赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴 藤原摂関家長者・左大臣「藤原頼長」の庄園『吉岡庄』考 →「吉岡庄地頭成佐」とは? 鞍馬寺との関係は?

2021-04-12 | 富山県高岡市福岡町赤丸村




■「延喜式内社赤丸浅井神社」は「五位庄五十三ケ村総社・郷社」として五位庄の中心施設で在った。(「五位庄」は南北朝時代迄は「後院領越中吉岡庄」と呼ばれる皇室の上皇領で、保元の乱で敗れた藤原氏摂関家長者藤原頼長の庄園を後白河上皇が皇室領としたもの。)







「川人山鞍馬寺」(後の法莚寺)


■「吾妻鑑第七巻」の「文治三年三月小二日」の項に、「越中吉岡庄の地頭の成佐」が不法を働いたので「後白河上皇」の近臣の「吉田経房卿」から「源頼朝」に対して早く罷免して交替させて欲しいとの申し状が届いた事が記されている。「越中吉岡庄」は、当時は藤原氏長者の藤原頼長領から「保元の乱」の戦後処理として没官され、「後白河上皇」の「後院領吉岡庄」になっていた。
【※「吾妻鑑第七巻 文治三年(1187年)三月小二日甲辰。越中國吉岡庄地頭成佐不法等相累之間。早可令改替之由。仍則被献御請文。
 去月十九日御教書。今月二日到來。謹令見候畢。越中國吉岡庄地頭成佐事。任御定。早可令改定候。但彼庄未復本之間。御年貢不式數之由を。成佐申之候き。重相尋候而可令改他人候也。以此旨。可令洩達給候。頼朝恐々謹言。」】







■この結果、「吉岡庄の地頭成佐」は罷免されたらしい。しかし、この「成佐」については福岡町木舟城の石黒氏について記載された「貴船城古今誌」に「福岡町の大滝地区はその昔、大竹地区と呼び、吉岡庄の地頭成佐が開発した」事が記載されている。この「吉岡庄の地頭成佐」についてはその素性がハッキリしない。
元の領有者「藤原頼長」の側近で儒士の「藤原成佐」という人物が居る。久安六年(一一五〇年)に「藤原頼長」は摂関家藤原氏の氏長者と成っているが「藤原成佐」は翌年の久安七年(一一五一年)には四十五歳で没しているち。

■この文書が源頼朝から提出された文治三年(一一八七年)迄は36年もの隔たりがありこの人物は該当しないだろなう。
更に調査すると、天武天皇高市親王の子「長屋王」の子孫は「高階」と名乗ったが、その子孫の中に「藤原道長」に仕え「越中守」であった「高階業遠」(965-1010年)の子に「高階成佐」がいる。しかし、越中吉岡庄で地頭成佐が問題となったのは1187年だからこの「高階成佐」も「吉岡庄の地頭成佐」と同一人物ではないだろう。

■《※「藤原道長」の兄、藤原道隆の妻は高階貴子である。その子の定子と道長の子は何れも一条天皇に嫁している。一条天皇は在位中「川原左京」(当時の河原町の左京大夫--藤原道長か?) を赤丸浅井神社に「蝗害防止祈願」の勅使として遣わし、浅井神社の左右に一対の桜をお手植えされたと云う。その桜は昭和初期まで巨大な桜の木となって生き続けたと云う。(その桜の木の写真は現在も浅井神社拝殿に掲額されている。)
※足利氏の下で権力をふるった高氏は公家の高階氏の分かれで、成佐(なりすけ)という者の代に下野に土着して武士となった。成佐の子は惟章(これあき)と言ったが子供がいなかった為、八幡太郎義家の孫の惟頼(これより)を養子に迎えて家を継がせた。惟頼の兄弟の義重は新田氏の、義康は足利氏のそれぞれ祖となった。高氏はその系譜からすると新田氏や足利氏とは兄弟の家筋という関係である。
「高階業遠」の妻の父は「在原業平」である。高階業遠から5代目には後白河上皇の寵妃の高階栄子(1151-1216年、 丹後局)が出ている。その第6皇女の覲子内親王(きんしないしんのう)【※養和元年10月5日(1181年11月13日)- 建長4年6月8日(1252年7月15日)女院号は「宣陽門院」と云う。建久3年(1192年)1月に父の後白河院から長講堂およびその附属領(長講堂領)をはじめとする広大な所領を譲渡され後白河院は直後の同年3月に崩御された。
「宣陽門院」は建久6年(1195年)に上洛した源頼朝・北条政子夫妻から拝謁を求められる等権勢を誇ったと云う。又、後鳥羽天皇の皇子の雅成親王を養子とし、関白近衛家実の娘の近衛長子(鷹司院)を養女として、後堀河天皇のもとへ入内させた。後白河上皇から伝領した長講堂領(後白河上皇創建)は承久の乱の後、一旦鎌倉幕府に没収されたが翌年には返還された。》

