音の向こうの景色

つらつらと思い出話をしながら、おすすめの名曲をご紹介

モーツァルト 「ドン・ジョバンニ」より 「お手をどうぞ」

2006-04-06 00:09:28 | オペラ・声楽
 今年は「モーツァルト・イヤー」で、街のBGMもモーツァルトが多い。昨日も本屋に入ったら、「ドン・ジョバンニ」の序曲が流れていた。これを聴くと、なんとも言えない、実験室のすえた臭いを思い出す。
 大学3年の1学期、細胞生物学の実験が始まったころだ。週末に、仲良しのバリトンのお兄さんが、よくレッスンに連れて行ってくれた。下手くそでも伴奏はあったほうがましだと言うので、ピアノを弾かせてもらったのだ。当時私は、その先生の偉大さもよく心得ないまま、お宅にうかがっていた。マエストロ、ウバルド・ガルディーニ。
 和風の部屋に、グランドピアノ。雑然と積まれた譜面やリブレット。「ドン・ジョバンニ」のレッスンが始まる。♪Notte e giorno・・・「NO!」3秒と歌わないうちに、先生は歌手より大きな声で怒鳴る。80歳を超えているとは到底思えない。
 イタリア語のできない私には英語で指示を出してくださるのだが、レッスンが盛り上がってくると、先生が口から発しているのは英語なのか、イタリア語なのか、歌なのかさえわからない。鋭い声が飛んでくる。「オバー チャン ノン カピーシェ!!」イタリア語には「おばあちゃん」に似た単語があるのだなあ、とぼんやり思っていたのだが、後で確かめたら、「そんなに曖昧な発音では、劇場に来た『おばあちゃん』たちに言葉が伝わらないよ」と言っておられたのだった。
 すると今度は私に「エルヴィーラのパートを歌え」とおっしゃる。こっちは譜面を追いかけるだけで必死で、イタリア語もさっぱりなのに。困った私が、自分は音楽専攻でないと告白すると、先生は満面の笑みをたたえて「いい生物学者になりたいなら、当然、ピアノを弾きながら歌いなさい。」つまり、encyclopedicにならないといかん、というわけだ。
 それで、大腸菌の実験中、試薬の反応を待っている間は、実験台にスコアを広げることになった。どちらかというと、片手間に実験しているといった具合だったが、とにかく週末までに、イタリア語の歌詞の意味を書いて、なんとか発音を覚えた。
 モーツァルトの二重唱でも特に有名な「お手をどうぞ」。ドン・ジョバンニが、通りがかった婚宴で花嫁を口説いてしまうシーンだ。緊張して、蚊の泣くような声でツェルリーナを歌い始めると、半月めがねの上から覗く先生の目がウィンクする。♪もうダメ・・・と、ドン・ジョバンニの手に落ちていくフレーズを歌い切ったら、ピアノの向こうから「I love you!」と投げキッスが飛んできた。おっと、誰がドン・ジョバンニなんだ?
 結局、ここはポルタメント(音を引きずる)をかけないほうがいい、とか、ここでブレスしたほうがいい、とか、私にまでいろいろと教えてくださった。広い見識があって、音楽にまっすぐで、茶目っ気があって、そして女性が大好きなガルディーニ先生。あの頃は変な臭いが染み付いていたスコアの中表紙に、先生のサインが残っている。
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