●室町幕府政所代の「越中蜷川氏」は越中の「利波郡・新川郡」を知行された。
■「室町時代の越中統治絵図」
室町時代は「越中八郡」で在った。
■「近世の越中四郡」
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●「越中蜷川氏」は源頼朝に従って戦功在り、この時期には「太田」と名乗っていたが、越中新川郡、砺波郡に領地を賜ったとされ、その地は「太田保」(※ほぼ旧富山市地域)と呼ばれ、「太田保蜷川郷」に蜷川城を築いて勢力を持ち、足利尊氏に付いても戦功が在り、室町幕府では政所伊勢氏や足利家とも縁組して、累代、「政所代」を勤めた。「越中蜷川氏」は「物部氏」の末裔で「宮道氏」の子孫であり、初期には「太田」と名乗り、後には一部が「吉岡」と名乗った様だ。「太田保」には「吉岡村」が在り、「越中吉岡庄」(※後の五位庄)には地頭として源頼朝の家臣の吉岡庄地頭「成佐」が配置(※「吾妻鏡」)されていた事から、当初、吉岡庄に配置されていた「成佐」はこの頼朝配下の「蜷川氏」で在り、「吉岡庄」を治めて「吉岡庄地頭成佐」と名乗っていた可能性が高い。
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①蜷川七郎親直の代に越中の砺波郡、新川郡を知行された。⇒「親直は治承四年、源頼朝の伊豆での挙兵に参戦して軍効」
②室町幕府三代将軍足利義満の母は蜷川月海夫人で在った。⇒足利義満は砺波郡五位庄を京都の相国寺に寄進した。(※「富山県史 中世」)⇒蜷川氏から歴代の相国寺住持を輩出している。
③富山市「蜷川郷」に「最勝寺」を建立した。⇒最勝寺開基の「亀阜豊寿」は、赤丸村の「川人山鞍馬寺、延喜式内社赤丸浅井神社で赤丸住藤原直家の父の法要を営んだ」(※「富山県史 中世」)
④「蜷川新右エ門親当」は室町幕府の政所代に就任して、将軍足利義満の信任が厚かった。
後小松天皇の皇子の一休禅師との歌問答は有名。
⑤蜷川氏の祖の「宮道氏」は仏教導入に反対して滅ぼされた「物部守屋」の末裔。
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■『越中郷土史』には、「永録九年、十二代蜷川常嗣の時に越中守山城の神保氏に滅ぼされた」とされる。
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■「室町時代の越中統治絵図」
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■「近世の越中四郡」
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●「越中蜷川氏」は源頼朝に従って戦功在り、この時期には「太田」と名乗っていたが、越中新川郡、砺波郡に領地を賜ったとされ、その地は「太田保」(※ほぼ旧富山市地域)と呼ばれ、「太田保蜷川郷」に蜷川城を築いて勢力を持ち、足利尊氏に付いても戦功が在り、室町幕府では政所伊勢氏や足利家とも縁組して、累代、「政所代」を勤めた。「越中蜷川氏」は「物部氏」の末裔で「宮道氏」の子孫であり、初期には「太田」と名乗り、後には一部が「吉岡」と名乗った様だ。「太田保」には「吉岡村」が在り、「越中吉岡庄」(※後の五位庄)には地頭として源頼朝の家臣の吉岡庄地頭「成佐」が配置(※「吾妻鏡」)されていた事から、当初、吉岡庄に配置されていた「成佐」はこの頼朝配下の「蜷川氏」で在り、「吉岡庄」を治めて「吉岡庄地頭成佐」と名乗っていた可能性が高い。
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①蜷川七郎親直の代に越中の砺波郡、新川郡を知行された。⇒「親直は治承四年、源頼朝の伊豆での挙兵に参戦して軍効」
②室町幕府三代将軍足利義満の母は蜷川月海夫人で在った。⇒足利義満は砺波郡五位庄を京都の相国寺に寄進した。(※「富山県史 中世」)⇒蜷川氏から歴代の相国寺住持を輩出している。
③富山市「蜷川郷」に「最勝寺」を建立した。⇒最勝寺開基の「亀阜豊寿」は、赤丸村の「川人山鞍馬寺、延喜式内社赤丸浅井神社で赤丸住藤原直家の父の法要を営んだ」(※「富山県史 中世」)
④「蜷川新右エ門親当」は室町幕府の政所代に就任して、将軍足利義満の信任が厚かった。
後小松天皇の皇子の一休禅師との歌問答は有名。
⑤蜷川氏の祖の「宮道氏」は仏教導入に反対して滅ぼされた「物部守屋」の末裔。
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■『越中郷土史』には、「永録九年、十二代蜷川常嗣の時に越中守山城の神保氏に滅ぼされた」とされる。
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