赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴 室町幕府三代将軍『足利義満』の母は蜷川氏の『月海夫人』⇒「一休さん」と「越中蜷川氏」 蜷川新右衛門 親当!!

2021-04-14 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸




■「富山県史」に記載される「光厳東海和尚録」
⇒この記録には、「利波郡五位庄赤丸村住藤原真家」として史上、初めて「赤丸村」が登場する。






■2012年09月30日の「北日本新聞」に長く失われたと思われていた「光厳東海和尚録」が金沢市で発見されたと言う記事が掲載された。記事に拠ると、
【室町時代の越中を代表する禅僧の法話などを記した「光厳東海和尚録」が金沢市で見つかった。江戸時代の前期に書かれた唯一の写本で、富山市五番町の曹洞宗光厳寺が所有していたが、1945年の富山大空襲で焼失したとされていた。当時の禅僧の布教活動や有力武士との交流を伝え、越中の禅宗史の一端を知る史料として研究者が注目している。】とし、【「和尚録」は、光厳寺の2世住職、東海宗洋(1458年~1515年)の法話等を書き留めている。戦後長く行方が分からず、1975年に県が刊行した「県史史料編II中世」には「富山空襲で焼失」と記載されていた。同寺の今村源宗住職によると、和尚録は空襲に備えて境内にある三重の塔の地下室に移され、焼失を免れた。その後、当時の住職が金沢の寺に移る際、蔵書に紛れて持ち出されたとみられる。このほど寺に戻り、研究者に公開された。】と報じた。「東海宗洋」は、越中代官を務めた神保家の出身で中世の最高学府「足利学校」(下野国・栃木)で学ぶ禅僧と交流し、漢詩の高い教養があった。この「東海和尚録」は、法要や寺の儀式で読み上げた420編余りの[香語]を収めている。
この中に、「赤丸浅井神社」での法要ー[五位庄赤丸在住の藤原真(直)家の法要]-の記録が記載されている。後に加賀藩の菩提寺ともなった「光厳寺」の二世で後に「能登総持寺」の三十六世住持になった東海宗洋が「瑞泉二代亀阜和尚初七日忌香語」で、【五位庄赤丸在住の藤原真家(直家)が赤丸の川人山鞍馬寺・浅井神社で父の十三回忌(明応四年十一月十六日、一四九五年)、十七回忌(明応八年十一月十六日、一四九九年)を営んだ】と記録している。これを「光厳東海和尚録」という。(※『光厳東海和尚録』富山県史史料編中世 参照)

ここで記録された「亀阜和尚」は亀阜豊寿(きふほうじゅ)[1435年~1501年]は室町~戦国時代の僧で近江 (滋賀県)の出身。近江の曹洞宗新豊寺の雪叟一純に就いて出家し後に同寺天叟祖寅(てんそうそいん)の法を継いだ。能登総持寺、越中瑞泉寺(新川郡林崎)の住持を勤め、富山市黒崎に最勝寺を開く。「最勝寺」は室町幕府政所代の「蜷川新右衛門親当」の菩提寺とされる。(※現在は富山市蜷川) 明応10年1月5日死去。六七歳。東海和尚の師匠(旗雲租旭師)の兄弟子に当る。天叟祖寅の直弟子。

【★真言宗越中総持寺は,応永6年6月17日の室町将軍義満御教書によって,室町将軍家祈願寺となり,荘内の寺領を安堵されている。(※相国寺蔭涼軒日録「越中国総持寺の安堵」)(角川地名大辞典)】

■では、何故、曹洞宗の「亀阜豊寿」が「赤丸浅井神社」で法要を行ったのか?
高岡市柴野の「曹洞宗三光寺」の住持に拠れば、この「三光寺」も「蜷川村最勝寺」も、元々は「臨済宗」で在り、「足利義満」が創建した「相国寺」も臨済宗で在り、義満が「越中五位庄」を室の業子の菩提を弔う為に「相国寺」へ寄進した時には、室町幕府守護の「畠山持国」の居城の「赤丸浅井城」の周辺から臨済宗以外の寺院が追放されたと云われ、「赤丸浅井神社」、「川人山鞍馬寺」は天台宗系の門跡寺院「京都聖護院」の末寺で在り、皇室所縁の寺院で在った事から特にこの寺院で法要をあげたものと見られる。尚、この法要をあげた「藤原直家」は藤原氏の菩提寺「興福寺」の信徒「古市胤栄」に預けられた「畠山義就」の子息「修羅法師」の子供と見られ、「大乗院神社雑事記」に記載される「修羅法師」の命日とも合致している。越中、河内守護「畠山義就」は「応仁の乱」を招いた元凶として悪名を轟かせたとも云われ、政争に破れて河内国に逃れてたてこもった時期が在り、その時にその孫は「藤原」を名乗り、「畠山持国」の居城が在った「赤丸浅井城」に庇護されていた可能性が高い。







■当時、「赤丸浅井神社」は京都の門跡寺院の「聖護院」の系統の両部神道「本山派山伏」であり、修験道においては「神前読経」と呼ばれた神前で仏教経典を読み上げる習慣が在った。南北朝の騒乱はこの頃、南朝の天皇から北朝の天皇に神器が渡されて、南北朝の統一が行われた。後白河上皇~後醍醐天皇迄続いた皇室庄園「越中吉岡庄」は室町時代には「越中五位庄」となり、応永12年(1405年)、足利義満により「五位庄」は義満の室の日野業子(ナリコ)(定心院)の追善料として「京都相国寺」に寄進された。この頃、足利義満は「日本国王」と名乗り、その妻日野業子は天皇の准母(名目上の母)となり、義満の子義嗣は親王と同等の格式を許されたと云う。皇室領に準じて日野業子の追善料として京都相国寺に寄進されたものか?  「金閣寺」は「相国寺」の塔頭寺院の一つであり、舎利殿「金閣」が著名な為「鹿苑寺」は「金閣寺」と呼ばれている。
『※応永22年(1415年)には足利義持により「五位庄」の半分が足利氏菩提寺の等持院(京都市左京区)に寄進され下地は守護畠山満家に預け置かれた。その後も五位庄は足利家菩提寺の等持寺、等持院の庄園になっている。』








