赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴🏯🐎 「藤原摂関家長者 藤原頼長」の庄園「越中吉岡庄」と藤原氏の「赤丸浅井城城主 石黒光景」 !!

2021-04-17 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「藤原摂関家長者 左大臣 藤原頼長」の庄園「越中吉岡庄」の統治者「越中石黒氏」!!
⇒「赤丸浅井城」は「石黒光景」が再建して累代居城にしたとされる。(※「西礪波郡紀要」、「赤丸名勝誌」)

🔽この「赤丸浅井城城主石黒光景」は【源平盛衰記】では「加賀の林氏と共に戦った六道太郎光景」として記載され、「源平盛衰記」では長男の「木船城城主石黒光弘」も記載されている。小矢部川下流には、「義経記」に登場する、赤丸村の「二位の渡し」から「六道(渡)寺の渡し」迄の舟下りルートで在った「如意の渡し」の下船場所の渡し場が在った事が知られる。(※「越中石黒系図」、「義経記」、「源平盛衰記」)


🔽【悪左府】と呼ばれて畏れられた「藤原氏長者 左大臣藤原頼長」







■「石黒氏の歴史の研究」の「越中石黒系図」に拠ると、「源平盛衰紀」に登場して木曽義仲に従って倶利伽羅谷で平家と戦った「石黒光弘」の父は「石黒光景」と成っている。この「石黒光景」が「赤丸浅井城」を居城にしたとすれば、源頼朝の旗揚げの前の平家統治時代に石黒氏が「藤原頼長」の庄園の「越中吉岡庄」を治めていた事になる。「石黒光弘」は高岡市福岡町木舟に平城の「木舟城」を開いたが、「石黒光景の居城の赤丸浅井城」は古い形の「山城」で在った。「越中石黒氏」は「本姓 藤原氏」とされ「藤原利仁将軍の末裔」とされる。奥州藤原氏が「藤原頼長の奥州の庄園」を管理していたのと同様に、「藤原頼長庄園 越中吉岡庄」は「越中石黒氏」が統治していたと見られる。この時期に同じく藤原氏の「加賀林氏」は石川県鶴来を本貫地としていたが、福井県平泉寺から石川県鶴来町迄を支配していた修験道の「白山比咩神社」と対立した為に林家の当主は平家に捕縛されて京都へ送られたと言う。しかし、この時の左大臣は藤原氏の棟梁の「藤原頼長」で在り、「悪左府」と呼ばれて恐れられた権力者で在った為に、「加賀林氏」もその口添えで恩赦を受けて解放された。(※「林一族」、「石川県史」)
強大な力を持った「加賀林氏」は石黒光広の時代に「越中石黒氏」と婚姻をして林ー石黒は親族と成って北陸の行政を牛耳る様になった。
(※「加賀林氏」は後鳥羽上皇が起こした「承久の乱」の時に上皇側で戦ったが、敗れて降伏した。一方、林一族の分家の「加賀富樫氏」は鎌倉幕府に従って勝利して、以後、鎌倉幕府、室町幕府で重要な職を担う様になる。室町時代に成立したとされる「義経記」に「加賀の富樫」を描いているのはこの時代背景が在る。)

■「藤原頼長」は「後白河天皇」と「崇徳上皇」が対立した時に「崇徳上皇」の側に立った為に、上皇は白河殿を源義朝、平清盛軍に襲われ、「藤原頼長」も逃れたが首に矢を受けて死亡し、崇徳上皇は敗れて「讃岐」に流罪に成った。この乱は「保元の乱」と呼ばれて、敗れた藤原頼長の庄園は官に没収されて「越中吉岡庄」は勝者の「後白河上皇の庄園」(※「後院領」と呼ぶ)に成った。




■後白河上皇の統治以前は、藤原頼長の庄園を同じ藤原氏の「越中石黒氏」が統治していたと見られる。
(※奥州の藤原頼長の庄園は奥州藤原氏が統治していたと云う。)
「源頼朝」の時代になると、奥州に向けて逃れた弟の「源義経」を探索する為と称して本来は「不入の権利」を持って「院庁」が統治していた「後院領 越中吉岡庄」には「地頭 吉岡成佐」が配置された。この人物は、庄園からの収穫を納めないとして後白河上皇から頼朝に対して抗議を受けて頼朝に依って交替させられている。(※「吾妻鏡」)
この「吉岡庄地頭成佐」は源頼朝の旗揚げに従った京都の宮道氏の一族の「吉岡氏」と見られ、この子孫は「越中蜷川氏」と名乗り「越中太田保(※富山市)」を統治して、一部は「吉岡」と名乗り、蜷川郷に「吉岡村」を開いた。「蜷川氏」は室町時代に入ると、足利義満の側近として「政所代」として越中の砺波郡・新川郡を統治していた。(※「蜷川の郷土史」、「蜷川系図」)






■「林一族」の記述




■「越中吉岡庄 53ケ村」の郷社「延喜式内社赤丸浅井神社」(※富山県高岡市福岡町赤丸)




🔴【蓮華王院領 越中吉岡庄地頭沙弥迎蓮(相良頼俊)】の素性⇒『源頼朝』 家臣「相良氏」の記録 🔹🔹【求麻外史】!!

2021-04-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸





●肥後(熊本)人吉藩の記録「求麻外史」に記録される「越中吉岡庄地頭沙弥迎蓮」の記録!!
「求麻」とはその昔、「熊曽」が住んだ事から古くは「熊郡」と呼ばれ、後に「求麻郡」と成り、「球磨郡」に成ったと云う。

【熊襲は日本の記紀神話に登場し、九州南部に本拠地を構えてヤマト王権に抵抗したとされる人々の事で、地域名に成っている。古事記には「熊曾」とされ、日本書紀では「熊襲」、筑前国風土記では「球磨囎唹」と表記される。※Wikipedia】



「訳 文」




■「静岡県牧之原市相良郷」を発祥とする「相良氏」の「相良長頼」は源頼朝の旗上げに参画して、頼朝の死亡した時に出家し「蓮仏」と号す。元久二年に北条時政が頼朝家臣の畠山重忠と争い、将軍源実朝軍は武蔵二俣川で重忠と戦った。この時に「蓮仏」は畠山重忠一族の首級を幾つも上げて、その軍功として「肥後人吉庄」の地頭職を与えられた。その他にもこの「沙弥蓮仏」には恩賞として各地に所領を与えられた。その三男の「沙弥迎蓮」(※相良頼俊)はそれ等の所領を相続して、後鳥羽上皇が起こされた「承久の乱(承久3年.1221年)では「北条軍」として参画して更に所領を広げたと云う。更に蒙古襲来(「元寇」:文永の役.1274年、2度目は弘安の役.1281年)の時に「沙弥迎蓮」(※相良頼俊)は高齢ながらも肥後菊池氏に従い、蒙古軍を大量に捕縛して殺害する等の大活躍をして更に所領を広げたと云う。



『求麻外史』



























★「越中吉岡庄」の地頭は、当初、源頼朝が全国に地頭を配置した時には「吉岡庄地頭成佐」と言う人物だった様だ。「源義経主従」が「越中吉岡庄」の二位の渡しから舟に乗ろうとした時に待ったを掛けた「勧進帳」の有名な場面ー弁慶の義経殴打事件ーに登場する人物は「吾妻鏡」の記載からすると、時期的に「吉岡成佐」と言う人物が該当する。源頼朝から地頭に任命された「吉岡成佐」は頼朝の旗上げに参画して所領を得たとされる京都の「宮道氏」で、「太田」 と称した時に「吉岡庄」の地頭と成り、「吉岡成佐」と称し、頼朝から交替させられた後には富山市周辺の「太田保」に入り、「蜷川郷」に住まいして「蜷川氏」を名乗ったと見られる。「蜷川郷」には「吉岡村」が在り、蜷川氏の一部は「吉岡」と号したと云う。又、「蜷川氏の本家は吉岡氏」とも記載されている。(※「蜷川の郷土史」)


■「吾妻鏡」には「後白河上皇からの奉書到来、源頼朝の申し入れの文書」が記載されており、「地頭吉岡成佐」はこの事件で罷免された。「吉岡成佐」の罷免の後、「後白河上皇」が「蓮華王院」に寄進された「越中吉岡庄」には「相良氏」が地頭として配置された事が、前記の「沙弥迎蓮書状」から窺える。




★「越中蜷川氏」はその後、源氏の足利氏やその家臣で政所の伊勢氏と縁組をして、室町時代には室町幕府の政所代として越中の広大な「新川郡』と「砺波郡」の「越中二郡」を統治したと云う。
(※室町時代足利義満の時に「越中五位庄」は高岡市伏木から高岡市般若野[※五位庄の東庄]、南砺市福野の野尻郷迄広がっていたと見られる。⇒※「東寺百合文書 やなた某書状案」、「畠山文書」)




■「室町時代の越中統治絵図」(※「畠山家文書」)

🔷🔹 天皇家庄園【越中吉岡庄】と二つの【方広寺】⇒【京都方広寺】、【浜松市方広寺】!!

2021-04-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「保元の乱」で「藤原氏長者左大臣藤原頼長」から没収されて「後白河上皇」の庄園に成った【越中吉岡庄】は、南北朝時代の「後醍醐天皇」の時代迄、皇室庄園として続いた。






■「門跡寺院 聖護院」


■「聖護院派寺院」の「川人山鞍馬寺」(※赤丸村)








■天皇家庄園「吉岡庄」の旧跡




■【越中吉岡庄と二つの方広寺】
京都府と浜松市に在る二つの「方広寺」は、各々、南北朝時代の南朝の「後醍醐天皇」との因縁が深い。
「後醍醐天皇」の庄園で在った「越中吉岡庄」(※室町時代からは「五位庄」。高岡市福岡町赤丸周辺。)には、この後醍醐天皇所縁の二つの「方広寺」の系列寺院が在った。
その一ツは、「吉岡庄」の中心神社「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当寺院で「門跡寺院聖護院派」の「天台宗 川人山鞍馬寺」が在った。聖護院には「吉岡庄」の領主「後白河上皇」の皇子や「後醍醐天皇」の皇子が「聖護院門跡」となられている。
豊臣政権の時には、京都の「方広寺」へ皇室から「聖護院宮道勝」が入寺されている。
又、もう一ツの寺院は「浜松市」の「方広寺」で、元々「臨済宗」で、後に曹洞宗に成った「曹洞宗 天冠山三光寺」で、この寺院は「後醍醐天皇」、「後村上天皇」から「国済国師」・「三光国師」の称号を賜った「孤峯覚明」が開山と成った。
この「三光国師」の名前を冠する【臨済宗三光寺】(※現在は曹洞宗)が「越中吉岡庄」(高岡市十日市村)に在る。
《南北朝を統一した「足利義満」の時代に「越中吉岡庄」は「越中五位庄」と成り、義満は室の日野業子の菩提を弔う為に「五位庄」を自らが創建した「臨済宗相国寺(舎利殿金閣)」に寄進した。その時には「真言宗総持寺」等の赤丸浅井神社48坊と呼ばれた寺院は「越中守護畠山持国」等が居城とした「赤丸浅井城」周辺から追われたと「三光寺」では伝えている。》

舎利殿金閣









■①豊臣秀吉が再興した【京都 天台宗 方広寺】
京都市東山区にある天台宗の寺で、天正14年(1586年) に豊臣秀吉が創建して木造の大仏(京都大仏)を造営した。慶長元年の大地震で倒壊して慶長7年には炎上した。慶長14年には「聖護院宮 道勝」を「方広寺大仏殿寺務職」に任命した。
慶長17年には豊臣秀頼が再興し、慶長19年に落慶法要が行われたがその鐘の銘に「国家安康・君臣豊楽」と記されていた事から、徳川家康は【「家」と「康」の字が分断されているのは徳川家康を呪ったものである】とクレームをつけて「大坂の陣」で豊臣家を攻撃した。寛文2年 (1662年) には地震で大仏殿が倒壊し、寛政10年(1798年) には焼失した。天保年間 (1830~44年) には仮殿を再建し,半身の木造大仏を安置し、1880年にはその遺跡に豊国神社を建立し,1884年には鐘楼を建てこの鐘を吊るした。通称は「大仏」と云われた。
🔽加賀藩祖「前田利家」は京都「方広寺」の大仏造営の時に「人足一万人」の費用を寄進している。
▼【聖護院宮道勝】;
「興意法親王 コウイホウシンノウ」(1576年生〜1620年没)は陽光院誠仁親王の第5王子で後陽成天皇の実弟。母は新上東門院晴子(勧修寺晴右の娘)。天正4年生。幼称は五宮、初名は邦慶。法諱は初め道勝、のち興意。法親王は出家したのちに親王宣下を受けた。
慶長19年豊臣家が再建していた方広寺大仏殿がほぼ完成し、4月には梵鐘が完成した。総奉行の片桐且元は、駿府の徳川家康へ大仏開眼供養の導師や日時の報告等を逐次行ったが、開眼供養と大仏殿供養の日取りや供養時の天台宗・真言宗の上下を巡り、対立を生じていた。7月26日、家康は片桐且元に宛て、開眼・大仏殿供養日が同日である事、大仏殿棟札・梵鐘銘文が旧例にそぐわない事に加え、その内容に問題があるとして開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期を命じた。梵鐘の銘文は、南禅寺の文英清韓によって選定され、有名な「国家安康」・「君臣豊楽」が含まれていた。
興意法親王の書き下ろした棟札銘文に、棟札の形式や大工頭(棟梁)の名を入れていない事や天台・真言の座論も不審がある事等で江戸幕府の嫌疑を受け、六角東洞勝仙院に蟄居し、元和2年(1616年)には聖護院寺務および三井寺長吏を退いた。
三井寺の記録・『園城寺再興畧記』によると、幕府の嫌疑が晴れ、北白川の地に照高院を再建した時に徳川秀忠より旧伏見城二の丸御殿の寄付等を受け、洛東白川に新坊を建立し、そこに照光院を移した。元和6年9月、お礼言上の為に江戸へ下向し、滞在中の10月7日急死した。45歳。薨去の前日に将軍家から見舞いの使者として、水野忠元が宿舎の廣岳院に赴いたが、伺候の最中に突如頓死するという事件も起きたち為にこれは徳川家の豊臣圧迫の一環としての暗殺だったとも云われる。(※「コトバンク」等参照)
🔽「越中吉岡庄(赤丸村)」の【川人山鞍馬寺】は、「三井寺」の系統の「本山派修験道 門跡寺院聖護院」の末寺で在った。「川人山鞍馬寺」は「赤丸浅井神社」、「石堤浅井神社」、「舞谷八幡宮」を擁する「」三社権現形式を取り、「延喜式内社赤丸浅井神社」は「五位庄五十三ヶ村惣社」として五位庄を代表する神社で在った。



(祭祀日程は変更が在る)



②【浜松市 臨済宗 深奥山方広寺】
臨済宗方広寺派の大本山で静岡県引佐郡引佐町奥山に在る。
至徳元年(西暦1384年、南朝元中元年)、「後醍醐天皇」の皇子「無文元選禅師」によって開かれた。当地の豪族、奥山六郎次郎朝藤が自分の所領の一部を寄進して堂宇を建立し、「無文元選禅師」を招いた。末寺170カ寺を擁し、その大部分は静岡県西部地方に所在する。
▼【無文元選禅師】
方広寺を開山した。元亨3年(1323)「後醍醐天皇」の皇子として京都に生まれる。「後醍醐天皇」が崩御された翌年の暦応3年(1340、南朝興国元年)、京都建仁寺で出家し、可翁宗然禅師、雪村友梅禅師について修行する。康永2年(1343、南朝興国4年)には、元代の中国に渡って禅の修行をする。中国漸江省の温州に着き、福建省の建寧府にある大覚明智寺に古梅正友禅師を訪ねて参禅修行し、後に諸方を行脚して「天台山方広寺」に行く。観応元年(1350、南朝正平5年)に帰国し、京都岩倉に帰休庵を結び、やがて美濃(岐阜県)に了義寺、三河(愛知県)に広沢庵を結ぶ。この広沢庵に遠江(静岡県)奥山の豪族奥山六郎次郎朝藤が参禅し、無文元選禅師の父の「後醍醐天皇」の追善供養と、禅師の師恩に酬いるために、所有する山林の中から50町余りを寄進して、堂宇を建立して禅師を招く。その辺りの光景が中国の「天台山方広寺」に似ている事から、この寺を「方広寺」と名付けたと云う。
・応安六年七月に【三光国師 孤峯覚明】の法嗣の「無言叟智訥」(古剣智訥)が「無文元選」の像(方広寺蔵)に「托開千聖宅 把定仏祖関 看面目也無 背面高居方 広絶塵寰」と賛を加えている。

