赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🚩🚩富山県西部の古代庄園⇒「上賀茂神社庄園」の【越中吉岡庄】と「慈円」の庄園【越中福田庄】!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


■「越中吉岡庄」については平成26~28年に「高岡市福岡町赤丸、馬場周辺の後の五位庄域にほぼ該当する」として「国立歴史民俗博物館庄園データーベース」を確定して頂いた。
又、その歴史の中で「白河上皇」の時に「上賀茂神社」の庄園として設定された庄園の中に「吉岡庄」も含まれていたとされている。
【※「山野川湊の中世史」(※久保尚文著)には、寛治四年に白河院政が庄園を寄進した時に富山市の「新保御厨」と「越中吉岡庄」が上賀茂社の庄園になったと記され、「庄園データーベース」にも「吉良庄」として記載されるが、これは学界では「吉岡庄」の事だとされている。「吉岡庄」が南北朝末期と室町時代に下鴨神社 《※下鴨神社、正式名称は賀茂御祖神社》の庄園に成った記録は、「賀茂御祖皇太神宮神戸記 巻7」に記載されている。】











■「兵範記」の記載


■「人車記」(※近衛家陽明文庫 陰影版)




■「越中福田庄」の「庄園データーベース」には「慈鎮領」の庄園記録が記載されている。これについて調査すると、その記載は「華頂要略 巻55」に記載されている。その中の「慈円」が遺した「慈鎮和尚重被譲進西山宮状案」等に「福田庄」が見られる。
(※この文書には織田信長の先祖の地とされる越前織田庄の記載も在る。)
(※「華頂要略」は青蓮院の寺史。→「天台宗全書第16」)
「福田庄」はその後、「妙法院領」と成り、後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が妙法院院主、天台座主と成り、その後は宗良親王の弟子の北朝の親王に受け継がれている。








■「華頂要略」(※天台宗全書16)



■「華頂要略」
【京都府立京都学・歴彩館 Kyoto Institute, Library and Archives】






■『越中西部』には藤原氏の庄園が広がっていた。
「慈円」【久寿2年4月15日(1155年5月17日)~ 嘉禄元年9月25日(1225年10月28日)】は、平安時代末期~鎌倉時代初期の天台の僧で『愚管抄』を著した事で有名だ。諡号は慈鎮和尚(ジチンカショウ)、通称は吉水僧正(ヨシナガソウジョウ)と呼ばれる。父は「越中吉岡庄」を所有していた藤原頼長の兄の摂政関白藤原忠通、母は藤原仲光の女加賀、摂政関白の九条兼実は慈円の同母兄に当たる。若くして青蓮院に入り仁安2年(1167年)には天台座主の明雲について受戒し建久3年(1192年)には38歳で天台座主になる。後に、慈円の天台座主就任は4度にも及んだ。兄の「九条兼実」の孫の「九条道家」の後見人を務め、「藤原道家」の子の「藤原頼経」は鎌倉幕府将軍として鎌倉に下向した。「後鳥羽上皇」の「承久の乱」では反対して『愚管抄』を書いたとされるが、「承久の乱」で「後鳥羽上皇」が隠岐島に配流されて九条兼実の曾孫の「仲恭天皇」(道家の甥)が廃位されたことに衝撃を受け、鎌倉幕府を非難して仲恭帝復位を願っていたと言う。又、「九条兼実」の娘は「越中吉岡庄」を所領としていた「後鳥羽上皇」の中宮「任子」である。
高野山下の女人高野と呼ばれた「河内金剛寺」から、元々赤丸村に在った総持寺に国宝にもなった「木造千手観音座像」が伝えられて、その観音像の胎内には「後鳥羽上皇」の法名『金剛位理卿』が記載されている。




■「越中吉岡庄」は藤原氏全体の最高権力者「摂関家藤原氏長者、左大臣藤原頼長」の庄園で在ったが、「保元の乱」で「後白河上皇側」に敗れて、保元二年に「吉岡庄」は「後白河上皇」の「後院領」に組み込まれ、「後白河上皇」はこの庄園を【蓮華王院】(※三十三間堂)に寄進している。又、「藤原道家」は小矢部市の「宮島郷」を庄園としていたが、後に官に返還している。(※「鎌倉遺文」)
この様に「五位庄」(※南北朝末期迄は「吉岡庄」)は天皇家、藤原氏と非常に密接だった地域だ。
(※「人車記」《兵範記》近衛家陽明文庫)

「赤丸浅井神社由緒」に拠ると、小矢部市宮島郷二ケ村、国吉郷二十六ケ村、後の五位庄域25ケ村を含む合計53ケ村が「赤丸浅井神社」に許された神域で在った事から、概ねこの範囲が「越中吉岡庄」の範囲だったと見られる。(※「皆月家文書」富山県立公文書館)

◇『国立歴史民俗博物館庄園データーベース』参照

🌄☁📃 門跡寺院「比叡山青蓮院庄園 」⇒【慈円】の庄園【越中福田庄】!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸








■青蓮院門跡は、天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つで、「後鳥羽上皇」の中宮「任子」や摂関家「九条兼実」の一族の「慈円」は「愚菅抄」を著して有名だが、この藤原氏の名門の「慈円」は越中の「福田庄」を庄園としていた。
この記録の原本は京都市のホームページに在る青蓮院記録の「華頂要略」で確認できる。(※「慈鎮和尚」とは「慈園」の事。)









■この隣接地は「後鳥羽上皇」の庄園「越中吉岡庄」で在り、氷見市から射水市にかけては、兄弟の「九条兼実」が創建した「東福寺」の庄園が広がっていた。越中國の東條保、河口保、曾祢保、八代等保 は「藤原道家」が寄進して東福寺領と成り、小矢部市に在った藤原道家の庄園の宮嶋保は国庫に返還された。 東條・河口・曽祢・八代等の保は 米100石で地頭が管理する事で地頭が連名で藤原道家に請状を提出した。(※「吾妻鏡」)

📙📃『由比正雪事件』と加賀藩⇒加賀林氏の系統に見られる「板津一族」!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■上杉謙信から越中五位庄を安堵されていた「柴野城主 寺島牛介」の子孫の『寺島蔵人』は高岡町奉行や算用場奉行等を歴任したが、その金沢の自宅に隣接して「由比」の家が見られる。


■『板津氏』は藤原利仁流加賀林系図に掲載されており、石川県小松市に「板津地区」が在る。
「慶安の変」で徳川幕府の転覆を図った「由比正雪」は本姓は「板津氏」だと言う。




■「加賀藩と由比正雪反乱事件」
・「慶安の変」[慶安4年7月23日;1651年]で由比正雪・丸橋忠弥の乱が発覚し、丸橋忠弥は捕縛されて鈴ケ森で磔になる。この「槍の丸橋忠弥」は一時期、加賀藩に仕えていたと云う。加賀藩の寺嶋蔵人の知人に丸橋忠弥の知人がいた事から、蔵人はこの乱に同情を感じていたと云う。
由比正雪(―1651年)は江戸前期の軍学者で、号は正真。駿河(静岡県)の岡村弥右衛門の子。軍学者高松半兵衛の養子になり高松与四郎と称する。養父の死後江戸へ出て、浅草の菓子屋の鶴屋弥次右衛門の養子となり、楠木正成の末裔と称する楠木流軍学者の楠木不伝に師事してその養子となる。1633年(寛永10年)養父を毒殺して家伝書を盗み、牛込榎町の道場を横領して、中国の兵法家張良、諸葛孔明の名から「張孔堂」を開く。旗本、大名家の家臣、改易浪人等約3000人の門弟を集めて幕府の転覆を図ろうとするが、事前に洩れて小雪は自殺する。系図では、この由比や丸橋は加賀林氏の系統の「板津氏」の流れを汲むと云う。加賀藩侍名簿には数名の「由比姓」が見られ、当時の金沢城下の絵図を見ると「五位庄領主寺島牛介」の末裔で高岡町奉行等を歴任した「寺島蔵人」の自宅の隣人も「由比」になっている。

■加賀藩算用場奉行等を歴任した「寺島蔵人」の先祖「寺島牛介」は能登守護畠山氏の家臣で、高岡市柴野城を居城とした。上杉謙信の家臣としても記録される。富山県高岡市で高岡町奉行も勤めていた「寺島蔵人邸」は金沢市の兼六園と近江町市場の中間に在り観光地となっている。