■「富山市蜷川地区」と「一休さん」、「蜷川新右衛門親当」










■富山市の富山市インターチェンジ近くに創建された「最勝寺」は「亀阜豊寿」が初代とされ、この時に、この周辺は一休さんとトンチ問答をしたとされる「蜷川新右衛門親当」の一族の「蜷川氏の所領」であり、「蜷川郷土史」に拠ると、蜷川氏は源頼朝の旗揚げに功績が有り、その恩賞として越中の砺波、新川両郡を与えられたと云う。砺波郡でも全部ではなく、新川郡境に近い石動周辺が与えられたと考えられると云う。と云う事は、当然、「五位庄」も含まれたという事になる。
【※蜷川家譜には、一休禅師と「蜷川新右衛門親当」の交流は新右衛門が引退した後からの交流だとしている。又、蜷川新右衛門親元は足利義教に仕え、蜷川氏は代々新右衛門を名乗っているが、系図では、「親当」は「蜷川新左衛門」、その子の「親元」は「新右衛門」とされており、新右衛門、一休さん、義満の物語はフイクシヨンの様だ。
足利義教は還俗して将軍に成ったが、激しい気性で在ったらしく、恐れた赤松氏に暗殺されている。赤松氏はこの時に滅亡したが、その後、子孫が後南朝から神璽を取り戻した恩賞として加賀半国(石川県北部の羽咋方面)を知行されている。】



■この頃の「光厳寺」は守山に在り、「最勝寺」は当初、富山市浜黒崎辺りに創建されたらしいから、この頃の蜷川氏の所領は現在の小矢部市から五位庄、守山、伏木、新湊、富山市の海岸通を含む交通の中枢の北陸道に沿った地域が考えられる。高岡市守山の「光厳寺」の「東海和尚」は高岡市の守山城主神保氏の一族だったらしく、神保氏は能登、越中守護畠山氏の代官であり、神保氏の所領、勢力範囲共一致していた様だ。
(※「蜷川家文書」の政所代蜷川親元文書には神保氏は「代官」として見られる。)
最近迄、越中の新川、砺波郡が鎌倉時代から蜷川氏の所領で在った事は知られていなかったが「蜷川の郷土史」に拠ると、蜷川一族の「等全南江和尚」は「相国寺寺主」をしており、「越中五位庄」が相国寺に寄進された背景にも蜷川氏が絡んでいる。蜷川氏は足利将軍家臣の政所執事伊勢氏の家臣であり、政所代の役を勤め、伊勢氏共縁組しているが、足利将軍家共縁組して足利義満を生んだのは「足利月海夫人」(※紀良子)と 呼ばれた人物だと云う。
(※「蜷川の郷土史」の中の京都蜷川家「蜷川親正」氏の著作に記載されている。系図では良子の先祖の宇多天皇の中宮胤子の母列子が蜷川氏だった事を示している。)
『蜷川氏』は元々、「物部氏」の「宮道氏」であり、蜷川新衛門親当の7代前の蜷川親直の時に越中砺波、射水二郡の領主であり、一族には宇多天皇妃となり、醍醐天皇を産んだ「藤原胤子」が出ている。蜷川一族はその後も全国に拡がり、一族には徳川の旗本となり五千石を給された一族も出たと云う。
(※「紀良子=月海夫人」;足利義満の母、石清水八幡宮検校善法寺通清の娘。法号を洪恩院殿月海如光禅定尼という。 姉妹には後円融天皇生母の紀仲子と、伊達政宗 (大膳大夫)正室の輪王寺殿がいる。 )



「その他の蜷川地区の寺院と著名な武将の痕跡」
■「常福寺」→寺島牛之助の弟『小島甚助』のその後!!
浄土真宗本願寺派のこの寺院の四世「玄西」は婦負郡駒見郷の寺島備前守の子の小島甚助胤興で、兄の柴野城主寺島牛之助職定と共に佐々成政に与力して、長沢城や射水郡小泉城を守り、能登末森城で前田利家に敗れて兄の寺島牛之助は前田利家に臣従したが、甚助は西玄坊と改めて石動山天平寺の修験僧となり、後に常福寺西玄の弟子となったと言う。寺島牛之助の子孫は加賀藩で高岡町奉行、算用奉行等を歴任した寺島蔵人であり、現在もその住居跡は金沢市の観光地「寺島蔵人邸」として残っている。

■「鳳凰山興国寺」→『桃井直常』と『斉藤竜興』のその後!!
南北朝時代の武将「桃井直常」が創建したと伝わるこの寺には、桃井直常夫妻、長沢の戦いで亡くなった息子の直和の位牌が有り、その住職の中には織田信長に攻められて滅んだと伝わる「斉藤竜興」がこの地に落ち延びたと伝わる「月嶺浄円」と言う住職がいた。この人物は美濃稲葉山城が落城した時に秘かに越前朝倉、近江浅井氏を頼って落ち延び、永禄十二年越中に逃れて興国寺に身を隠し、次いで帰農して九右衛門と名乗り、次いで興国寺の住職となったと言う。この寺にはこの人物の念持仏の阿弥陀如来像が遺されている。



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