◆浜松市の「井伊家菩提寺」の「龍潭寺」の開山となる「黙宗瑞淵」も初めは「智淵」の名で当寺に属していた。
(※「開山黙宗大和尚行実」龍潭寺蔵)
《※「龍潭寺」;静岡県浜松市北区にある臨済宗妙心寺派の寺院》
⇒永禄11年(1568年)12月、「徳川家康」は遠江への進攻の際に「龍潭寺」で休息した(武徳編年集成)。天正8年(1580年)、徳川家康から寺法が下され、祈願所としての勤行の励行や祠堂物の徳政免許、無縁所としての勧進許可などが規定された。
(※「徳川家康判物」方広寺文書)
天正15年、後陽成天皇は「当寺住持は天皇の許可によって就任する事」と定められたと言う。
(※「後陽成天皇綸旨」・「近衛前久書状」同文書)

◆【三光国師】(※「孤峰覚明」)
富山県高岡市柴野に「三光国師」を開山とする【三光寺】が在り、この寺は南北朝時代に、後醍醐天皇の庄園で在った「越中吉岡庄」に大和国宇陀郡から移り住んだと云われる「宇多源氏」の刀工の【宇多派刀工】の菩提寺で、前田利長の妻に成った「織田信長」の四女「永姫」が再建した寺院である。
その後、元臨済宗で在ったこの寺に前田家菩提寺の「曹洞宗繁久寺」の住職が隠居し、この時に三光寺も曹洞宗に改宗し、繁久寺の末寺と成った。
(※「繁久寺」は元々、能登総持寺の前身とされる曹洞宗永光寺に近い越中国氷見郡に在ったと云われる。)









▼「孤峰覚明」《文永8年(1271年)~康安元年/正平16年5月24日(1361年6月27日)》は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧。俗姓は平氏。諱は覚明。道号は孤明。
陸奥国会津の出身で、比叡山延暦寺で受戒し、天台教学を学んだ。紀伊国「興国寺」において入宋僧である心地覚心に参禅し、更に出羽国の了然法明、那須雲岩寺の高峰顕日、博多崇福寺の南浦紹明に師事し本格的な禅宗を学ぶ。1311年(応長元年)中国(元)に渡り、天目山の中峰明本・古林清茂などに参禅したのち帰国した。鎌倉建長寺の南浦紹明・【能登国永光寺】の瑩山紹瑾に師事したのち、出雲国に雲樹寺を開いた。
《※「能登国永光寺」は能登国に在る「曹洞宗総持寺」の元寺。》
鎌倉幕府に対して挙兵し、伯耆国船上山にいた「後醍醐天皇」に招かれて天皇からの諮問に答え、「国済国師」の号と「天長雲樹興聖禅寺」の額を賜った。その後、京都南禅寺に招かれたがこれを辞退し、紀伊国興国寺に住した。再び上洛して妙光寺に住し、一方で大和国吉野で後村上天皇に衣鉢を与え「三光国師」の号を賜った。
・大阪府堺市西区と高石市には「浜寺」と呼ばれる地域があるが、この地に「三光国師」が建立した「大雄寺」が吉野山日雄寺に対して「浜寺」と呼ばれたことに由来する。

(※Wikipedia,コトバンク等参照)

🔴 南朝刀工【越中 宇多派刀工】のふるさと⇒後醍醐天皇の庄園【越中吉岡庄】 (※富山県・赤丸村 鍛冶屋町島)!!

2021-04-14 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
◆「越中国 宇多刀工」の刀剣

■「太刀 宇多国光作 ※南北朝時代」⇒「宇多刀工」の祖「宇多国光作」の太刀





■「小太刀 宇多国光作 ※南北朝時代」⇒「宇多国光作」の「脇差し」


■「古宇多 ※日本刀剣保存協会 特別保存刀剣」⇒「南北朝時代迄」に作刀された「古宇多」




■「越中の刀工」で著名な刀工に、「越中吉岡庄鍛冶屋町島」(※富山県高岡市福岡町赤丸)に奈良県から移り住んだ「宇多国光」を祖とする【宇多派】と、富山県魚津市の「松倉郷」の【郷義弘】、富山市五福の「呉服」に住んだ【佐伯則重】がいる。

特に「宇多刀工」は南北朝の頃から江戸時代迄続いたとされ、「宇多派」の刀剣は戦国時代を経て多くの名刀を生み出した。しかし、南朝の刀工として後醍醐天皇の庄園「越中吉岡庄」等で作刀した「宇多派」は室町時代以降の北朝の時代には厳しい批判も在ったと言われ、刀剣としての価値も低く評価されたとも云われる。















■「赤丸浅井城」と、後醍醐天皇の「第八皇子宗良親王」が滞在されたと伝わる「赤丸城ケ平山」の親王屋敷跡の至近距離に、「宇多刀工」が工房を構えたと伝わる「鍛冶屋町島」が在る。



■富山県高岡市福岡町赤丸の「城ケ平古墳群」からは神武天皇の軍隊が使用したとも伝わる「頭椎太刀 カブツチノタチ」他の多数の刀剣が出土しており、その遺跡の在る城ケ平山の麓の赤丸村領三日市には南北朝の頃、大和国宇陀郡から刀工の一団が移り住んでその系統は江戸初期迄の長い間、富山県に残っていたと言う。城ケ平山の麓には現在も「鍛冶屋町島」と言う地域が在り、近年、高岡市の「西山歴史街道事業」としてこの場所には案内看板も立てられている。尚、「頭椎太刀」の残存部分に付いては、現在、東京国立博物館の所蔵と成っている。



■『宇多派刀工』
大和国宇陀郡に伝説の古代刀工「天国 アマクニ」を祖とする刀工集団が繁栄した。此処には「神武天皇」を大和国に導いた「ヤタカラス」を祀る『八咫烏神社』が在り、南朝の「後醍醐天皇」が崇敬されたと言う。この宇陀郡に繁栄した刀工の中で「宇多国光」は当初、加賀に移り、後に越中国利波郡(赤丸村領)三日市に移り創作したとされる。この時に「越中吉岡庄」は後醍醐天皇の庄園で在り、南朝の牙城として「赤丸浅井城」には後醍醐天皇の第八皇子の宗良親王が入城されて、赤丸村舞谷の極楽谷に「越中宮安養山極楽寺」(現在高岡市博労町3-22)を創建されたと言う。
後醍醐天皇の時に源氏長者になった清和源氏「北畠親房」は、伊勢国司の家で在り、大和国宇陀郡の国人「秋山氏」、「芳野氏」、「沢氏」は和州宇陀三人衆と呼ばれて、当初は北畠家の与力で在ったが後には家臣になったとされる。北畠親房は南朝の忠臣として後醍醐天皇の側近として活躍し、後醍醐天皇第八皇子宗良親王が出陣されると同時に出陣した。
(※後醍醐天皇は宇多源氏の五辻家の血を継ぐ。常盤御前→娘廊御方→五辻家→後醍醐天皇)

■宗良親王は、後醍醐天皇が隠岐に流された時に、自らも讃岐に流される道中に在り、後醍醐天皇と別れがしたいと申し入れるが警護の者達が赦さなかった。「後醍醐天皇」はこの話を耳にした時に、「尊澄法親王」と成って出家させていた「宗良親王」を不憫に思われ嘆かれたと伝わる位に南朝の結束は固かった。明治に入り、三種の神器を継承した南朝の正統性を「明治維新政府」は帝国議会で決議しており、この時に宮内省では南朝の牙城の赤丸村等の南朝所縁の地域を調査して、南朝第三代長慶天皇を正統な天皇と認めて「皇統譜」に掲載している。(※増鏡」)

■北畠親房は「神皇正統記」を著して天皇家の正統性に付いて書いている。宗良親王は興国三年には越中へ入られて、後醍醐天皇庄園の「越中吉岡庄」の越中石黒氏居城「赤丸浅井城」に入城され、城ケ平山の「親王屋敷」に滞在されたと言う。吉岡庄の城ケ平山の麓の「鍛冶屋町島」には南北朝の頃、「宇多刀工」が栄えたと伝わる。恐らくは宗良親王が将軍として全国を転戦された時には大量の武器が必要で在った為に、小矢部川流域から産する砂鉄を利用して、宇陀郡から吉岡庄へ刀工を呼び寄せて刀を鍛えさせたものと思われる。
「宇多刀」は「黒い地金」が特徴で在り、富山市の佐伯則重や松倉郷の義弘等の刀が明るいのと反対だ。(※「宝永誌」)
又、「吉岡庄」の領主で在った「後鳥羽上皇」の母の「七条院」は大和国宇陀郡の庄園領主で在った事から、大和国宇陀郡の刀工にとっては吉岡庄も馴染みの地で在ったかも知れない。「後鳥羽上皇」はこよなく「刀」を愛でられて、自らが作刀され、月番の「番鍛冶」に作刀させてその刀には大好きな「菊花」を刻印された為にこの刀は「菊一文字」と呼ばれる。「越中吉岡庄」は「後白河上皇」以降、後鳥羽上皇~後醍醐天皇迄伝領した上皇の庄園で「後院領吉岡庄」と呼ばれた。後醍醐天皇は後鳥羽上皇以来の庄園「越中吉岡庄」の領主で在った。
後醍醐天皇の父は諡を「後宇多上皇」と呼ばれ、「宇多」を冠している。神武天皇所縁の大和国宇陀郡と天皇家との長い歴史が背景に在って、宇多刀工の一部の「宇多国光」が「吉岡庄」へ来て作刀を始めたものと見られる。
その後、「越中吉岡庄」は南北朝末に「越中五位庄」と変わるが、足利一族の内紛で「足利尊氏」と争った弟の「足利直義」は一族の「越中守護桃井直常」を味方にして戦い、「越中五位庄」で北朝側と激戦を交わし、この戦いで敗れた「桃井直常」は以後、消息が判らなくなったとされている。この激戦は「群書類從」(※「塙保己一著」)の中の「花営三代記」に「後い庄の戦い」として記載される程の激戦で在った。
その後、越中、能登では守護畠山氏の相続争い等から起こった「応仁の乱」や、上杉謙信、武田信玄、織田信長軍の越中・能登侵攻等の大規模な戦争が長く続いた為に、刀の武器としての需要は江戸初期迄も続いたとされる。

■宇多刀工系図には、「古入道宇多国光は吉岡庄三日市に住した」とされるが、曾て「三日市地区」は「赤丸村領」で在った事と、城ケ平山の山地は赤丸村、三日市村、加茂村の山地が飛び地と成って点在する為に、外的にはその山地の地番の確認は難しい。



■「越中吉岡庄」の中心施設で在った「郷社 総社 延喜式内社赤丸浅井神社」は、皇室の主要な神の「正一位 高皇産霊神(高木神)」を祭神とする文武天皇二宮(聖武天皇の弟)の創建とされる古社で在り、白河上皇の時には「上賀茂神社」の庄園にも成っていた。赤丸城ケ平古墳群からは神武天皇の軍隊が使用したと伝わる「頭椎太刀」も出土している。(※現在は東京国立博物館で常設展示されている。)









■「延喜式内社赤丸浅井神社」
(※後白河上皇以来続いた上皇の庄園「越中吉岡庄」の中心施設で、隣接地には古代の山城跡の「赤丸浅井城跡」が在る。この城は「義経記」では「如意の城」として登場して、南北朝時代にはこの城に後醍醐天皇の皇子宗良親王が在城されたと言う。)



■【越中 宇多刀工系図】
系図では「宇多派刀工の祖」とされる「宇多国光」は当初、加賀に住まいしたが、後に南北朝期に越中吉岡庄三日市に移り住んだとされ、「宇多派」は応仁の乱に至る室町時代初期から越中での作刀を活発に行っている。越中は「応仁の乱」の原因でも在った越中、能登守護で足利一族の畠山氏の所領で在り、膨大な刀剣の需要が在った。畠山一族は越中も一族で分割統治したが、一族間の抗争も激しく、一族で相争う時代が長く続き、引き続く戦国時代には越中の刀剣は必要度を増していた。
(※「越中吉岡庄」は当初、「吉岡庄」と呼ばれたが、三代将軍足利義満の時代辺りからは「五位庄」として見える。⇒「東寺百合文書」)








◎[室町時代には「足利義満」が越中五位庄を「相国寺」に寄進して底地は守護畠山満家に預け置かれ、越中の新川郡・砺波郡は富山市太田保(広域合併前の富山市域)蜷川郷に居城を構えていた越中蜷川氏(蜷川新右エ門親当)が統治したとされる。]
⇒従って、宇多刀工が「太田住」とされるのは明らかに蜷川氏の所領の太田保の事だろう。



室町時代の守護家能登畠山家の統治絵図では、高岡市中田の地域を含む「般若野庄」の中に「五位の東庄」を含んだとされ、この時期には「利波郡」は「五位の西庄」と「五位の東庄」に分かれていた様で、足利義満が「相国寺」に寄進した「五位庄」は福野町野尻を含んでいたとされる。(※「東寺百合文書」)蜷川氏が統治した利波郡は畠山基国の所領の「五位の西庄」(※小矢部市~福岡町赤丸~高岡市守山~伏木港)と見られる。

■NHK大河ドラマ「眞田丸」に登場する「小山田信茂」の「赤雲の太刀」は「初代宇多国光の刀」であった。
(http://www.nipponto.co.jp/)



 








■「越中吉岡庄(赤丸村領)三日市」に「古入道宇多国光」が移住し、江戸時代に至る迄「宇多派」は多くの名刀を産出した。






■越中吉岡庄の中心地であった赤丸村の城ケ平遺跡の山裾には「鍛冶屋町島」「鉄砲島」等の古い地名が残る。今は一面、農地になっているが、この山裾には現在、高岡市のJR駅南に有る全国的に著名な慶派仏師の作と云われる「国指定重要文化財木造千手観音坐像」が安置されている「崇徳山総持寺」の旧跡、「観音堂遺跡」があり、周辺には後醍醐天皇の第八皇子の宗良親王の居宅址と伝わる「親王屋敷址」や、宗良親王の創建と伝わり現在は高岡市博労町に有る「極楽寺」が初めて創建されたと云う「極楽寺址」、宗良親王が勧請されたと伝わる「下加茂社址」(※通称は加茂宮という地名 )が残り、往時の繁栄を偲ばせる。吉岡庄の中心は浅井城や赤丸浅井神社が有った赤丸村で有り、延喜式内社赤丸浅井神社は三日市村、高田島村、国吉村、小矢部市宮島村等も含む五位庄53ケ村の総社とされていた。特にこの宇多刀工が住んだ三日市は赤丸村に隣接し、江戸期にも「赤丸村領三日市」であり、「加賀藩の米蔵」があった。三日市と小矢部川の渡船場があった赤丸村向野新村の「五位の渡し」は重要な施設であり、三日市には古くから著名な刀工の宇多派が住んだと云う事も繁栄した理由の一つかも知れない。地元には今もその遺作の刀剣・槍が残り、鎌倉期の刀剣は特に「古宇多」と呼ばれる。古書に「古入道国光、大和(奈良)の国宇陀郡より越中吉岡庄三日市へ移住」とあり、高岡市福岡歴史民俗資料館には宇多勝国作の「槍先」が保管され、小矢部市には指定文化財刀剣である神明社蔵の「宇多国宗天文六年二月作の刀剣」も残る。著名な「宇多刀」の中には、武田24将の内の七人の弓矢の談合衆と呼ばれた「小山田信茂」は有名な「赤雲」と名付けられた「越中吉岡庄三日市住初代宇多国光作」の刀を使用した。 又、織田信長家臣の「明智光秀」が使用した刀は「宇多国宗作」であり、「荒木又右衛門」が鍵屋の辻の仇討ちで使用したのは「宇多国宗作」の脇差しであった。鳥取県鳥取市新品治町176に在る荒木又右衛門の菩提寺の「玄忠寺」には「荒木又右衛門遺品館」が在り、ここにはその脇差しが陳列されている。

■高岡市(※旧福岡町)文化財【宇多勝国の槍】
賀州勝国の祖越中の【宇多勝国】は室町中期の延徳年間(1489年〜)の刀工とされ、天和年間(※1681~1684年、天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉)から江戸期の安政年間(1855~1860年)天皇は、孝明天皇。江戸幕府将軍は、徳川家定、徳川家茂)の作刀が遺されていると云う。