■加賀の林氏系図と越中石黒氏の関係を検証した時にこの「板津氏」が登場している。
「越中砺波郡石黒系図」に登場する「石黒光景」の子「石黒光久」は別名「福満五郎」と名乗り、「石黒光弘の弟」で、兄弟には「光延」(高楯次郎)、「成真」(泉三郎)、「安高」(水巻四郎)がいた。
(※「石黒光景」は赤丸浅井城を築いた石黒氏として歴史書に登場している。)
この「石黒光久」(石黒権大夫)※別名「福満(光)五郎」は「加賀の林貞光」の猶子となり、藤原氏を名乗った。この人物は同時に「利波臣系統の豊久」の後継者となり、その息子の太郎光興は林貞光の娘を妻としたが、その後継には叔父の(父光久の兄)光弘がなっている。光弘は木舟(貴布禰)城に住して林六郎光明の娘を妻とし、その子の弥太郎光房も林六郎光明の娘を妻としており、石黒氏と林氏は何代にも亘り婚姻を重ねていた事が判る。尚、利仁系加賀斎藤系の加賀林氏の直系は林貞光の長子の光家が直系を継ぎ、その子孫は大桑、豊田、松任、石浦、藤井、飯河、弘岡、安田、山上、横江、近岡の祖となり、光家の弟の成家の系統は倉光、白江、【板津】、宮永の祖となっている。又、越前斎藤系に加藤、後藤、美濃斎藤氏等が有る。「石川県史」の「林氏系図」に拠れば、利仁ー叙用ー吉信ー忠頼(代々加賀介ー加賀斎藤)と続き、その長男則高ー為輔(石浦氏)の系統は越中寄りの石浦荘に拠り、越中側の石黒荘の開発も進め、3代後の光景は石黒姓を名乗った様で、為輔の次男吉宗は加賀介の家系を継ぎ、林、富樫等の祖先になったとされている。これ等の姓は今も金沢近郊に町名として残り、石川県に展開した一族と富山県に展開した一族とはここで分岐した事も推測できる。加賀斎藤氏、「越中砺波郡石黒系図」の藤原氏の祖は同じ藤原利仁を祖としているが、「越中砺波郡石黒系図」(石黒荘の開発に派遣された藤原氏)の藤原氏は利仁直系で、加賀林氏は加賀介忠頼の子吉宗から分岐した流れを汲んでいると云う。(藤原叙用が「斎宮頭」となり、子孫は「斎宮頭になった藤原氏」から「斎藤」を名乗る。「石川県史」の系図では「石黒氏」は登場せず、「石浦氏」しか登場しない。いくつかの「石黒系図」では「石浦氏」の系統から石黒氏が出たとし、「石黒光久」から石黒氏を名乗ったとする「越中石黒系図」や、「石浦(石黒)五郎為輔」が初めて石黒を名乗ったとする「越中砺波郡石黒系図」がある。)

■世界大百科事典 第2版参照
【丸橋忠弥】?‐1651(慶安4)
江戸前期の浪人。慶安事件の参加者の一人。俗書では出羽の人とするが,下級幕臣の子であったと思われる。一時加賀前田氏の家臣に奉公していた。宝蔵院流の槍の達人で,江戸御茶ノ水に道場を開いていた。1651年由比正雪の幕府に対する謀反計画に加わり,江戸城攻撃を受け持つが,訴人があって,同年7月23日捕らえられ,8月10日品川の刑場で磔刑(たつけい)に処せられた。

【藤井 譲治】 実録本《油井根元記》(1682年序),《慶安太平記》(幕末成立)などのほか,講談でも早くから事件を潤色,丸橋忠弥は主要人物の一人として描出された。

■中津川市蛭川の「南朝神社」に残る「板津若狭守 由井正雪」の文字。
由比正雪は「楠木流軍学」を講じて南朝の復活を夢に見て、紀州徳川家を巻き込んで反乱を企てたが、事前に計画が漏れて自刃した。
中津川市には「南朝神社」が在り、その神社の鳥居には「板津」・「由比正雪」の寄進者の名前が彫り込まれている。
(※YouTube参照)




🔴🔹【越中の太宰府 オオミコトモチ】「延喜式内社赤丸浅井神社」創建の「石川朝臣広成」の事⇒「大宝律令」以後の『国司』制度と『親王任国制度』!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸

■『越州川人山鞍馬寺三社縁起』
(※「延喜式社赤丸浅井神社」の別当寺の縁起。川人山鞍馬寺、赤丸浅井神社、石堤浅井神社、舞谷八幡宮を合わせて三社権現形式とした。)







■『越州川人山鞍馬寺三社縁起』に記載される「元正天皇二宮の御創建」!!






●【律令時代の「国司制度」】
■「律令制」の「国司」。
「国司」は、古代から中世に地方の「国」の行政官として中央から派遣された官吏で、「四等官」である【守(カミ)、介(スケ)、掾(ジョウ)、目(サカン)】等を指す。(古代日本の地方官制では各府によって四等官の名前が異なる。)
郡の「郡司コホリノツカサ」は地方豪族から任命され、中央支配の組織として「国司クニノミコトモチ」が任命された。任期は6年(後に4年)。「国司」は国衙(国庁)において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事の全てを統括する絶大な権限を持っていた。
「大化の改新の詔」で、「国司の配置」が見られ、当初は「国宰」(クニノミコトモチ)と言われ、「国宰」の上には数ヶ国を統括する「大宰」(オオミコトモチ)が設置されたという。(※「大宰府」[ダザイフ])。7世紀末迄に「令制国」の制度が確立し、全国的に「国司」が配置されたと云う。「大宝律令」は[大宝元年(701年)]に制定されて国・郡・里の「国郡里制」に編成され、中央集権的な『律令制』が敷かれた。『律令制』において、「国司」は地方統治の要で律令制の「班田収授制度」は、戸籍、田地の班給、租庸調の税制で構成され、これが「国司」の職務となる。

■地方官の「四等官」は「督カミ」・「佐スケ」・「尉ジョウ」・「志サカン」に成る。



■何故、東大寺大仏造営に貢献した「利波臣志留志」は越中国では国司の「守カミ」には成れず、「介スケ」に止まったのか?
⇒「国司」の「親王任国制度」。

平安時代の天長3年(826年)から『親王任国』の制度が始まり、「桓武天皇」、「平城天皇」、「嵯峨天皇」は多くの皇子・皇女がいた為に中央の官職が不足した為に「親王」の官職として『親王任国』の「国司」が充てられ、『親王任国』では国司筆頭官の『守』には必ず親王が補任されたと云う。『親王任国』の「守」となった親王は『太守』と称し、任国へは赴任せず、実務上の最高位は次官の「介」であった。

■「聖武天皇」の弟の「石川朝臣広成」の事。⇒「太宰オオミコトモチ」制度の初期か?
富山県高岡市福岡町赤丸の「延喜式内社赤丸浅井神社」の由緒に、「元正天皇二宮が創建された。元正天皇は一宮、二宮に全国を東西に分けて各々、三十三年ケ国を統治させた。」と記されている。これは律令制度の初期に見られる「親王任国制度」の【太宰オオミコトモチ】を説明していると見られ、この前例が後に正式に「親王任国制度」として一般的に成ったものと見られる。「元正天皇」は文武天皇の姉に当たり、文武天皇が早逝された為に当初、母の「元明天皇」が幼い皇子の母親代わりになられたが、後に譲位して娘の「元正天皇」が終世独身で即位された。この皇子の「一宮」は「夫人 ブニン」と成った「藤原不比等の娘の宮子」の皇子で後の「聖武天皇」になられた「首皇子 オビトオウジ」で有り、「二宮」は文武天皇の「嬪ビン」の「石川刀自娘」(※蘇我氏)の皇子で、この親子は不比等の策謀で臣下に降下させられた。赤丸浅井神社は「西暦717年」頃に「元正天皇の二宮の御創建」と伝わり、「元正天皇」は臣下に降下した天皇の子供について「全て、天皇の子供は親王とする。女帝の子供も亦、同じ」(※「令義解レイノギゲ」に記載される「 継嗣令」)と令して身分を「親王」とされて「石川刀自娘」の子供には「石川朝臣広成」と賜姓され、後にこの皇子は「高円朝臣広世」と賜姓された。
(※「高円タカマド」は聖武天皇の別荘が在った地域の名称)

