音の向こうの景色

つらつらと思い出話をしながら、おすすめの名曲をご紹介

フォーレ 「蝶と花」

2008-06-11 04:26:59 | オペラ・声楽
 しばらくさぼっていたのだが、なんだか最近また、フランス語づいている。4年前に今のところへ引っ越す以前に、家の近くで2年ほどフランス語を習っていた。駒沢公園の脇にあるカフェ「茜屋」の2階、サルボ・フランス語教室。サルボ先生との一対一のレッスンだった。
 いつかフランス語をやってみたいと、ずっと思っていた。アランの原文が読んでみたい、モンテ・クリスト伯の最後の言葉を覚えてみたい、サムデリのアリアを口ずさんでみたい。野望は沢山あった。しかし一番大きな要因は、京大のI先生だった。学会で会うI先生のフランス語があまりに素敵だったので、もうこれはやるしかない、と思ったのだ。「あたし、先生とフランス語で会話する!」思い立って、『今日から話せるフランス語』という薄いテキストを買ってきた。「パリには20の区があります」「タクシーに乗りませんか」「このレストランに入りましょう」「私は魚にします」という例文を、カタカナで丸覚えしたところで、側で見ていた麻衣子が言った。「I先生をデートに誘うには、あまりに強引じゃない?」
 そこで、以前から気になっていたトリコロールの看板に望みをかけ、意を決して扉を叩いた。いよいよ博士論文に手をつけなくてはいけない時期で、何か逃げる場所がほしかったというのも、事実だった。
 サルボ先生はカリブの血を引くパリジャンで、ラテン語の教養があって、私より丁寧な日本語を話す。ちょっとした説明を聞いて私はたちまち先生を信用し、早速次の週からレッスンに行くことにした。「A(アー),B(べー) ,C セー)・・・」私は、フランス語のアルファベットの読み方も知らなかったのだ。この際、1年生になった気持ちで、心を真っ白にして、先生についていくことにした。
 マンツーマンの語学のレッスンは、生まれて初めてだった。もともとしゃべるのは大好きなので、先生と毎週会って話をするだけでも、最高に楽しかった。1語から2語、私からあなた、現在から過去、と文法が増えていくと、少しずつ話すことができる内容が増えてくる。1時間のレッスンの間に30回ぐらい「これフランス語で何て言うの?」と尋ねながら、とにかくひたすらしゃべった。自分がしゃべりたいことをしゃべっているので、覚える単語がどんどん偏ってくる。レッスンを始めて3ヶ月ぐらい経って、「魔女狩り」という熟語を覚えて満足げに帰ってきたら、麻衣子が驚愕していた。「一体、何しゃべってんの?」
 一向に発音は良くならない、単語は覚えない、文法はぐちゃぐちゃだが、それでもしゃべった。というのも、レッスン料を払っているのだから、自分がしゃべるのが当然だろうと思っていたのだ。後になって先生から聞いた話だが、ふつうのレッスンでは先生と生徒が5割ずつしゃべるのに、私のレッスンは「マキナが9割しゃべっていた」らしい。私がしゃべり倒している間中、無茶苦茶になった語順と、間違った冠詞を、先生がひたすら直し続けていた。「こんな生徒は初めてです。」先生はかなり呆れていた。
 用意してもらったテキストが一段落すると、「マキナの読みたいものを持っていらっしゃい」と言われた。私は早速、無謀にも、ヴィクトル・ユゴーの「蝶と花」のテキストを持って行った。先生はいきなりユゴーを広げられてぎょっとしていたが、「どうして、この詩なのですか?」と、おだやかにたずねてくれた。
 小学3年生ぐらいのときだ。フォーレの「蝶と花」という歌曲を聞いた。日本語で歌詞を説明してもらったので、幼い私にも内容がわかった。花と蝶が恋をする。しかし蝶はひらひらと飛んで行ってしまう。ときどき戻ってくるけれども、また飛んで行ってしまう。花は言う。『あなたに根が生えるか、私に翼があればよいのに!』歌を聞いて、私はぽろりと涙した。「A mes pieds.」というフレーズで、胸がきゅんと切なくなってしまったのだ。「なんでかなあ、なんで蝶みたいに飛んでいっちゃう人を、好きになっちゃうのかなあ?」
 それ以来、フォーレの歌曲には沢山お気に入りがあるが、やっぱりこの歌が一番好きだ。作品1の1、処女作だけあって、ピアノはやたら弾きにくいのだが、メロディーはとても美しくかわいらしい。前奏と間奏で、蝶が舞う様子がすぐにわかる。有節歌曲ながら、少しずつ歌詞に合わせてメロディーが変わっていく。2番、3番と、気持ちが高まっていく。
 そこで私は、いつかこの歌を、フランス語で・・という夢をかなえるべく、サルボ先生に詩の解説をしてもらった。節を分解し、単語の意味や語源の話を聞き、韻を確かめ、隠喩や掛詞に触れ、初級者には縁のない文法を垣間見、舌を噛みそうになりながら、通して読んでみた。その日は、カフェでレッスンをしていたのだが、持って行ったアメリンクの歌うCDを差し出すと、サルボ先生はBGMのスピーカーで「蝶と花」をかけてくれた。
 覚えたての単語をひとつひとつ噛みしめながら聞く「蝶と花」は格別だった。フォーレが「どうしてこういう歌にしたのか」ということを、わずかながらも理解できたような気がした。ああ、なんと切ない!! そこで私は、またもや目を潤ませてしまった。先生は完全に呆れていた。レッスンで詩を読んで感激して泣く生徒など見たことがなかったらしい。でも、フランス語を始めて本当に良かったと、心から思った日だった。
 蝶みたいに飛んでいっちゃう人だから、好きになるんじゃないか。大人になった今は、そう思う。蝶が飛んでいく姿を見ているからこそ、花も美しく咲けるんじゃないか。