音の向こうの景色

つらつらと思い出話をしながら、おすすめの名曲をご紹介

シューベルト ピアノ五重奏「鱒」

2012-07-27 13:02:13 | 室内楽
 「今年も無事にクリスマス・レクチャーin Japanが終わりましたよ」と、ご連絡をいただいた。2008年から昨年まで計4回、仕事でお手伝いさせていただいたイベントだ。今年の模様は、秋にEテレ(NHK教育)で放映されるらしい。
 「クリスマス・レクチャー」は、英国でマイケル・ファラデーの時代から続く、子供向けの実験ショーだ。有名な科学者が、クリスマスの贈り物として、子供達に科学の魅力を伝える。矢継ぎ早に行われるデモンストレーションが特徴で、客席の子供が舞台に上がり、いくつもの実験に参加する。20数年前から、読売新聞社とブリティッシュ・カウンシルが共催で、これを翌夏に「輸入」している。会場は毎年満席で、好奇心にあふれたキラキラした瞳が並ぶ。
 公演の直前になると、イギリスから大道具が届き、講師と数人のアシスタントが来日する。音響・照明などの舞台スタッフさんや、同時通訳さん、運営スタッフさんたちが一緒になって、本番のホールで内容を詰めていく作業は、オペラとよく似ている。大学生のボランティア・スタッフも加わって、現場は活気づく。
 お手伝いしたどの公演も楽しかったが、2009年のことが最も印象に残っている。この年私は、生まれて初めてと言ってよいほど、「チームワーク」の醍醐味を体感した。――まず自分の仕事を楽しんでやる。それぞれが独立して、持ち分の作業を進んでやる。互いを尊重し、互いに聴き合う。できることは助け、助けられる。そしてひとつのものができあがる。それが驚くほどに、新鮮だった。
 実はそれまで私は、「チームワークは苦手」だと思っていた。幼い頃から基本的に一人で行動するほうが楽だったからだ。高校時代には「皆で相談しているヒマがあったら、自分で決めてさっさと実行したい」と考えていたし、会社を始めたときも、誰かと立ち上げるなんて考えもしなかった。役割分担のしくみは理解していたが、チームとして動く面白さは、よくわからなかった。要は、好き放題わがままが言えないのはイヤだ、と思っていたのだ。
 2009年のクリスマス・レクチャーの大阪公演の仕込み中、ある夜、スタッフチームでわいわいと梅田スカイビルの展望台に登った。見上げると、くっきりと明るい星が見えた。ロンドンから来たアシスタントのルイスは宇宙生物学が専門だったので、夜空を指して確かめてみた。「Is that Jupiter?(あれは木星?)」「Yeah. (うん)」あまりにも何でもない会話だったのだが、そのときなぜか私は、ふっと肩の力が抜けた。
 ああそうか、全部自分でやろうとしなくてよいのだ。教えてもらえるのだ。助けてもらえるのだ。それぞれ己の足で立っているから、大丈夫なのだ。私が東京公演で大失敗をしたときも、みな素早く、静かに救ってくれたではないか。はっとして周りを見回すと、思い思いに夜景を楽しむチームの皆がいた。みんなこんなにもバラバラで、でもそれぞれが楽しそう・・・これがいいのだ。
 公演終了後、観光で訪れた京都の三十三間堂の縁側で、ぼんやりと青空を見ていると、イギリス人たちがやってきて、右手を差し出した。「楽しかったね、今回はありがとう。」私も応えた。「ありがとう。」そのとき、またはっとした。ああ、チームメイトに感謝するってこういうことなのか。信頼関係って、実績を見せつけて勝ち得るようなものではなくて、お互いを尊重して築いていくものなのか。向こうから、仏像群を堪能したチームの皆がニコニコと歩いてくる。心がやわらかくなるのを感じた。
 思えば私は、いつもプロジェクトの成功ばかり見つめて、キリキリしていた。事を成就させることだけに必死で、人を見ていなかったのだ。思い返せば、中学時代の合唱コンクールもそう、高校時代の部活もそう、大学時代のコーラスもそうだった。ポスドク時代のイベントもしかり、会社を作ってからは、なおさら。本当はいつだって、みんなが気持ちよく仕事をすることを考えることが大事だったのだ。
 先日友人にこの話をしたところ、「牧菜は、音楽をやるときは、そうは見えないのにね。」と言ってくれた。なんだかとても嬉しかった。「合奏しているときは、人と一緒に何かをやるのがとても好きそう」なのだそうだ。言われてみれば、室内楽はチームワークそのものだ。皆それぞれが違うことをやって、それを聴いて合わせたり、引っ張ったり、ついていったりする。それが私にとっては、世の中のどんなことよりも楽しい。
 仲間と音楽をする楽しさを強く感じる曲といえば、シューベルトのピアノ五重奏「鱒」だ。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、ピアノという変わった編成で、アマチュアが遊ぶには、どのパートも難しい。それでも弾くたびに「楽しい」と心の底から思う。私は大抵ピアノに座るのだが、一緒に弾いてくれる仲間がいて良かった、と思ってうれしくて涙が出そうになることがある。1楽章の展開部と、5楽章で3連符に伴われてクレッシェンドするときは、いつも胸が震える。
 チェロを弾く愛好家の依頼で書かれたというこの五重奏。シューベルトは、「仲間と遊ぶための曲」として書いたに違いない。そして彼は、どうやったらみんなが楽しく音楽ができるのか、よくわかっていたのだ。この曲は、参加した全員が楽しくなるようにできている。そして互いに支え合い、聴き合う喜びに満ちている。依頼者の希望で、4楽章には作曲者自身の歌曲「鱒」をテーマにした変奏曲が入っているが、順番に各楽器がメロディーを担当する。それぞれが持ち味を発揮して、至福の瞬間を味わえるようにできている。
 この五重奏を聴くたび、そして仲間と一緒に弾くたびに、思う。チームワークは、肩肘張って構築しようと努力するものではないのだな、と。もっとおおらかに、自立したメンバーがそれぞれの持ち味を寄せ合って、作るものなのだ。何かプロジェクトの成否ばかりが気になるときには、また「鱒」を聴く。自分と一緒に活動してくれる仲間の有難味を、もう一度思う。魚が清流を泳ぐように、のびやかな音楽。ヒントはここにある。