■【令義解レイノギゲ】;『養老令』の公的解釈を示した書物。 10巻。淳和天皇が右大臣清原夏野らに命じて作成。天長 10 (833) 年成立。






■「続日本紀」には「文武天皇」七年(697年)八月二十日の条に【藤原朝臣宮子娘を,文武天皇の夫人とし,紀朝臣竈門の娘・石川朝臣刀子娘を妃とした。】と記載され、「巻六」の和銅六年(七一三)十一月乙丑には【貶石川・紀二嬪号。不得称嬪。】と記載され、この時に「石川刀自娘」と「紀竈娘」の二人の「嬪ビン」を廃して臣籍に落としたとされる。
(※この時に母親と共に臣籍に落された子供が「石川朝臣広成」とされる。続日本紀にはこの間の文章は見られ無いが、前後の関係からこの子供が「石川朝臣広成」と見られ、元正天皇はワザワザ「継嗣令」を発して広成に「親王」としての地位を確保したと見られる。)

▼【石川朝臣広成】;天平時代(740年頃)に「恭仁京」に赴任して詠んだ和歌が『万葉集』に載っている。又、天平15年(743年)頃には天皇の側近の「内舎人」を務めており、「大伴家持」もこの役職に就いている。天平宝字2年(758年)に淳仁天皇の即位に伴い、従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵され、天平宝字4年(760年)母方の氏姓であった「石川朝臣」から「高円朝臣」に改姓して同年、文部少輔に任ぜられる。その後、「摂津亮」、「尾張守」、「山背守」を歴任し、天平宝字8年(764年)正月には従五位上「播磨守」に叙任される。「藤原仲麻呂」政権下で畿内やその近辺の大国・上国の地方官を歴任していたが、同年9月に発生した「藤原仲麻呂」の乱後の10月には「播磨守」の官職を廃されて「藤原黒麻呂」と交替した。「称徳天皇」の時代では、「周防守」、「伊予守」と地方官を歴任して、宝亀元年(770年) 「光仁天皇」の即位に伴い正五位下に昇叙されている。『万葉集』に3首、『玉葉和歌集』に1首の歌が掲載される。[Wikipedia])

■「越中国司 利波臣志留志」。
越中国利波郡を本拠とする奈良時代の郡司級地方豪族。天平19年(749年)9月、東大寺盧舎那仏(大仏)の造営の為に米5000石(※「東大寺要録」)を寄進して無位から「外従五位下」に叙された。
(#現在も毎年三月に行われている「東大寺お水取り行事」では東大寺大仏造営の寄進者名簿で在る「東大寺修院過去帳」が転読されており、その中で「利波臣志留志」は寄進者筆頭として記載されている。)
「利波臣志留志」は、天平神護3年(767年)3月20日「越中員外介」に任じられ国司待遇に成り、同日に東大寺に墾田100町を寄進して従五位上に叙された。同年、越中国内の東大寺領荘園の検校を行って文書や絵図に署名を残している。宝亀10年(779年)2月には「伊賀守」に就任して初めてこの時には中央政権の国司最高位名称の「守カミ」に就任している。





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■東大寺大仏造営の時に米五千石(セキ)(※[東大寺要録、上院修中過去帳])を寄進して、一躍、「国司」の資格『介』を得た「利波臣志留志」については、「続日本紀」に以下の三ヶ所に記載されている。(「続日本紀」では米三千石を寄進して、更に庄園100町を寄進した事になっているが、この二件を合計して東大寺要録では「米五千石」と記載されたものと見られる。)
・続日本紀 巻第十七
《天平十九年(七四七年)九月乙亥[甲戌朔二]》○九月乙亥。越中国人無位礪波臣志留志米三千碩。奉盧舍那仏知識。並授外従五位下。
・続日本紀 巻第廿八
《神護景雲元年(七六七年)三月己巳[二十]》○己巳。外従五位下利波臣志留志為越中員外介。授外従五位下利波臣志留志従五位上。以墾田一百町献於東大寺也。
・続日本紀巻第卅五
《宝亀十年(七七九年)二月甲午[二十三]》○甲午。以従五位上利波臣志留志為伊賀守。
📕「利波臣志留志」は、東大寺大仏の寄進者名簿で在る「修院過去帳」には、「リハノシルノサカン」と記され、「志」は「サカン」と呼び慣らされ、「サカン」は「東大寺」では「四等官」の「志」を指すとしている。しかし、「続日本紀」等では「利波臣志留志」は固有名詞として記載されている。

■ここで、注目すべき事は、「臣」と付く一族は天皇系であり、藤原氏の様に元々、神事を司った「連」は職能集団に与えられた姓カバネである。(※時代よりこの区別の例外もある。)
「利波臣」は系図からしても「天皇系」を名乗っている。しかし、「越中国官倉納穀交替記」に見られる「利波臣志留志」の前後に連なる「利波臣」は全て「郡司」であり、国司の資格『介』となったのは「志留志」のみである。
しかも、一般には「五位」に序せられると、大抵は「従五位」になったが、「利波臣志留志」は「外従五位下」に序せられて、後に「従五位上」に序せられている。当時は、帰化人が「五位」になった場合は姓が卑しいとして「外」がついた「外従五位」になったと云う。しかも、その位祿は「従五位」の半額であったと云う。帰化人は大抵、金持ちが多く、その点からも位祿は低かったらしい。(※「日本史探訪」NHK)しかし、その代わりに「外従五位下」には大変な特権が与えられていた云う。「五位以上」は貴族だから自らが商売を手掛けたり、従者の家人やに商売をさせることも禁じられていたが、「外従五位」はお構い無しで自由に商売もできたと云う。

●「聖武天皇」・「大伴家持」・「利波臣志留志」・「石川朝臣広成」は同時期の人物で、各々が「越中国」に所縁の人物で在り、詳細を調べると相互に深い関係性が見えてくる。
「延喜式内社赤丸浅井神社縁起」に見られる「元正天皇二宮(石川朝臣広成)」の説明を見ると「石川朝臣広成」は律令制下の「親王任国制度」の「守カミ」を説明しているものと見られ、初期の「国司制度」を説明しているものと見られる。
・「聖武天皇」は大宝元年(701年)生~ 天平勝宝8年5月2日(756年6月4日)没、在位は神亀元年2月4日(724年3月3日)~天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)。
・「石川朝臣広成」は聖武天皇の没後の天平宝字4年(760年)に「石川朝臣」から「高円朝臣」と賜姓され同年には文部少輔に任ぜられる。
・「大伴家持」は天平10年(738年)に「内舎人」と成り、天平17年(745年)に従五位下に叙せられ、翌天平18年(746年)3月には宮内少輔、6月には「越中守」に任ぜられた。赴任中の天平21年(749年)従五位上に昇叙される。
・「利波臣志留志」は聖武天皇在任中に東大寺に「米五千石」を寄進し、聖武天皇没後の神護景雲元年(767年)に「越中員外介」に任じられた。
(※任官名にはこの時に「守カミ」の記載が無いが、「親王任国制度」が適用されており、「親王」は実際に赴任しなかった為に空位として記載されたものか? 「継嗣令」に拠ると、聖武天皇の就任前の親王とされる皇子は「首オビトオウジ」と「石川朝臣広成」しか該当しない。)


🔴🏯「赤丸浅井城」と「越中五位庄」⇒『宝永誌』と『東寺百合文書』等に見られる『越中五位庄』!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸








🔘後白河上皇以来、天皇退位後の上皇の庄園「後院領」として伝領された『越中吉岡庄』は、南北朝時代に後醍醐天皇の第八皇子「宗良親王」が赤丸浅井城に入城された時に『五位庄』に改名されたと『宝永誌』は伝えている。京都の「東寺百合文書」の足利義満時代の文書には「五位庄」として登場している。
(※「宝永誌」福光町図書館写本 →加賀藩郡奉行が記した地誌、原本は金沢の旧家に伝わったと云う。)