■越中国吉岡庄三日市には1317年頃(後宇多上皇→後醍醐天皇の父)から江戸期迄栄えた「宇多国光」を祖とする宇多派刀匠の一派がおり、飛騨や富山等にも技術が広がったと言う。当時の「後院領越中吉岡庄」の領家は後醍醐天皇の父の「後宇多上皇」~「後醍醐天皇」であり、その時に神話に出てくる「宇陀郡」から刀工を呼び寄せたものと見られる。
(※「宇多国光」;本国は大和国宇陀郡。 「小矢部市史」の「宇多刀工系図」に拠れば、宇陀郡より加賀→三日市に移住して古入道と云われる。)

■ 越中松倉郷[越中国新川郡松倉郷(現在の富山県魚津市)]にも著名な刀鍛冶集団の「郷義弘」が住んだが、この一波は著名な相州新藤五国光の弟子の「正宗」派に繋がるとされるが、一方、この刀剣には「大和伝」の様子が見られる事から大和国宇陀郡から越中へ移住した宇多古入道国光に師事していたとも伝わる。宇多の刀は無銘も在るが、多くが「宇多」と刀の握り部分に彫り込まれ、「郷義弘」は殆どが無銘の為、古刀の中には宇多刀が相当多いとされる。中には長さを切り詰めて銘を消しているものもあり、宇多鍛冶が長期に亘り続いた為に名刀とされる刀の中にも宇多刀が多いとされる。古来から越中は蝦夷討伐の前線であった為、河川から砂鉄が大量に採れた事と、刀に混ぜて強度を上げる為の微量元素が採れた事から、武器としての刀製作が盛んだった様だ。出雲伝説の、須戔鳴尊(スサノオノミコト)が「高志の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」の尾を切り裂いて「草薙の剣」を得たと言う伝説は、河川が多く在り、砂鉄を多く産した高志国の河川から多くの刀剣が製作されていた事を表している。「出雲の国」からも大量の「鉄剣」が発見されているが、「高志国」からは、当時既に「鋼」を用いた「鋼剣」を産出しており、高志国には既に大陸から新しい技術が導入されていたと云う。それを大和朝廷が手に入れた事を[須戔鳴尊(スサノオノミコト)が「高志の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」の尾から剣を得た]物語にしたものと云われる。
(※出雲にも 八岐大蛇の出現した淵といわれる所がある。⇒何故「高志の」と記載したものか? 大和朝廷が高志の国から鋼剣を得た事を表しているものと思われる。 )

■「古事記」には「高志乃八俣遠呂智」とされ、神宝の「草薙剣」は「高志国」の剣で在るとしている。古くから「高志国」には既に「鋼鉄剣」の技術が在ったと見られる。



■赤丸村を含む「越中吉岡庄」は白河上皇の時に上賀茂神社の庄園になり、その後、藤原摂関家領となり、後白河上皇以来は後醍醐天皇迄上皇領「後院領」、「天皇領」として続き、後には下鴨神社や、足利義満以後には相国寺(金閣寺)や等持院領等になり、赤丸浅井神社は聖護院派山伏として門跡寺院の聖護院に長く米を献上し続けていた。「越中吉岡庄」は歴史的に天皇家や中央の権力者の庄園であった為、権力者が必用とした武具の生産も欠かせない産業だったと思われる。又、吉岡庄や五位庄は歴史的な戦いが続いた地であり、石黒氏、神保氏、寺嶋氏、向田氏、池田氏、柴田氏、柴氏、中山氏、小田氏、小山氏等の国人領主が多く居た事から大量の刀剣を必要とした地域であった事も、これ程著名な刀鍛冶が江戸時代迄の長期に渡って繁栄した背景に在る。宇多刀は武功を上げた者への報償品や献上品等としても独特の波紋や質実剛健の風合いの造り等から、武将に喜ばれ、豊臣、徳川の時代にも多くの名刀が権力者に引き継がれていたと云う。


▼「豊臣秀吉遺品」に見られる越中刀工


▼「富山県文化財 越中利波郡吉岡庄 宇多刀工、越中新川郡五福郷 佐伯則重」


※「後醍醐天皇」と「文保和談」(1317年・文保元年): 後宇多上皇は、花園天皇の退位を迫り、尊治(後醍醐)を即位させた。翌1318年(文保二年)、後宇多は邦良(後醍醐天皇皇太子)を立坊した。邦良には健康の問題があった為、その弟の邦省(後二条天皇の第二皇子)が1321年(元亨元年)に元服し、「皇嫡-第二の皇胤」として認められたという。後醍醐天皇の父の後宇多上皇は、天皇位・皇太子位の全体を統御したが、1324年(元亨四年)には崩御した。その為、関東申次職(源頼朝の姪の嫁ぎ先として婚姻関係にあった西園寺家当主による事実上の世襲。)の西園寺実衡はこの流れに反対し、持明院統の量仁親王(後の光厳天皇)を鎌倉幕府に推挙し、元弘元年(1331年)の元弘の変によって後醍醐天皇が隠岐に流された時に鎌倉幕府は光厳天皇を即位させている。

※宇多(宇陀):神武天皇が東征の時、中州(なかつくに)に入られて険しい山道に入られた時、神皇産霊の霊である八咫烏(ヤタガラス)が道案内をして遂に菟田ウダの下郡(ウダノシモノコウリ)に着いたと云う神話がある。

※大覚寺統:「越中吉岡庄」は大覚寺統に受け継がれた。後宇多天皇は真言密教に帰依し、大覚寺には自ら著した自筆本の「国宝後宇多天皇宸翰弘法大師伝」が残されている。その子の後醍醐天皇は父の後を受け継ぎ、真言密教に帰依して東寺長者の文観に教えを受け、自ら重宝の「空海が唐から持ち帰った法衣」を着用する等、熱烈な信者となり、自ら真言密教の修法を執り行ったと云う。

【※岡山県赤盤郡瀬戸町鍛冶屋には南北朝の頃に刀工集団が住み着き、「吉岡庄」と呼ばれ、ここから産した刀剣は「吉岡一文字」と呼ばれる名刀であり、福岡一文字則房らの発祥の地とされる。 しかし、この集団はある時期を境に突然姿を消したと云う。又、この近くにはあの著名な刀剣「備前長船」を生み出した 岡山県瀬戸内市長船町がある。 この「吉岡庄」と「越中吉岡庄」は著名な刀工を生み出した事でも共通性がある。全国に残される「吉岡庄」が何故「吉岡」と名付けられたかは不明である。⇒越中射水郡を統治していた京都祇園社領の地頭の「宮道氏」は後に富山市の大田保を治めて現在の富山インターの近くに「蜷川城」(※現在の最勝寺)を構え、室町幕府将軍足利義満の縁者として活躍した蜷川新右エ門の一族は蜷川郷の近くの「吉岡村」で「吉岡」と名乗っている。「蜷川系図」には「蜷川の本家は吉岡」と記されており、蜷川氏は室町時代に入ると「新川郡」と「利波郡(五位庄)」(※「吉岡庄」は南北朝末期から「五位庄」)を領したと伝わり、「蜷川氏」の一族の「吉岡氏」との関係が考えられる。京都の「宮道氏」や「蜷川氏」は大族で在り、各所に一族が広がっている。】












■赤丸村から高岡市関町に動いた「槌の宮」は「宇多刀工」の氏神と見られる。
(※「富山県神社誌」)

・この神社の御神体は「刀剣」であると神官家には伝わっている。(※「大木白山社」高岡市大工中町)
・『槌の宮』の隣接に在る「総持寺」や「天景寺」も赤丸村から動いている。

・「宇多家」一族の菩提寺は高岡市柴野「三光寺」に在り、本家のみが「宇多」を記している。








近くの前田島から発掘された大量の古銭






「福岡町埋蔵文化財調査報告書」(高岡市教育委員会)

■日本刀の製作は、鉄と炭素の他にニッケル、バナジューム、マンガン、タングステン、モリブデン、硅素等の内、一から二以上の適量の元素を含有した特殊鋼を苦心の火作りによって鍛え上げ独特の焼入れによって斬味を出すもので、小矢部川流域には上流から流れてくる砂鉄とマンガン、モリブデン等の鉱物が取れた事からその流域には「宇多刀工」が広範囲に住み着き、赤丸村三日市を中心として、小矢部、礪波、国吉等に広く工房を構えていた様だ。小矢部川上流の医王山は現在も鉄の鉱床を残すとされ、この水系から大量の砂鉄が採れた様だ。宇多派は1317年から1880年頃迄続き、百数十人の刀工の名前を数えると云う。江戸時代には恩賞用として銘を削られて、富山県魚津市の「松倉郷」に住んだ「郷義弘」や富山市五福に住んだ「佐伯則重」に鍛ち変えられたものも多いと云う。


🔴 室町幕府三代将軍『足利義満』の母は蜷川氏の『月海夫人』⇒「一休さん」と「越中蜷川氏」 蜷川新右衛門 親当!!

2021-04-14 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸




■「富山県史」に記載される「光厳東海和尚録」
⇒この記録には、「利波郡五位庄赤丸村住藤原真家」として史上、初めて「赤丸村」が登場する。






■2012年09月30日の「北日本新聞」に長く失われたと思われていた「光厳東海和尚録」が金沢市で発見されたと言う記事が掲載された。記事に拠ると、
【室町時代の越中を代表する禅僧の法話などを記した「光厳東海和尚録」が金沢市で見つかった。江戸時代の前期に書かれた唯一の写本で、富山市五番町の曹洞宗光厳寺が所有していたが、1945年の富山大空襲で焼失したとされていた。当時の禅僧の布教活動や有力武士との交流を伝え、越中の禅宗史の一端を知る史料として研究者が注目している。】とし、【「和尚録」は、光厳寺の2世住職、東海宗洋(1458年~1515年)の法話等を書き留めている。戦後長く行方が分からず、1975年に県が刊行した「県史史料編II中世」には「富山空襲で焼失」と記載されていた。同寺の今村源宗住職によると、和尚録は空襲に備えて境内にある三重の塔の地下室に移され、焼失を免れた。その後、当時の住職が金沢の寺に移る際、蔵書に紛れて持ち出されたとみられる。このほど寺に戻り、研究者に公開された。】と報じた。「東海宗洋」は、越中代官を務めた神保家の出身で中世の最高学府「足利学校」(下野国・栃木)で学ぶ禅僧と交流し、漢詩の高い教養があった。この「東海和尚録」は、法要や寺の儀式で読み上げた420編余りの[香語]を収めている。
この中に、「赤丸浅井神社」での法要ー[五位庄赤丸在住の藤原真(直)家の法要]-の記録が記載されている。後に加賀藩の菩提寺ともなった「光厳寺」の二世で後に「能登総持寺」の三十六世住持になった東海宗洋が「瑞泉二代亀阜和尚初七日忌香語」で、【五位庄赤丸在住の藤原真家(直家)が赤丸の川人山鞍馬寺・浅井神社で父の十三回忌(明応四年十一月十六日、一四九五年)、十七回忌(明応八年十一月十六日、一四九九年)を営んだ】と記録している。これを「光厳東海和尚録」という。(※『光厳東海和尚録』富山県史史料編中世 参照)

ここで記録された「亀阜和尚」は亀阜豊寿(きふほうじゅ)[1435年~1501年]は室町~戦国時代の僧で近江 (滋賀県)の出身。近江の曹洞宗新豊寺の雪叟一純に就いて出家し後に同寺天叟祖寅(てんそうそいん)の法を継いだ。能登総持寺、越中瑞泉寺(新川郡林崎)の住持を勤め、富山市黒崎に最勝寺を開く。「最勝寺」は室町幕府政所代の「蜷川新右衛門親当」の菩提寺とされる。(※現在は富山市蜷川) 明応10年1月5日死去。六七歳。東海和尚の師匠(旗雲租旭師)の兄弟子に当る。天叟祖寅の直弟子。

【★真言宗越中総持寺は,応永6年6月17日の室町将軍義満御教書によって,室町将軍家祈願寺となり,荘内の寺領を安堵されている。(※相国寺蔭涼軒日録「越中国総持寺の安堵」)(角川地名大辞典)】

■では、何故、曹洞宗の「亀阜豊寿」が「赤丸浅井神社」で法要を行ったのか?
高岡市柴野の「曹洞宗三光寺」の住持に拠れば、この「三光寺」も「蜷川村最勝寺」も、元々は「臨済宗」で在り、「足利義満」が創建した「相国寺」も臨済宗で在り、義満が「越中五位庄」を室の業子の菩提を弔う為に「相国寺」へ寄進した時には、室町幕府守護の「畠山持国」の居城の「赤丸浅井城」の周辺から臨済宗以外の寺院が追放されたと云われ、「赤丸浅井神社」、「川人山鞍馬寺」は天台宗系の門跡寺院「京都聖護院」の末寺で在り、皇室所縁の寺院で在った事から特にこの寺院で法要をあげたものと見られる。尚、この法要をあげた「藤原直家」は藤原氏の菩提寺「興福寺」の信徒「古市胤栄」に預けられた「畠山義就」の子息「修羅法師」の子供と見られ、「大乗院神社雑事記」に記載される「修羅法師」の命日とも合致している。越中、河内守護「畠山義就」は「応仁の乱」を招いた元凶として悪名を轟かせたとも云われ、政争に破れて河内国に逃れてたてこもった時期が在り、その時にその孫は「藤原」を名乗り、「畠山持国」の居城が在った「赤丸浅井城」に庇護されていた可能性が高い。







■当時、「赤丸浅井神社」は京都の門跡寺院の「聖護院」の系統の両部神道「本山派山伏」であり、修験道においては「神前読経」と呼ばれた神前で仏教経典を読み上げる習慣が在った。南北朝の騒乱はこの頃、南朝の天皇から北朝の天皇に神器が渡されて、南北朝の統一が行われた。後白河上皇~後醍醐天皇迄続いた皇室庄園「越中吉岡庄」は室町時代には「越中五位庄」となり、応永12年(1405年)、足利義満により「五位庄」は義満の室の日野業子(ナリコ)(定心院)の追善料として「京都相国寺」に寄進された。この頃、足利義満は「日本国王」と名乗り、その妻日野業子は天皇の准母(名目上の母)となり、義満の子義嗣は親王と同等の格式を許されたと云う。皇室領に準じて日野業子の追善料として京都相国寺に寄進されたものか?  「金閣寺」は「相国寺」の塔頭寺院の一つであり、舎利殿「金閣」が著名な為「鹿苑寺」は「金閣寺」と呼ばれている。
『※応永22年(1415年)には足利義持により「五位庄」の半分が足利氏菩提寺の等持院(京都市左京区)に寄進され下地は守護畠山満家に預け置かれた。その後も五位庄は足利家菩提寺の等持寺、等持院の庄園になっている。』








■「富山市蜷川地区」と「一休さん」、「蜷川新右衛門親当」










■富山市の富山市インターチェンジ近くに創建された「最勝寺」は「亀阜豊寿」が初代とされ、この時に、この周辺は一休さんとトンチ問答をしたとされる「蜷川新右衛門親当」の一族の「蜷川氏の所領」であり、「蜷川郷土史」に拠ると、蜷川氏は源頼朝の旗揚げに功績が有り、その恩賞として越中の砺波、新川両郡を与えられたと云う。砺波郡でも全部ではなく、新川郡境に近い石動周辺が与えられたと考えられると云う。と云う事は、当然、「五位庄」も含まれたという事になる。
【※蜷川家譜には、一休禅師と「蜷川新右衛門親当」の交流は新右衛門が引退した後からの交流だとしている。又、蜷川新右衛門親元は足利義教に仕え、蜷川氏は代々新右衛門を名乗っているが、系図では、「親当」は「蜷川新左衛門」、その子の「親元」は「新右衛門」とされており、新右衛門、一休さん、義満の物語はフイクシヨンの様だ。
足利義教は還俗して将軍に成ったが、激しい気性で在ったらしく、恐れた赤松氏に暗殺されている。赤松氏はこの時に滅亡したが、その後、子孫が後南朝から神璽を取り戻した恩賞として加賀半国(石川県北部の羽咋方面)を知行されている。】