ディーリアス ヴァイオリン・ソナタ ロ長調

2012-06-24 12:19:20 | 室内楽
 先月に続いて、大学1年生で受けた授業の話の続き。自分の専攻である生物の授業も面白かったのだが、専門以外の授業もいろいろと魅力的だった。宿舎の隣部屋の趙さんと会話ができるのがうれしくて、第二外国語の中国語は一生懸命になってやった。週に3回も授業があったので、1年後はちょっとした日常会話は楽しんでいたはずなのだが、今や「ゴハン食べましたか?」以外、何一つ思い出せない。
 体育専門学群の、いわば「プロ仕様」のプールで泳ぐ体育の授業も楽しかった。それまでまったく興味のなかった地球科学にも、わくわくした。化学の先生が、1学期間、シュレーディンガーの波動方程式の証明らしきものを、延々と黒板に書き続けていたのには辟易したが、それがどんなに難しいかということは、イヤというほどわかった。そして3学期、私の人生で最も心ときめく講義に出会った。なんと、物理の授業だった。
 高エネルギー物理学研究所(当時)の森本教授という先生だった。ぱっと見は、厳しい学者風。1時間めは、マクスウェル方程式。「場というものは、物質と相並んで考えるもので…」先生は滔々と語り始めた。電気と磁気が統一されるまでの歴史的な流れを講談師のようにすらすらと話し、シンプルな図と式をひとつずつ書いては、その「意味」を説明してくれた。あっという間に話に引き込まれ、その日の終わりには、光は電磁波だ…いうところまでたどり着いた。だまされたような気がしたが、ちょっと感動した。
 ほんの3か月だったが、こんなに面白い授業はなかった。内容は特殊相対論と、一般相対論と、量子論の初歩の初歩。物理なのに、数式はなるべく使わない。ひたすら言葉で語る。歴史を順に追いながら、森本先生は、とにかく「コンセプト」を語った。科学者たちは、何を疑問に思い、何を解決しようとしたのか。学問の客観性というのはどうやって作り出されてきたのか。物理学で最も美しいと呼ばれる式は、一体どんな意味を持つのか。そこでは、物理上の概念の変遷という、めくるめくばかりのドラマが展開された。講義を聴いて夢中になって、思わずヨダレをすすったのは、生まれて初めてだった。
 用語を整理し、定義を厳密にした上で、先生はいざというときには、数式を出した。しかしそれは数学の苦手な私でも理解できるような形だった。項の移動や、代入や、通分など、ちょっと式をいじれば結論が出るようなところから、説明してくれた。それがあまりに上手なので、まるで自分の手の中で式を導き出せたような錯覚に陥るのだ。自分のノートの上に、ローレンツ短縮の式が現れたときには、涙が出そうなぐらい感動した。小5のとき図書室の百科事典で相対論のページを読んで以来の疑問が、ぱあーっと解けた瞬間だった。大袈裟だと笑われるかもしれないが、まるでノートから光が出ているような気がした。今でもこの授業のノートは大切にとってある。
 ちょうどその頃、私はディーリアスという作曲家の存在を知った。以来、私の大好きな作曲家だ。イギリスで生まれ、フランスで活躍した人だ。私が特に好きなのは、ヴァイオリン・ソナタロ長調。ヴァイオリニストの南條由起ちゃんのコンサートで聴いた際、はっと気が付いたら、私の目は涙ぐみ、口元はデレーッとしてしまっていた。めくるめくような美しい旋律に、思わずヨダレをすすってしまった。
 初期の作品であるこのソナタは、フランクや、シュトラウスや、グリーグの要素がうまく混じりあっている感じである。とにかく美しい。聴いていると、極上の幸せを感じる。もう、ヴァイオリンで弾ける限りのびやかに弾かせている。なんだか恋をしてドキドキするような感覚すら覚える。だから、のびのび考えたいときには、よく部屋で聴いている。今日も講義の準備をしながら、部屋でこの曲をかけている。どうやったら森本先生のように話ができるだろうか、と思いながら。
 思えば、森本先生の話は、いつも情熱的だった。あるとき、先生は言った。「正直でいてください。」わかったようなふりをしないほうがいい。わからなければ、一生考えていればいい。謎だらけだから、学問は面白いのだ、と。それは本当に素朴な一言だったけれど、私にとっては大きかった。
 大学で生物を学んでいると、感覚はただの電気刺激で、生物はただの化学物質の塊だということが、日々当たり前になってくる。しかし、たとえ生命が「化学反応の一時的な集合体」であろうとも、人間は学問をする。音楽をする。美しいものをたくさん作り出す。それが、私にとっては何よりの不思議であり、きっと一生考え続けることなのだろうな、と大学1年生の私はぼんやり気づいていた。謎だらけだから、人生も面白いのだ。
 理想は高く、私もいつかは森本先生のような話ができるようになりたい。世の中には面白いこと、不思議なこと、美しいものがあることを、情熱を持って語る人間になりたい。ヨダレをすすってもらえるようになるかどうかは別として。

