音の向こうの景色

つらつらと思い出話をしながら、おすすめの名曲をご紹介

シューマン ピアノ五重奏曲 変ホ長調 第1楽章

2009-02-05 13:21:20 | 室内楽
 ある屋敷に、楽器ケースを持った男達が三々五々やってきて、部屋に集まるとおもむろに楽器を取り出し、シューマンのピアノ五重奏を弾き始める・・・というシーンから始まる映画をご存知の方はいらっしゃるだろうか。父がかなり以前から、昔こういう映画があったのだと言っている。しかし誰に聞いても見つからないので、彼の記憶違いではないかと、こっそり疑っている。ところが、この白黒映画のイメージはいつの間にか私の中で理想化され、まるで自分の遠い記憶の中の憧れのように定着してしまった。
 この2年ほどで、室内楽が「趣味」から「生活の一部」になってきた。週に何度かは、必ず楽器の仲間が遊びに来てくれる。平日は会社や学校の帰り、休日はオーケストラの稽古の帰りに寄ってくれる。アマチュアがほとんどだが、音大生やプロが入ることもある。楽器を始めて3ヶ月の人もいれば、セミプロとして活躍している人もいる。譜面の在庫の都合上、弦楽器が多いのだが、ときどき木管さんも混ざってくれる。二日と空けず遊びに来る人もいれば、年にいっぺんだけ参加する海外メンバーもいる。
 我が家の室内楽サークルの名前は「アリオン・クラブ」。メンバーが一人二人と友達を連れてきて、ここ数年で、潜在メンバーを含めると50人を越えた。アリオン・クラブの鉄則は、オブリゲーションがないことだ。「しなくてはいけない」ことは、やってもつまらない。だから、それぞれ時間があるときに、来たいときに、約束して遊びに来る。年に数回設けている発表会以外、基本的に練習はしない。その日集まったメンバーの顔を見て、その場でやる曲を決め、初見で遊ぶ。3人ならトリオ、4人ならカルテット、5人ならクインテットという具合である。集まった楽器の編成を見て曲を選び、「ライブラリアン」として譜面を出すのもまた一興である。
 会場提供者である父は、座付きの作曲家として、室内楽を作曲・編曲している。編曲ものは、しばしば教育テレビの「夕方クインテット」と同じ選曲になることがあり、うちは「夕方クインテット実写版」だなと思っている。おかしなおしゃべりをしながら、ときには歌いながら、わいわいとアンサンブルをする。仲間の個性もバラバラだ。最近は、ラテンや映画音楽など、ジャンルも広がっている。ただし「夕方クインテット」と違うところは、曲の途中で「あー、わかんなくなったー」「間違えたー!」「いま、何小節目?!」という、楽しい叫び声が入ることだ。難しい曲を弾いた後にどっと疲れたり、譜面を睨みすぎて目が赤くなったりするのも、実写版の醍醐味である。
 忙しさでひっくり返りそうになっていても、なるべく仲間と音楽をする時間だけは守っている。仕事でパンクしそうになっていても、夢中で楽器を弾いているうちに、すっと気持ちが落ち着くし、頭の中で問題が整理される。結局、その前後の仕事効率がいいということに気がついた。私はピアノを弾くことが一番多いのだが、ヴァイオリンか、ヴィオラを弾くこともある。いまだ第一ポジションから抜け出さないし、翌日あっさり筋肉痛になったりするが、それでも上手いメンバーの横に座って、弓を真似るだけで自分も弾けたような気になる。安上がりである。
 ヴィオラの譜面は、ト音記号でもヘ音記号でもない「アルト記号」で書かれている。この記号の譜面にトライしようと思ったのは、大学生のときだ。理由は、シューマンのピアノ五重奏、変ホ長調。1楽章第2主題のチェロとの美しい掛け合い。どうしてもこれが弾きたいと思い立ち、譜面にカタカナでドレミ読みを振った。当時はまだ、室内楽仲間が少なかったので、友人達に頼んで集まってもらい、一度弾いてみた。とても楽しかったのだが、あまりに難しくて歯が立たないという印象だった。
 ところが最近は年に何回か、ピアノでこの曲にトライする機会に恵まれるようになった。弦楽器の仲間が揃う機会が増えたからだ。上手な弦4人が揃うと、私はニヤニヤしながらこの曲を棚から選んできて、ピアノの前に座る。私には「この曲が弾けたら、もう何もいらない」という、至高の恍惚感を味わう室内楽曲が何曲かあるのだが、この五重奏もそのひとつである。4楽章で最初のテーマが出てくるまで弾ければ最高だが、たいていは、1楽章で力尽きてしまう。しかし、この1楽章だけで、私は大満足である。
 展開部は練習しても弾けそうにない。アマチュアが遊ぶテンポでも、指が絡まりそうになる。そこで毎回、「展開部でピアノいなくなるから、みんなよろしく」と言い訳をしてから、弾き始める。大きく息を吸って、和音が鳴る。始まったら、もう後戻りができない。不思議な力に押されて、先へ先へと流れていく。基本的に何も考えている暇はないのだが、第2主題になると、「幸せだなあ」と思わずにはいられない。美しい旋律があること、仲間がいること、その日その時間に一緒に演奏ができること。これはひとつの奇跡だと、いつも思うのだ。たまたま集まった仲間と、シューマンの五重奏が弾けるなんて、こんなに素敵なことはない。
 この間、アリオン・クラブで、スーツ姿の男性陣が4人集まった日があった。それぞれ静かにケースを開けて、お茶も飲まずに楽器を弾く。いよいよあの未知の「映画」ばりになってきた。室内楽がある人生って、最高だ。
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