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☆富士登山道「北口」のお宮さん「北口本宮冨士浅間神社」

2018-02-18 | ♠ 静岡・ 山梨・長野・八ヶ岳連峰周辺

 

 「吉田のうどん」を食べた後、燈籠が並ぶ商店街の参道を通り「北口本宮冨士浅間神社」へ向かった

冬至前で陽の落ちようも早く、、、眩しい太陽が射しています

 

古来より社中に「諏訪の森」が位置し、諏訪神社の鎮座地に浅間神社を勧請したと伝わる。

現在当社は浅間神社であり祭神も木花開耶姫命を主祭神としているが、当初は諏訪神社であったと考えられている。

例えば天文17年(1548年)5月26日、小山田信有は吉田の諏訪禰宜に富士山神事の際に新宮を建てる場合は披露するように命じている。

このように富士山神事に関わる案件に対しても、諏訪禰宜に宛てがわれている。

永禄4年(1561年)3月2日、武田信玄は吉田の諏訪の森の木を伐ることを禁止している。

『甲斐国志』によると、同年に武田信玄が富士権現を造営したとある。

これらの事柄から、永禄4年(1561年)の信玄による富士権現造営が現在の北口本宮冨士浅間神社の元になるものであるとし、

それ以前は諏訪社のみが鎮座していたとする。

その後は元和元年(1615年)、谷村城主鳥居土佐守成次が現在の本殿を建立、貞享5年(1688年)に社殿が造修された。

一時荒廃していたが、享保年間になって、富士講の行者であった村上光清が私財を投げ打って再興し、富士講の参詣者を集めた。

 

富士登山道の吉田口の起点にあたる。

江戸時代には富士講が流行し、周辺には御師の宿坊が百件近く立ち並んだこともあるが、

これは神社に属さない独自の宗教活動であった。

昭和初期には神社北の裏手から登山バス浅間神社 - 馬返線が運行していた。

同じ富士吉田市下吉田にある小室浅間神社に対して「上浅間」と呼ばれる事があるが、直接的な関係は無い。

 参照Wikipedia

 

大鳥居をくぐったた参道は 、他参道と明らかに違うような

古来よりの富士講の参詣者たちの足跡が、そのまま参道、石燈籠から見て感じられた

 

 

 

 

 

 

 富士の豊富な水が流れています

 

 神々しい太陽と勝手に思って(*^^)v

 

 隨神門

 

手水舎 

 

冨士太郎杉  樹齢1000年

 

ご祭神

 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

主な御神徳は安産・火防、富士山の女神。
大変美しい女神であったため、天孫・瓊瓊杵尊の妻となり、猛火の中で3柱の皇子をご安産なされた故事があります。

芸能の神、酒造の神、養蚕の神としても信仰を集めてきました。
その全てにはムスビ(産霊)の御力が通じており、モノを生み出す神であるといえます。

また、水を司る神であり、転じて交通や流通の神でもあります。

 

彦火瓊瓊杵命(ひこほのににぎのみこと)

天照皇大神の孫神様で、天孫降臨をなされ、木花開耶姫命を娶られました。
三種の神器を現世にもたらしました。
神武天皇の曾祖父神様で、昔話で名高い海幸彦・山幸彦の父神様です。

姫神様と強い絆で結ばれた夫婦神として、夫婦和合・夫婦円満の霊験あらたかです。

 

 大山祇神(おおやまずみのかみ) 

木花開耶姫命の父神様。
全ての山の神様。
姫神様のご夫婦と共にお祀りされ、家族の円満を守り導いて下さいます。

 

 拝殿

 

 

 

 境内

 

 

 

 

士夫婦檜

 

 

 吉田口登山道

 

 

 

 

 

 冨士北口登山一本道?の石標識

 

 鳥居をくぐると正面に祠、左側から登山道

 

 境内の来た道を引き返します

 

拝殿の横を通って

 

鳥居は柱に袖柱が付属している 両部鳥居(明神系)

 

 

 

 

 

 

 

 = 御朱印 =

 

 

 

※次はミシェランの表紙で有名になった新倉浅間公園へ

 


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