ドビュッシー ピアノ三重奏曲

2011-08-24 15:09:00 | 室内楽
 来月頭に、中高の学年同窓会を企画した。卒業して16年。たいして昔のようには思えない。会えばきっと、昨日まで学校で一緒だったかのように話し出すだろう。私の中高時代は、音楽に彩られていた。そして「多くの音符が、多くの友情にともなわれて」いた。
 思い返してみると、本当にいい先生に恵まれ、いい友達に恵まれ、いい先輩後輩に恵まれていた。私はとにかく学校が大好きで、生徒会やら部活で大騒ぎしながら、校舎を駆け回っていた。かわいらしい悪戯もしたし、陰湿な先生イジメもやった。勉強もしたし、早弁もした。教科書のかげでおにぎりを食べる私の姿を覚えているというクラスメイトもいる。
 高校生になってからは、授業中に内職をしていないことは滅多になかった。いつも机の上にノートが2つ。教科のノートの脇に、何でも書き込む小さな「ネタ帳」か、創作用の白紙のノート。ウォークマンのイヤホンを、セーターの内側から袖口へ通して、手で隠しながら耳に当て、採譜をしていたこともあった。縦書きの国語ノートに合わせて、五線を縦に置いて音符を埋めていた。
 それにしても、よく書いた。文章を書くこと、文字をつづることが、私の思春期の大きな部分を占めていた。仲間と舞台を作る部活と同じくらい、ひとりペンを持つ時間や、ワープロに向かう時間が大事だった。おそらく、それが、青年になるための準備だったのだろう。自分の中の混沌を外に出したいという情熱というよりも、自分の手でどんなことができるのか試してみたいという「練習」だった。
 とはいえ実際は、文章の訓練とはとても言えないミーハーなもので、大きな作品などとても書けなかった。飛鳥涼さんの真似をして詩を書き、谷山浩子さんの歌に寄せて童話を作り、国語の教科書に出てきた散文詩を真似して散文を書いた。かっこいい句を思いつけば、メモをした。よく席が隣になった麻里ちゃんには、授業中にこっそり「お題」を出してもらって、チャイムが鳴るまでに詩を完成させるという遊びをやっていた。
 自分が書いたものはあまりに稚拙で、今では読み返すのも恥ずかしいのだが、周りにはつねに作品を生み続ける素晴らしい同級生たちがいた。彼らの同人誌作りにまぜてもらって、4年間ぐらい毎月必ず、1枚なり2枚なりの原稿を出した。「〆切」という言葉を使うのが、一種のステータスのような気がしていた。私の思春期の精神的な歩みをつねに支えてくれたのは、ものを書く仲間、絵を描く仲間、創作をする仲間たちだった。
 中でも、桜子は中高6年間を通して助けてくれた親友であり、一生の恩人である。中1のときから文才に長けていて、中身はかなり大人だった。私の考えや書いたものを、いつも笑顔で受け取ってくれて、おかしなところをそっと指摘してくれた。六本木の大通りで、自由が丘から田園調布へ向かう静かな道で、「愛とは何ぞや」と、何度も何度も議論した。
 彼女の書くものは、あたたかく、やさしく、切なかった。素直になること、愛するものを一生懸命愛すること、大事なものを守ること。単純だけれど、なかなかできないことを、作品を通してそっと教えてくれた。ああでもないこうでもないと悩む私に、「大丈夫、どんな選択でも、間違ってないよ」と、繰り返し言ってくれた。彼女は今でも小説を書いていて、街の書店で目にすることができる。彼女の「習作」時代を共に過ごしたことが、私の自慢である。
 大作曲家といわれる人たちにも、習作の時代がある。リヒャルト・シュトラウスの初期の室内楽など、びっくりするほどにシンプルで古典的だ。ドビュッシーのピアノ三重奏曲も、とても若々しくロマンチックで、言われなければドビュッシーだとはわからないかもしれない。しかし私はこの曲がとても好きだ。
 18歳のドビュッシーが、フォン・メック夫人の家族の音楽教師として雇われてヨーロッパを旅した夏に書かれた作品らしい。楽譜が100年間も埋もれていたので、幻の名曲とでも言えるだろう。全体的にさわやかで、特に1楽章は何度演奏しても「なんと気持ちの良い曲だろう」と思う。ところどころに、のちのドビュッシーを予感させるフレーズが現れる。そして私がとても好きなのは、この曲に付いている献辞の言葉だ。
 「多くの音符が、多くの友情にともなわれています。」経済的に、精神的に、もしくは技術的に、誰かに支えられてドビュッシーはこの作品を書いたのだと思う。それぞれの楽章で、のびのびと自分の力を試している感じがする。「友情」は避暑地での音楽仲間を意味するのかもしれないが、もしかしたら彼にも「間違ってないよ」と言ってくれる人間がいたのではないかと、勝手に想像する。はなはだ恣意的な解釈だが、「よかったね、ドビュッシー」と言いたくなるのだ。
 残念ながら私の「習作」は、習作止まりでまったくモノにならなかったが、友情にともなわれた試行錯誤の日々の思い出は、決してなくなることはない。このピアノ三重奏曲を聞きながら、夏の風を感じる。奔放だったけれど、間違ってはいなかったんじゃないかな。