■この頃の「光厳寺」は守山に在り、「最勝寺」は当初、富山市浜黒崎辺りに創建されたらしいから、この頃の蜷川氏の所領は現在の小矢部市から五位庄、守山、伏木、新湊、富山市の海岸通を含む交通の中枢の北陸道に沿った地域が考えられる。高岡市守山の「光厳寺」の「東海和尚」は高岡市の守山城主神保氏の一族だったらしく、神保氏は能登、越中守護畠山氏の代官であり、神保氏の所領、勢力範囲共一致していた様だ。
(※「蜷川家文書」の政所代蜷川親元文書には神保氏は「代官」として見られる。)
最近迄、越中の新川、砺波郡が鎌倉時代から蜷川氏の所領で在った事は知られていなかったが「蜷川の郷土史」に拠ると、蜷川一族の「等全南江和尚」は「相国寺寺主」をしており、「越中五位庄」が相国寺に寄進された背景にも蜷川氏が絡んでいる。蜷川氏は足利将軍家臣の政所執事伊勢氏の家臣であり、政所代の役を勤め、伊勢氏共縁組しているが、足利将軍家共縁組して足利義満を生んだのは「足利月海夫人」(※紀良子)と 呼ばれた人物だと云う。
(※「蜷川の郷土史」の中の京都蜷川家「蜷川親正」氏の著作に記載されている。系図では良子の先祖の宇多天皇の中宮胤子の母列子が蜷川氏だった事を示している。)
『蜷川氏』は元々、「物部氏」の「宮道氏」であり、蜷川新衛門親当の7代前の蜷川親直の時に越中砺波、射水二郡の領主であり、一族には宇多天皇妃となり、醍醐天皇を産んだ「藤原胤子」が出ている。蜷川一族はその後も全国に拡がり、一族には徳川の旗本となり五千石を給された一族も出たと云う。
(※「紀良子=月海夫人」;足利義満の母、石清水八幡宮検校善法寺通清の娘。法号を洪恩院殿月海如光禅定尼という。 姉妹には後円融天皇生母の紀仲子と、伊達政宗 (大膳大夫)正室の輪王寺殿がいる。 )



「その他の蜷川地区の寺院と著名な武将の痕跡」
■「常福寺」→寺島牛之助の弟『小島甚助』のその後!!
浄土真宗本願寺派のこの寺院の四世「玄西」は婦負郡駒見郷の寺島備前守の子の小島甚助胤興で、兄の柴野城主寺島牛之助職定と共に佐々成政に与力して、長沢城や射水郡小泉城を守り、能登末森城で前田利家に敗れて兄の寺島牛之助は前田利家に臣従したが、甚助は西玄坊と改めて石動山天平寺の修験僧となり、後に常福寺西玄の弟子となったと言う。寺島牛之助の子孫は加賀藩で高岡町奉行、算用奉行等を歴任した寺島蔵人であり、現在もその住居跡は金沢市の観光地「寺島蔵人邸」として残っている。

■「鳳凰山興国寺」→『桃井直常』と『斉藤竜興』のその後!!
南北朝時代の武将「桃井直常」が創建したと伝わるこの寺には、桃井直常夫妻、長沢の戦いで亡くなった息子の直和の位牌が有り、その住職の中には織田信長に攻められて滅んだと伝わる「斉藤竜興」がこの地に落ち延びたと伝わる「月嶺浄円」と言う住職がいた。この人物は美濃稲葉山城が落城した時に秘かに越前朝倉、近江浅井氏を頼って落ち延び、永禄十二年越中に逃れて興国寺に身を隠し、次いで帰農して九右衛門と名乗り、次いで興国寺の住職となったと言う。この寺にはこの人物の念持仏の阿弥陀如来像が遺されている。


🌸🏯🐎《越中国五位庄の歴史》【飯尾宗祇】は【越中射水臣】の子孫「飯尾氏」?⇒ 「飯尾宗祇の高弟 蜷川新右衛門親当」と「越中蜷川氏」の「五位庄」の統治。

2021-04-14 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「越中射水臣」の末裔「飯尾宗祇」
越中射水臣は都に出て算博士三善氏の弟子になったが、やがて養子と成る。三善一族は鎌倉幕府で要職に就き、その一族から「飯尾氏」が分かれた。




「宗祇」は若くして「相国寺」で出家してやがて「連歌」の巨星と成る。越中砺波郡を統治したとされる「越中蜷川氏」の「室町幕府万所代 蜷川新右エ門親当」は「宗祇」の高弟で在り、応仁の乱で焼けた相国寺を離れて畠山氏の所領で蜷川氏が統治していた「越中五位庄」を訪れて1年余り滞在して幾つかの連歌を遺している。

【里の名のこんかきくけこごえの庄】宗祇











■室町時代「第三代将軍 足利義満」は「五位庄」を「相国寺」(※金閣寺)に寄進して縁者の「越中蜷川氏」に統治させたと云う。(※「蜷川村の郷土史」)
【足利義満の母の「月海夫人(紀良子)は宇多天皇と越中蜷川氏の祖先の宮道氏の娘の間に生まれた子供を祖先とする」】
「蜷川家文書」(※東京大学資料編纂所)には越中統治時代の古文書が残っている。「一休さん」で有名な「蜷川新右衛門親当」は連歌の「宗祇」の高弟子で有り、その時代に宗祇が五位庄に滞在した記録が残る。













◆「畠山文書」の「越中絵図」(大阪府羽曳野市資料叢書)には足利義満の家臣「室町幕府管領畠山満家」が六郡に分けたという古絵図が載せられている。この絵図の「越中国利波郡五位庄赤丸村」の「赤丸浅井城」には「畠山満家」の子供の「越中守護畠山持国」」の名前が見られる。




◆【「蜷川新右衛門親当」:智蘊(ちうん、生年不詳 - 文安5年5月12日(1448年6月13日))は、室町時代中期の幕府官僚、連歌師。俗名は蜷川親当(にながわ ちかまさ)、通称新右衛門、法名は五峰という。
室町幕府の政所代を世襲する蜷川氏の出身で、蜷川親俊の次子。子に親元、岩松明純室がいる。一休宗純との親交により広く知られる。(※wikipedia)】


【智蘊(チウン);(生年不詳~文安5年5月12日(1448年6月13日))は、室町時代中期の幕府官僚、連歌師。俗名は蜷川親当(ニナガワチカマサ)、通称新右衛門、法名は「五峰」という。
室町幕府の政所代を世襲する蜷川氏の出身で、蜷川親俊の次子。子に親元、岩松明純室がいる。一休宗純との親交により広く知られる。応安(およそ1370年代前半)の頃まで越中国太田保に在った。足利義教の政所代を務めたが、義教の死後出家、智蘊と号した。(足利義教は赤松氏に暗殺され、赤松の子孫は羽咋郡辺りの「加賀半国」の領主となる。)
和歌を「正徹」に学ぶ。正徹の『正徹物語』下巻「清巌茶話」は彼の聞書きとされている。
連歌では、1433年(永享5年)の「永享五年北野社一日一万句連歌」を初出として、多くの連歌会に参加。宗砌と共に連歌中興の祖と呼ばれた。連歌集に『親当句集』があるほか、『竹林抄』『新撰菟玖波集』に入集している。「宗祇」が選んだ連歌七賢の一人。
子の「親元」が記した『親元日記』には、智蘊と一休宗純の親交が記録されている。なお智蘊は、アニメ『一休さん』に登場する蜷川新右衛門のモデルとなったが、実際の一休と交流があったのは出家後の晩年である。
墓所は宮道氏の京都真如堂(京都市左京区浄土寺真如町)に、墓碑は蜷川氏の菩提寺である最勝寺(富山県富山市蜷川)にある。この辺りに蜷川城が在ったという。「最勝寺」は「蜷川新右衛門親当」の菩提寺。
現代のキックボクサー「ムサシ」はこの末裔と言われる。
(※「太田保」;太田保内蜷川郷3か村を含む136ケ村で、ほぼ旧の富山藩領が該当する。鎌倉時代の評定衆に越中三善系太田氏が居る。又、一族の中に「吉岡」と名乗った者がいた事から富山市蜷川の近くに吉岡村がある。太田保は古くは「京都祇園社(現在の八坂神社)」の庄園で京都の山科を出自とする古代氏族「物部氏」の「道道氏ミヤジ」が地頭に任ぜられて、その後はその子孫の「越中蜷川氏」が統治したとされ、滑川にも城を構えていたとされる。
又、鎌倉幕府評定衆のリストには三善氏と共に高岡市総持寺の千手観音像の勧進をした「斎藤長定入道藤原浄円」の名前も見られる。)
◆【物部氏のルーツ「越中国」※先代旧事記】
「宮道氏」が統治した越中の「祇園社庄園」

《先代旧事記》








(※「蘇我馬子」が聖徳太子の編纂された書籍を校正して作成したと伝わる「先代旧事紀」では、「物部一族」の歴史が事細かく記載されており、物部氏族は歴代の天皇の中宮を輩出して皇室とも密接な一族で在った事から物部氏についての記載が中心に成っている。「旧事紀」には、「聖徳太子」の妻が「蘇我馬子」の娘で在り、蘇我氏→聖徳太子→物部氏の関係が背景に在ったと見られる。その中でも高志の中つ国と呼ばれた越中国の「新川郡」の祖の「大新川連」が「物部氏族の祖」で在ると記載される事は注目される点だ。)
🔽「越中射水郡」の守山には「延喜式内社物部神社」が有り、この神社は加賀藩の祖の「前田利家」が金沢市の浄土真宗尾山御坊の跡地に勘請して越中氷見の阿尾城の「榊葉神社」と共に合祀し、【尾山神社】にしたという。
(阿尾城の城主菊池氏は肥後国菊池氏(藤原氏)の末裔で有り榊葉神社との由来は不明だが、前田利家に臣従して阿尾城の鎮守を差し出したのは政略的なものか?)
加賀藩前田家の「菅原」は、岡山県辺り美作国の管家党を発祥として物部氏の祖先「天兒屋根命アメノコヤネノミコト」、相撲の神「野見宿弥ノミノスクネ」、土器の神「土師臣ハジノオミ」の末裔とされ、「榊葉神社(祭神 天兒屋根命)」は古代氏族久米氏ゆかりの地美作国久米に鎮座して岡山県辺りの管家党の氏神で在った。「物部神社」は越中に遠征した北陸道将軍「道臣ミチノオミ」に従軍した軍事氏族の物部氏が祭った神社とされる。加賀藩の石川県や富山県には藩政時代には各地の神社で相撲が隆盛して、前田家ゆかりの地には「土器」の文化が残るのはその為か?




◆「天孫降臨の段」
 ・古事記--そのとき「天忍日命(アメノオシヒ)」・「天津久米命(アマツクメ)」の二人は、立派な靫(ユキ・矢を入れて背に負う武具)を負ひ、頭椎(クブツチ)の太刀を腰に着け、櫨弓(ハジユミ、強力な霊力が潜む弓)を手に取り、真鹿児矢(マカコヤ・同じく矢)を手鋏みに持って、天孫の先に立ってお仕え申し上げた。《アメノオシヒ命は大伴連等の祖、アマツクメ命は久米直等の祖である。》
👇「越中国利波郡赤丸村」には「大伴氏の祖先神」の「高皇産霊神」を祭る「延喜式内社赤丸浅井神社」が有り、この神社の山並みに有る「城ヶ平古墳」からは「天孫降臨」の時に大伴氏、久米氏の祖先神が携えたと云う【頭槌の太刀】等の膨大な武具が出土している。「大伴家持」は越中国司の時に幣帛を納めに参拝した「国幣小社延喜式内社赤丸浅井神社」がこの至近に立地している。







■「赤丸尋常小学校」に「永久保存」とされていた「赤丸村郷土調査」に拠れば、「明治二年に十村役五十嵐豊生が調査書上げし(内容について)、明治六年四月に親王塚に御札を掲げた」と云う。それに拠ると、
【後醍醐天皇第八の皇子八の宮殿下の塚なりと傳承す。永正拾 癸酉 年(今より四百年前)五位庄加茂村某の記せし古文書を得たるにより其全文を掲ぐ 腐食せる所多し
 「抑五位庄名具には五位吉岡の庄と號す 蓋し吉岡の本名委敷は東鑑にあり 往昔八の宮御遷幸有りてより以来五位吉岡の庄と申と續けたり 八の宮の事は小境大榮寺等の縁起等に有りといふ 然るに其昔へ紀州飯尾氏の一子出家して種玉庵宗祇法師と號す 常に風雅を宗とし多嗜事和歌又連歌にあり 行く名山田地を訪ねて〇〇小屋○○、就中文正應仁の頃立山剣峯遊歴の序て片々乎(*かたかたかな)として高錫を此庄にとばして民家に入り地名をとふに 主の男申しけるは是はこれ五位庄加茂村なりと 法師に曰く五位の庄名如何なるなる事の申あへけるに由来良久し 往昔八の宮當所へ御遷幸ましまして里の名に五位を許すとの仰せとありといふ 尚法師の問ひ申されけるは加茂村の儀如何と 主の曰く此加茂村は治る御代の昔の頃加茂の大社を此所に清し奉り分けて上下とし○○○の桂馬、地をひらき葵の祭都にも遠からず諸事面白待人に嗚呼人心平かならずして四海溲(*そう--細長く水をたらしてぬらす)治まらず終に兵火の属氏を印されて口惜しくも諸々の旧跡は只村名にのみ残されりといふ 法師頭をたれて言葉なし 久しくして出でゝ庭に立って且神明の旧跡を訪へば神木枝をれて春尚寒く清ふして金龍躍○嗚呼四神相應の地にも相近く風光盡すとて錫を○○の古木にかけて一夜神號を呪して○さる事尊し 然る夜浅ふして○○のこかげの音しければ里の名のこんかきくけこ五位庄といふ發句とならん 口すさみ宣へるに云々 永正拾 癸酉 年暮春  五位庄加茂村 某】

🔽南北朝時代迄続いた皇室庄園「越中吉岡庄」は室町幕府によって「幕府御糧所」とされ、「三代将軍足利義満」は「臨済宗相国寺」へ妻の菩提料として寄進した。この頃から「越中国五位庄」になっている。(※「東寺百合文書」)




■諸国を遍歴して連歌を広めた「飯尾宗祇」は五位庄に一年余り滞在して五位庄を愛して兵火にかかった旧跡を愛惜して上掲の歌を吟じた。上向田には宗祇を慕って塚が建てられ「宗祇塚」と呼ぶ。
今も赤丸村を中心として五位庄には連歌の前句を競う「舞句」という文芸が伝わり、各神社には奉納の掲額が掲げられている。

連歌は元々、神仏に対する法楽であり、連歌の場には本尊として天神や名号が掛けられており、連歌は仏の前で読経する事と同一の機能を有していた。織田信長を討つ前に明智光秀が連歌の会を開き「時は今 天の下知る五月かな」という発句を読んだのは余りにも有名。連歌は後に60日に一度巡ってくる干支が庚申の夜に寝ずに過ごす習慣の「庚申待ち」や、二十三夜の遅い月の出を待つ「月待ち」という習俗と繋がり、その晩を連歌や香や寺院の法会で過ごす習慣となり、多くの人達が集まって夜を過ごす習慣が広がったと云う。これを「法楽」という。地方から広がったこの習慣は京都に流入し、知識人や富裕層の習慣になったと云う。
赤丸の浅井神社にも夜遅く団体で参拝する習慣が有り、浅井神社宮司はこれを「十六夜参り」と呼んでいたと云う。
(参考)「宗良親王の塚」と云われている場所は全国に何か所か有る。歴史書にはこの「親王塚」は浅井神社を創建されたと伝わる「元正帝二宮の塚ではないかと思われる」と記載されるものもある。二宮とは文武天皇の第二子で叔母の元正天皇の時代に東国33か国の統治を任せられたと浅井神社由緒に伝わる石川朝臣広成を指す。この一族と思われる石川一族の墓のみが延喜式内社赤丸浅井神社の神域に神職川人家と一緒に残されている。又、赤丸村の赤丸城の麓には「八の宮屋敷跡」と伝承されている場所も有り、これは「宗良親王」の邸跡と推定され、その付近の「極楽谷」には宗良親王が創建された「極楽寺」が在ったと伝わる。(※「越中宮極楽寺由緒」)



■「五位庄」に連歌の「宗祇」が滞在した背景!!
越中蜷川郷(富山市蜷川)に発祥したとされる蜷川氏は、室町幕府の重臣として射水郡、砺波郡を所領としたと云う。「砺波郡五位庄赤丸村」には「五位庄53ケ村総社 延喜式内社赤丸浅井神社」が在り、「赤丸浅井神社」「川人山鞍馬寺」で蜷川郷に最勝寺を開いた「亀阜豊寿」が赤丸住藤原真家の父「岩松氏」の十三回忌法要を営んだ記録が在る。(※「富山県史 中世」)
現在も「赤丸浅井神社」や寺には古くから奉納されて来た「連歌」の「舞句」と呼ばれる上、下の句を記した「掲額」が掛けられており、連歌の文化を今に伝えている。
(※福岡町加茂村には連歌の石碑が保管されている。)



🔴🔹 南北朝時代の【越中国郡統治絵図】⇒守護畠山氏の直轄地「赤丸浅井城」と「赤丸浅井神社」での法要の記録!!