■「越中吉岡庄」は後白河上皇領であったが、三十三間堂で有名な「蓮華王院」に寄進されており、すぐ近接地の富山県と石川県境の「石動山」は後白河上皇の「長講堂領」になっており、後にはこの地も「丹後の局」の娘の「宣陽門院」に譲られたとみられる。
母の「丹後の局」は「源頼朝」とも親交が強く、後白河上皇が安徳天皇の後に「後鳥羽天皇」を立てたのは「丹後の局」の進言によるものと云われる。
後白河上皇側近の信西入道と平清盛により「保元の乱」の戦後処理が行われた。「信西入道※藤原通憲」は藤原南家の文章博士の系統に生まれ、「高階業遠」の後の4代目に当たり、大学頭の祖父を持っていたが、父親の早い死によって高階氏に養子に入れられて文章博士としての出世を絶たれた。これによって系統ではなく実力で這い上がるしかなかった通憲は後白河上皇の近臣として権力を持つようになった。「保元の乱」の後、越中吉岡庄は「藤原頼長」から没官されて後白河上皇の庄園「後院領」となり、「左大臣藤原頼長」は殺された。この時に戦後処理をしたのは高階一族の信西入道であった。その後、平治の乱で信西は殺され、源頼朝が政権を持つと高階氏は「丹後の局」を介して源頼朝と近づく。越中吉岡庄で源頼朝が「成佐」を地頭に任命し、「年貢の未納が起こったのは未だ災害から復興していないから---」と「成佐」を弁護する様な文書を後白河上皇側に提出している所から、地頭の成佐は源頼朝にとっても配慮すべき人物だったのだろうか?

■鳥取県は昔、因幡(稲葉)の国と呼んだ。高草郡には延喜式内社倭文神社(シトリジンジャ)が有る。この神社は京都の『上賀茂神社』の競馬の儀式で1番に発走する馬を献上する事が決められている「倭文郷」に有った。因幡の国にはこの他に「吉岡保」等が鎌倉時代に成立し、後の室町期に「青蓮院門跡領」に寄進されて「吉岡庄」になった庄園がある。「青蓮院門跡」は鳥羽法皇の第7皇子の「行玄」を第一世とし、第3代「慈円」(藤原兼実の弟)は「愚管抄」を著した人物である。
(※藤原兼実・慈円の父の藤原忠通の弟は「越中吉岡庄」を領有した「藤原頼長」である。)

■越中では、白河上皇の時代(1090年)に高岡市福岡町赤丸周辺の「越中吉岡庄」が『上賀茂神社』の荘園となり、富山市呉羽から下村にかけての「倉垣荘」が『下鴨神社』の荘園になった。下村の加茂社では現在も「やぶさめ」の神事が行われ、往時の繁栄を伝えている。時代は下って、1348年にはこの「倉垣荘」は「吉岡某」により庄役を怠り横領されたと云う。(※「富山県大百科事典」富山新聞社版)
一方、「越中吉岡庄」は短い期間の様だが南北朝の末期に再び、「下鴨神社」の荘園になったと云う。