イベール 3つの小品

2010-05-11 20:53:42 | 室内楽
 先日、仕事先で車に乗せていただいた。車の持ち主は、運転中のBGMを厳選していて、それを楽しそうに説明してくれた。「牧菜さんは、ドライブに行くときには、どんなBGMをかけるんですか?」明るく訊かれて、たじろいだ。音楽のことではない。私が、さも運転ができるように見えたということに、驚いた。
 高校3年生の冬。一般推薦で大学が早く決まったので、教習所へ通うことにした。学校では禁止されていたが、推薦で進学が決まった同級生はみな、こっそり免許を取りに行っていた。私の両親も「筑波に行くんだから、免許はあったほうがいいだろう」と言うので、まあそんなものか、と思って通い始めた。
 初めに、運転適性テストなるものを受けた。簡単な心理テストのようなものだった。3段階評価で、結果はC。私は素直に納得した。子供の頃から、遊園地のゴーカートに乗れば、いつも角に挟まって動けなくなったし、ドライビングゲームをやれば、10秒以内に必ずコースアウトしていたからだ。ディズニーランドのゴーカートでは、下にあるレールに左右の車輪が当たりすぎて、衝撃のあまりお尻が痺れてしまった。Cで当然だろう。
 ところが翌日学校へ行くと、体育会系部活の友人達が話していた。「あの適性テスト、Cとか出る人いるのかなあ」「まさか、そこまでひどい人いないでしょー」私は何気なく会話に参加した。「私、Cだったよ。」みんなの表情が固まった。そして、適性テストは見事に的中した。
 からだを動かすこと全般において不器用な私だが、他人と1対1だと、どうも格好つけてしまう。冷静を装って、できるフリをするため、余計おかしなことになる。実際に車に乗り始めて3回目だったか、「はい、じゃあ始めて」と言われて、慌ててサイドブレーキを探し、代わりに反対側にあるシートのリクライニング・バーを引いてしまった。教習が始まる前から、いきなり後ろへ倒れこむ私。あまりに恥ずかしいので、バネの勢いで元に戻る。学校で話したら「教官誘うなよー」と、からかわれた。
 それまで自分でも知らなかったのだが、スピードに対して極端に臆病だった。アクセルを踏むのが怖い。ある日、「思い切ってアクセルを踏みなさい!」と教官に怒鳴られ、タイミングを間違えてカーブの手前で思い切り踏み込んでしまい、一瞬、レーサーのような気分を味わった。それ以来、ほとんど常にクリープ現象(オートマの車でブレーキを離すと、車がゆっくり前進する)で走ろうと試みた。同じ教習所に通う友人達は「ずーっと赤いランプ付いてる車がいたら、それは牧菜だ」と噂した。
 S字カーブとクランクにもてこずった。車が、何度もがっちりと詰まって、にっちもさっちもいかない状態になり、泣き出しそうになった。クランクでは角を曲がるたびに、正面の縁石に両輪で乗り上げては落ちる、を繰り返し、まるで四駆で山を走るレースのようだった。激しいデコボコ道を共に耐えてくれた教官は言った。「車がかわいそうだったね。」
 踏み切りは一旦停止、窓を開けて音を聞きなさい、という。そこで、私は踏み切りのまん真中、レールの上に車を止めてサイドブレーキを引き、悠々と窓を開けた。身を乗り出して手を耳に当て、よく聞く演技。こういうことは得意だ。さらには踏み切りの音を真似してみせる。「カーンカーンカーン!」呆れた教官は、ぼそりと言った。「もう轢かれてます。」
 初めてバックで駐車するのを教わったときは、さすがに気分が高揚した。車が後ろへ動くだけで頭は一杯なのだが、どうしてもやらずにはいられなかった。助手席に手をかける、あのかっこいいポーズ。とりあえずどんなものか、一度自分でもやってみたかったのだ。ただし、「なぜ」そのポーズをとるのか、理由を考えたことはなかった。助手席に手をかけたまま、窓から首を出して後方を見た私は、首の筋がピキーンと攣るのを感じた。何かが違ったらしい。
 そんなこんなを繰り返しながらも、仮免で1度、最終試験で1度落ちるだけで無事、卒業した。両親も友人たちも「教習所としても、早く出て行ってほしかったんだろうねえ」と、教官側に同情した。というわけで、私はオートマ限定のゴールド免許を持っているが、世界の平和と安全のために、運転しない。そういえば父がこの間、「どんなに気分が落ち込んでいても、お前の教習所の話を思い出すと笑える」と言っていた。私の免許も何某かの役に立っているのだ。
 でも、もしドライブに行くなら。BGMは、たぶんモクゴ(木管五重奏)の曲だろうと思う。モクゴの、なんともいえなくのどかな音が、ドライブにはきっと心地良いはずだ。ニールセン、フランセ、ミヨー、オーリック…どれもわくわくするドライブを演出してくれるはずだが、まずかけたいのは、イベールの「3つの小品」だ。モクゴ業界では定番らしいが、いつ聴いても心弾む、楽しい曲である。
 一度聴いたら、数日は口ずさんでしまうような1曲目。心やさしい2曲目。少し踊りたくなる3曲目。のびやかな木管楽器の音を聴いていたら、きっと気持ちよくアクセル踏めるだろうなあ! しかし私は、助手席に座って、あのかっこいいポーズにときめいているだけのほうがよさそうだ。

シューマン ピアノ五重奏曲 変ホ長調 第1楽章

2009-02-05 13:21:20 | 室内楽
 ある屋敷に、楽器ケースを持った男達が三々五々やってきて、部屋に集まるとおもむろに楽器を取り出し、シューマンのピアノ五重奏を弾き始める・・・というシーンから始まる映画をご存知の方はいらっしゃるだろうか。父がかなり以前から、昔こういう映画があったのだと言っている。しかし誰に聞いても見つからないので、彼の記憶違いではないかと、こっそり疑っている。ところが、この白黒映画のイメージはいつの間にか私の中で理想化され、まるで自分の遠い記憶の中の憧れのように定着してしまった。
 この2年ほどで、室内楽が「趣味」から「生活の一部」になってきた。週に何度かは、必ず楽器の仲間が遊びに来てくれる。平日は会社や学校の帰り、休日はオーケストラの稽古の帰りに寄ってくれる。アマチュアがほとんどだが、音大生やプロが入ることもある。楽器を始めて3ヶ月の人もいれば、セミプロとして活躍している人もいる。譜面の在庫の都合上、弦楽器が多いのだが、ときどき木管さんも混ざってくれる。二日と空けず遊びに来る人もいれば、年にいっぺんだけ参加する海外メンバーもいる。
 我が家の室内楽サークルの名前は「アリオン・クラブ」。メンバーが一人二人と友達を連れてきて、ここ数年で、潜在メンバーを含めると50人を越えた。アリオン・クラブの鉄則は、オブリゲーションがないことだ。「しなくてはいけない」ことは、やってもつまらない。だから、それぞれ時間があるときに、来たいときに、約束して遊びに来る。年に数回設けている発表会以外、基本的に練習はしない。その日集まったメンバーの顔を見て、その場でやる曲を決め、初見で遊ぶ。3人ならトリオ、4人ならカルテット、5人ならクインテットという具合である。集まった楽器の編成を見て曲を選び、「ライブラリアン」として譜面を出すのもまた一興である。
 会場提供者である父は、座付きの作曲家として、室内楽を作曲・編曲している。編曲ものは、しばしば教育テレビの「夕方クインテット」と同じ選曲になることがあり、うちは「夕方クインテット実写版」だなと思っている。おかしなおしゃべりをしながら、ときには歌いながら、わいわいとアンサンブルをする。仲間の個性もバラバラだ。最近は、ラテンや映画音楽など、ジャンルも広がっている。ただし「夕方クインテット」と違うところは、曲の途中で「あー、わかんなくなったー」「間違えたー!」「いま、何小節目?!」という、楽しい叫び声が入ることだ。難しい曲を弾いた後にどっと疲れたり、譜面を睨みすぎて目が赤くなったりするのも、実写版の醍醐味である。
 忙しさでひっくり返りそうになっていても、なるべく仲間と音楽をする時間だけは守っている。仕事でパンクしそうになっていても、夢中で楽器を弾いているうちに、すっと気持ちが落ち着くし、頭の中で問題が整理される。結局、その前後の仕事効率がいいということに気がついた。私はピアノを弾くことが一番多いのだが、ヴァイオリンか、ヴィオラを弾くこともある。いまだ第一ポジションから抜け出さないし、翌日あっさり筋肉痛になったりするが、それでも上手いメンバーの横に座って、弓を真似るだけで自分も弾けたような気になる。安上がりである。
 ヴィオラの譜面は、ト音記号でもヘ音記号でもない「アルト記号」で書かれている。この記号の譜面にトライしようと思ったのは、大学生のときだ。理由は、シューマンのピアノ五重奏、変ホ長調。1楽章第2主題のチェロとの美しい掛け合い。どうしてもこれが弾きたいと思い立ち、譜面にカタカナでドレミ読みを振った。当時はまだ、室内楽仲間が少なかったので、友人達に頼んで集まってもらい、一度弾いてみた。とても楽しかったのだが、あまりに難しくて歯が立たないという印象だった。
 ところが最近は年に何回か、ピアノでこの曲にトライする機会に恵まれるようになった。弦楽器の仲間が揃う機会が増えたからだ。上手な弦4人が揃うと、私はニヤニヤしながらこの曲を棚から選んできて、ピアノの前に座る。私には「この曲が弾けたら、もう何もいらない」という、至高の恍惚感を味わう室内楽曲が何曲かあるのだが、この五重奏もそのひとつである。4楽章で最初のテーマが出てくるまで弾ければ最高だが、たいていは、1楽章で力尽きてしまう。しかし、この1楽章だけで、私は大満足である。
 展開部は練習しても弾けそうにない。アマチュアが遊ぶテンポでも、指が絡まりそうになる。そこで毎回、「展開部でピアノいなくなるから、みんなよろしく」と言い訳をしてから、弾き始める。大きく息を吸って、和音が鳴る。始まったら、もう後戻りができない。不思議な力に押されて、先へ先へと流れていく。基本的に何も考えている暇はないのだが、第2主題になると、「幸せだなあ」と思わずにはいられない。美しい旋律があること、仲間がいること、その日その時間に一緒に演奏ができること。これはひとつの奇跡だと、いつも思うのだ。たまたま集まった仲間と、シューマンの五重奏が弾けるなんて、こんなに素敵なことはない。
 この間、アリオン・クラブで、スーツ姿の男性陣が4人集まった日があった。それぞれ静かにケースを開けて、お茶も飲まずに楽器を弾く。いよいよあの未知の「映画」ばりになってきた。室内楽がある人生って、最高だ。