🔴【高岡市関町】「衆徳山総持寺」の【薬師如来像】と、「天景寺」の【坂上田村麿像】(将軍地蔵像)のルーツ!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸











■高岡市瑞龍寺の隣接地の「衆徳山総持寺」には、「国指定重要文化財木造千手観音座像」の他にもう一体、重要な仏像がある。それは「薬師如来像」で年代も来歴もはっきりしない古い仏像で、元々この仏は安養坊?と呼ばれたらしい古寺に在ったと由緒に記載され、その収納される「厨子」は加賀藩の寄贈に拠ると云う。いつこの仏が総持寺に伝わったかも不明だが、総持寺にも薬師寺と同じ薬師信仰が有り、この「薬師如来像」は、総持寺に伝わる由緒では「春日明神の作」とする等、荒唐無稽な部分も有る。「鹿嶋神宮」、「春日大社」は江戸時代に全国の神社を「唯一神道」に基づいて教化しようとした「卜部氏」が奉祭した「京都吉田神道」の流れで在り、高岡市では「高岡関野神社」の「関氏」や「石堤浅井神社」の「清水氏」等が主導していた。吉田神道は、両部神道の「真言宗」、「天台宗」や修験道の「三井寺系」の「聖護院派山伏」に対抗して空海等が開いた古くからの仏教から神社を分離しようと画策して、「聖護院派赤丸浅井神社」の別当「川人山鞍馬寺」と厳しく対立して、「赤丸浅井神社」の末社で在る「石堤浅井神社」を簒奪して「吉田神道清水氏」のものにしようとして、強行に乗っ取りを謀った。その為に、天皇の皇居にもなっていた「聖護院」の系列の加賀藩内の寺院は連携して加賀藩、聖護院本山に訴えて、遂に吉田神道一派の乗っ取りを阻止する事に成功した。しかし、「石堤浅井神社」の神官清水氏達はその後も「延喜式内社赤丸浅井神社」は清水氏の持ち宮と主張して、石堤村の村役人を巻き込み、「高岡市の総持寺は元々石堤村の長光寺の敷地に在った」として「吉田神道」の流れで在ると主張して、「偽文書」迄作成して郷土史家の「飛見丈繁氏」に提供して、「高岡市史」の編集者にも提供した。その結果、「高岡市史」は吉田神道史観に基づいて「総持寺は元々石堤村に在った」として、その思想は現在の「高岡市教育委員会」の思想として「吉田神道高岡関野神社」の主張を唱え続けている。






■【熊野三山信仰】
「総持寺」と同じ様に「元々赤丸村に在った」【越中宮極楽寺】の本堂には、「越中吉岡庄」の領主の「後醍醐天皇の皇子宗良親王」が信仰されたと云う「熊野社」の厨子が奉られ、高岡市熊野町の「先宮熊野社」も「宗良親王」の創建と云う由緒を伝えている。
「両部神道」の「本地垂迹説」に拠れば、歴代天皇が信仰した鴨氏ゆかりの地「熊野の信仰」では、「熊野三山」の「熊野大社」の「本地仏」は「薬師如来像」で在り、その他の本地仏は「阿弥陀如来」、「千手観音」とされており、元々赤丸村「川人山鞍馬寺」の本尊で在った富山県指定文化財阿弥陀如来立像」は現在、浄土真宗井波別院の宝物になっており、もう一体の本尊で在った「毘沙門天像」は「赤丸浅井神社」に保管されている。(※「白山比咩神社史 古代・中世編」参照)









(熊野三山垂迹神)
熊野本宮大社 阿弥陀如来 熊野家津御子大神(スサノヲ命)
熊野那智大社 千手観音 熊野牟須美大神(イザナミ命)
熊野速玉大社 薬師如来 速玉之男大神(イザナギ命)

■【後白河上皇の庄園 越中吉岡庄に伝えられた信仰➡【千手観音座像】
【「新熊野神社」は後白河法皇の仙洞御所、法住寺殿内に造られた神社で、「後白河法皇邸」の神棚が新熊野神社、仏壇が三十三間堂と理解すれば解り易い。それゆえ、三十三間堂の御本尊は千手観音、新熊野神社の主祭神はイザナミ命となっている。 千手観音は六観音(聖観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音・准胝観音・千手観音)の一つで、正式名称を「十一面千手千眼観音」という。千手千眼とは千本の手の掌(てのひら)にそれぞれ一眼を持ち、1000の手と1000の眼で、全ての衆生を漏らさず救済しようとする観音菩薩の持つ一面「慈悲の力の広大さ」を千手観音で現している。
京都の蓮華王院三十三間堂には本尊の千手観音坐像を中心に、左右に500体ずつ、合計1000体の千手観音立像が安置されている。本尊の千手観音の一つ一つの手の上に千手観音が立っており、それが左右1000体の千手観音立像。そして、左右1000体の千手観音の手の上に、また千手観音が立っている。
仏の救いの手が1000×1000×1000……と無限に広がっていることを、この配置で示している。これが法皇の求められた信仰の世界で、法皇は現世をイザナミ命の持つ「慈母の愛」に、来世を千手観音の持つ「無限の慈悲」に託されたのであろう。 観音菩薩は般若心経の冒頭にも登場する菩薩で、仏の智恵・仏の慈悲を象徴する菩薩である。地蔵菩薩と対をなし、その容姿から地蔵菩薩を男性、観音菩薩を女性と見ることが多い。熊野がイザナミ命=千手観音、天照大神=十一面観音としているのも、そうした理由からであろう。那智に隣接する青岸渡寺は西国三十三所の一番札所で、元々那智と青岸渡寺は一体だった。つまり、熊野の浄土信仰の中心地が本宮、観音信仰の中心地が那智だった。】
(※新熊野神社hp)
 

■「延喜式内社赤丸浅井神社」の背後には、かつて、「総持寺の持宮」とされる「熊野社」が在ったが、明治の廃仏毀釈の時に廃寺となり、その祭神は「赤丸浅井神社」に合祀された。しかし、この時に「熊野社」の仏像「薬師如来像」は何処かへ移されたか赤丸浅井神社には残されていない。しかし、赤丸浅井神社の背後に在り、京都清水寺の本尊の「将軍地蔵」を奉っていた「愛宕社」も廃仏毀釈で廃寺となり、その後、この本尊の「将軍地蔵」は高岡市関町の「天景寺」へ伝えられた様だ。又、「総持寺」と向かい合う関町の「槌宮」は、赤丸村加治屋町島に栄えた「越中宇多刀工」の氏神で在り、この神社も赤丸村から動いたと云う。(※「富山県神社誌」)
「天景寺」も「総持寺」、「槌宮」も元々赤丸村に在ったが、赤丸村の豪族末裔の池田氏の所領に移ったと見られる事から、「総持寺」の「熊野社」の本尊「薬師如来像」は、現在「総持寺」に大切に奉られている【薬師如来像】と見て誤りは無いと見られる。
古くからの【真言宗寺院】で在る【総持寺】に「春日明神作の婦負郡婦中町の仏像」が奉られている理由は無く、この由緒は、「吉田神道高岡関野神社」の教化を受けた歴史家「飛見丈繁氏」の作文と見ると、この「薬師如来像」の正しい由緒が分かって来る。






💠🔹「日本の苗字7000傑」と「徳川諸家系図」に見る高岡市守山城の『神保氏張』系図!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸






■「越中神保氏」について詳細を調べて見ると、高岡市の守山城の「神保氏」は元々「畠山重忠」と同じ『桓武平氏良文流』の家系だった。能登畠山氏は畠山重忠が誅殺された後に源氏の足利義純が畠山重忠未亡人(平姓北条氏)と再婚して「畠山家」の名跡を継いだ。能登畠山家は、この源氏と平家の混血により存続され、「神保氏張」はその能登畠山氏から「平姓良文流神保氏」の養子となった。
守山城の神保氏が何故「二宮氏」から「神保氏」を名乗る様にたなったかは判らないが、系図上では、もう1つの越中の神保氏から別れた系統では無く、「賜姓」に因って「二宮」から「神保」に変わった様だ ❗
越中神保氏の主流とされる「神保氏」は室町幕府管領畠山氏の鎌倉以来の譜代家臣で在り、畠山氏の時に越中、能登、紀伊の守護代を務めて越中国射水郡「放生津城」を本拠とした。「応仁の乱」で、東軍「畠山政長」の参謀として「神保長誠」が活躍し、「明応の政変」の時に幽閉された将軍「足利義稙(義材)」を救出して放生津城に迎える等の活躍をして最盛期を迎えたが、後継者の「神保慶宗」が一向一揆と結び長尾能景に対抗した為、越後長尾氏、能登畠山氏の連合軍による討伐を受けて自害してい。