源頼朝は「上賀茂神社」の競馬の儀式で因幡(イナバ;元、稲葉国造が支配)の国「倭文郷」から献上した馬を一番に、二番は加賀国金津荘(羽咋地方)から献上した馬を走らせる様に「下文」を下している。この「倭文郷」の在る「因幡の国」を拠点とした「吉岡」と名乗る地侍が勢力を持ち、文明6年(1474)頃には「吉岡左近将監」が、鎌倉寺領という口実で「吉岡庄」(吉岡保)を領有した為に青蓮院門跡雑掌から訴えられている。「鞍馬寺文書」に拠ると、この「吉岡庄」は室町幕府の「三代将軍足利義満」が「鞍馬寺」に寄進した土地だと云う。「越中吉岡庄」も「足利義満」により義満が建立した「相国寺」に寄進されている。この因幡国の地侍の吉岡一族は越中吉岡庄を追われた吉岡一族だろうか?

■■全国各地に【吉岡】と云う地域が在った。富山県にも、「氷見市吉岡」や「富山市太田」に「吉岡村」が在った。
古くから富山市から魚津市にかけて拡がっていた京都の「祇園社」の庄園を統治していた「宮道氏」の後裔の「越中蜷川氏」は富山市蜷川郷や滑川に居城を構え、室町時代には「足利義満」の外戚として越中の新川郡・利波郡を統治したと云う。「宮道氏」は京都山科を本貫地とした氏族で在り、この一族の中には「吉岡」と名乗る人物が有り、【「蜷川」の本家は「吉岡」で有る】と記載された文書も残っており、「吉岡庄」の地頭をしていた一族として「吉岡」と名乗った可能性がある。富山市太田保の蜷川郷の近接地に「吉岡村」が在り、この村は蜷川氏一族の「吉岡」と関連していた様だ。

▼近年迄、学会ではこの太田保の「吉岡村」が「越中吉岡庄」だとする誤った意見が在ったが、【「越中吉岡庄」は京都の賀茂神社の庄園に成っていた時期が在り、吉岡村には「賀茂神社」の痕跡が無い事から、「越中吉岡庄」は高岡市福岡町赤丸周辺の「吉岡の庄」・「芦岡の庄」として伝わった地域で在る。】と2014年に「国立歴史民俗博物館」は確定している。




■「後白河上皇」の近臣であった「信西入道」が藤原氏から高階家に養子に入っている所から、藤原氏と高階氏は相当に近い間柄であり、それぞれが「越中吉岡庄」に強い繋がりを持つ。しかも何故か「賀茂神社」の社領には「吉岡」と名乗る集団も絡んでいる。しかし、富山県以外に「吉岡成佐」の記録は見当たらない。昔は代々、同じ名前を襲名していたから、あるいは時代が離れた同名の人物がいたのかも知れない。
京都の「鞍馬山」で「源義経」に剣法を教えたと伝わる天狗の化身と云われた「鬼一法眼」はその姓を「吉岡」と呼び、その京八流(吉岡流)を継いだのは宮本武蔵と戦った吉岡清十郎、吉岡伝七郎と云われ、「吉岡流」は足利家の剣法指南の名門で在ったと言う。従って、著名な「鬼一法眼」の吉岡家が各所に荘園を持っていた可能性も有る。「吉岡家」は京都で長く染師もしていたと伝わり、赤丸浅井城の背後には「麻畑」と称する地名が残っている事から、麻布の染色も行われていたものだろうか? 「五位庄」は室町時代には足利家の直轄地となり、京都「相国寺」や「等持院」に寄進されていた足利家とも密接な荘園である。 五位庄赤丸村の浅井神社周辺は、京都鞍馬寺の分院を勧請した「川人山鞍馬寺」が在った「鞍馬寺」と云う地名であり、「赤丸浅井神社」も明治時代まで「川人山鞍馬寺」(※カワドサンアンバイジ) と呼ばれる両部神道の寺院であったから、あるいはその昔はこの吉岡庄も吉岡家の荘園で有ったものか? 「吉岡」と名の付く庄園は越中に三ヶ所、全国に四ヶ所あり、「吉岡保」も二ヶ所(その内、因幡・高草 は後に吉岡庄になる。)ある。因幡国(高草)の「吉岡庄」は鞍馬寺領となっており、越中吉岡庄の「川人山鞍馬寺」は京都から勘請されたと云われ、住職は「鞍馬」と名乗っている。何れも京都の鞍馬寺との関係が強い庄園であり、「吉岡」は京都鞍馬寺と関係が深い名前であることが窺われる。

