赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔘「越中射水臣」の系図と子孫達!! ⇒知られざる古代越中氏族の活躍。鎌倉幕府の三善氏、室町幕府の飯尾氏と「越中五位庄」。

2021-04-12 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●越中の古代豪族「利波臣」は東大寺大仏造営の時に「米五千石」を寄進して国司待遇の「員外介」に就任した事でも有名だが、同族の「射水臣」に付いてはその子孫の「三善氏」が鎌倉幕府で重きを成し、次いで、その末裔の「飯尾氏」は室町幕府で重きを成している。特に室町幕府では越中の「蜷川氏」と越中射水臣の末裔に当たる「飯尾氏」が政権の中枢に在った。











・「後白河上皇」の時代には「新川郡祇園社領(現在の八坂神社)」が「射水宿弥」によって統治され、「蓮華王院領(三十三間堂領)利波郡吉岡庄」は「吉岡成佐」が地頭として見られる。この「吉岡成佐」に付いては、「越中蜷川氏」の一部が「吉岡」と称して「吉岡村」に住んでいた事から「蜷川氏」の一部と推測される。室町時代に成ると「新川郡」と「利波郡」は「越中蜷川氏」の知行地に成っている。






・南北朝末期と足利義政の時代には「越中吉岡庄」が「賀茂御祖神社」(※下鴨神社)の庄園として見られる。








・「室町幕府第三代将軍足利義満」は「越中五位庄」を室の日野業子の追善料として自ら創建した「相国寺」に寄進したが、その二年後には義満も逝去している。その後は、「越中五位庄」は足利家菩提寺の「等持院」・「等持寺」に寄進されている。この時に、「越中五位庄」は「守護畠山満家」に預け置かれて、「越中蜷川氏」が政所代として「新川郡」と「利波郡」を知行されたと言う。又、射水郡阿努庄(※氷見市)に付いても「蜷川新右衛門親当」の書状が遺されており、「足利義満」の近臣として越中の統治を担当していた様だ。(※「蜷川の郷土史」、「越中郷土史」、「蜷川家文書」)

この時期に「蜷川新右衛門」の連歌の師である「飯宗祇」が「越中五位庄」に一年余り滞在して【里の名は こんかきくけこ ごゑのしゃう】の歌を遺している。






・鎌倉時代に後鳥羽上皇の請願で造像された黄金の「木造千手観音座像」(※国指定重文)は南北朝の騒乱の時に女人高野「河内金剛寺」から後醍醐天皇の庄園「越中吉岡庄」(※赤丸村)に在った「総持寺」(※現在は高岡市関町)に避難させられた。(※「慶派仏師 幸賀 作」)その後、「足利義満」の時代(※応永九年頃)に国主から赤丸村を去るように命ぜられ、利波郡の一部の六渡寺村辺りに動き、「浜総持寺」として「守護畠山満家の三回忌法要を営んだ」とされる。(※「大須観音文書」名古屋市→射水市松山学芸員論文、「畠山家文書」羽曳野市叢書、「総持寺由緒」高岡史料)




■一般的に説明されている系図では、越中射水臣から利波臣が派生したとする記載が在る。滋賀県石山寺所蔵の「越中国官倉納交替記」(※高岡市中央図書館に写本在り。)では、古代豪族の「利波臣」と共に「射水臣」が越中国大領として見え、郡司にも登用されていた様だ。この両氏族は「孝元天皇の子孫の武内宿弥の子孫」とされる。
(※古事記では「孝霊天皇の子孫の高志利波臣が利波臣の祖」とされて、異なった記載に成ったいる。)

■『射水臣』を出自とする「三善為康」は1066年(治暦2年)に18才で上洛し、算博士の三善為長に師事してその養子になった。少内記、算博士、諸陵頭を歴任し、『朝野群載』等の著作を残して、阿弥陀信仰に篤かった為に『拾遺往生伝』『続拾遺往生伝』等も著した。1117年(永久5年)に月食論争をしたとされる。(※「富山県の歴史散歩」久保尚文、苦ケ竹亮介、松山充宏他共著)
しかもこの子孫は鎌倉幕府で重きを成し、「評定衆」にも見られ、一方、越中では魚津から滑川市、富山市、立山町を含む広範囲の祇園社(※明治から八坂神社)の庄園「太田庄」の庄官として「射水宿弥」の署名が在る文書が「祇園社記」に遺されている。この庄園は後に越中太田庄を所領とした越中蜷川氏の祖の「宮道氏」が寄進した庄園で在った。
室町時代に入ると三代将軍足利義満の側近として有名な「政所代 蜷川新右エ門」の一族、越中蜷川氏が越中の新川郡と砺波郡を統治したとされる。(※「蜷川の郷土史」)
この時期に越中五位庄は高岡市の国吉郷から福野町の野尻郷迄拡がっており(※「斯波義郷やなた某書状案」東寺百合文書)、この時期に著名な連歌の師匠「飯尾宗祇」が畠山氏を訪ねて越中に来たり、五位庄で「里の名を聞けばこんかきくけこごえのしょう(※五位庄)」の歌を遺している。この「飯尾氏」は様々にその出自が語られるが、射水臣から養子に入った算博士の「三善氏」の系図から派生している。
又、越中蜷川氏一族の「蜷川新右エ門」は「飯尾宗祇」の連歌での高弟に当たる。