2021-04-14 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●南北朝統一後の「越中国」は「八郡」 に分かれ、「利波郡」のほぼ全域が「五位庄」と成り、小矢部川を境に「五位の西庄」と「五位の東庄」に分かれる。「東寺百合文書」に、高岡市中田から砺波市にかけて在った「般若野庄」の中に「五位の東庄」が含まれた事が記載され、又、福野町野尻が「五位庄野尻」として記載される。南北朝を統一した室町幕府第三代将軍「足利義満」は、南朝の後醍醐天皇の庄園「吉岡庄」を接収して(※南北朝末期に「宗良親王」が「五位庄」と改名⇒《宝永誌》)、「五位庄」を足利家御粮所とし、室の日野業子が亡く成ると菩提を弔う為に自らが創建した「相国寺」に寄進している。(※「粮所」;軍の兵糧を賄う庄園)








◆室町時代の「越中八郡絵図」


◆「足利義満」が統一する前には、赤丸浅井神社を郷社とする「後醍醐天皇」の庄園「越中吉岡庄」で在った。


◆江戸時代の「越中四郡絵図」


■「畠山文書」には、その当時の統治状況も記載され、「赤丸浅井城」は「畠山持国」、「福満城」・「木舟城」は「石黒氏」と成っている。又、その他の地域についても詳しく記載される。

■「足利義満」は、母方が「宇多天皇」と「宮道氏 ミヤジ」の子孫に当たる事から、「宮道氏」の子孫に当たる「越中蜷川氏」を政所代に任じ、越中の「利波郡」・「新川郡」を統治させた。「蜷川氏」の菩提寺「最勝寺」(※富山市蜷川⇒富山インター近く、富山県健康増進センター後ろ)を創建した「亀阜和尚」は、「赤丸浅井神社」・「川人山鞍馬寺」で「 赤丸村在住の藤原直家」 が父の法要を「明応四年」・「明応八年」に営んだ事が「富山県史中世」に記載されており、この「父」は「川人山鞍馬寺」を再建した人物で在るとその法要の香語に記載されている。




■「畠山文書」の絵図を見ると、「赤丸浅井城」は「越中守護畠山一族」の直轄の城と成っている事から、この法要の主催者は「畠山一族」と見られる。「能登畠山氏」は「源氏」だが、「応仁の乱」の時の「畠山義就」の子の「修羅法師」は、興福寺門徒で藤原氏の武将「古市胤栄」(※茶道小笠原流元祖)に預けられて育った。
恐らく、「藤原直家」とは、「応仁の乱」で悪人とされて追われた父の「畠山義就」との関係を伏せて、秘かに畠山氏直轄地の赤丸村に隠れ住んだ「義就」の子供「畠山修羅」の「子供」と見られ、父の「畠山修羅」が若くして亡く成った為に、「藤原直家」を名乗ったものと見られる。(※「大乗院寺社雑事記」)





🔘「越中射水臣」の系図と子孫達!! ⇒知られざる古代越中氏族の活躍。鎌倉幕府の三善氏、室町幕府の飯尾氏と「越中五位庄」。

2021-04-12 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●越中の古代豪族「利波臣」は東大寺大仏造営の時に「米五千石」を寄進して国司待遇の「員外介」に就任した事でも有名だが、同族の「射水臣」に付いてはその子孫の「三善氏」が鎌倉幕府で重きを成し、次いで、その末裔の「飯尾氏」は室町幕府で重きを成している。特に室町幕府では越中の「蜷川氏」と越中射水臣の末裔に当たる「飯尾氏」が政権の中枢に在った。











・「後白河上皇」の時代には「新川郡祇園社領(現在の八坂神社)」が「射水宿弥」によって統治され、「蓮華王院領(三十三間堂領)利波郡吉岡庄」は「吉岡成佐」が地頭として見られる。この「吉岡成佐」に付いては、「越中蜷川氏」の一部が「吉岡」と称して「吉岡村」に住んでいた事から「蜷川氏」の一部と推測される。室町時代に成ると「新川郡」と「利波郡」は「越中蜷川氏」の知行地に成っている。






・南北朝末期と足利義政の時代には「越中吉岡庄」が「賀茂御祖神社」(※下鴨神社)の庄園として見られる。








・「室町幕府第三代将軍足利義満」は「越中五位庄」を室の日野業子の追善料として自ら創建した「相国寺」に寄進したが、その二年後には義満も逝去している。その後は、「越中五位庄」は足利家菩提寺の「等持院」・「等持寺」に寄進されている。この時に、「越中五位庄」は「守護畠山満家」に預け置かれて、「越中蜷川氏」が政所代として「新川郡」と「利波郡」を知行されたと言う。又、射水郡阿努庄(※氷見市)に付いても「蜷川新右衛門親当」の書状が遺されており、「足利義満」の近臣として越中の統治を担当していた様だ。(※「蜷川の郷土史」、「越中郷土史」、「蜷川家文書」)

この時期に「蜷川新右衛門」の連歌の師である「飯宗祇」が「越中五位庄」に一年余り滞在して【里の名は こんかきくけこ ごゑのしゃう】の歌を遺している。






・鎌倉時代に後鳥羽上皇の請願で造像された黄金の「木造千手観音座像」(※国指定重文)は南北朝の騒乱の時に女人高野「河内金剛寺」から後醍醐天皇の庄園「越中吉岡庄」(※赤丸村)に在った「総持寺」(※現在は高岡市関町)に避難させられた。(※「慶派仏師 幸賀 作」)その後、「足利義満」の時代(※応永九年頃)に国主から赤丸村を去るように命ぜられ、利波郡の一部の六渡寺村辺りに動き、「浜総持寺」として「守護畠山満家の三回忌法要を営んだ」とされる。(※「大須観音文書」名古屋市→射水市松山学芸員論文、「畠山家文書」羽曳野市叢書、「総持寺由緒」高岡史料)




■一般的に説明されている系図では、越中射水臣から利波臣が派生したとする記載が在る。滋賀県石山寺所蔵の「越中国官倉納交替記」(※高岡市中央図書館に写本在り。)では、古代豪族の「利波臣」と共に「射水臣」が越中国大領として見え、郡司にも登用されていた様だ。この両氏族は「孝元天皇の子孫の武内宿弥の子孫」とされる。
(※古事記では「孝霊天皇の子孫の高志利波臣が利波臣の祖」とされて、異なった記載に成ったいる。)

■『射水臣』を出自とする「三善為康」は1066年(治暦2年)に18才で上洛し、算博士の三善為長に師事してその養子になった。少内記、算博士、諸陵頭を歴任し、『朝野群載』等の著作を残して、阿弥陀信仰に篤かった為に『拾遺往生伝』『続拾遺往生伝』等も著した。1117年(永久5年)に月食論争をしたとされる。(※「富山県の歴史散歩」久保尚文、苦ケ竹亮介、松山充宏他共著)
しかもこの子孫は鎌倉幕府で重きを成し、「評定衆」にも見られ、一方、越中では魚津から滑川市、富山市、立山町を含む広範囲の祇園社(※明治から八坂神社)の庄園「太田庄」の庄官として「射水宿弥」の署名が在る文書が「祇園社記」に遺されている。この庄園は後に越中太田庄を所領とした越中蜷川氏の祖の「宮道氏」が寄進した庄園で在った。
室町時代に入ると三代将軍足利義満の側近として有名な「政所代 蜷川新右エ門」の一族、越中蜷川氏が越中の新川郡と砺波郡を統治したとされる。(※「蜷川の郷土史」)
この時期に越中五位庄は高岡市の国吉郷から福野町の野尻郷迄拡がっており(※「斯波義郷やなた某書状案」東寺百合文書)、この時期に著名な連歌の師匠「飯尾宗祇」が畠山氏を訪ねて越中に来たり、五位庄で「里の名を聞けばこんかきくけこごえのしょう(※五位庄)」の歌を遺している。この「飯尾氏」は様々にその出自が語られるが、射水臣から養子に入った算博士の「三善氏」の系図から派生している。
又、越中蜷川氏一族の「蜷川新右エ門」は「飯尾宗祇」の連歌での高弟に当たる。

■【駿河飯尾氏】
本姓 三善朝臣、家祖 飯尾倫忠、出身地 山城国、主な根拠地 阿波国麻殖郡飯尾村、駿河国(戦国期)著名な人物 飯尾連竜、
本姓は三善氏。三善倫忠の代に飯尾姓を名乗った。元々は室町幕府の奉行衆の家柄であったが、飯尾長連の代に駿河に下り、今川氏譜代の家臣となった。戦国時代、飯尾賢連は今川氏親に仕え、引馬城(後の浜松城)主となった。賢連の子乗連は今川義元に桶狭間の戦いで従軍し、討ち死にした。乗連の子飯尾連竜は初め義元の跡を受けて家督を継いだ今川氏真に仕えたが、三河の徳川氏に内通し、今川氏から離反した。その後、今川氏真から和睦と偽った召喚に応じた連竜が誅殺されたために、駿河飯尾氏の嫡流は断絶した。(※Wikipedia)

■「室町幕府奉行人 飯尾氏から 高岡市国吉の【信光寺】に宛てた文書」



■母方に越中蜷川氏の末裔の「紀良子」を持つ「足利義満」は、南北朝の合一を果して後南朝から神器を北朝に引き継ぎ、相国寺や舎利殿金閣(※後に鹿苑寺金閣)を創建して日本国王を名乗り勢力を誇示したが、室の「日野業子」の追善料として、「越中五位庄」を「相国寺」に寄進した。(※「万山編年精要」・「相国考記」)
その後も「足利義持」は「五位庄の半分」を足利家菩提寺「等持院」に寄進して、後に半分を「等持寺」に寄進している。又、この時期に短期間、「京都下鴨神社」の庄園として寄進された記録も在る。(※「賀茂御祖神宮神戸記」)
「足利義満」が直接庄園とし、能登守護畠山満家に預け置かれた「五位庄」(※「富山県史中世 」)を越中蜷川一族の「蜷川新右エ門親当」が統治して、その連歌の師匠の「飯尾宗祇」が五位庄に滞在した事から、越中五位庄は射水郡太田庄(※祇園社領)と共に室町幕府の越中統治では中心的な庄園で在ったと見られる。又、射水郡についても代官を神保氏に任せていたが、年貢の未納が度重なり、遂には蜷川新右エ門が直接統治した記録も「蜷川家文書」(※東京大学資料編纂所DB)に見られ、蜷川新右エ門が越中全土を統治したものと見られる。



「越中蜷川氏」と「室町幕府第三代将軍足利義満」の関係


(※「斯波義郷」;室町幕府守護大名斯波氏第八代。元々は相国寺の僧籍に在り瑞鳳と称す。相国寺の鄂隠和尚の弟子。永享5年(1433年)11月に兄義淳が重病に成った為に、室町幕府6代将軍足利義教の命により還俗して斯波氏の家督を継ぐ。足利義教から偏諱「義」を賜わり「斯波義郷」と名乗った。永享6年(1434年)2月より室町幕府に出仕して越前・尾張・遠江の守護職を継承した。)

★(※この時期に高岡市の「総持寺」と見られる黄金の千手観音像を祀った「浜総持寺」で、「畠山満家の三回忌」が舞楽を交えて盛大に挙行されたとする記録が、射水市松山学芸員に拠って名古屋市大須の大須観音の古文書から発見されている。「総持寺」は元々、五位庄赤丸村に在ったが、この時期に戦乱の為か一時期、浜近くに移っていた為に「浜総持寺」と呼ばれていたのではないかとされる。)

■「応仁の乱」と「室町幕府第十代将軍足利義材(義尹・義稙)」
⇒「足利義材」の越中逃亡と「右筆方奉行人 飯尾之秀 、飯尾貞運」の就任

足利義政の後継を巡って争ったとされる応仁の乱を経て足利義材は第10代将軍に就任した。しかし、その後は管領細川政元と対立して明応2年(1493年)には将軍職を廃されて幽閉された。(※明応の政変)
しかし、脱出して越中国に逃れて射水市放生津に臨時政権を作り、次いで越前国へ逃れて諸大名の軍事力を動員して将軍復職を目指しながら逃亡生活を送る。逃亡中には「義尹」と改名。周防国大内義興の支援を得て永正5年(1508年)に京都を占領して将軍職に復帰し「義稙」と名乗る。しかし、大内義興が周防国に帰国すると管領の細川高国(細川政元養子)と対立して大永元年(1521年)には細川晴元・細川持隆を頼って京都を出奔して将軍職を追われ、大永3年(1523年)には逃亡先の阿波国で死去。
この時に越中射水氏の子孫に当たる「右筆方奉行人 飯尾之秀 1494~1508年在任 」と「右筆方奉行人 飯尾貞運 1501~1508年在任」が、逃亡中の「足利義尹」の側近の「右筆」で在った事は逃亡先を越中に決めた事とも関係深いと見られる。又、再び京都から逃れた大永元年(1521年)からは再び「飯尾之秀」を右筆として側近に置いている。

・「室町幕府主要奉行人」⇒飯尾氏、松田氏、斎藤氏、諏訪氏、清氏、治部氏、布施氏、中沢氏等
・「足利義材 右筆方奉行人」⇒沙弥慈倫、諏訪長直、飯尾之秀、斎藤基雄、飯尾貞運、松田英致、斎藤元躬、斎藤時基、
(※「室町幕府文書集成」思文閣出版)

🌔越中国人【蜷川新右衛門】と【越中五位庄】⇒ 足利将軍家庄園「五位庄」と「相国寺」(金閣寺)、「等持院」、「等持寺」!!

2021-04-12 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


■「越中蜷川氏」は物部氏末裔で、京都の「宮道氏ミヤジ」から出て、越中の祇園社領太田保(富山市太田~魚津辺り迄)の地頭として派遣され、現在の富山市蜷川、滑川等に居城を構えていたが、室町時代になると、「三代将軍足利義満」の縁者として室町幕府の要職「政所代」に就任して、「越中国新川郡・利波郡」を統治した。
この「利波郡」は、「畠山文書」に記載される小矢部川西から西山にかけての位置で、「畠山持国」の居城で在った「赤丸浅井城」の在った「五位の西庄」の一帯の「利波郡」で在ったと見られる。
(※富山市太田に「吉岡村」が在り、蜷川氏の一部が「吉岡」と名乗った事から名付けられたと云う。一方、「越中吉岡庄」は高岡市福岡町赤丸周辺の「後白河上皇」から「後醍醐天皇」迄続いた「上皇、天皇」の庄園で在り、国立歴史民俗博物館の庄園データーベースにも掲載されている。)
















【越中絵図】
(※「畠山文書」羽曳野資料叢書)に掲載される。)


【羽曳野市史】




■皇室庄園の【越中吉岡庄】は、「南北朝時代末期」から【越中五位庄】と改名され、「足利義満」が「相国寺」へこの庄園を寄進した時の東寺の古文書には、明確に【五位庄】と記載されている。
(※「東寺百合文書」)




■「室町幕府第三代将軍足利義満」は南北朝を統一すると、大覚寺統の南朝に伝えられた「越中吉岡庄」を室町幕府御粮所とした。やがて、この庄園は「五位庄」と改名されて、義満が創建した「相国寺」(※塔頭寺院鹿苑寺金閣)の庄園として寄進された。








■室町幕府将軍足利義教を自宅に招いて暗殺した播磨国(兵庫県)を領地とした源氏赤松氏満祐は追討されて家は断絶したが、その赤松残党は、後南朝の皇子を騙し討ちして、南朝に奪われた天皇の神璽を取り返し、満祐の甥の「赤松次郎法師丸」(三歳)を戴いて御家再興を果たした。その恩賞として赤松氏は加賀半国(※石川郡、河北郡)他を賜ったが、前領主の加賀富樫氏の抵抗に悩まされた。加賀富樫氏は鎌倉時代の「承久の乱」で幕府側として戦い、その後は本家の加賀林氏に代わって加賀に勢力を伸ばし、足利幕府でも重臣となっていた。(※「相国寺塔供養記」)
一方、越中では越中石黒氏が「承久の乱」で敗れた後に、富山市の太田保(※旧の富山市域)を領地とした越中蜷川氏が勢力を拡大していた。蜷川氏は「足利義満」の母の紀良子(※月海夫人)の先祖に、「宇多天皇」の中宮胤子を輩出して、その母の列子は蜷川氏から嫁いでいた事から、天皇家縁者として勢力を拡大して足利幕府の重臣伊勢氏とも縁組して室町幕府政所代を勤めた。又、「三代将軍足利義満」は南北朝の合一を果たし、五代前の宇多天皇の後胤として「日本国王」を名乗り、鹿苑寺金閣を創建する等権勢を誇った。この足利義満が自ら創建した「臨済宗相国寺」に代々天皇家庄園として続いた「越中五位庄」を寄進して、その統治を越中蜷川氏に委ねた事から、「五位庄」は将軍足利家と密接な関係が続いた。「相国寺」の住職が書いた「蔭涼軒日録」には、度々、「五位庄」が登場している。
しかし、長禄元年(1457年)頃には加賀で富樫氏と赤松氏が争い、越中でも代官神保氏が年貢を納めない等、幕府の威信が緩んでいた様で、この頃、隣接の越中五位庄では年貢が納められずに将軍が直接介入する事態になっていた。