グリーグ ヴァイオリン・ソナタ ハ短調 第2楽章

2008-08-08 10:24:57 | 室内楽
 小学校に上がったとき、「私達の学校は土曜日がお休みですから、日曜日は家の近くの教会学校へ行きなさい」と教室で言われた記憶がある。高校まで12年間ミッションスクールにいたので、私はいまだに信者ではないものの、キリスト教の文化には馴染み深い。まさに、イザヤ・ペンダサンのいうところの「日本教キリスト派」としての教育を受けて育った。
 私にとって教会はつねに身近な場だった。今から考えると、教会学校(子供のための礼拝と学年別クラス)は、日曜日の「学童保育」だった。聖書を通して言葉を学んだ。楽しいイベントは、クリスマスやイースターといった教会暦の節目だけではない。餅つき、遠足、運動会。違う学校の子供や、大人と一緒に活動する行事が年中、目白押しだった。
 学校からの強制で通っていた子供たちは学年が上がるにつれて足が遠のくのだが、私は割とまじめに通っていたほうだった。中学時代に引っ越した後も、ときどきサボりながらも同じ教会へ行っていた。学校以外のコミュニティーが少なかった私にとっては、それなりに大事な場所だったのだ。しかし、自分の意志で、1年間、皆勤したのは高校3年生のときだけである。
 高3になって部活や生徒会の活動もなくなり、いざ進路を考える段になって、私はたちまち精神不安定に陥った。自分のぼんやりした夢と、受験勉強は絶対したくないという嫌悪感と、目の前の現実。何かをあきらめなければいけない気がするのだが、何をあきらめたらよいのかもわからない。元気は有り余っているのに、何をしたら問題が解決するのかもわからない。その頃の私を支えてくれたもののひとつが、教会での時間だった。
 長津牧師の言葉にはいつもエネルギーがあって、礼拝の説教中はいつも思わず涙した。毎回、説教の中から何かちょっとした「新しい知識」を持って帰れるのも楽しかった。賛美歌を歌えば心も穏やかになるし、オルガンの音はお腹に響く。顔なじみの大人たちが優しい言葉をかけてくれるのもうれしかった。しかしその年は同年輩がほとんどおらず、高校生は私1人のことも多かった。
 このとき高校生の分級を担当していたのが、当時まだ神学生だった横山先生だった。礼拝堂の2階の畳で、私は先生と差し向かいで聖書を読んだり、社会問題を話し合ったりした。予備校で教えた経験のある先生で、歴史や文学にも造詣が深く、面白いネタをたくさん持っておられた。開いたこともなかったエレミヤ書を解説してもらい、オススメの本を紹介してもらい、まさに「学校にはない科目」の個人教授だった。それに、若い横山先生になら、とても牧師先生には言えない生意気なことも、言いたい放題言えた。「だいたい、キリスト教ってさあー」と、よく一人で毒づいていた。今思うと、心の落ち着かない時期の私にとって、先生はカウンセラーのような存在だったのだ。
 その年、8月はじめのサマー・スクールで、子供たちと一緒に天城の宿泊施設に出かけた。川遊びをし、キャンプ・ファイヤーをし、肝試しをした。朝夕に礼拝はあるものの、研修というよりレクリエーションである。私は山の空気と美味しい食事を満喫し、卓球に夢中になり、率先して遊びを考え出し、小学生とわいわい騒いでいた。
 しかし、ふとした瞬間に、胸のあたりが重くなる。風が途切れて、夏の日差しにセミの声が溶け込むと、思い出してしまうのだ。本当は、考えなくてはいけないことがある。何か決めなくてはいけないことがある。やはり、自分の進路のことが気がかりだった。
 午後、宿泊所の廊下の端で、ソファを二つ窓に向けて、横山先生と話した。近くに迫った山の緑を見ながら、私はうまくまとまらない言葉で悩みを吐き出した。「山辺に向かいて 我 目を上ぐ」という賛美歌を思い出していた。先生も山の緑を眺めながら、長い時間ずっと聞いていてくださった。
「大丈夫。道は、進めば進むほど、与えられますよ。」
 そのときの私にとっては、かすかな光のような言葉だった。本当にそうなのだろうか。なんとかなるのだろうか。心は相変わらず重かった。ただ、ほんの少し、遠くのほうに、何かがあるような気がした。目を上げると、窓の緑の山の向こうに、太陽が輝いていた。山の端が、キラキラしていた。それは、グリーグのハ短調ヴァイオリン・ソナタの2楽章の景色だった。
 このソナタの2楽章、私はクラシック曲全体の中でも指折りに数えるほど好きだ。本当に美しい曲だ。これを聴くと、夏の涼しい山の向こうに、静かに太陽が動いていくのが見える気がする。明日も晴れると、教えてくれるような気がする。この間、友人のヴァイオリニストと、久しぶりにこのソナタを弾いた。窓の外は都会の夕焼けだったけれど、この上なく穏やかな気持ちになった。
 あれから14年経つが、私は折に触れて横山先生の言葉を思い出す。グリーグのメロディーと共に、山の緑を思い浮かべる。そして、いつも思う。先生の言葉は本当だった、と。