■「京都鞍馬寺」を建立したと云う「藤原伊勢人」
「赤丸浅井城」を居城にした「越中吉岡庄」にはこの「京都鞍馬寺」が勘請され「川人山鞍馬寺」と称した。



■「川人山鞍馬寺」本尊の「富山県指定文化財 釈迦如来像」は城端の善徳寺を経由して現在は「浄土真宗井波別院」の客仏になっている。この仏像は白山信仰の流れの仏像とされている。又、もう一体の鎌倉時代製作の「釈迦如来座像」は高岡市福岡町の「林照寺」に祀られている。








■「越中吉岡庄」(後の五位庄)については「義経記」で義経が奥州下りの際に立ち寄り、「二位の渡し」で検問を逃れる為に弁慶が義経を打擲する場面が出てくる。これはあの有名な「勧進帳」の名場面の原作である。「延喜式内社五位庄53ケ村総社赤丸浅井神社」には「義経と弁慶」の巨大な奉納額が2面かけられており、義経主従との関係が強く意識されてきた歴史がここにも窺い知る事ができる。赤丸村では「吉岡鬼一法眼」の「吉岡」の地名と弟子の「源義経」の足跡が重なっていたのだろうか?  当時の「越中吉岡庄」は「後白河上皇」の荘園であり、小矢部川河口の伏木港と近い石川県境の「石動山」も「後白河上皇」の勅願寺で、数千人の僧兵を抱える越中の山伏を統括する巨大寺院で在ったと伝わり、「源義経」が遠回りをしても参詣したと云われる福井県大野市の「平泉寺」は奥州の藤原氏と密接な白山山伏の寺院であり、その九頭竜川下流の福井県吉田郡に展開した河北(河合)荘は、最大の義経の後援者と云われた「後白河上皇」の皇子の「守覚法親王領」で有った。この福井県から富山県に至る北陸道は、平泉寺、白山山伏、立山山伏、越中石動山山伏と山伏のエリアであり、この修験道川人山鞍馬寺の在った後白河上皇庄園の「越中吉岡庄」も義経主従にとっては安全地帯だったのかも知れない。

■「越中吉岡庄」の地頭として「吾妻鑑」に掲載され、京都の木舟神社を祭っていた福岡町大滝地区を開発したと伝わる「吉岡庄地頭成佐」は「越中吉岡庄」を頼朝から追われて何処に移ったものか?「吉岡」とは何者なのか? あるいは、藤原氏の荘園の「吉岡庄」の地頭であった為に、「吉岡成佐」と呼ばれていたものだろうか? 