■応永12年、「足利義満」は「五位庄」を室の「日野業子」の追善料として自らが創建した「相国寺」に寄進した。(※「万山編年精要」、「相国考記」)



■【明智光秀】に従った【越中蜷川一族】と赤丸村!!
「物部氏」、「宮道氏」の末裔「蜷川新右衛門親当」は、「将軍足利義満」の縁者・「政所代」として越中新川郡、利波郡を知行され、「室町幕府政所」の伊勢氏(伊勢平氏)と組んで、幕府の中枢を担った。



▼【越中五位庄53ケ村総社 延喜式内社赤丸浅井神社】は南北朝時代末期迄の「吉岡庄」、室町時代以降の「五位庄」の中心施設で、「郷社」で在った。




蜷川氏は新川郡太田の蜷川城、滑川城を拠点として、利波郡では、「越中守護畠山持国」(在京)の代理として守護代を勤め、神保氏を代官にして越中西部を統治したと見られる。赤丸村の「川人山鞍馬寺」で「赤丸村在住の藤原直家」が「蜷川最勝寺住職亀阜豊樹」によって父親の法要を営んだ記録を、「守山城神保氏」の一族の「東海宗洋」が記録している。
(※「富山県史中世」)



応永22年(1415年)10月には「足利義持」が「五位庄」の半分を「京都等持院」に寄進した事が富山県史中世編に記載されている。「守護畠山満家」が治めたが、実務上は政所代の越中蜷川郷を拠点とした「蜷川新右エ門親当」が勤め、代官には神保氏が任じられた。(※「蜷川家文書」)
★「蜷川親当」は系図では「新佐衛門」と記載されるものが在り、その後の蜷川氏は代々「新右エ門」を名乗っている。
(※「蜷川新右エ門親当」は「一休さん」との親交が在り、連歌の「飯尾宗祇」の高弟で在った。)
★この時に五位庄の半分は「等持院」に寄進されたが、その後の記録には「等持院、等持寺庄園」として登場する事から、残りの半分は等持寺に寄進された様だ。



■赤松氏が加賀半国を知行された頃、「越中五位庄」は足利家菩提寺の「等持寺」、「等持院」の糧所で在ったが、長禄三年には年貢が納められ無く成り、長禄四年には業を煮やした「等持院竺雲和尚」と「等持寺笑雲和尚」が「越中五位庄」を直接統治したいと「将軍足利義政」に願い出た。「蜷川家文書」にも政所代の蜷川新右エ門が重ねて代官神保氏に督促しているが、年貢は納められなかった様だ。
しかし、「将軍足利義持」は代々直接統治を認めていないとして之を拒否している。
(※「蔭涼軒日録」長禄四年、1460年)



🔴 藤原摂関家長者・左大臣「藤原頼長」の庄園『吉岡庄』考 →「吉岡庄地頭成佐」とは? 鞍馬寺との関係は?

2021-04-12 | 富山県高岡市福岡町赤丸村




■「延喜式内社赤丸浅井神社」は「五位庄五十三ケ村総社・郷社」として五位庄の中心施設で在った。(「五位庄」は南北朝時代迄は「後院領越中吉岡庄」と呼ばれる皇室の上皇領で、保元の乱で敗れた藤原氏摂関家長者藤原頼長の庄園を後白河上皇が皇室領としたもの。)







「川人山鞍馬寺」(後の法莚寺)


■「吾妻鑑第七巻」の「文治三年三月小二日」の項に、「越中吉岡庄の地頭の成佐」が不法を働いたので「後白河上皇」の近臣の「吉田経房卿」から「源頼朝」に対して早く罷免して交替させて欲しいとの申し状が届いた事が記されている。「越中吉岡庄」は、当時は藤原氏長者の藤原頼長領から「保元の乱」の戦後処理として没官され、「後白河上皇」の「後院領吉岡庄」になっていた。
【※「吾妻鑑第七巻 文治三年(1187年)三月小二日甲辰。越中國吉岡庄地頭成佐不法等相累之間。早可令改替之由。仍則被献御請文。
 去月十九日御教書。今月二日到來。謹令見候畢。越中國吉岡庄地頭成佐事。任御定。早可令改定候。但彼庄未復本之間。御年貢不式數之由を。成佐申之候き。重相尋候而可令改他人候也。以此旨。可令洩達給候。頼朝恐々謹言。」】







■この結果、「吉岡庄の地頭成佐」は罷免されたらしい。しかし、この「成佐」については福岡町木舟城の石黒氏について記載された「貴船城古今誌」に「福岡町の大滝地区はその昔、大竹地区と呼び、吉岡庄の地頭成佐が開発した」事が記載されている。この「吉岡庄の地頭成佐」についてはその素性がハッキリしない。
元の領有者「藤原頼長」の側近で儒士の「藤原成佐」という人物が居る。久安六年(一一五〇年)に「藤原頼長」は摂関家藤原氏の氏長者と成っているが「藤原成佐」は翌年の久安七年(一一五一年)には四十五歳で没しているち。

■この文書が源頼朝から提出された文治三年(一一八七年)迄は36年もの隔たりがありこの人物は該当しないだろなう。
更に調査すると、天武天皇高市親王の子「長屋王」の子孫は「高階」と名乗ったが、その子孫の中に「藤原道長」に仕え「越中守」であった「高階業遠」(965-1010年)の子に「高階成佐」がいる。しかし、越中吉岡庄で地頭成佐が問題となったのは1187年だからこの「高階成佐」も「吉岡庄の地頭成佐」と同一人物ではないだろう。

■《※「藤原道長」の兄、藤原道隆の妻は高階貴子である。その子の定子と道長の子は何れも一条天皇に嫁している。一条天皇は在位中「川原左京」(当時の河原町の左京大夫--藤原道長か?) を赤丸浅井神社に「蝗害防止祈願」の勅使として遣わし、浅井神社の左右に一対の桜をお手植えされたと云う。その桜は昭和初期まで巨大な桜の木となって生き続けたと云う。(その桜の木の写真は現在も浅井神社拝殿に掲額されている。)
※足利氏の下で権力をふるった高氏は公家の高階氏の分かれで、成佐(なりすけ)という者の代に下野に土着して武士となった。成佐の子は惟章(これあき)と言ったが子供がいなかった為、八幡太郎義家の孫の惟頼(これより)を養子に迎えて家を継がせた。惟頼の兄弟の義重は新田氏の、義康は足利氏のそれぞれ祖となった。高氏はその系譜からすると新田氏や足利氏とは兄弟の家筋という関係である。
「高階業遠」の妻の父は「在原業平」である。高階業遠から5代目には後白河上皇の寵妃の高階栄子(1151-1216年、 丹後局)が出ている。その第6皇女の覲子内親王(きんしないしんのう)【※養和元年10月5日(1181年11月13日)- 建長4年6月8日(1252年7月15日)女院号は「宣陽門院」と云う。建久3年(1192年)1月に父の後白河院から長講堂およびその附属領(長講堂領)をはじめとする広大な所領を譲渡され後白河院は直後の同年3月に崩御された。
「宣陽門院」は建久6年(1195年)に上洛した源頼朝・北条政子夫妻から拝謁を求められる等権勢を誇ったと云う。又、後鳥羽天皇の皇子の雅成親王を養子とし、関白近衛家実の娘の近衛長子(鷹司院)を養女として、後堀河天皇のもとへ入内させた。後白河上皇から伝領した長講堂領(後白河上皇創建)は承久の乱の後、一旦鎌倉幕府に没収されたが翌年には返還された。》

■「越中吉岡庄」は後白河上皇領であったが、三十三間堂で有名な「蓮華王院」に寄進されており、すぐ近接地の富山県と石川県境の「石動山」は後白河上皇の「長講堂領」になっており、後にはこの地も「丹後の局」の娘の「宣陽門院」に譲られたとみられる。
母の「丹後の局」は「源頼朝」とも親交が強く、後白河上皇が安徳天皇の後に「後鳥羽天皇」を立てたのは「丹後の局」の進言によるものと云われる。
後白河上皇側近の信西入道と平清盛により「保元の乱」の戦後処理が行われた。「信西入道※藤原通憲」は藤原南家の文章博士の系統に生まれ、「高階業遠」の後の4代目に当たり、大学頭の祖父を持っていたが、父親の早い死によって高階氏に養子に入れられて文章博士としての出世を絶たれた。これによって系統ではなく実力で這い上がるしかなかった通憲は後白河上皇の近臣として権力を持つようになった。「保元の乱」の後、越中吉岡庄は「藤原頼長」から没官されて後白河上皇の庄園「後院領」となり、「左大臣藤原頼長」は殺された。この時に戦後処理をしたのは高階一族の信西入道であった。その後、平治の乱で信西は殺され、源頼朝が政権を持つと高階氏は「丹後の局」を介して源頼朝と近づく。越中吉岡庄で源頼朝が「成佐」を地頭に任命し、「年貢の未納が起こったのは未だ災害から復興していないから---」と「成佐」を弁護する様な文書を後白河上皇側に提出している所から、地頭の成佐は源頼朝にとっても配慮すべき人物だったのだろうか?

■鳥取県は昔、因幡(稲葉)の国と呼んだ。高草郡には延喜式内社倭文神社(シトリジンジャ)が有る。この神社は京都の『上賀茂神社』の競馬の儀式で1番に発走する馬を献上する事が決められている「倭文郷」に有った。因幡の国にはこの他に「吉岡保」等が鎌倉時代に成立し、後の室町期に「青蓮院門跡領」に寄進されて「吉岡庄」になった庄園がある。「青蓮院門跡」は鳥羽法皇の第7皇子の「行玄」を第一世とし、第3代「慈円」(藤原兼実の弟)は「愚管抄」を著した人物である。
(※藤原兼実・慈円の父の藤原忠通の弟は「越中吉岡庄」を領有した「藤原頼長」である。)

■越中では、白河上皇の時代(1090年)に高岡市福岡町赤丸周辺の「越中吉岡庄」が『上賀茂神社』の荘園となり、富山市呉羽から下村にかけての「倉垣荘」が『下鴨神社』の荘園になった。下村の加茂社では現在も「やぶさめ」の神事が行われ、往時の繁栄を伝えている。時代は下って、1348年にはこの「倉垣荘」は「吉岡某」により庄役を怠り横領されたと云う。(※「富山県大百科事典」富山新聞社版)
一方、「越中吉岡庄」は短い期間の様だが南北朝の末期に再び、「下鴨神社」の荘園になったと云う。



源頼朝は「上賀茂神社」の競馬の儀式で因幡(イナバ;元、稲葉国造が支配)の国「倭文郷」から献上した馬を一番に、二番は加賀国金津荘(羽咋地方)から献上した馬を走らせる様に「下文」を下している。この「倭文郷」の在る「因幡の国」を拠点とした「吉岡」と名乗る地侍が勢力を持ち、文明6年(1474)頃には「吉岡左近将監」が、鎌倉寺領という口実で「吉岡庄」(吉岡保)を領有した為に青蓮院門跡雑掌から訴えられている。「鞍馬寺文書」に拠ると、この「吉岡庄」は室町幕府の「三代将軍足利義満」が「鞍馬寺」に寄進した土地だと云う。「越中吉岡庄」も「足利義満」により義満が建立した「相国寺」に寄進されている。この因幡国の地侍の吉岡一族は越中吉岡庄を追われた吉岡一族だろうか?

■■全国各地に【吉岡】と云う地域が在った。富山県にも、「氷見市吉岡」や「富山市太田」に「吉岡村」が在った。
古くから富山市から魚津市にかけて拡がっていた京都の「祇園社」の庄園を統治していた「宮道氏」の後裔の「越中蜷川氏」は富山市蜷川郷や滑川に居城を構え、室町時代には「足利義満」の外戚として越中の新川郡・利波郡を統治したと云う。「宮道氏」は京都山科を本貫地とした氏族で在り、この一族の中には「吉岡」と名乗る人物が有り、【「蜷川」の本家は「吉岡」で有る】と記載された文書も残っており、「吉岡庄」の地頭をしていた一族として「吉岡」と名乗った可能性がある。富山市太田保の蜷川郷の近接地に「吉岡村」が在り、この村は蜷川氏一族の「吉岡」と関連していた様だ。

▼近年迄、学会ではこの太田保の「吉岡村」が「越中吉岡庄」だとする誤った意見が在ったが、【「越中吉岡庄」は京都の賀茂神社の庄園に成っていた時期が在り、吉岡村には「賀茂神社」の痕跡が無い事から、「越中吉岡庄」は高岡市福岡町赤丸周辺の「吉岡の庄」・「芦岡の庄」として伝わった地域で在る。】と2014年に「国立歴史民俗博物館」は確定している。




■「後白河上皇」の近臣であった「信西入道」が藤原氏から高階家に養子に入っている所から、藤原氏と高階氏は相当に近い間柄であり、それぞれが「越中吉岡庄」に強い繋がりを持つ。しかも何故か「賀茂神社」の社領には「吉岡」と名乗る集団も絡んでいる。しかし、富山県以外に「吉岡成佐」の記録は見当たらない。昔は代々、同じ名前を襲名していたから、あるいは時代が離れた同名の人物がいたのかも知れない。
京都の「鞍馬山」で「源義経」に剣法を教えたと伝わる天狗の化身と云われた「鬼一法眼」はその姓を「吉岡」と呼び、その京八流(吉岡流)を継いだのは宮本武蔵と戦った吉岡清十郎、吉岡伝七郎と云われ、「吉岡流」は足利家の剣法指南の名門で在ったと言う。従って、著名な「鬼一法眼」の吉岡家が各所に荘園を持っていた可能性も有る。「吉岡家」は京都で長く染師もしていたと伝わり、赤丸浅井城の背後には「麻畑」と称する地名が残っている事から、麻布の染色も行われていたものだろうか? 「五位庄」は室町時代には足利家の直轄地となり、京都「相国寺」や「等持院」に寄進されていた足利家とも密接な荘園である。 五位庄赤丸村の浅井神社周辺は、京都鞍馬寺の分院を勧請した「川人山鞍馬寺」が在った「鞍馬寺」と云う地名であり、「赤丸浅井神社」も明治時代まで「川人山鞍馬寺」(※カワドサンアンバイジ) と呼ばれる両部神道の寺院であったから、あるいはその昔はこの吉岡庄も吉岡家の荘園で有ったものか? 「吉岡」と名の付く庄園は越中に三ヶ所、全国に四ヶ所あり、「吉岡保」も二ヶ所(その内、因幡・高草 は後に吉岡庄になる。)ある。因幡国(高草)の「吉岡庄」は鞍馬寺領となっており、越中吉岡庄の「川人山鞍馬寺」は京都から勘請されたと云われ、住職は「鞍馬」と名乗っている。何れも京都の鞍馬寺との関係が強い庄園であり、「吉岡」は京都鞍馬寺と関係が深い名前であることが窺われる。

■「京都鞍馬寺」を建立したと云う「藤原伊勢人」
「赤丸浅井城」を居城にした「越中吉岡庄」にはこの「京都鞍馬寺」が勘請され「川人山鞍馬寺」と称した。



■「川人山鞍馬寺」本尊の「富山県指定文化財 釈迦如来像」は城端の善徳寺を経由して現在は「浄土真宗井波別院」の客仏になっている。この仏像は白山信仰の流れの仏像とされている。又、もう一体の鎌倉時代製作の「釈迦如来座像」は高岡市福岡町の「林照寺」に祀られている。








■「越中吉岡庄」(後の五位庄)については「義経記」で義経が奥州下りの際に立ち寄り、「二位の渡し」で検問を逃れる為に弁慶が義経を打擲する場面が出てくる。これはあの有名な「勧進帳」の名場面の原作である。「延喜式内社五位庄53ケ村総社赤丸浅井神社」には「義経と弁慶」の巨大な奉納額が2面かけられており、義経主従との関係が強く意識されてきた歴史がここにも窺い知る事ができる。赤丸村では「吉岡鬼一法眼」の「吉岡」の地名と弟子の「源義経」の足跡が重なっていたのだろうか?  当時の「越中吉岡庄」は「後白河上皇」の荘園であり、小矢部川河口の伏木港と近い石川県境の「石動山」も「後白河上皇」の勅願寺で、数千人の僧兵を抱える越中の山伏を統括する巨大寺院で在ったと伝わり、「源義経」が遠回りをしても参詣したと云われる福井県大野市の「平泉寺」は奥州の藤原氏と密接な白山山伏の寺院であり、その九頭竜川下流の福井県吉田郡に展開した河北(河合)荘は、最大の義経の後援者と云われた「後白河上皇」の皇子の「守覚法親王領」で有った。この福井県から富山県に至る北陸道は、平泉寺、白山山伏、立山山伏、越中石動山山伏と山伏のエリアであり、この修験道川人山鞍馬寺の在った後白河上皇庄園の「越中吉岡庄」も義経主従にとっては安全地帯だったのかも知れない。

■「越中吉岡庄」の地頭として「吾妻鑑」に掲載され、京都の木舟神社を祭っていた福岡町大滝地区を開発したと伝わる「吉岡庄地頭成佐」は「越中吉岡庄」を頼朝から追われて何処に移ったものか?「吉岡」とは何者なのか? あるいは、藤原氏の荘園の「吉岡庄」の地頭であった為に、「吉岡成佐」と呼ばれていたものだろうか? 