🔴💠【北國全太平記】・【北陸七国史】・【富山県西礪波郡紀要】 「佐々成政」と「前田利家」の激闘⇒『能登末森城の戦い』と過酷な加賀藩の越中占領政策、越中西部の住民の北海道移住の歴史!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸




●「能登末森城の戦い」⇒越中西部の激戦の記録!!
「北陸七国史」、「北國全太平記」、「富山県西礪波郡紀要」等に記載されて全国に流布された戦乱の様子。








■「高岡市福岡歴史民俗資料館」には「田畑家文書」として「福岡町沢川」の土豪「田畑兵衛への知行状」等が遺されている。
「田畑兵衛」は佐々成政が能登末森城を攻めた時に、佐々成政に能登への間道を案内すると称して、道なき山道に佐々軍を迷わせて自らは逃亡したとされる。その為に、佐々軍の末森城への到着が遅れた為に、急を聞いて駆けつけた前田利家軍の参戦で落城を免れた。その結果、知らせを受けた豊臣秀吉が参戦して、佐々成政は降伏し、赦されて、暫くは新川郡を知行されたが、遂には肥後に伝封された。その戦功を前田利家に賞されて、十村役の上の無役十村役、山廻役と成り家臣待遇を受け、周辺一帯の山林を知行された。





■『能登末森城の戦い』に於ける中山直治の赤丸村「赤丸城」、「浅井城」とその叔父の寺島牛介の居城柴野村「柴野城」
⇒衛星写真に拠る道路地図を見れば分かる佐々軍と前田軍の位置関係と戦略!!
「能登末森城の戦い」は実質的には「木船城佐々平左衛門」・「柴野城寺島牛介」・「赤丸浅井城中山直治」軍と「前田利家」軍の「能登末森城」での直接対決で在った。



「五位庄」の中に在り、しかも県境の要衝に当たる「沢川村」は丁度、両城の中間に当たり、しかも、網の目の様に張り巡らされた山道の結節点に当たる。その「沢川村」を束ねていた土豪の田畑兵衛は佐々軍に味方すると見せかけて佐々軍を遠回りさせ山中で迷子にさせて佐々軍の末森への参陣を業と遅らせた。この身内と思っていた田畑兵衛の裏切りは、赤丸、柴野の佐々軍にとっては思いもかけなかった。このまさかの裏切りで、前田利家軍の応援部隊が到着して、佐々軍は末森城を落とせなかった。この戦いでの失策は実質的に佐々軍の敗北に直結し、その後、前田軍の連絡で越中に攻め寄せてきた豊臣秀吉の大軍は富山市の呉羽山に本陣を設け、出城の安田城を築いて富山城の佐々軍に対峙した。成政は秀吉から「僧の姿で本陣に詫びに来れば許す」とする書状を受け取り、戦う事無く敵陣の中を歩いて秀吉の下に出向いた。途中、敵陣の将兵が嘲笑う中を成政は一人、呉羽山を登り秀吉の下に膝を屈した。
その後、九州熊本に転封になった成政は予てからの知り合いの秀吉の妻ねねに越中富山の立山に咲く珍しい「黒百合」を献上するが、この黒百合が「不吉」だと噂され、遂には一揆の責任を取らされて成政は切腹させられた。




「末森記」







(※「北國全太平記」(※北陸七国史)には、田畑兵衛の口上等が具体的に記されている。この中に登場する「鳥越城」は白山市の鳥越では無く、津幡町に在った鳥越城の事。)















■加賀藩は越中を支配するに当たり、「能登末森城」に対峙した「木舟城佐々軍」、「赤丸城中山直治」と叔父で「五位庄領主・高岡柴野城寺嶋牛介」、越中西部26万石を知行されていたと言う「高岡守山城神保氏張」の支配地域には徹底的な占領政策を行い、特に沢川村に近い鳥倉村、赤丸村、舞谷村、花尾村周辺には厳罰を以て対応した。この地域には61%~75%もの酷税を幕末迄かけて住民を農奴化した。「赤丸浅井城」、「五位庄総社延喜式内社赤丸浅井神社」を中心として長く越中西部の中心地域で在った五位庄赤丸村の住民の内、山裾の村々の住民は高岡市和田新村に強制移動させられ、赤丸村の浄土真宗の中核寺院の「長善寺」は解体されて、「福岡町長安寺」、「和田村善宗寺」の三寺に分割された。
(※「城端別院善徳寺文書」富山県立公文書館)
明治維新の後、藩政時代に厳しい支配を受けた小矢部川西部の住民はこぞって新興開拓の地の北海道に逃れ、現在もその子孫の方達は郷土が恋しいとされて交流されている方達が多い。









🌸🔹《延喜式内社赤丸浅井神社》の【額】の作成 ⇒「尊皇攘夷」に揺れた【 加賀藩】と【孝明天皇】!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「加賀藩第十三代藩主 前田斉泰」の書【朝】



■加賀藩京屋敷は江戸時代初期に置かれた。幕末の元治元年(1864年)、加賀藩13代藩主「前田斉泰」の子の「前田慶寧」(母は徳川幕府11代将軍徳川家斉の女の溶姫。)は京都の守衛を命じられ加賀藩の京屋敷に入った。この時に、加賀藩の京屋敷の北隣が長州藩京屋敷で在り、長州藩と密接に連絡を取合う様になる。「前田慶寧」は将軍の外孫だが、「尊皇攘夷論者」で在り、幕府から粛清されていた長州藩の代弁者として幕府に「攘夷」の建白書を提出した。加賀藩の尊皇攘夷派と長州藩士「桂小五郎」等は「孝明天皇」を【加賀藩領の近江梅津】に移す画策をしていたと云う。

・【孝明天皇綸旨】
徳川家康所縁の「尾張国正住院住職」 (※常滑市)に宛てた「孝明天皇」の「綸旨」!!
《尊皇攘夷の意向が強かった孝明天皇は、妹の「和宮」を徳川家に嫁がせて「公武合体」を図る等、迷走する徳川幕府への影響力を強めようとしていた。幕末の動乱の世に在って孝明天皇は「天皇の安寧を祈願する様」に勅書を発給して命じている。》







■【加賀藩近江領】
【※加賀藩は藩内で収納した米を大坂商人の手で売却する為に琵琶湖を船で湖上輸送して、琵琶湖北岸の近江梅津の藩の米倉庫に納めた。この土地は近江国今津、梅津に在った加賀藩の二つの飛び地領。】
◆「今津村」は1864石で、秀吉が前田利家の大阪への旅の休憩地として与えたもので、豊臣家の大老を辞するに当たり秀吉に返上を申し入れたが、秀吉はこの地を「芳春院の化粧料」として「芳春院」に与えた。
「海津村」は加賀藩領の尾添村、荒谷村の代替えとして加賀藩に与えたもので、福井県と石川県の境に在る「白山」の神領と支配権を巡り、福井県大野市の「平泉寺」と石川県白山市鶴来町の「白山宮」が争った為、仲裁した幕府はこの二村を幕府直轄領として、代わりに琵琶湖を臨んだ海津村を「藩邸」として与えたが、実際には、この地は大阪、京都への物流の拠点としての「蔵屋敷」が置かれた。






■元治元年7月19日(1864年8月20日)に、長州藩は京都で「禁門の変」(※ 蛤御門の変、元治の変とも云う。)を起こすが敗北し、長州藩京屋敷は直後に出火して焼失した。長州藩京屋敷の隣接の加賀藩京屋敷は焼失を免れるが、前田慶寧は病気と称し「禁門の変」には出陣せずに、近江国梅津領に退去した。これに対して幕府は、無断の退去を責めて前田慶寧を蟄居謹慎とした。前田慶寧の父の加賀藩第十三代前田斉泰は親幕派の体面を取っていた為、前田慶寧を非難して「加賀元治の変」と呼ばれる尊皇攘夷派の一斉弾圧を行う。京都屋敷の加賀藩家老松平大弐を切腹させ、尊皇攘夷派の加賀藩士40人を処刑した。