【※「吉岡庄」は越中では富山市と氷見市にも在ったと云われる。富山市吉岡村は、室町時代に利波郡・新川郡を統治した「蜷川氏」の一部が「吉岡」と名乗った事から興ったとされる。
藤原頼長庄園の「越中吉岡庄」は「白河天皇」の時に「上賀茂神社」の庄園となっており、赤丸村、加茂村に「上加茂社」、「下加茂社」が在った事からこの庄園は「赤丸、馬場村の地に在った庄園」と「国立歴史民俗資料館」のデータベースで確定されている。又、全国的に見ると、甲斐(山梨)や、因幡に(高草)青蓮院門跡領→山門領→鞍馬寺領、備前(磐梨)熊野社領となった吉岡庄が在り、伊予には(桑村)皇室領→安楽寿院領、昭慶門院領→八条院領→妙法院領 となった「吉岡庄」が在り、「吉岡保」としては、丹後(熊野)藤森社領、因幡(高草)鞍馬寺領(※足利義満の時に吉岡庄となる)が在る。】

●「保元の乱」の後に「藤原摂関家藤原頼長の庄園」の29庄が「後白河上皇」に没官されて「後院領」に編入されている。(※保元二年三月)

⇒1.陸奥国桃生郡本良(本吉)荘、2.同磐井郡高鞍荘、3.出羽国飽海郡大曽根禰荘、4.同遊佐荘、5.同屋代荘、6.能登国鹿島郡一青シトド荘、7.越中国砺波郡吉岡荘、8.丹波国桑田郡曽我部荘、9.同土師荘、10.周防国玖郡珂郡山代荘、11.紀伊国牟婁郡三栖ミス荘、12.阿波国那賀郡竹原荘、13.筑前国鞍手郡植木荘、14.豊後国大分郡稙田ワサダ荘、15.山城国田原荘、16.同川島(革島)荘、17.同大道寺荘、18.摂津国桜井荘、19.同富松荘、20.同位陪(井陪)荘、21.同大島雀部ササキベ荘、22.同野間荘、23.大和国藤井荘、24.伊勢国山田野荘、25.尾張国檪江イチイエ荘、26.甲斐国石間イワマ牧、27.相模国成田荘、28.美濃国深萱フカカヤ荘、29.下野国佐野荘 以上29ケ所 】

■「京都の清水寺の千手観音像」→「赤丸浅井城」の奥の「清水山」には「京都の清水寺千手観音像」の写しを祀る「清水観音堂」が現在も遺されている。




●大和国藤井荘は近習の源俊通からの寄進、陸奥国桃生郡本良(本吉)荘、同磐井郡高鞍荘、出羽国飽海郡大曽根禰荘、同遊佐荘、同屋代荘の五荘は久安四年に父の忠実から譲られた18ケ所の内の庄園だ。
これ等、陸奥(青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部)、出羽(山形、秋田)の東北からは奥州の藤原基衡によって砂金、布、馬、漆、鷲羽等が送られて来ていた。又、「能登の荘」(一青荘?)は康治二年前に法橋信慶から寄進された。紀伊国牟婁郡三栖ミス荘、阿波国那賀郡竹原荘、豊後国大分郡稙田ワサダ荘の三荘は康治元年(1143年)には頼長が既に所有していた。この他、父の忠実からは、仁平元年二月には近江国を譲られて知行国主となり、尾張国日置荘は久安四年以前に忠実から譲られ、久作安元年には淡路の荘を藤原全子から譲られているが、この没官領には見られない。「越中吉岡庄」はその取得経過が判らないが、「藤原頼長」の先祖の「藤原道長」と「赤丸浅井神社」は所縁があった様で、この庄園は藤原氏を名乗った「越中石黒氏」が累代赤丸浅井城を居城にしたと「肯構泉達録」に記載される事から、藤原摂関家長者に石黒氏が寄進したものかも知れない。この「藤原頼長」の個人所有のものの他、藤原摂関家固有の庄園としては約46ケ所在ったとされるが、これ等は没官を恐れた父の「藤原忠実」が先手を打って後継の兄(父→兄の養子になっていた。)「忠通」に譲られた為に没官を逃れたと云う。
これ等の経過から見ると、藤原摂関家が如何に大きな富を手にし、その財力で朝廷を牛耳っていたかが窺い知られる。
(※「日本荘園史大辞典」・「藤原頼長」橋本義彦 吉川弘文館発行)