【※「吉岡庄」は越中では富山市と氷見市にも在ったと云われる。富山市吉岡村は、室町時代に利波郡・新川郡を統治した「蜷川氏」の一部が「吉岡」と名乗った事から興ったとされる。
藤原頼長庄園の「越中吉岡庄」は「白河天皇」の時に「上賀茂神社」の庄園となっており、赤丸村、加茂村に「上加茂社」、「下加茂社」が在った事からこの庄園は「赤丸、馬場村の地に在った庄園」と「国立歴史民俗資料館」のデータベースで確定されている。又、全国的に見ると、甲斐(山梨)や、因幡に(高草)青蓮院門跡領→山門領→鞍馬寺領、備前(磐梨)熊野社領となった吉岡庄が在り、伊予には(桑村)皇室領→安楽寿院領、昭慶門院領→八条院領→妙法院領 となった「吉岡庄」が在り、「吉岡保」としては、丹後(熊野)藤森社領、因幡(高草)鞍馬寺領(※足利義満の時に吉岡庄となる)が在る。】

●「保元の乱」の後に「藤原摂関家藤原頼長の庄園」の29庄が「後白河上皇」に没官されて「後院領」に編入されている。(※保元二年三月)

⇒1.陸奥国桃生郡本良(本吉)荘、2.同磐井郡高鞍荘、3.出羽国飽海郡大曽根禰荘、4.同遊佐荘、5.同屋代荘、6.能登国鹿島郡一青シトド荘、7.越中国砺波郡吉岡荘、8.丹波国桑田郡曽我部荘、9.同土師荘、10.周防国玖郡珂郡山代荘、11.紀伊国牟婁郡三栖ミス荘、12.阿波国那賀郡竹原荘、13.筑前国鞍手郡植木荘、14.豊後国大分郡稙田ワサダ荘、15.山城国田原荘、16.同川島(革島)荘、17.同大道寺荘、18.摂津国桜井荘、19.同富松荘、20.同位陪(井陪)荘、21.同大島雀部ササキベ荘、22.同野間荘、23.大和国藤井荘、24.伊勢国山田野荘、25.尾張国檪江イチイエ荘、26.甲斐国石間イワマ牧、27.相模国成田荘、28.美濃国深萱フカカヤ荘、29.下野国佐野荘 以上29ケ所 】

■「京都の清水寺の千手観音像」→「赤丸浅井城」の奥の「清水山」には「京都の清水寺千手観音像」の写しを祀る「清水観音堂」が現在も遺されている。




●大和国藤井荘は近習の源俊通からの寄進、陸奥国桃生郡本良(本吉)荘、同磐井郡高鞍荘、出羽国飽海郡大曽根禰荘、同遊佐荘、同屋代荘の五荘は久安四年に父の忠実から譲られた18ケ所の内の庄園だ。
これ等、陸奥(青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部)、出羽(山形、秋田)の東北からは奥州の藤原基衡によって砂金、布、馬、漆、鷲羽等が送られて来ていた。又、「能登の荘」(一青荘?)は康治二年前に法橋信慶から寄進された。紀伊国牟婁郡三栖ミス荘、阿波国那賀郡竹原荘、豊後国大分郡稙田ワサダ荘の三荘は康治元年(1143年)には頼長が既に所有していた。この他、父の忠実からは、仁平元年二月には近江国を譲られて知行国主となり、尾張国日置荘は久安四年以前に忠実から譲られ、久作安元年には淡路の荘を藤原全子から譲られているが、この没官領には見られない。「越中吉岡庄」はその取得経過が判らないが、「藤原頼長」の先祖の「藤原道長」と「赤丸浅井神社」は所縁があった様で、この庄園は藤原氏を名乗った「越中石黒氏」が累代赤丸浅井城を居城にしたと「肯構泉達録」に記載される事から、藤原摂関家長者に石黒氏が寄進したものかも知れない。この「藤原頼長」の個人所有のものの他、藤原摂関家固有の庄園としては約46ケ所在ったとされるが、これ等は没官を恐れた父の「藤原忠実」が先手を打って後継の兄(父→兄の養子になっていた。)「忠通」に譲られた為に没官を逃れたと云う。
これ等の経過から見ると、藤原摂関家が如何に大きな富を手にし、その財力で朝廷を牛耳っていたかが窺い知られる。
(※「日本荘園史大辞典」・「藤原頼長」橋本義彦 吉川弘文館発行)

■「越中吉岡庄」は、歴史的に「白河上皇」の時には京都の「上賀茂社庄園」に成り、南北朝末期には「下鴨神社」の庄園に成っている。しかも、この庄園には京都の鞍馬寺が勘請されて「川人山鞍馬寺」が在り、この寺は「48坊の塔頭寺院」を抱え、「赤丸浅井神社」を頂点とした「三社権現」形式の大寺で在った。
『吉岡』と言う一族と『吉岡庄』について検討して見ると、越中国も因幡国も『京都』の『賀茂御祖神社』と『鞍馬寺』が絡んでおり、又、越中吉岡庄には『貴船神社』(※福岡町木舟)も勘請されている。
当時、京都の『東寺』の建設責任者で在った「藤原伊勢人」は、夢枕に『貴船神社』の神が現れて、その御託宣で『鞍馬寺』を建立したと言う。京都では賀茂川上流域に立地している『賀茂御祖神社』、『貴船神社』、『鞍馬寺』は長く朝廷や貴族が『天候祈願』や『悪霊退散』を願って参拝した寺社で在り、『吉岡庄』や『吉岡氏』はこれ等の寺社と密接な名称で在ったと思われる。

■富山市に「新川郡吉岡村」が在り、学会ではこの「吉岡村」が「越中吉岡庄」で在るとして来た。しかし、平成26年「国立歴史民俗博物館」では「越中吉岡庄は上賀茂神社、下鴨神社の庄園になった記録が在り、富山市吉岡村にはその痕跡が無い。しかし、高岡市福岡町の吉岡庄には曾て上加茂、下加茂社が存在しており、他の資料も検証の結果、高岡市福岡町の吉岡庄が後白河上皇の庄園と成った吉岡庄と考えられる」として、正式に「庄園データーベース」が修正された。
一方、「新川郡吉岡村」に付いては、富山市域を含んでいた「太田保」の中の「蜷川郷」に在り、この地に「蜷川城」を建てて、【室町時代には新川郡、砺波郡を統治した】(※「蜷川の郷土史」)とされる越中蜷川氏の中に「吉岡」と名乗った人物が居た事から、この「蜷川氏」が吉岡庄の地頭として「吉岡庄の成佐」と名乗って居た可能性が高い。蜷川氏の祖は京都の「宮道氏」で在り、源頼朝の旗揚げに参画して源頼朝に取り立てられた武将で在り、一族は古く宇多天皇の頃から皇室共縁組して、後の「足利義満の母」はこの蜷川系の紀良子(※月海夫人)で在った。室町幕府第三代将軍足利義満は室の日野業子の追善料としてこの「吉岡庄」を「相国寺」に寄進してその統治を守護「畠山満家」に委ね、実務は政所代「蜷川新右エ門親当」に委ねた。
(※「万山編年精要」(※相国考記)、「蜷川家文書」)
これ等の資料から、頼朝の近臣で在り、源氏の足利氏の親族と成って居た「越中蜷川氏」が「越中吉岡庄」の地頭「成佐」で在った可能性は高い。蜷川氏は室町時代に成ると、新川郡では魚津市辺りから立山町~富山市迄の広範囲な新川郡の「祗園社領」や(※「祗園社記」)、砺波郡では福野町野尻から富山湾に至る広範囲な「五位庄」を統治した様で在り、「畠山家文書」に記載の越中絵図に拠ると、富山県の大半が「越中蜷川氏」の統治下に在ったと見られる。又、「蜷川家文書」には氷見市の「阿努庄」に関する「蜷川新右エ門親当」の文書が遺されており、その範囲は正に越中全土で在ったのかも知れない。
源頼朝に取り立てられ、後には足利氏の下で権力を奮った「越中蜷川氏」こそ、「吾妻鏡」に登場する『吉岡庄の地頭成佐』と考えられる最有力な一族だ。

「吉岡」に関して各地の吉岡を様々に調べて見たが未だ確定できて居ない。
後考を待つ。







🔴📃《室町時代の【応仁の乱】と【五位庄赤丸村】の歴史上の初見》➡【赤丸村在住の藤原真家】の「越中五位庄」の「川人山鞍馬寺」、「赤丸浅井神社」での父親の「法要」(※「富山県史」室町時代)!!

2021-04-12 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
◆【越中国】は、「応仁の乱」の一因にもなった【越中守護畠山持国】が守護を勤め、「越中国利波郡五位庄赤丸村」(※富山県高岡市福岡町赤丸)の「赤丸浅井城」には「越中守護畠山持国」の在名が在る。(※「大阪府羽曳野市)【畠山家文書】)



🔽室町時代に【越中国利波郡五位庄赤丸村】と記載される文書が初見される。




■「室町時代」の「越中統治絵図」(※「畠山家文書」)












◆《越中国利波郡五位庄赤丸村》は室町時代に「室町幕府御粮所」に成り、「赤丸浅井城」には、「室町幕府越中守護畠山持国」の守護代が入った。「五位庄」を含む「越中国利波郡」は、富山市蜷川に「蜷川城」を構えた「室町幕府政所代蜷川新右衛門親当」に知行された。(※「蜷川村の郷土史」)
蜷川氏の先祖から「宇多天皇の中宮」を排出しており、蜷川氏は「足利義満」の縁者としてとらえられていたと見られる。

🔻【室町幕府第三代将軍足利義満】の系譜と【宇多天皇】




🔻【越州川人山鞍馬寺三社絵図・(赤丸浅井神社・石堤浅井神社・舞谷八幡宮)】
(※石川県立図書館森田柿園文庫)



■室町時代には「川人山鞍馬寺」、「延喜式内社赤丸浅井神社」の神前で「藤原直家」が父の法要を営んだとされる。
(※富山県史中世)
【瑞泉二代亀阜和尚初七日忌香語】
(※富山市蜷川村の「最勝寺」を創建した「亀阜和尚」の法要記録に「五位庄赤丸村住藤原直家が川人山鞍馬寺・赤丸浅井神社」で父親の法要を営んだ記録が在り、これは歴史的にも「赤丸村」の初見で在る。)










■「越中国利波郡五位庄赤丸村」の「赤丸浅井城」には、「室町幕府越中守護畠山持国」の記載が見られる。(※この時期の室町幕府管領は父の「畠山満家」で、「畠山持国」は後に、赤丸村から小矢部川河口の六渡寺村へ動いたと見られる「越中国総持寺」で父親の「畠山満家」の三回忌法要を営んだ。)
[※「尾張国大須観音文書]
又、その後、「室町幕府」からは「総持寺」に対して「所領安堵状」が出された。(※ 「蔭涼軒日録」)
 





■「富山県史」に赤丸在住の「藤原真家」が「川人山鞍馬寺」で父の法要を営んだ記録が有る。富山市の光厳寺二世で、後に「能登総持寺」の三十六世住持になった【東海宗洋】が「瑞泉二代亀阜和尚初七日忌香き語」の中で、五位庄赤丸在住の藤原直家が父の十三回忌(明応四年十一月十六日、一四九五年)、十七回忌(明応八年十一月十六日、一四九九年)を、後に臨済宗の蜷川最勝寺住職に成った【亀阜豊樹】により営まれたと記録している。これを「光厳東海和尚録」という。香語の中には「越之中邦利波郡五位莊赤丸村居住孝子藤原真家、松岩宗秀上座一十七回忌、興多聞鞍馬、敬河人之靈神、僧而惟俗」という表現が見られ、川人の神を信仰して、川人山鞍馬寺を中興をした祖先の法要を行っている。神仏習合・両部神道では「神前読経」と云って神社でお経をあげる習慣も有った。実際に法要を行ったのは、皇室の寺院で在った「門跡寺院聖護院派修験道」の「川人山鞍馬寺」・「赤丸浅井神社」の両方で在った。赤丸村には「浅井城」を藤原一族の石黒氏が居城とし、長く「藤原摂関家長者藤原頼長」の所領の「越中吉岡庄」で有ったという歴史も在る。又、藤原氏の寺の東福寺は古くから氷見八代荘や伏木の海岸沿い、小矢部市に至る広範囲な地域に庄園を持っていた等、氷見から小矢部にかけた「西山地域」は古くから藤原氏と縁が強い場所でもあった。鎌倉時代には、木曽義仲が猫殿と呼んだ猫間中納言こと藤原光隆が越中守になっている。「承久の乱」で後鳥羽上皇の側で戦い、後に裏切られて誅殺された北面の武士の藤原秀康は元能登守を勤めていた。鎌倉後期に「吉岡庄」の地頭をしたと伝わる石堤長光寺の開基小田氏知は藤原北家宇都宮氏の傍流で八田氏を祖とする。
「藤原真家」の父の命日から逆算すると、亡父の命日は文明十五年十一月十六日であり、藤原氏本流にはこの命日の人物は見当たらなかったが、藤原氏の菩提寺である「興福寺」の室町時代の記録「大乗院寺社雑事記」には、唯一、命日が重なる人物が見られる。それは当時、能登・越中を支配していた畠山氏の一族で、「越中守護畠山持国」の子供「畠山義就」の子供の【畠山修羅】の記録である。
≪畠山修羅(はたけやましゅら)(一四六八年~一四八三年)



■1467年(応仁元年)には、将軍家や畠山氏等の家督争いから【応仁の乱】が勃発し、世情は乱れた。1458年「光厳寺」を開いた「成田顕泰」は鎌倉公方から越中富山城を賜わり、その後、光厳寺は創建場所から高岡の守山に移転している。この成田氏も藤原一族であり、関東管領の部下で武蔵国の「忍城」の城主でも在った。浅井神社を信仰し、鞍馬寺を中興したのは越中能登を所領とした管領家の畠山氏で有り、畠山氏の指示で越中国利波郡を知行されたと言う「越中蜷川氏」が主導して法要を行ったのか?
臨済宗で、富山市黒崎に在った「瑞泉寺」の「亀阜和尚」が、【赤丸の川人山鞍馬寺で藤原真家の父親の法要を行った】とすれば、越中国利波郡・新川郡を知行されていた「越中蜷川氏」の指示を受けた光厳寺の「東海和尚」(※守山城の神保一族)の関係で「赤丸村川人山鞍馬寺」で実施されたと見られる。赤丸村に勧請されたと伝わる京都の鞍馬寺も元々は藤原氏の寺である。この時に在京の管領家の畠山修羅の遺児をかくまっていたのは興福寺と関係深い成田氏か神保氏の可能性も有る。又、「畠山氏」の本拠地の羽曳野市には「畠山文書」(※「羽曳野資料叢書」)が残っており、その「越中絵図」には、「赤丸浅井城」に「畠山義就」の父親の「畠山持国」の名前が書かれている。「畠山氏」には「足利義満」の時期から仕えた「管領畠山満家」がおり、「室町幕府御粮所」となった「越中五位庄」の管理を任された一族で在った。(※「富山県史中世」)