■【加賀藩第十三代前田齋泰】と【越中国五位庄惣社延喜式内社赤丸浅井神社】
「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当「川人山鞍馬寺」は幕末の「孝明天皇」の仮皇居 にもなっていた京都の「門跡寺院聖護院」の末寺で、創建は聖武天皇の弟の「石川朝臣広成」とされる皇室所縁の神社で、建物には皇室の「十六菊紋」が彫り込まれている。「加賀藩第十三代前田齋泰」は赤丸浅井神社の「浅井神社」を揮毫して奉納し、現在の「浅井神社」の額はこの書を元に製作されている。
「前田齋泰」は幕末から明治維新にかけて、加賀藩を薩摩藩や長州藩のような国政に関わる重要な立場に置くべく裏工作に専念したと言われる。嘗て、尊皇派の藩士を前田齋泰が弾圧して処刑した結果、加賀藩には有力な尊王派の藩士がおらず、維新体制への対応では他藩に後れを取り、右腕の「本多政均」が暗殺(明治2年・1869年)された事もあって維新政府・朝廷への裏工作は失敗に終わった。
「浅井神社」の【額】の寄進も皇室所縁の「聖護院派赤丸浅井神社」への政治的な工作の意図が在ったものだろうか?
明治17年(1884年)、【加賀藩第十三代前田齋泰】は74歳で死去した。























🔴🌸「延喜式内社赤丸浅井神社 由緒」と「大伴家持」 ⇒加賀藩記録「加越能氏族伝」に見られる「多治比部氏」と「大伴氏」 、吉岡庄三日市「八幡社」の神官「青木大和守」!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸







■加賀藩の記録に「加越能氏族伝」が在り、その中に「越中古代氏族 多治比部氏」が見られる。
「多治比部北里」の事が「大伴家持」の歌に歌われて「万葉集」に見られ、家持が越中で「利波郡主帳多治比部北里」の舘に立ち寄った事が記載される。「大伴家持」の系図には母方に「多治比部氏」の記載が在る。














■越中吉岡庄の赤丸村領内三日市に「三日市八幡宮」が在り、この神社の神官「青木大和守」は古くから「延喜式内社浅井神社」の末社の「舞谷八幡宮」の神官や「上加茂社」、「下加茂社」の神官を勤めている。
この「青木氏」の系図には「秩父武蔵七党」の青木氏が見られ、別の藤原氏「藤原利仁将軍」を祖とする系統は「勅使 河原直兼」を祖先に持ち、子孫には「加賀右衛門貞勝」が見られる。別系統の「新里実直」の系統は「源頼朝」に仕え、後には南朝の「新田義貞」の家臣として駿河で活躍したと云う。この「青木氏系図」には祖先に「多治比部氏」を母方に持つ多治見成以が居り、その三代後に「青木直盛」と名乗っている。又、この子孫には「加賀家直」がいる。
高岡市福岡町三日市の「青木大和守」の家系は「藤原氏」を唱え、当代で24代と言う。





■「延喜式内社赤丸浅井神社 由緒」によれば、「祭神」は皇室の神で大伴氏、佐伯氏の祖先神の「八河江比売神」を主神としている。赤丸浅井神社には「一条天皇」の時に蝗害防止の祈願の為に「勅使 川原左京」が遣わされ、その時のお手植えの左右の二本の桜は「勅使桜」と名付けられ、昭和初期迄残って居り、この桜は「遅桜」とも呼ばれて田植の時期を示す大切な桜木として、この桜木に因んで赤丸浅井神社には「加賀白山神社」の祭神「木花咲夜媛」が赤丸浅井神社にも合祀された。その為、「両部神道聖護院派」の山伏で在った赤丸浅井神社には白山山伏の信仰が篤く、白山修験道を開いた「泰澄」が境内に庵を開いたとも伝え、赤丸浅井神社の中興の「石川朝臣広成」や「聖武天皇」の育ての親の「元正天皇」の健康を祈願したと云う。この「石川朝臣広成」は万葉集に三首が掲載されており、大伴家持と恭仁京で内舎人を勤めたと云う。




■「青木氏」が「郷社赤丸浅井神社」の域内で十八社もの神社の神官を勤めて、「大伴家持」と連なる越中古代氏族「多治比部氏」にも連なる事、赤丸浅井神社が大伴氏の祖先神「八河江比売」を祭神とする事から、三日市八幡宮の神官「青木大和守」の系統は赤丸浅井神社とは密接な一族で在ったと見られる。
この「舞谷八幡宮」の神官「青木大和守」は石堤浅井神社の清水(元々吉田氏)神官が、「吉田神道 高岡関野神社」の配下として三社権現「川人山鞍馬寺」から「石堤浅井神社」を簒奪すべく 争ったのとは異なり、「吉田神道」の裁可状を受けず、現在も神社庁にも属さずに独自の路線を守り続けている事は赤丸浅井神社との特別の関係を窺わせる。

■「越中吉岡庄」は「白河上皇」の時に「京都上賀茂神社」の庄園と成り、南北朝末期には「下鴨神社」の庄園に成っている。(※「賀茂御祖神社諸国神戸記」)
「吉岡庄」に在った「上加茂社」(※福岡町加茂、現在は鳥倉八幡宮に合祀)、「下加茂社」(※福岡町赤丸、現在は舞谷八幡宮に合祀)は古くから赤丸村領三日市の「青木大和守」が神官を勤めた。








■「吉岡庄」に多く残っている「八幡宮」は「宇佐八幡宮」を勘請したもので、「東大寺」との関係を窺わせる。「聖武天皇」は「東大寺大仏造営」の時に大仏の守護神として「宇佐八幡宮」を勘請されて東大寺に「八幡宮」を創建されている。高岡市周辺には東大寺庄園が拡がっており、「越中吉岡庄」についての記載が「東大寺文書」に見られ、「吉岡庄高田島」の「五位庄神社」の由緒に「聖武天皇勅願社」(※「富山県神社誌」)と記載され、「吉岡庄」と「聖武天皇、「東大寺」との密接な関係が窺われる。その接点として重要なのは、「利波郡」の元になっている古代氏族「越中国司 利波臣志留志」に代表される「利波臣」に由来しており、「利波臣志留志」は聖武天皇が祈願された「東大寺大仏」の造営の時には「米五千石を寄進した」 (※「東大寺要録」)事は、「聖武天皇」と「利波臣志留志」との密接な関係も窺わせる。



■「東大寺庄園越中石粟庄図」(※「正倉院」蔵)に見られる「浅井神一段」の記載




■「東大寺文書」には見られる「蓮華王院領越中吉岡庄」の記載





🔴🔷🔹 足利家菩提寺の【等持院】に「足利義持」が寄進した庄園【越中五位庄】の半分!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●足利家菩提寺「等持院」へ寄進された【越中五位庄の半分】

・応永22年(1415年)10月には「足利義持」が「五位庄」の半分を「京都等持院」に寄進した事が富山県史中世編に記載されている。(※足利義持御判御教書案・等持院常住記録)





「五位庄の半分」とは、「畠山文書」の絵図に見られる「畠山持国」の所領とされる「赤丸浅井城」が在った「五位の西庄」で在ったと見られる。







🌸🌿🍃【京都三十三間堂】の「楊枝のお加持」 の由来と【後白河上皇庄園越中吉岡庄】⇒(富山県高岡市福岡町赤丸)と【蓮華王院三十三間堂】 !!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸













■「保元の乱」の後、摂関家藤原氏長者「左大臣 藤原頼長」の庄園「越中吉岡庄」(※高岡市の「赤丸浅井神社」はこの中心施設)は「後白河上皇」の「後院領」とされ、上皇は住まいとされた法住寺殿に蓮華王院三十三間堂の建立を発願されて、建物は「平清盛」が寄進した。上皇はこの寺に一千一体の黄金の千手観音像を祀られた。この「三十三間堂」には隠れた「由緒」と「加持祈祷行事」が伝えられている。(※元の藤原頼長の庄園には北陸では「能登一青庄」もある。)











