の何ものでもなかったのだが、それでも歌いたかった。学芸会の雛壇でも、必死で正しい音程を狙おうと苦戦していた。なんとしても闘わねばならないという気持ちを掻き立てられる、本当の名曲だった。今になると、この曲に出逢わせていただいたことに、何より感謝でいっぱいだ。小学校の思い出の中で、きらきらと輝いている。
 悪ガキがそのまま大人になってしまったが、実は小学校の先生方とは、いまだにお手紙をやりとりしている。音楽の照屋先生は、私が小学校に行って、アーティストの授業を手伝っているという話をしたら、とても喜んでくださった。実際、恩返しというよりは、罪滅ぼしのような気持ちである。クラスの輪を乱す、うるさい男子を見ると、思わず胸に手を当てる。先生、本当にごめんなさい!

ロッシーニ 3つの宗教的合唱曲 第3曲「愛」

2007-03-06 00:55:46 | 宗教曲
 こぶしやハナミズキのつぼみが、空に向かってふくらむ季節となりました―――手紙の書き出しではない。私が高校の卒業式で読んだ答辞の冒頭である。自分なりに、花のチョイスはひねったつもりだったが、「こぶし」という言葉があまりに唐突で、「拳で一体何をするのかと思った」と、友人達は笑った。
 私の母校の卒業式では、卒業生がロッシーニの「信仰」「希望」「愛」という3曲の女声合唱曲を日本語で歌う。指揮者とピアニストは舞台に上がり、それぞれ1曲ごとに交代する。高校2年のとき、ひとつ上の学年が歌っているのを聞いた。最後の「愛」の指揮者として颯爽と登場したのは、私に「オヤジ役」を仕込んでくれた、音楽部の先輩だった。
 前奏が始まって、歌が入る。数小節もしないうちに、私は目を見張った。指揮が2拍ずれているのだ。そして、ずれたまま、先輩は自信たっぷりにふり続けている。彼女は、これから音大に行くと聞いている。これでいいのか? 式が終わって教室に戻るや否や、口が悪い私は、大声で彼女を嘲笑し、徹底的にこきおろした。「耳がないんじゃないの?」
 自分が高3になって、合唱の練習をする日がやってきた。配られた譜面を開けた瞬間、絶句した。先輩が2拍ずれていたのではなかった。なんと、「普通に演奏して2拍ずれているように聞こえる」曲だったのだ。私は手を合わせて、心の中で先輩に詫びた。彼女は少しも悪くなかった。
 そして、自分達の卒業式の指揮とピアノを決める段になった。トリを飾る「愛」は、3曲中最も美しく、ソロパートもあって華やかだ。やるならこの曲だと、ひそかに思っていたら、あっさり成就した。小学校時代からの仲良しのピアニストとペアを組んで、私は「愛」の指揮をすることになった。
 しかし。普通にふったら、2拍ずれたように見えてしまう。これでは、けちょんけちょんに悪口を言った先輩の二の舞だ。練習で、譜面を見ながら歌っている仲間達に指揮をしている分にはいいが、卒業式当日は父兄も後輩も見ているのだ。私の虚栄心が許さない。そこで、卒業式前日、悪友Cのところへ出かけて行って、どうしたらいいだろうかと相談した。
 Cは、きっぱり言った。「全部2拍子でふればいい」。4拍子を忘れて、最初から最後まで、1、2、1、2、と、左右に手を動かせばよいと言うのだ。「ときどき向きを変えれば問題ない」。私はCの前で、体操のように手を左右に振り続け、Cは「かっこよく見える方法」をあれこれと伝授してくれた。
 卒業式当日、舞台の袖で2曲目の「希望」を聞きながら、自分は絶対泣かない、と決意していた。卒業式の合唱は、卒業生が泣いたらおしまいだからだ。自分の番が来ると、満面の笑顔をたたえて舞台に出た。精一杯の笑顔で、同じ学年の仲間達に対峙すると、目の前に、演劇部でヒロインを演じていたRがいた。目が合った途端、彼女は「はっ」と小さな声をあげ、まるで悲劇の女王が嘆くシーンのように、身体を斜めにして、どっと泣き崩れた。彼女の周りに、涙の波紋が広がっていく。♪友となりし我らは苦しみを分かち合わん――合唱の歌詞が、涙で滲んでいく。私の笑顔作戦は、もろくも崩れ去った。
 しかし動揺している暇はなかった。高い音域のソロパートは歌が得意な数人で担うことになっていたが、受験生がほとんどで、みんな歌詞がうろ覚えだった。そこで、ワンフレーズごとに、「わ」とか「さ」とか、私が最初の文字を口で伝える約束になっていたのだ。
 舞台上の私の姿は、はっきり言って、滑稽極まりなかった。バカみたいに笑顔を浮かべ、必死で歌詞を先読みしながら、延々と左右に手を動かしている。先輩のことなど、まったく笑えない。それでも、最後の音を止めたときには、仲間に恵まれた幸福感にあふれていた。
 卒業式の帰り道、悪友Cが駅のホームで言った。「卒業するのは寂しいけれど、学校でやれることは、やり尽くしたから、さすがに、もういいね。」私は答えた。「そうだね、甘い汁は吸い尽くしたね。」もしかしたら、人生は、こうやって生きるべきではないかと、そのとき思った。