プーランク クラリネット・ソナタ

2007-06-09 02:41:22 | 室内楽
 麻衣ちゃんの話の続きをしよう。クラリネット奏者の佐々木麻衣子氏と友達になってからというもの、私の生活には「クラリネット」という楽器がどんどん入り込むようになった。ついでに、麻衣ちゃんを通して、業界用語やら、オーケストラの人たちが口にする小ネタやら、マニアックな作曲家の作品やら、音大生のウワサやら、とにかく「音楽関連」情報が洪水のように入ってきた。私のほうでも「とりあえず何でも麻衣ちゃんに訊けばよい」と思っていたので、一緒にオケのコンサートに行くと「あのちっちゃいクラリネットは何?」などと質問して、彼女を驚かせたものだった。
 知り合って半年ほど経ったある日、小さなホームコンサートに出ることになった麻衣ちゃんは、「ピアノ弾かない?」と私に言った。プーランクのソナタをやるという。「吹けるの?」私は失礼にも、音大の大学院生に向かって訊いてしまった。というのも、今でこそ、プーランクは音大生がみんな吹く「スタンダード」ナンバーだということを知っているが、当時の私には「気違いでもなければこんな曲は吹かないだろう」と思えたのだ。簡単に言うと、「変わった曲」だ。ただし、とてもエキサイティングである。
 実は、彼女に出会う前から私が知っていたクラリネット曲は、プーランクのソナタの3楽章だけだった(実は「クラリネット・ポルカ」さえ知らなかった)。なんでこんなマニアックな曲を知っていたかというと。プーランクのフルート・ソナタを友人宅のコンサートで聴いて気に入って、時々部屋でCDをかけていたのだが、たまに番号を間違えて、フルート・ソナタの前に入っていたクラリネット・ソナタの3楽章を「聞いてしまっていた」からだ。これをかけると、妙に掃除がはかどる気がするので、勝手に掃除のBGMにしていた。
 さて、生まれてはじめての、クラリネットの伴奏。リードを噛む瞬間に慣れなくて、はじめは妙に慌ててしまった。おまけにプーランクは一筋縄ではいかない。汗びっしょりである。おまけに麻衣ちゃんの「合わせ」は、厳しい。こちらが素人だろうと、一切手加減なしだ。「弾けないんだったら、弾けるようにして。」ほわらーっとしたやさしい笑顔で、言うことはコワい。手振り身振りで、ああでもない、こうでもない、と言われるのに必死でついて行こうとしているうちに、初回の合わせ稽古は3時間を越えていた。
 しかしそれは、痺れるほど面白かった。単に読みにくい音符のつながりだったプーランクの譜面が、気づいたときには、複雑で立体的な物語へと変わっていた。音楽って、こんなに面白いものだったんだ。体の中を駆け抜けて行く音の流れ。21歳にして、はじめて知った快感だった。
 6月。招かれたホームコンサートは、数組の演奏者の「持ち寄り」プログラムだった。お互いに何の打合せもしていないのに、ふたを開けたら、なんとオール・フランス作品。フォーレ、ドビュッシー、ラヴェル、プーランク、メシアン・・・。サロンの窓から灰色の光が差して、アンニュイ度満点である。時間が異様にゆっくりと流れている。やわらかい絨毯の上に、皆でゆっくり座って、やたらと気だるい午後になった。そして、私は小さな小さな「クラリネット伴奏デビュー」をした。私一人だけが、アンニュイとはほど遠い、熱い興奮のたぎる、鼻息の荒いピアノを弾いていた。曇り空など吹き飛ばすほど、なんだか、うれしくて、うれしくて、仕方なかったのだ。

チャイコフスキー アンダンテ・カンタービレ(弦楽四重奏曲 第二楽章)

