大学3年の3学期。冬。私が所属していた生物学類の中で「人間生物学コース」を選んだ20人は、3ヶ月間、医学部で特殊な授業を受けた。医学部の先生が我々だけのために設けて下さる講義もあれば、医学生に交じって基礎の講義を聴くこともあった。そして、一生忘れられない貴重な経験をした。解剖学の実習である。
解剖学実習の最初は、「骨実習」だった。先生の指導を受けながら、グループで骨の標本を観察する。先生はときどき、自分の体で骨の形や位置を確かめるように促す。みんな、白衣に手を突っ込んで、「これだ!」とか、「あ、ほんとだー」とか言ってはしゃいでいるのだが、私は脂身にさえぎられて、指示された骨がひとつも確認できない。おまけに、配られたプリントの「肋」(肋骨の「ろく」)の字が認識できず、「真肋、仮肋、浮遊肋」を「しんすけ、かすけ、ふゆうすけ」と読んでしまった。そのとき、「誰の名前ですか、それは」と絶妙のツッコミを入れてくれたのが、この実習の担当教官、服部先生だった。
骨実習が終わると、いよいよ献体の観察が始まる。我々は医学生ではないので、実習用に既にきれいに解剖され、皮下脂肪の取り除かれた、3年越しのホルマリン漬けの献体を観察させていただいた。初日はみな非常に緊張していたのだが、献体の覆いが外された途端、一斉に興味津々の眼差しに変わった。20人のクラスで、唯一の男子だった、がたいのいいHくんだけが、一人目を伏せて実習室を出て行った。服部先生は、「だんだん慣れるよ」と、やさしく彼を励ましていた。
解剖実習は面白かった。長い学生生活の中で、あんなに面白かった授業はない。私は人体の不思議に、たちまち夢中になった。坐骨神経の太さ。何層にも重なった背中の筋肉。迷路のような腕神経叢。好奇心は抑えられず、小指の腱を引っ張ると、薬指が動くのを試してみた。「だから4の指は動かないんだよ」と、自分に都合のよい結論を出して納得した。
ホルマリンの匂いは髪につく。当時私は、背中の真ん中まで髪を伸ばしていたので、アパートに帰るとまず、髪を洗った。そして、その頃やたら凝っていたモツ鍋を作った。コタツに入って、鍋いっぱいのモツを頬張りながら、解剖実習のノートを作る。そのとき、毎日聞いていたのが、プロコのヴァイオリンコンチェルト2番の2楽章だった。
たまたま部屋に置いてあったハイフェッツのCD。その中で、私の夕食に穏やかな高級感を演出してくれるのが、この2楽章だったのだ。ピッツィカートと木管の三連符の淡々とした伴奏に乗って、これでもかというぐらいの旋律をヴァイオリンが奏でる。どろどろのセンチメンタリズムを避けて、軽やかに、さわやかに、きらめく響きを聴かせてくれる。それが、天上の音楽のように美しい。触れたら壊れてしまうような、絶妙なバランスの上に成り立っている。これをエンドレスでかけながら、静かな、穏やかな、夜を過ごしていた。
朝になると、残りのモツ鍋にゴハンを入れてモツ雑炊にして、お弁当に持っていく。「解剖前によくモツなんて食べるね」と同級生に言われて、初めて、モツと腸がつながったぐらいの鈍感さだった。それにしても、感覚というのは麻痺していくもので、実習が始まって数日経った頃には、最初に感じた躊躇はまったく消えていた。先日、久しぶりに会った同級生が言っていた。「牧菜、自分の肩に(献体の)腕を乗せて、脇の下のところを必死で観察してたよね。」
実習の最後には、服部先生がホルマリンのバケツを提げてやってきた。クラス全員が取り囲む中、先生はいくつか脳標本を取り出して、説明をし始めた。「ここが前頭葉・・・」そして外側の話が終わると、今度は内側の構造を説明するために、先生はいきなり、がばっと標本を引き裂いた。その解体法が、タダモノではなかったのだ。いつも穏やかな微笑をたたえた先生が、ぐわしっ、ぐわしっ、と、裂きチーズのような脳組織を、力をこめて分解していく。「組織の流れに沿ってね。」みな、先生の手元に釘づけになりながら、半ば呆気に取られていた。先生の意外な大胆さがおかしくて、思わず噴出してしまう者もいた。そのとき、先生が晴れ晴れとした声で言った。「おおらかに! おおらかに! ね。」
最終日に、口頭試問があった。「これは何ですか?」先生が指差したところを、「○○筋」「○○動脈」などと答えなければいけないのだが、覚えるアイテムが多すぎて、みんなパンク状態である。「骨?」「血管かな?」と、無茶苦茶な答え方をすると、服部先生は静かに苦笑していた。我々は先生を拝みながら言った。「おおらかに! おおらかにお願いします!」
