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■「越中吉岡庄」については平成26~28年に「高岡市福岡町赤丸、馬場周辺の後の五位庄域にほぼ該当する」として「国立歴史民俗博物館庄園データーベース」を確定して頂いた。
又、その歴史の中で「白河上皇」の時に「上賀茂神社」の庄園として設定された庄園の中に「吉岡庄」も含まれていたとされている。
【※「山野川湊の中世史」(※久保尚文著)には、寛治四年に白河院政が庄園を寄進した時に富山市の「新保御厨」と「越中吉岡庄」が上賀茂社の庄園になったと記され、「庄園データーベース」にも「吉良庄」として記載されるが、これは学界では「吉岡庄」の事だとされている。「吉岡庄」が南北朝末期と室町時代に下鴨神社 《※下鴨神社、正式名称は賀茂御祖神社》の庄園に成った記録は、「賀茂御祖皇太神宮神戸記 巻7」に記載されている。】
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■「兵範記」の記載
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■「人車記」(※近衛家陽明文庫 陰影版)
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■「越中福田庄」の「庄園データーベース」には「慈鎮領」の庄園記録が記載されている。これについて調査すると、その記載は「華頂要略 巻55」に記載されている。その中の「慈円」が遺した「慈鎮和尚重被譲進西山宮状案」等に「福田庄」が見られる。
(※この文書には織田信長の先祖の地とされる越前織田庄の記載も在る。)
(※「華頂要略」は青蓮院の寺史。→「天台宗全書第16」)
「福田庄」はその後、「妙法院領」と成り、後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が妙法院院主、天台座主と成り、その後は宗良親王の弟子の北朝の親王に受け継がれている。
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■「華頂要略」(※天台宗全書16)
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■「華頂要略」
【京都府立京都学・歴彩館 Kyoto Institute, Library and Archives】
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■『越中西部』には藤原氏の庄園が広がっていた。
「慈円」【久寿2年4月15日(1155年5月17日)~ 嘉禄元年9月25日(1225年10月28日)】は、平安時代末期~鎌倉時代初期の天台の僧で『愚管抄』を著した事で有名だ。諡号は慈鎮和尚(ジチンカショウ)、通称は吉水僧正(ヨシナガソウジョウ)と呼ばれる。父は「越中吉岡庄」を所有していた藤原頼長の兄の摂政関白藤原忠通、母は藤原仲光の女加賀、摂政関白の九条兼実は慈円の同母兄に当たる。若くして青蓮院に入り仁安2年(1167年)には天台座主の明雲について受戒し建久3年(1192年)には38歳で天台座主になる。後に、慈円の天台座主就任は4度にも及んだ。兄の「九条兼実」の孫の「九条道家」の後見人を務め、「藤原道家」の子の「藤原頼経」は鎌倉幕府将軍として鎌倉に下向した。「後鳥羽上皇」の「承久の乱」では反対して『愚管抄』を書いたとされるが、「承久の乱」で「後鳥羽上皇」が隠岐島に配流されて九条兼実の曾孫の「仲恭天皇」(道家の甥)が廃位されたことに衝撃を受け、鎌倉幕府を非難して仲恭帝復位を願っていたと言う。又、「九条兼実」の娘は「越中吉岡庄」を所領としていた「後鳥羽上皇」の中宮「任子」である。
高野山下の女人高野と呼ばれた「河内金剛寺」から、元々赤丸村に在った総持寺に国宝にもなった「木造千手観音座像」が伝えられて、その観音像の胎内には「後鳥羽上皇」の法名『金剛位理卿』が記載されている。
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■「越中吉岡庄」は藤原氏全体の最高権力者「摂関家藤原氏長者、左大臣藤原頼長」の庄園で在ったが、「保元の乱」で「後白河上皇側」に敗れて、保元二年に「吉岡庄」は「後白河上皇」の「後院領」に組み込まれ、「後白河上皇」はこの庄園を【蓮華王院】(※三十三間堂)に寄進している。又、「藤原道家」は小矢部市の「宮島郷」を庄園としていたが、後に官に返還している。(※「鎌倉遺文」)
この様に「五位庄」(※南北朝末期迄は「吉岡庄」)は天皇家、藤原氏と非常に密接だった地域だ。
(※「人車記」《兵範記》近衛家陽明文庫)
「赤丸浅井神社由緒」に拠ると、小矢部市宮島郷二ケ村、国吉郷二十六ケ村、後の五位庄域25ケ村を含む合計53ケ村が「赤丸浅井神社」に許された神域で在った事から、概ねこの範囲が「越中吉岡庄」の範囲だったと見られる。(※「皆月家文書」富山県立公文書館)
◇『国立歴史民俗博物館庄園データーベース』参照