音の向こうの景色

つらつらと思い出話をしながら、おすすめの名曲をご紹介

プーランク ピアノと 18 の楽器のための協奏舞踏曲「オーバード」

2009-03-07 00:38:46 | オーケストラ
 3年前に起業したとき、「さあ今日からは、メルクリウスを信奉するんだ」と思った。当時ちょうどシェンキェーヴィチの「クオ・ヴァディス」を夢中で読んでいたので、ローマ風に「メルクリウス」という名で呼んだ。ギリシャ語ならヘルメス、英語ではマーキュリー。商業と泥棒の神様だ。「クオ・ヴァディス」に登場する似非哲学者のキロンは、こんなふうに言う。「わたくしはいつも、信ずる必要のあるものを信ずることにしております。これがわたくしの哲学で、この哲学はメルクリウスの好みにはとくにかなうはずでございます。」(木村彰一訳)。私もこの点は、キロンに賛成だ。
 ギリシャ神話の神々を親しく感じるようになったのは、小学生の頃だ。古代ギリシャ好きの父は食事中にときどき神話の話をしてくれたし、学研の付録だった星座の神話特集の別冊は何度も繰り返し読んだ。私はいつの間にか、活動的でクールで美しい処女神アルテミスのファンになった。箙を肩に、犬を連れて森を闊歩する姿は、キャリアウーマンとして活躍する女性のシンボルのように思えた。高1のときに家族旅行でギリシャへ行ったときには、アルテミス神の小さな像を買ってきて部屋に飾った。
 アルテミス神が登場する曲といえば、オッフェンバックのオペレッタ「天国と地獄(地獄のオルフェ)」と、プーランクの「オーバード」を思いつく。「天国と地獄」のアルテミスのアリアは、欲求不満の女性のイライラした感じを最高によく表していると思う。非常に女性的。パロディとはいえ、アルテミスの別の一面を見るようで、それはそれで憎めない。
 「オーバード」は、祝宴でのバレエのために作られたピアノ協奏曲的な作品だ。大学時代、フランスものの大家であるM先生に頼まれて、この曲を演奏するための小さなオーケストラを集めたことがあった。確かM先生の姪御さんがバレエを習っておられて、教室の発表会のときに、オケを舞台に載せて「オーバード」をやるという試みだった。合わせは、バレエの稽古場。細い女の子たちが、真っ白いタイツで踊っていた。
 この曲のストーリーは、「処女神であるアルテミスが、純潔の掟に背いて恋をしそうになるのだが、やはりできなくて、弓を持って森へ帰る」といったもの。件のオケでは仲良しの麻衣ちゃんが一番クラリネットを吹いていたのだが、ソロのところでM先生が「ここはフォアグラのように」と指示していた。芳醇な香りの漂うクラリネットが出てくるのは、曲の中で唯一やわらかい、「これが恋かも・・・」というシーンだ。
 私はここでどうしても、エンデュミオンのことを思わずにいられない。私が知っているギリシャ神話の中で最も好きな、アルテミスとエンデュミオンの物語だ。山の頂上で眠っていた美しいエンデュミオンを見て、女神は恋に落ちる。天から降りてきて、毎夜彼の夢に現われる。エンデュミオンは、永遠の若さを与えられ、永遠に眠り続ける。多くの画家にインスピレーションを与えたこの物語を題材に、キーツも長い詩を書いている。その冒頭は、こうだ。「A thing of beauty is a joy for ever (美しいものは、永遠の喜びである)。」
 私は「オーバード」のほんの短い甘い旋律を聴きながら、エンデュミオンの美しい寝顔を見つめるアルテミスを思い浮かべる。「眠る男、見守る女」の図が普遍的なのは、母性のイメージがあるだろうか。それに、好きな人の寝顔を見るのが好きだという女性は少なくないようだ。非常にエゴイスティックな喜びのようで少しだけ後ろめたくもあるのだが、私も好きな人の寝顔を、「きれいだなあ」と思いながら眺めているのは好きだ。いつまでも見ていたいと思う。
 美しいものを眺めている瞬間、美しい音に囲まれた瞬間、もっと言えば「美しい瞬間」、私は幸せだなあと思う。以前はよく、そんな瞬間に、「今、アルテミスの矢に打たれたい!」と思っていた(アルテミスの矢とは、女性の突然死を意味する)。もうこれ以上ないというぐらいの「美しさ」に触れた瞬間、永遠にそのままでいたいと思うからだ。有難いことに、アルテミス神はいまだ私をその矢で射抜かず、また美しいものに触れる時間を与えてくださっている。永遠のエンデュミオンの代わりに、次々と別の幸せを。
 「クオ・ヴァディス」の中でペトロニウスは言う。「幸福はいつも、それが見つかったと思うところにあるものだ。」
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