■「越中吉岡庄」は、歴史的に「白河上皇」の時には京都の「上賀茂社庄園」に成り、南北朝末期には「下鴨神社」の庄園に成っている。しかも、この庄園には京都の鞍馬寺が勘請されて「川人山鞍馬寺」が在り、この寺は「48坊の塔頭寺院」を抱え、「赤丸浅井神社」を頂点とした「三社権現」形式の大寺で在った。
『吉岡』と言う一族と『吉岡庄』について検討して見ると、越中国も因幡国も『京都』の『賀茂御祖神社』と『鞍馬寺』が絡んでおり、又、越中吉岡庄には『貴船神社』(※福岡町木舟)も勘請されている。
当時、京都の『東寺』の建設責任者で在った「藤原伊勢人」は、夢枕に『貴船神社』の神が現れて、その御託宣で『鞍馬寺』を建立したと言う。京都では賀茂川上流域に立地している『賀茂御祖神社』、『貴船神社』、『鞍馬寺』は長く朝廷や貴族が『天候祈願』や『悪霊退散』を願って参拝した寺社で在り、『吉岡庄』や『吉岡氏』はこれ等の寺社と密接な名称で在ったと思われる。

■富山市に「新川郡吉岡村」が在り、学会ではこの「吉岡村」が「越中吉岡庄」で在るとして来た。しかし、平成26年「国立歴史民俗博物館」では「越中吉岡庄は上賀茂神社、下鴨神社の庄園になった記録が在り、富山市吉岡村にはその痕跡が無い。しかし、高岡市福岡町の吉岡庄には曾て上加茂、下加茂社が存在しており、他の資料も検証の結果、高岡市福岡町の吉岡庄が後白河上皇の庄園と成った吉岡庄と考えられる」として、正式に「庄園データーベース」が修正された。
一方、「新川郡吉岡村」に付いては、富山市域を含んでいた「太田保」の中の「蜷川郷」に在り、この地に「蜷川城」を建てて、【室町時代には新川郡、砺波郡を統治した】(※「蜷川の郷土史」)とされる越中蜷川氏の中に「吉岡」と名乗った人物が居た事から、この「蜷川氏」が吉岡庄の地頭として「吉岡庄の成佐」と名乗って居た可能性が高い。蜷川氏の祖は京都の「宮道氏」で在り、源頼朝の旗揚げに参画して源頼朝に取り立てられた武将で在り、一族は古く宇多天皇の頃から皇室共縁組して、後の「足利義満の母」はこの蜷川系の紀良子(※月海夫人)で在った。室町幕府第三代将軍足利義満は室の日野業子の追善料としてこの「吉岡庄」を「相国寺」に寄進してその統治を守護「畠山満家」に委ね、実務は政所代「蜷川新右エ門親当」に委ねた。
(※「万山編年精要」(※相国考記)、「蜷川家文書」)
これ等の資料から、頼朝の近臣で在り、源氏の足利氏の親族と成って居た「越中蜷川氏」が「越中吉岡庄」の地頭「成佐」で在った可能性は高い。蜷川氏は室町時代に成ると、新川郡では魚津市辺りから立山町~富山市迄の広範囲な新川郡の「祗園社領」や(※「祗園社記」)、砺波郡では福野町野尻から富山湾に至る広範囲な「五位庄」を統治した様で在り、「畠山家文書」に記載の越中絵図に拠ると、富山県の大半が「越中蜷川氏」の統治下に在ったと見られる。又、「蜷川家文書」には氷見市の「阿努庄」に関する「蜷川新右エ門親当」の文書が遺されており、その範囲は正に越中全土で在ったのかも知れない。
源頼朝に取り立てられ、後には足利氏の下で権力を奮った「越中蜷川氏」こそ、「吾妻鏡」に登場する『吉岡庄の地頭成佐』と考えられる最有力な一族だ。

「吉岡」に関して各地の吉岡を様々に調べて見たが未だ確定できて居ない。
後考を待つ。








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