2007-05-04 07:37:14 | 室内楽
 そろそろ、麻衣ちゃんの話を書いてくれと、何人かに言われたので、書くことにする。私が心からおすすめするクラリネット奏者、佐々木麻衣子氏。今ライス大学の博士課程に在籍中。元気にしているらしい。
 私が麻衣子と出会ったのは、私が大学3年、彼女が院2年生のときだ。学生オペラの打ち上げで、たまたま隣に座って、互いに自己紹介した。その晩、仲間の家で酔っ払いを介抱しながら、朝まで、二人で喋り続けた。たまたま、お互いの「好きな人」が、お互いの知り合いだったのだ。夜が明けたときには、もう10年も前から友達だったような気がしていた。
 彼女に出会うまで、私は「クラリネット」について、「黒い、縦に構えて吹く笛」という以上の知識は、何もなかった。大体、オーボエとの違いも知らなかったし、オーケストラのどの辺にいるのか、考えたこともなかった。
 ところが、我が家にクラリネットがあったのだ。父が何年か前に酔狂で買ったもので、ケースの中でずっと眠っていた。せっかくクラリネット吹きと友達になったのだ、ぜひ一度音を出してみよう。私は麻衣子に電話して、頼んだ。「クラリネットのつなげ方、教えて!」彼女は吹き出した。私は「組み立て方」と言うべきだったらしい。
 数日後、私は意気揚々と楽器ケースを下げて、彼女の大学の練習室に行った。麻衣子は、なるべくキーに圧力をかけないようにして「組み立てる」方法を教えてくれ、マウスピースの歯が当たる部分に透明のシールを貼ってくれた。それから、薄いリードをぺろっと舐めて、楽器にくくりつけると、「はい、吹いてみ」と言った。私が息を入れると、非常にムーディーな、サックスの音が出た。
家に帰って、一人で少し楽器を触ってみた。管楽器を吹くのは、小中学校のリコーダー以来だ。指を離していくと、高い音が出る。大体同じようなものだろう。うちにあったクラリネットはB管だったので、私はまずB-dur(変ロ長調)の曲を吹いてみようと考えた。思いついたのは、チャイコフスキーのアンダンテ・カンタービレだった。
 しばらくして、麻衣子が家に遊びに来たので、さっそくアンダンテ・カンタービレを吹いて見せた。数段吹いたところで、彼女は目をまん丸にして飛んできた。「それは、何?」「半押さえ。」私はリコーダーと同様、穴を半分押さえれば、半音が出せると信じていたのだ。「リコーダーとは違うの。クラリネットは、半押さえは、ないよ」麻衣子は、必死に笑いをこらえながら、告げた。私は納得した。「通りでうまく音が出ないと思ったよ」
 そして、またしばらく吹いていると、またしても麻衣子が飛んでくる。「その指は?!」私は指が短いので、とりあえず届く指でキーを押していたのだが、どうやらぜんぜん違ったらしい。「っていうか、はじめて吹くのに、その選曲・・・。君らしいよ」彼女は、私の無謀さに笑いながら、運指表を置いて行った。結局自分で楽器を吹くことは、1ヶ月で挫折してしまったが、それ以来、私の人生にクラリネットの音色が響き始めたのである。

プーランク 六重奏曲

2007-01-08 16:24:07 | 室内楽
 親しい友人達はよく知っているが、私は大のプーランク好きだ。中でも、サロンの空気を感じさせる、彼の歌曲と室内楽が大好きだ。ノストラダムスの大予言で世界が滅びると言われた1999年の夏の日、私はオール・プーランクのプログラムでコンサートを催した。プーランク生誕100周年の年だった。タイトルは「ハッピー・プーランク」。
 本番の数週間前から、ケーブルテレビの取材が入っていた。「女子学生が一人でコンサート・プロデュースをしています」というプレスリリースを方々に送りまくっていたら、東急のケーブルテレビが興味を持ってくれたのである。7分のドキュメンタリーに、ここまでたくさんテープを回すのかと驚愕した。演奏は素晴らしかったのだが、今までプロデュースした中で最もお客さんの入りが悪いコンサートだったのが、何より残念だった。
 さて、それほど親しくない人にも知られているが、私はひどい方向音痴である。外で道がわからなくなる以上に辛いのが、窓のないコンサートホールの中で迷ってしまうことだ。初めての会場は念入りに見て回るが、それでも舞台袖、楽屋、客席の関係がわからなくなってしまう。出番前にトイレから戻れず汗をかいたこともあるし、開演中に裏をウロウロしていたことさえある。
 オール・プーランクのコンサート当日、開演前に走り回っている間も、カメラが私を容赦なく追いかけてきた。放映された番組を見たら、客席に出たくても出られずに焦っている私が映っていた。ご丁寧に、「そっちじゃないですよ!」というナレーションまで入っている。どんなに格好をつけても、人間、隠し事はできないものである。
 この日、ステージ・マネージャーをしてくれたのは、裏方仲間のSだった。やっとカメラのクルーから解放されて、舞台袖で二人だけになると、彼女は私を慰めるような笑顔を向けてくれた。おかげで気持ちが落ち着いてきて、舞台の演奏を楽しむ余裕が出てきた。すでに最後の曲になっていた。ピアノ、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットとホルンのための六重奏曲。私はモニターを眺めて、曲に合わせて体を動かしながら、「見られていない」喜びを味わっていた。
 最後の曲が無事に始まって、ほっとしたSは、半ば呆れた様子で私を横目で見ながら、当日配布のプログラムノートを読み始めた。私が勝手にプーランクのイメージを妄想して書いた部分だ。「いつもちょっとお洒落な服を着て、小気味の良い口調でおしゃべりをし、社交上手で、何気ない笑顔が素敵。茶目っ気があって、仲間と騒ぐのが大好きで、それでいてどこか心配症で・・・(略)」
 Sは言った。「これってさあ・・・あなたの男の趣味?」私はぎくっとして止まった。人間、隠し事はできないものである。すると、Sは黙って立ち上がり、六重奏曲に合わせて体を揺すり始めた。この曲の、陰影のある明るさと、少しアンニュイな色気が気に入った彼女は「これ、いいわ・・・」と何度も言いながら、声を立てずに笑っていた。2楽章の中間部は、狭い舞台袖で、2人一緒に踊り狂った。
 ごく親しい人だけは知っているが、彼女も私と同じ人に惚れていたことがあったのだ。私達は曲が終わるまで、言葉を交わさずに、なんともいえない幸せな気持ちを共有していた。