■【駿河飯尾氏】
本姓 三善朝臣、家祖 飯尾倫忠、出身地 山城国、主な根拠地 阿波国麻殖郡飯尾村、駿河国(戦国期)著名な人物 飯尾連竜、
本姓は三善氏。三善倫忠の代に飯尾姓を名乗った。元々は室町幕府の奉行衆の家柄であったが、飯尾長連の代に駿河に下り、今川氏譜代の家臣となった。戦国時代、飯尾賢連は今川氏親に仕え、引馬城(後の浜松城)主となった。賢連の子乗連は今川義元に桶狭間の戦いで従軍し、討ち死にした。乗連の子飯尾連竜は初め義元の跡を受けて家督を継いだ今川氏真に仕えたが、三河の徳川氏に内通し、今川氏から離反した。その後、今川氏真から和睦と偽った召喚に応じた連竜が誅殺されたために、駿河飯尾氏の嫡流は断絶した。(※Wikipedia)

■「室町幕府奉行人 飯尾氏から 高岡市国吉の【信光寺】に宛てた文書」



■母方に越中蜷川氏の末裔の「紀良子」を持つ「足利義満」は、南北朝の合一を果して後南朝から神器を北朝に引き継ぎ、相国寺や舎利殿金閣(※後に鹿苑寺金閣)を創建して日本国王を名乗り勢力を誇示したが、室の「日野業子」の追善料として、「越中五位庄」を「相国寺」に寄進した。(※「万山編年精要」・「相国考記」)
その後も「足利義持」は「五位庄の半分」を足利家菩提寺「等持院」に寄進して、後に半分を「等持寺」に寄進している。又、この時期に短期間、「京都下鴨神社」の庄園として寄進された記録も在る。(※「賀茂御祖神宮神戸記」)
「足利義満」が直接庄園とし、能登守護畠山満家に預け置かれた「五位庄」(※「富山県史中世 」)を越中蜷川一族の「蜷川新右エ門親当」が統治して、その連歌の師匠の「飯尾宗祇」が五位庄に滞在した事から、越中五位庄は射水郡太田庄(※祇園社領)と共に室町幕府の越中統治では中心的な庄園で在ったと見られる。又、射水郡についても代官を神保氏に任せていたが、年貢の未納が度重なり、遂には蜷川新右エ門が直接統治した記録も「蜷川家文書」(※東京大学資料編纂所DB)に見られ、蜷川新右エ門が越中全土を統治したものと見られる。



「越中蜷川氏」と「室町幕府第三代将軍足利義満」の関係


(※「斯波義郷」;室町幕府守護大名斯波氏第八代。元々は相国寺の僧籍に在り瑞鳳と称す。相国寺の鄂隠和尚の弟子。永享5年(1433年)11月に兄義淳が重病に成った為に、室町幕府6代将軍足利義教の命により還俗して斯波氏の家督を継ぐ。足利義教から偏諱「義」を賜わり「斯波義郷」と名乗った。永享6年(1434年)2月より室町幕府に出仕して越前・尾張・遠江の守護職を継承した。)

★(※この時期に高岡市の「総持寺」と見られる黄金の千手観音像を祀った「浜総持寺」で、「畠山満家の三回忌」が舞楽を交えて盛大に挙行されたとする記録が、射水市松山学芸員に拠って名古屋市大須の大須観音の古文書から発見されている。「総持寺」は元々、五位庄赤丸村に在ったが、この時期に戦乱の為か一時期、浜近くに移っていた為に「浜総持寺」と呼ばれていたのではないかとされる。)

■「応仁の乱」と「室町幕府第十代将軍足利義材(義尹・義稙)」
⇒「足利義材」の越中逃亡と「右筆方奉行人 飯尾之秀 、飯尾貞運」の就任

足利義政の後継を巡って争ったとされる応仁の乱を経て足利義材は第10代将軍に就任した。しかし、その後は管領細川政元と対立して明応2年(1493年)には将軍職を廃されて幽閉された。(※明応の政変)
しかし、脱出して越中国に逃れて射水市放生津に臨時政権を作り、次いで越前国へ逃れて諸大名の軍事力を動員して将軍復職を目指しながら逃亡生活を送る。逃亡中には「義尹」と改名。周防国大内義興の支援を得て永正5年(1508年)に京都を占領して将軍職に復帰し「義稙」と名乗る。しかし、大内義興が周防国に帰国すると管領の細川高国(細川政元養子)と対立して大永元年(1521年)には細川晴元・細川持隆を頼って京都を出奔して将軍職を追われ、大永3年(1523年)には逃亡先の阿波国で死去。
この時に越中射水氏の子孫に当たる「右筆方奉行人 飯尾之秀 1494~1508年在任 」と「右筆方奉行人 飯尾貞運 1501~1508年在任」が、逃亡中の「足利義尹」の側近の「右筆」で在った事は逃亡先を越中に決めた事とも関係深いと見られる。又、再び京都から逃れた大永元年(1521年)からは再び「飯尾之秀」を右筆として側近に置いている。

・「室町幕府主要奉行人」⇒飯尾氏、松田氏、斎藤氏、諏訪氏、清氏、治部氏、布施氏、中沢氏等
・「足利義材 右筆方奉行人」⇒沙弥慈倫、諏訪長直、飯尾之秀、斎藤基雄、飯尾貞運、松田英致、斎藤元躬、斎藤時基、
(※「室町幕府文書集成」思文閣出版)


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