■「三十三間堂由来」(「み熊野ネット」Hpより)
【京都東山、蓮華王院。三十三間堂の名で知られるこの仏堂は、後白河上皇(在院期間中、34回と最多の熊野御幸をした上皇)が1164年、自らの離宮・法住寺殿の敷地内に一宇の仏堂を建立し、1001体の千手観音像を安置したのを始まりとします。 造営には平清盛が当たり、この功により清盛は播磨守となりました。俗に三十三間堂と称しますが、それは、本堂の内陣の柱間が33あることによるもので、また33という数字は観音菩薩が33もの姿に身を変えて人を救うという信仰によるものだということです。この三十三間堂で、「柳のお加持」という法要が行われています。正月に汲んだ初水を霊木とされる柳の枝で参拝者にそそいで加持する頭痛封じの法要です。この法要は後白河上皇の頭痛平癒にあやかったものなのですが、ここにも熊野が絡んできます。
後白河上皇は頭痛に悩まされていた。そこで熊野で祈願したところ、お告げがあった。
「上皇の前世は熊野にあった蓮華坊という僧侶であった。仏道修行の功徳によって今世、天子の位につかれるくらい高貴の方に生まれてきたが、その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでいる。その髑髏を貫いて柳の木が生えていて、風が吹くと柳の木が揺れて髑髏に触れ、上皇の頭が痛むのだ」という。そこで、川を調べさせたところ、髑髏が見つかり、その髑髏を三十三間堂の千手観音の1体の尊像に塗り込め、さらにその柳の木を伐って、京へ運び、三十三間堂の梁に使ったところ、上皇の頭痛は平癒したという。蓮華王院の名は前世の蓮華坊の名をとって付けられた。



■岩田川。今の富田(とんだ)川の滝尻(和歌山県西牟婁郡中辺路町)辺りから下流は岩田川と呼ばれ、熊野詣の重要な垢離場(こりば)のひとつで在った。この川を1度でも渡れば、今までの罪業がことごとく消えると信じられていた聖なる川。この川を徒渉し、滝尻王子に参拝。京から熊野を目指して歩いて きた人々にとって、滝尻からが熊野の霊域の始まりだった。

■仏教では柳は一切樹木の王、仏に供える最高の聖木とされているそうだが、実際、柳には鎮痛作用があり、解熱鎮痛薬であるアスピリンは柳の成分から作られた。

■三重県南牟婁郡紀和町楊枝に楊枝薬師堂という小さなお堂があるが、そこにはこんな伝説が。
昔、この地に60余丈(1丈は約3m)の柳の巨樹があった。頭痛に悩まされていた後白河上皇は頭痛平癒を願い、京に三十三間堂を建立することになったが、長さ100mをこえる棟木が必要であった。そこで、楊枝の里の柳の巨樹が伐り出されることとなった。この柳を伐って、京へ運び、三十三間堂の棟木に使ったところ、上皇の頭痛は平癒したという。後白河上皇は、その柳の伐り跡の上に七堂伽藍八房十二院の大寺を建て、自ら刻んだ薬師如来を安置し、「頭痛山平癒寺」と名付けた。これが楊枝薬師堂の前身である。寺は幾度かの火災や水害で失われてしまい、現在は楊枝薬師堂の一宇があるのみだが、本尊薬師如来は創建当時のものを伝えているそうで、頭の病気に霊験があるとされている。】





🔴💠🏯【越中五位庄】 室町幕府足利家菩提寺「等持院」・「等持寺」・「相国寺」と「越中五位庄」⇒「足利将軍家」、「能登畠山家」、五位庄の「宇多一族」!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


■【東寺百合文書】の「越中般若野庄」の文書に記される越中国の「五位の東庄」、「五位の西庄」➡富山県高岡市福岡町加茂の「浄土真宗超願寺」には、真宗門徒が「五位の東組」、「五位の西組」に分かれていたとする古文書が在ったと伝えられる。


「五位庄の東庄」が庄川沿いの「般若野庄」に含まれていた。



「赤丸浅井城」周辺の土地は「上分(地上の統治権)」は「越中守護畠山持分」として、下地(土地から派生する権利ー耕作権)は守護代の権利で在った事が記載される。当時は、赤丸浅井城周辺には「相国寺」と同じ「臨済宗」以外の寺院は禁止されていた。高野山真言宗の「越中総持寺」も、この時に小矢部川河口の「六渡寺村」に移ったと見られる。
🔽室町幕府から「所領安堵状」を出された名刹で在った高野山真言宗で「後鳥羽上皇」の祈願仏を祭る【越中総持寺】も「六渡寺浜」へ動き、その落慶法要は「室町幕府管領畠山満家」の「三回忌法要」を兼ねており、息子の「赤丸浅井城城主畠山持国」は雅楽を交えた盛大な法要を営んだとされる。
(※「名古屋大須観音古記録」射水市松山学芸員論文)




🔽「室町幕府」からの【越中総持寺】(※現在の高岡市関町の総持寺)に対する「所領安堵状」
(※「蔭涼軒日禄」➡当初の蔭涼軒主は相国寺を建てた「足利義満」)


■「足利尊氏」は「仁和寺」の子院を動かして「等持寺」と共に足利家菩提寺の「等持院」とした。
「等持院」は足利将軍家の菩提寺であり、山号は「万年山」という。この等持院は寺名(等持)や開山(夢窓疎石)・本尊(地蔵菩薩)、足利将軍家に極めて密接であったという共通性をもつ等持寺と混同されることが多い。この「万年山等持院」は、もとは衣笠山の山上に位置した真言宗の仁和寺の子院であったが、現在の場所に移されて夢窓疎石を開山とする禅宗寺院に改められたという。この「万年山等持院」は記録上では「仁和寺等持院」・「北等持」といい、現在では「等持寺」と区別するため便宜上「万年山等持院」「洛北等持院」と称されている。






■「三代将軍足利義満」は、母の「紀良子」の祖先が「宇多天皇」と越中蜷川氏の娘の「胤子」の間に出来た「醍醐天皇」を祖先に持ち、「宇多源氏」の直系にも当たる。「足利義満」の側近の「蜷川新右エ門親当」は「蜷川系図」に拠ると「越中の新川郡と利波郡を領した」とされ、この利波郡は小矢部市の蓮沼辺りとされるが、「能登畠山文書」の「室町時代越中統治絵図」に拠れば、この時期に「利波郡」の殆どを占めた「五位庄」は「五位庄の東庄」と「五位庄の西庄」に分割されていた様だ。「足利義満」は室の「日野業子」が亡くなると「越中五位庄」を京都の「相国寺」に寄進しており、この時期に「五位庄」は「利波郡」の殆どと高岡市守山、伏木港迄も占めた様だ。京都の「東寺百合文書」の「やなた某書状案」には「五位庄野尻」と記載されて南砺市福野町も五位庄に含まれた事が記載されており、又、「射水郡内段銭状案」には高岡市中田から砺波市にかけて広がっていた「般若野庄」には「五位庄の東庄」も含まれていたと記載されている。








■「畠山家記」(※「大阪府羽曳野資料」)には、「般若野庄」の庄園領主の「徳大寺家」(※藤原氏)が越中に下向して、この時に越中の「石黒」、「井口」、「土肥」が従ったとされ、「越中統治絵図」にも石黒氏の記載が在る。



■応永22年(※1415年)には、「足利義持」が「五位庄の半分」を足利家菩提寺の「等持院」に寄進した(※「等持院常住記録」)とされ、その後の東寺百合文書では「五位庄」からの年貢未進が続いた為に「等持院」・「等持寺」が直務したいと幕府に申しれているが却下されている。当初は「等持院」に寄進されたが、後には「等持寺」の庄園にもなったと見られる。この「五位庄の半分」は小矢部川から東の「東庄」で在り、畠山守護家が所有して越中蜷川氏が統治した部分の「西庄」は除外されていたと見られる。