クライスラー編曲 「ロンドンデリー・エアー」

2006-10-04 12:18:02 | 室内楽
 高校3年生のとき、私の夢は編曲家になることだった。どんな曲もアレンジひとつで別の曲のようになる。ひとつのメロディーも、和声の付け方で、まるで変わってしまう。リズムの感じを変えれば、ジャンルの壁なんてあっさり越えてしまう。与えられたテーマに対して、「私ならこうする」と提案する編曲の作業は、作曲とは違った形でのオリジナリティの発揮だろう。
 メロディーの下に付ける和音で曲が変わる、という妙を知ったのは、小学校に入った頃だ。毎年5月ごろになると、父がピアノで「鯉のぼり」(いらかの波と雲の波~)を弾いていた。彼は弾くだけ弾いて、さっさと会社に行ってしまうのだが、家に残った私はひそかにこれを真似して弾いてみようと意気込む。ところが、必ずどこかで詰まってしまうのだ。ある箇所にくると、どうしても「その」和音に行かない。12月は「ジングルベル」で同じことが起こる。「おいしい和音」が鍵盤のどこに隠れているのか、見つからないのだ。
 父は趣味で長いことジャズをやっているが、一方、当時こちらの手持ちには、まだ基本の三和音とちょっとしかなかったのだから、まあ仕方がない。それでも、ずっとピアノの前に座って格闘していたものだ。そしてあるとき突然、ディミニッシュの和音を発見する。忘れないように、その部分ばかり100回ぐらい弾いた。
 こんなことを毎年繰り返しているうちに、賛美歌や童謡に自分で和音をつけるのが、小さな楽しみになった。賛美歌にも、和音を考え出したら止まらなくなる名曲がたくさんある。有名な「いつくしみふかき」(「ははぎみにまさる」)は、その筆頭。しかし、日本のプロテスタントの教会で使われている讃美歌は基本的に四声で書かれていて、オルガンの伴奏はこれをそのまま演奏するのが普通だ。礼拝のときは、メロディー以外のパートを見てハモる会衆もいるので、勝手に和音を変えると音楽を崩すことになる。
 ところが、私が8歳か9歳ごろのある朝、私の通う教会に新しいオルガニストがやってきて、いきなり、♪なーどかはおろさーぬー、の「ぬ」のところを、当たり前のようにディミニッシュで弾いたのだ(ヘ長調であれば、ここはBdimシレファソ#)。私は思わず目を見張り、心の中で快哉を叫んだ。「こうでなきゃ!!」小躍りしたい気持ちを抑えて、ひとりニヤニヤしていた。それは、センスの問題というよりも、勇気を試すことに近かったからである。彼女の小さなこだわりが、私にはひどくうれしかったのだ。(ちなみに、彼女の本職はジャズピアニストだった。)
 さて、「ロンドンデリー・エアー」もしくは「ダニー・ボーイ」も、和声を考える甲斐のある名曲だ。多くの人が色々な編曲をしているが、私はクライスラーの手によるものが、今まで耳にしたものの中では、ダントツ素晴らしいと思っている。クライスラーは優雅なヴァイオリンの小品を沢山作曲しているが、この「ロンドンデリー・エアー」を聞くと、彼はなんとお洒落な和声を持っていたのだろうと、改めてびっくりする。半音進行が波のように押し寄せ、9の和音があちらこちらを彩る。一つ一つの音に、クライスラーのこだわりが見える。とにかく、かっこいい。それなのに、流れはいたって自然で、無理は感じない。ヴァイオリンのメロディーはどんどん高くなり、消え入るように終わってしまう。聞く分にはさらさらと流れて行ってしまうのだが、ひとたびピアノパートを弾いてみようとすると、愕然とする。・・・難しいのだ。
 中学2年生のとき、友達と二人で、音楽の先生の誕生日に一曲プレゼントしようということになった。無謀にも我々が選んだのは、このクライスラー編曲の「ロンドンデリー・エアー」。友人はヴァイオリンを、私はピアノを必死でさらって、お誕生日当日、放課後の音楽室に先生を呼び出して、無理矢理聞いていただいた。演奏が終わるや否や、先生は私のところへ駆け寄って来て、眉間にしわを寄せて声を上げた。「一体、どんな譜面なの?!」私は汗びっしょりで答えた。「クライスラーの編曲は、すばらしいんです! 編曲は、すばらしいんですが…!」

ドビュッシー 弦楽四重奏曲、 ラヴェル 弦楽四重奏曲

2006-02-01 23:04:46 | 室内楽
 ドビュッシーの弦楽四重奏曲と、ラヴェルの弦楽四重奏曲。素人が演奏しようとしても、なかなか歯が立たない代物だが、どちらも私の大好きな曲だ。夜、この2曲が入ったCDを部屋でひとり聴いていると、時間が深くなるような気がする。弦楽器の音特有の切なさと緊張感が、非常に美しく昇華した超名曲である。特に、ドビュッシーの3楽章のメロディーには、ため息が漏れてしまう。
 あるとき、音大の学生に弦楽四重奏の仕事を依頼することになり、このドビュッシーの練習に立ち会うことになった。4人とも、とてもよく弾いているのだが、とにかく音を「重ねる」のが難しいようだった。瞬間的に各自の正しい音を「組み合わせる」だけでは、和音が移り変わって行かないのだ。真剣な練習は長時間に及び、細かい音程調整が続いた。みな、額に汗が浮かんでいた。
 その帰り道、ヴィオラの子が教えてくれた。「ドビュッシーの四重奏はねえ、とにかく和音を作るのが難しいの。今、自分が和音のどこの位置にいるか、瞬時に把握するのが大変! ラヴェルの方は、リズムね。あたしたち最近、ラヴェルも弾いたんだよー。」尊敬のまなざしで4人を見つめると、ドビュッシーで疲れた残りの3人は、静かにうなずいていた。
 するとヴィオラの女の子は、唐突に言った。「おかちまち、おかちまち、ってね。」完全に『?』マークだらけの私の顔に向かって、彼女は続けた。「5拍子って、どう数える?」ラヴェルの弦楽四重奏の最終楽章は、5拍子なのだ。「速い5拍子はね、休みの小節を数えたりするとき、お、か、ち、ま、ち、って、心の中で唱えてるの。」つまり、テンポが速いので、1、2、3、4、5、と数えていては、置いていかれてしまうのだそうだ。
 「なんで、いけぶくろ、じゃないわけ?」チェロの男の子がたずねる。「い、け、ぶ、く、ろ、だと、なんか引っかかっちゃうじゃない。」彼女は大真面目に答えている。あんな真剣な練習をしながら、実は「おかちまち」なんて数えたりしているのか・・・私はショックで、ぽかんとしてしまった。それ以来私の頭の中では、ドビュッシーの四重奏と、ラヴェルの四重奏と、「おかちまち」が、くっついてしまったのだ。
 それでも、ドビュッシーの四重奏を聴けば、遠い遠い何かが見える。色彩の中におぼれる快感に酔ってしまう。ラヴェルの四重奏を聴けば、ときどき羽で心を撫でられるようで、思わず身をすくめてしまう。自分が何か別のものになったような気がする・・・哲学者や、お姫様や、暖炉の前の老人。今夜も、歯を磨きながら、この極上の2曲を聴いて、眠ろう。