▼【応仁の乱図屏風】














▼「畠山義就」の祖父の「畠山満家」とその子の「畠山持国」の時に、「興福寺宗徒」の武将で畠山氏の重臣「越智家栄」と「遊佐氏」が争っていたが、その後、「越智家栄」は「畠山持国」の近臣として重視され、「畠山持国」が管領になると持国は越智家栄と対立していた筒井氏等を追討し、越智家栄との連帯を深め、応永24年(1417年)6月に「将軍足利義教」が「赤松満祐」に暗殺された「嘉吉の乱」が起こり、足利義教から罷免されて河内に引退していた「畠山持国」が復権すると見るや「畠山持永」、「畠山持富」、「遊佐勘解由左衛門」等が持国の居所に討手を回して殺害を企んだ。この時に敗れた持永等は遊佐氏に守られて越中に逃れたが、越中国人に討たれたと云う。この戦いでは「越智氏の息子」が「畠山持国」の助成に駆け付けたと云う。
【※「畠山文書」の「越中絵図」には、「畠山持国の居城  赤丸浅井城」が記される。

【嘉吉の乱(かきつのらん)、または嘉吉の変(かきつのへん)は、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。 軍記物語『嘉吉記』には、嘉吉の乱から後の神器奪還までの赤松氏の事情が記されている。赤松氏の残党が南朝の末裔を殺害して天皇の神器を奪いを奪い、室町幕府に献上して加賀半国を与えられて「赤松」の家を再興した。越中国五位庄の加茂村に赤松氏ゆかりの「雲龍寺」が創建され、後に赤丸村には赤松氏の末裔が「天景寺」を創建した。その後、雲龍寺は金沢へ移り、天景寺は高岡市関町へ動いた。天景寺は赤松氏の家紋の源氏の「笹竜胆紋」を掲げている。又、「現在の高岡大仏は当初、足利義教の菩提を弔う為に高岡市守山に建立された」 と言われる。赤丸村鍛冶屋町島には「天景寺跡」と伝える場所が遺る。】















🔽「足利義満」は室町幕府御粮所「越中五位庄」を、妻の「日野業子」の追善供養として、自らが創建した「京都相国寺」へ寄進して、その底地は「管領畠山満家」に委ねた。(※「富山県史中世」)






「相国寺塔供養記」


■「赤丸浅井神社」で「藤原直(真)家」の父親の法要を営んだ「亀阜和尚」は、富山市蜷川に越中蜷川氏の菩提寺「最勝寺」を開いた。「蜷川氏」は「宇多天皇」にも連なり、越中新川郡の「祇園社領」の地頭として京都から赴任した「宮道氏」を祖とする。その後、宇多天皇の末裔に当たる「紀良子」が「足利義満」の妻に成り、蜷川氏は政所代として越中新川郡と利波郡(※小矢部川と庄川の間地域)を領したと云う。





■「亀阜和尚」は、元々、臨済宗の僧で「最勝寺」は、「蜷川親綱」が父の「親直」の菩提を弔うため「臨済宗」の寺として創建したもので、その後の戦国時代に「曹洞宗」の寺となった。
同じく元臨済宗で、後に能登総持寺に繋がった「能登永光寺」で修行した臨済宗の高僧の「三光国師」の名前を受け継ぐ高岡市柴野の「三光寺」は、「南北朝時代に吉岡庄へ大和国から移り住んだ宇多刀工の菩提寺」で在り、「織田信長」の四女「永姫」が建てた名刹だが、この寺も「最勝寺」と同じ経過を経て「臨済宗」から「曹洞宗」に成った。「足利義満」が「宇多天皇」の血筋で在り、京都の「臨済宗相国寺」を創建し、後に「鹿苑寺金閣」を建てた。その関係か、「宇多天皇の末裔の宇多刀工」は室町時代に成っても「赤丸村鍛冶屋町島」で多くの刀を生産しており、その系統は富山市、射水市、小矢部市、南砺市、砺波市、舟橋村等の「越中全土」や石川県、岐阜県にも拡がっていたとされる。又、越中刀工の「江義弘」、「佐伯則重」等にも影響し、更には、「石川県の刀工」にも影響を及ぼしたと言う。

🔽南北朝の動乱を収拾した「室町幕府第三代将軍足利義満」は、室「業子ナリコ」の菩提を弔う為に、応永十三年に「越中五位庄」を「相国寺」へ寄進している。その時に、「五位庄利波郡の赤丸村」の「赤丸浅井城」には、越中守護「畠山満家」の子供の「畠山持国」が入っている。(※「越中絵図」畠山文書)
その為か、この時代には「臨済宗」以外の寺院は赤丸村から追放され、真言宗の「総持寺」(※現在は高岡市関町)は伏木河口の六渡寺村辺りへ移転し、赤丸村で浄土真宗に改宗した「法筵寺」は福岡町一歩二歩へ追放され、度々、赤丸浅井城に入っていた畠山家臣の「中山氏」に追われて焼き討ちされたと云う。この事は「三光寺」にも伝わっており、その為か、赤丸村の「川人山鞍馬寺の仏前」・「赤丸浅井神社の霊神」の前で「赤丸村住藤原真家」が父の法要を営み、その時の導師が「臨済宗亀阜和尚」で在ったと云う。

■法要記録の「亀阜和尚香語録」に、歴史上初めて、【越中国利波郡五位庄赤丸村五位庄赤丸村】の名称が登場し、南北朝時代迄の「越中吉岡庄」は、室町時代には【五位庄赤丸村】で在った事が明らかになった。
(※「東海宗洋瑞泉和尚香語録」)(※「東寺百合文書」)

「赤丸浅井神社」・「川人山鞍馬寺」の神仏の前で営まれた法要記録が残される。


又、「足利義満」は臨済宗相国寺以外の宗派はこの時期に「赤丸浅井城」の周辺から追放したと伝えられるが、恐らく、「川人山鞍馬寺」はこの時に「門跡寺院天台宗聖護院派」として皇室ゆかりの寺院で在った事から、飛ぶ鳥落とす勢いの【足利義満】も、流石に皇室所縁の「川人山鞍馬寺」に対しては「追放命令」を出せなかったものだろう。

🔻富山市蜷川を拠点として、「越中国利波郡・新川郡」を足利幕府から知行された「一休さん」でお馴染みの「新右衛門さん」こと「蜷川新右衛門親当」は、元々、京都を発祥として「祇園社」の庄園の地頭「宮道氏」で、越中の富山市から魚津市に至る広大な「祇園社庄園の太田保」の地頭として越中に下向して、「富山市蜷川」や「滑川」に城を構えたとされる。(※「蜷川村の郷土史」)
「蜷川氏」の祖先の「道道氏」から「宇多天皇」の中宮を出した事から、「蜷川氏」は皇室縁者と成った。(※「今昔物語」)
「宮道氏」の子孫から「室町幕府足利義満」の母の「月海夫人」を輩出した為に、「蜷川新右衛門親当」は「足利義満」の側近の「政所代」に就任して、越中の統治に関与した。「蜷川家文書」(※東京大学資料編纂所)には越中の氷見郡の地頭代の「神保氏」が怠けたとして交替させた文書が遺る。この頃、越中の「利波郡赤丸村」の「赤丸浅井城」に「室町幕府守護」の「畠山持国」の記載が在り、持国は京都に住まいして越中には「守護代」を置いたとされる事から、この頃の「赤丸浅井城」には室町幕府から越中利波郡を知行されていたと言う「蜷川氏」が入って「守護代」を兼ねたものと見られる。
「越中国利波郡五位庄赤丸村在城の畠山直家」が「赤丸浅井神社」とその別当「川人山鞍馬寺」で、忘父の十三回忌、十七回忌を営み、その法要は後に富山市蜷川村に移った「最勝寺」の住職の「臨済宗(後に曹洞宗)」の「亀阜豊樹」によって執り行われたと言う「東海宗洋(神保氏出身)法語録」(※「富山県史中世」)の記載は、正に、「越中守護畠山持国」の守護代として「赤丸浅井城」に入っていた「越中蜷川氏」の城下の「赤丸村」で、蜷川氏菩提寺の最勝寺住職を招いて法要が営まれ、蜷川氏の家臣の「神保氏出身」で、臨済宗の僧の「東海宗洋」(※≪神保氏出身。後に曹洞宗能登総持寺の住職になる≫)が「法語」として記録したものが「東海宗洋法語録」として遺されている。







🔴「越中五位庄赤丸村」の十村役五十嵐豊生の記録⇒「後醍醐天皇皇子宗良親王」と連歌の「宗祇法師」の滞在記録!

2021-02-14 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸








■赤丸尋常小学校に「永久保存」とされていた「赤丸村郷土調査」に拠れば、「明治二年に十村役五十嵐豊生が調査書上げし(内容について)、明治六年四月に親王塚に御札を掲げた」と云う。それに拠ると、
【後醍醐天皇第八の皇子八の宮殿下の塚なりと傳承す。永正拾 癸酉 年(今より四百年前)五位庄加茂村某の記せし古文書を得たるにより其全文を掲ぐ 腐食せる所多し
 「抑五位庄名具には五位吉岡の庄と號す 蓋し吉岡の本名委敷は東鑑にあり 往昔八の宮御遷幸有りてより以来五位吉岡の庄と申と續けたり 八の宮の事は小境大榮寺等の縁起等に有りといふ 然るに其昔へ紀州飯尾氏の一子出家して種玉庵宗祇法師と號す 常に風雅を宗とし多嗜事和歌又連歌にあり 行く名山田地を訪ねて〇〇小屋○○、就中文正應仁の頃立山剣峯遊歴の序て片々乎(*かたかたかな)として高錫を此庄にとばして民家に入り地名をとふに 主の男申しけるは是はこれ五位庄加茂村なりと 法師に曰く五位の庄名如何なるなる事の申あへけるに由来良久し 往昔八の宮當所へ御遷幸ましまして里の名に五位を許すとの仰せとありといふ 尚法師の問ひ申されけるは加茂村の儀如何と 主の曰く此加茂村は治る御代の昔の頃加茂の大社を此所に清し奉り分けて上下とし○○○の桂馬、地をひらき葵の祭都にも遠からず諸事面白待人に嗚呼人心平かならずして四海溲(*そう--細長く水をたらしてぬらす)治まらず終に兵火の属氏を印されて口惜しくも諸々の旧跡は只村名にのみ残されりといふ 法師頭をたれて言葉なし 久しくして出でゝ庭に立って且神明の旧跡を訪へば神木枝をれて春尚寒く清ふして金龍躍○嗚呼四神相應の地にも相近く風光盡すとて錫を○○の古木にかけて一夜神號を呪して○さる事尊し 然る夜浅ふして○○のこかげの音しければ里の名のこんかきくけこ五位庄といふ發句とならん 口すさみ宣へるに云々 永正拾 癸酉 年暮春  五位庄加茂村 某】



●「里の名のこんかきくけこごえの庄」 宗祇

  
■諸国を遍歴して連歌を広めた飯尾宗祇は五位庄に一年余り滞在して五位庄を愛して兵火にかかった旧跡を愛惜して上掲の歌を吟じた。加茂村願栄寺の背後には宗祇を慕って塚が建てられ「宗祇塚」と呼ぶ。
赤丸小学校教諭、福岡町歴史民俗資料館の館長もされ、辞書の編纂にも携わられた地崎淳一氏は、「福岡町の民俗」と言う著書の中で「宗祇塚」について説明されており、又、その近くの自宅前には「宗祇の歌碑」が設置されている。

■「宗祇塚」
加茂願栄寺の背戸(背後)、右寄りの丘陵に菩提樹の塚が在る。古老によると宗祇法師の塚でないかと伝えたられた。加茂超願寺所蔵の「越中五位庄由来記」によると、「当寺(超願寺)に宗祇屋敷と申す旧跡残れり、宗祇法師旅行時に五位庄という所に宿をたまいける。勝つ区名山遊歴の序、当国へは文正、応仁の頃、白山禅定より翌年立山禅定の中間に一年来たり、この地に住居願うと申すよし」と記している。村人は宗祇の來宿を記念して塚を作ったという。方角抄に見ゆる宗祇法師の和歌に、

此の里はこんかきくけこ五位庄
たかはたけとてもたこなら桜かな

明治の頃、盛土の上に幹廻り四mぐらいの菩提樹があって、その横に五輪石が立っていた。この石は願栄寺の根太石になっているという。この菩提樹の根元を発掘したので木が枯れたが、新芽が大きく成長している。現在わずかに大樹のあとがみられる。








■今も福岡町赤丸を中心として「五位庄」には連歌の前句を競う「舞句」という文芸が伝わり、各神社には奉納の掲額が掲げられている。
連歌は元々、神仏に対する「法楽」であり、連歌の場には本尊として天神や名号が掛けられており、連歌は仏の前で読経する事と同一の機能を有していた。織田信長を討つ前に明智光秀が連歌の会を開き「時は今 天の下知る五月かな」という発句を読んだのは余りにも有名。連歌は後に60日に一度巡ってくる干支が庚申の夜に寝ずに過ごす習慣の「庚申待ち」や、二十三夜の遅い月の出を待つ「月待ち」という習俗と繋がり、その晩を連歌や香や寺院の法会で過ごす習慣となり、多くの人達が集まって夜を過ごす習慣が広がったと云う。地方から広がったこの習慣は京都に流入し、知識人や富裕層の習慣になったと云う。
赤丸の浅井神社にも夜遅く団体で参拝する習慣が有り、浅井神社宮司はこれを「十六夜参り」と呼んでいたと云う。
(参考)「宗良親王の塚」と云われている場所は全国に何か所か有る。歴史書にはこの「親王塚」は浅井神社を創建されたと伝わる「元正帝二宮の塚ではないかと思われる」と記載されるものもある。二宮とは文武天皇の第二子で叔母の元正天皇の時代に東国33か国の統治を任せられたと浅井神社由緒に伝わる石川朝臣広成を指す。この一族と思われる石川一族の墓のみが延喜式内社赤丸浅井神社の神域に神職川人家と一緒に残されている。又、赤丸村の赤丸城の麓には「八の宮屋敷跡」と伝承されている場所も有り、これは「宗良親王」の邸跡と推定され、その付近の「極楽谷」には宗良親王が創建された「極楽寺」が在ったと伝わる。(✳「越中宮極楽寺由緒」)




■「五位庄」に連歌の「宗祇」が滞在した背景
越中蜷川郷(富山市蜷川)に発祥したとされる蜷川氏は、室町幕府の重臣として射水郡、砺波郡を所領としたと云う。「砺波郡五位庄赤丸村」には「五位庄53ケ村総社 延喜式内社赤丸浅井神社」が在り、「赤丸浅井神社」「川人山鞍馬寺」で蜷川郷に最勝寺を開いた「亀阜豊寿」が赤丸住藤原真家の父「岩松氏」の十三回忌法要を営んだ記録が在る。(※「富山県史 中世」)現在も赤丸村浅井神社や寺には古くから奉納されて来た「連歌」の「舞句」と呼ばれる上、下の句を記した「掲額」が掛けられており、連歌の文化を今に伝えている。
(※福岡町加茂村には連歌の歌碑が保管されている。)


■【智蘊(チウン);(生年不詳~文安5年5月12日(1448年6月13日))は、室町時代中期の幕府官僚、連歌師。俗名は蜷川親当(ニナガワチカマサ)、通称新右衛門、法名は「五峰」という。
室町幕府の政所代を世襲する蜷川氏の出身で、蜷川親俊の次子。子に親元、岩松明純室がいる。一休宗純との親交により広く知られる。
応安(およそ1370年代前半)の頃まで越中国太田保に在った。足利義教の政所代を務めたが、義教の死後出家、智蘊と号した。和歌を正徹に学ぶ。正徹の『正徹物語』下巻「清巌茶話」は彼の聞書きとされている。
(※「太田保」;太田保内蜷川郷3か村を含む136ケ村で、ほぼ旧の富山藩領が該当する。)
連歌では、1433年(永享5年)の「永享五年北野社一日一万句連歌」を初出として、多くの連歌会に参加。宗砌と共に連歌中興の祖と呼ばれた。連歌集に『親当句集』があるほか、『竹林抄』『新撰菟玖波集』に入集している。「宗祇」が選んだ連歌七賢の一人。
子の「親元」が記した『親元日記』には、智蘊と一休宗純の親交が記録されている。なお智蘊は、アニメ『一休さん』に登場する蜷川新右衛門のモデルとなったが、実際の一休と交流があったのは出家後の晩年である。
墓所は宮道氏の京都真如堂(京都市左京区浄土寺真如町)に、墓碑は蜷川氏の菩提寺である最勝寺(富山県富山市蜷川)にある。 (※ Wikipedia ウイキペディア 参照 ) 】