冬の静かな夜、このプロコの2楽章を聞くと、人体の神秘を垣間見た日々を思い出す。人間は不思議で、そして美しい。服部先生の穏やかな笑顔が浮かび、やさしい声が聞こえてくる。「おおからに!」私の大好きな言葉である。
解剖学実習の最初は、「骨実習」だった。先生の指導を受けながら、グループで骨の標本を観察する。先生はときどき、自分の体で骨の形や位置を確かめるように促す。みんな、白衣に手を突っ込んで、「これだ!」とか、「あ、ほんとだー」とか言ってはしゃいでいるのだが、私は脂身にさえぎられて、指示された骨がひとつも確認できない。おまけに、配られたプリントの「肋」(肋骨の「ろく」)の字が認識できず、「真肋、仮肋、浮遊肋」を「しんすけ、かすけ、ふゆうすけ」と読んでしまった。そのとき、「誰の名前ですか、それは」と絶妙のツッコミを入れてくれたのが、この実習の担当教官、服部先生だった。
骨実習が終わると、いよいよ献体の観察が始まる。我々は医学生ではないので、実習用に既にきれいに解剖され、皮下脂肪の取り除かれた、3年越しのホルマリン漬けの献体を観察させていただいた。初日はみな非常に緊張していたのだが、献体の覆いが外された途端、一斉に興味津々の眼差しに変わった。20人のクラスで、唯一の男子だった、がたいのいいHくんだけが、一人目を伏せて実習室を出て行った。服部先生は、「だんだん慣れるよ」と、やさしく彼を励ましていた。
解剖実習は面白かった。長い学生生活の中で、あんなに面白かった授業はない。私は人体の不思議に、たちまち夢中になった。坐骨神経の太さ。何層にも重なった背中の筋肉。迷路のような腕神経叢。好奇心は抑えられず、小指の腱を引っ張ると、薬指が動くのを試してみた。「だから4の指は動かないんだよ」と、自分に都合のよい結論を出して納得した。
ホルマリンの匂いは髪につく。当時私は、背中の真ん中まで髪を伸ばしていたので、アパートに帰るとまず、髪を洗った。そして、その頃やたら凝っていたモツ鍋を作った。コタツに入って、鍋いっぱいのモツを頬張りながら、解剖実習のノートを作る。そのとき、毎日聞いていたのが、プロコのヴァイオリンコンチェルト2番の2楽章だった。
たまたま部屋に置いてあったハイフェッツのCD。その中で、私の夕食に穏やかな高級感を演出してくれるのが、この2楽章だったのだ。ピッツィカートと木管の三連符の淡々とした伴奏に乗って、これでもかというぐらいの旋律をヴァイオリンが奏でる。どろどろのセンチメンタリズムを避けて、軽やかに、さわやかに、きらめく響きを聴かせてくれる。それが、天上の音楽のように美しい。触れたら壊れてしまうような、絶妙なバランスの上に成り立っている。これをエンドレスでかけながら、静かな、穏やかな、夜を過ごしていた。
朝になると、残りのモツ鍋にゴハンを入れてモツ雑炊にして、お弁当に持っていく。「解剖前によくモツなんて食べるね」と同級生に言われて、初めて、モツと腸がつながったぐらいの鈍感さだった。それにしても、感覚というのは麻痺していくもので、実習が始まって数日経った頃には、最初に感じた躊躇はまったく消えていた。先日、久しぶりに会った同級生が言っていた。「牧菜、自分の肩に(献体の)腕を乗せて、脇の下のところを必死で観察してたよね。」
実習の最後には、服部先生がホルマリンのバケツを提げてやってきた。クラス全員が取り囲む中、先生はいくつか脳標本を取り出して、説明をし始めた。「ここが前頭葉・・・」そして外側の話が終わると、今度は内側の構造を説明するために、先生はいきなり、がばっと標本を引き裂いた。その解体法が、タダモノではなかったのだ。いつも穏やかな微笑をたたえた先生が、ぐわしっ、ぐわしっ、と、裂きチーズのような脳組織を、力をこめて分解していく。「組織の流れに沿ってね。」みな、先生の手元に釘づけになりながら、半ば呆気に取られていた。先生の意外な大胆さがおかしくて、思わず噴出してしまう者もいた。そのとき、先生が晴れ晴れとした声で言った。「おおらかに! おおらかに! ね。」
最終日に、口頭試問があった。「これは何ですか?」先生が指差したところを、「○○筋」「○○動脈」などと答えなければいけないのだが、覚えるアイテムが多すぎて、みんなパンク状態である。「骨?」「血管かな?」と、無茶苦茶な答え方をすると、服部先生は静かに苦笑していた。我々は先生を拝みながら言った。「おおらかに! おおらかにお願いします!」
冬の静かな夜、このプロコの2楽章を聞くと、人体の神秘を垣間見た日々を思い出す。人間は不思議で、そして美しい。服部先生の穏やかな笑顔が浮かび、やさしい声が聞こえてくる。「おおからに!」私の大好きな言葉である。