■「赤丸浅井神社」や高岡市関町の「総持寺」の檀家の池田家には「室町時代の応永9年頃、国主の意向により赤丸村を追われた」とされ、射水市の松山学芸員の論文では「この時期に総持寺は海岸近くに動いて浜総持寺と称して、この寺では海の光を浴びた黄金の千手観音像の前で雅楽演奏も行われて(※畠山持国の父の)畠山満家の三回忌法要が営まれた」とする「名古屋大須観音の古文書」が紹介されている。「足利義満」が「相国寺」に「五位庄」を寄進した時に「底地は畠山満家に預け置かれた」(※「富山県史中世」)とされており、「越中統治絵図」には「赤丸浅井城と見られる「城」の表示の脇に「畠山持国」の記載が在り、この論文を証明している。








■「宇多源氏佐々木氏流」とも云われる越中の刀工直系の「宇多家」の墓が在る高岡市柴野十日市の「曹洞宗三光寺」の墓地には、本家の「宇多家」や分家の「宇田家」、「鍛冶家」の墓と共に同じ「剣方喰紋」の「畠山家」の墓も林立しており、五位庄で作刀した「宇多一族」と足利一族の「能登畠山氏」が何れも「宇多天皇」と密接な事から、血縁関係を結んでいた事を窺わせる。

















越中の宇多刀剣は多くの「文化財登録」が在る。



■「能登畠山氏」は「畠山重忠」の未亡人と縁組した「足利義純」の系統で、「畠山満家」の弟の「満則」を初代にすると云う。(※「能登畠山系図」参照)

「畠山重忠」は秩父平氏だが「能登畠山氏」は源氏の「足利義純」の末裔であり「源氏」




🔴🏯【織田信長】と【上杉謙信】⇒【越中守山城城主神保氏張】の妻は【織田信長】の妹!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸















■富山県の小矢部川沿いの高岡市「守山城」は、南北朝時代に桃井直常在城の時には「獅子頭城」、次いで斯波義将の居城の「守山城」となり、室町時代には室町幕府管領の畠山氏の鎌倉以来の譜代家臣の神保氏が「守山城」に入城した。神保氏の最後の城主となった「神保氏張」は享禄元年(1528年)に能登の七尾城主「畠山義綱」の二男として生まれ、守山城の「神保氏純」の養子となり、「織田備後守信秀(織田信長の父)の娘(信長の妹)」を妻にした。
上杉謙信の動静を書いた「北越太平記」(※「北越軍談」)にこのいきさつが詳しく記載されている。
上杉謙信44歳、天正元年の記事に「この年、信長の妹を以て越中の神保安芸守に嫁す。是(神保氏張)は上杉謙信の姪の婿、上杉弥五郎義春が兄なり。共に能登畠山修理大夫義則が弟なり。信長は謙信へは入魂の体を顕すと云えども内には野心を持つ。神保氏張を妹婿として越中へ手入れあるに付き、謙信腹立して越中、加賀、越前までも手遣りあり。」と有り。天正二年三月、織田信長は謙信の疑いを晴らす為に「洛中洛外図屏風、源氏物語屏風の各一双」を謙信に贈った。何れも狩野永徳の筆になる。しかし、信長が色々な手立てで上杉領内に手出しをしてくる事を責め、信長に手切れを告げた。信長は誰が讒言したかと陳謝した。しかし、謙信はそれを信ぜず、三万の兵を率いて越中の神保安芸守の籠る「木舟城」を攻め立て、ついで能登七尾城、加賀松任城を攻め、松任城城主蕪木右衛門の首を織田信長に送り付けた。この時に朝倉義景の残党の下間和泉が反乱を起こし、織田信長は三万の兵を率いて敦賀を攻めた。この頃、北陸各地は戦乱が続いたと云う。神保氏張は織田信長の妹と別れ、神保氏長を残して信長の妹は「稲葉貞通」の後妻として再嫁した。
「本能寺の変」で明智光秀に従った「斎藤利三」の妻はこの稲葉一族で在り、その娘は徳川幕府で「大奥」を形成して権力を振るった「春日局」(お福)に当たる。

(※この時に「赤丸浅井城には下間和泉居城せりと言う。」と「越中志徴」に記載されている。)

■『※注; [北越太平記] では「神保安芸守長純」 と記載しているが、織田信長の妹が嫁いだのは守山城の「神保安芸守氏張」であり、「神保長住」は越中守である。頼山陽の著作「日本外史」でも木舟城に「神保安芸守長住」を攻めたとされているが、明らかに是は「神保安芸守氏張」の間違いである。「神保氏張」は福岡町木舟城の佐々軍と共に、高岡市柴野城寺島牛介、赤丸浅井城中山直治と共に能登末森城に前田利家軍を攻めている。
神保氏には惟宗姓神保氏と平姓良文系神保氏の二系統が在り、現在の東京神田神保町は「惟宗姓神保氏の屋敷」が在った事から名付けられており、「良文系神保氏の屋敷跡」は別に在る。
平姓良文系神保氏は元々「中村」等を名乗っていたが畠山氏から賜姓されて「神保」を名乗ったとされ、「神保氏張」はこの能登守護畠山氏から「守山城神保氏」の養子に入っている。系図に拠れば、この氏族は古くから「守山城」の城主として在城しており、惟宗姓神保氏の「神保長職」が射水市の牧野城に室町幕府第十代将軍足利義稙を牧野に迎えて臨時政権を樹立した為に、この守山城の良文流神保氏との混同が見られる。

■「能登畠山氏」の祖は元々「秩父平氏」の畠山重忠の家系で在ったが、畠山重忠が北条氏に攻め滅ぼされて、その未亡人の夫として源氏の足利義純が入り「畠山家」を継いだ。従って、能登守護に成った能登畠山氏はこの畠山義純の子孫が継いだ為に「源氏系畠山氏」とされる。

■「神保氏張」は上杉謙信家臣⇒佐々成政家臣と成り、佐々成政の肥後国への転封に伴い肥後に同行。佐々成政が一揆の対応を誤り豊臣秀吉から切腹を申し付けられた後は、放浪して江戸に赴き徳川家康に仕官して徳川家旗本と成りその家系は幕末迄存続した。

🔴🏯 富山県高岡市赤丸村の古城「赤丸浅井城城主 中山直治」(寺嶋牛介の甥)の子孫達の今⇒「敦賀市立博物館」に残る「中山正弥家文書」に見る赤丸村での中山氏の足跡!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸






●調査した所、「赤丸浅井城 中山治部左衛門国松」の末裔のその後について関係者から伺う事が出来た。




■現在、敦賀市立博物館に所蔵される「中山正弥家文書」と言う大量の古文書が在る。この古文書は売りに出されて古物商経由で博物館が購入したものだと云う。この古文書の中に在る「由緒」には「藤原氏」で「赤丸朝日城(※浅井城の事)」の城主で在ったとされる。
「由緒」では、「赤丸浅井城主の中山直治」は父を亡くして未だ、12才だった為に「能登末森の戦い」では伯父の「柴野城城主寺嶋牛助」に付いて「佐々成政」の軍として「前田利家」の軍と戦ったが、「佐々成政」が「秀吉」に降伏した為に、中山一族は敦賀市に落ち伸びて、やがて、敦賀市では養子縁組をして今井家の養子に成ったと云う。この今井家と高岡市羽広に残る「中山清暉家」とは数年前迄親交が在ったが、現在は所在が分からないと言う。

敦賀市博物館では、この家系については良く分からないと云う。しかし、調査すると、北陸自動車道の杉津Ps近くの敦賀湾沿いに在る「敦賀市大比田地区」にはこの中山一族と見られる家が10軒集積しており、この何れかが本家と見られると云う。
そこで、以前この近くに勤務していた経験から、中山家の一軒に御問い合わせをした所、高齢のご老人が居られる家が一軒在るとの御教示を頂いた。この辺りは敦賀原発の対岸に当たり、近江方面に向かう海沿いの国道八号線に沿っており、「中山や今井一族は元々、近江の出身」とされている「高岡徹氏」の御意見にも合っている様だ。

▼その後、現在の敦賀市の本家筋と言う家の方にお話を伺った。それによると、「中山正弥家」は一家で東京に移り、数年前に屋敷も売り払って、一族の信仰する西国33番札所「華厳寺」の十一面観音を祀る「大比田観音堂」は親族に委ねられて、現在も残されていると言う。

「大比田観音堂」(※敦賀市大比田→北陸自動車道杉津インター近くの海岸地域)