赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔷🔹【(童話)新えもんさん➡蜷川新衞門親当】「源頼朝」の旗揚げに尽力して、「越中」の「新川郡」、「砺波郡」を領した『越中蜷川氏』⇒室町幕府政所代として実権を持った『越中蜷川氏』!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●室町幕府政所代の「越中蜷川氏」は越中の「利波郡・新川郡」を知行された。
■「室町時代の越中統治絵図」
室町時代は「越中八郡」で在った。

■「近世の越中四郡」






●「越中蜷川氏」は源頼朝に従って戦功在り、この時期には「太田」と名乗っていたが、越中新川郡、砺波郡に領地を賜ったとされ、その地は「太田保」(※ほぼ旧富山市地域)と呼ばれ、「太田保蜷川郷」に蜷川城を築いて勢力を持ち、足利尊氏に付いても戦功が在り、室町幕府では政所伊勢氏や足利家とも縁組して、累代、「政所代」を勤めた。「越中蜷川氏」は「物部氏」の末裔で「宮道氏」の子孫であり、初期には「太田」と名乗り、後には一部が「吉岡」と名乗った様だ。「太田保」には「吉岡村」が在り、「越中吉岡庄」(※後の五位庄)には地頭として源頼朝の家臣の吉岡庄地頭「成佐」が配置(※「吾妻鏡」)されていた事から、当初、吉岡庄に配置されていた「成佐」はこの頼朝配下の「蜷川氏」で在り、「吉岡庄」を治めて「吉岡庄地頭成佐」と名乗っていた可能性が高い。



①蜷川七郎親直の代に越中の砺波郡、新川郡を知行された。⇒「親直は治承四年、源頼朝の伊豆での挙兵に参戦して軍効」
②室町幕府三代将軍足利義満の母は蜷川月海夫人で在った。⇒足利義満は砺波郡五位庄を京都の相国寺に寄進した。(※「富山県史 中世」)⇒蜷川氏から歴代の相国寺住持を輩出している。
③富山市「蜷川郷」に「最勝寺」を建立した。⇒最勝寺開基の「亀阜豊寿」は、赤丸村の「川人山鞍馬寺、延喜式内社赤丸浅井神社で赤丸住藤原直家の父の法要を営んだ」(※「富山県史 中世」)
④「蜷川新右エ門親当」は室町幕府の政所代に就任して、将軍足利義満の信任が厚かった。
後小松天皇の皇子の一休禅師との歌問答は有名。
⑤蜷川氏の祖の「宮道氏」は仏教導入に反対して滅ぼされた「物部守屋」の末裔。













■『越中郷土史』には、「永録九年、十二代蜷川常嗣の時に越中守山城の神保氏に滅ぼされた」とされる。




💠🔷🔹 【越中西部の中世鋳物師】室町時代の【畠山文書】の「越中統治絵図」と『東寺百合文書』!!

2021-04-20 | 富山県高岡市
■【越中統治絵図】(※「畠山文書」)には、現在の理解と異なる「射水郡」と「利波郡」の位置、範囲が記されている。


※「畠山文書」(※羽曳野資料叢書)は越中の郷土史では反映されていない。


■「徳大寺家庄園」の「越中般若野庄」の範囲と鋳物師に対する室町幕府「斯波氏」からの書状。⇒般若野庄の「金屋」
(1376年[永和元年(北朝)/天授元年(南朝)] ~1385年[至徳2年(北朝)/元中2年(南朝) ]の「東寺百合文書」に遺されている書状。)







■「高岡鋳物師」は高岡市戸出の「西部金屋」から招致されたと言う。この「金屋」は「東寺百合文書」等に拠ると、「般若野庄金屋」で在り、当時は現在の庄川を挟んだ「高岡市西保」と「砺波市東保」を含む地域で在ったと伝えられる。

⇒砺波市から高岡市にかけて拡がっていた「般若野庄金屋」
【村社五社之宮】は、西保(高岡市戸出西部金屋)と東保(砺波市東保)が1つの村であった時代の宮であるとの伝承がある。1つの村は庄川の氾濫により庄川左岸が西保三ヶ、庄川右岸が東保七ヶという2つの村に分かれた。かつて1つ宮だったことを懐かしむようにして西保神社は東を向き、東保神社は西を向きあっているという。(※Wikipedia)



■高岡鋳物師の他地区の鋳物師への圧迫
⇒加賀藩前田家を背景に高岡の商工業者は、周辺の同業者を圧迫した。(※「福光町史」)

現在も高岡市では、【高岡市の鋳物師は高岡市戸出から高岡市内に移った】とされ、他地区との区別をしているが、当時は庄川沿いに展開していた広域の徳大寺家領「般若野庄」の中に在った、現在の砺波市と高岡市に股がる地域だった様だ。




🔴🔴🔴 【宇多刀剣展】【越中福岡の名工 宇多】特別展示⇒ 2018.10.21(日)14:00~「学芸員説明会」、「宇多一族菩提寺 高岡市 三光寺 住職」の説明。

2021-04-20 | 富山県高岡市福岡町
🔷🔹高岡市福岡町赤丸村鍛冶屋町島に工房を構えたと言う南北朝時代の刀鍛冶の作品の展示。
富山県指定文化財宇多刀剣も展示された。


◼場所 高岡市福岡歴史民俗資料館(高岡市福岡町西明寺)












🐎🐎 『寿永の乱』の史跡【倶利伽羅古戦場】 ⇒「源平盛衰記」と「砺波山」の戦い!!

2021-04-20 | 富山県小矢部市


■【木曾義仲は倶利伽羅谷の戦いに臨んで源氏の祖先の八幡太郎義家が信仰した埴生護国八幡宮に戦勝祈願の願文を納めた。この一帯は、かつて、越中守を勤めた「源義家」が開発し、近くには「福岡町向田」が在る。源氏累代の家臣と見られる向田氏もこの倶利伽羅谷の戦いに木曾義仲軍として参戦していた。】(※「福岡町史」)















■【源平古戦場地図】




(※「砺波山古戦場誌」埴生小学校校長平野良作 著)



■「喜多川歌麿作」の浮世絵には木曽義仲軍の「石黒光弘」の姿が記載される。


●木曽義仲軍に取り囲まれた平家軍の陣営を見ると、「火牛の計」を用いられなくても平家が慌てた事は理解できる。狭い間道に500頭もの牛を走らせると言う戦略は実際には不可能だ。義仲軍は地元に精通した「石黒」、「樋口」、「林」、「富樫」、「宮崎」、「向田」、「高楯」、「蟹谷」等が中心で在り、この布陣を見ると、平家軍は逃れられない袋小路に自ら入り込んでいた事が判る。この布陣では平家軍が逃げる場所は背後の地獄谷しか無かった。そこは獣も通れない険しい谷であり、この谷は平家の遺骸で埋まり、谷川は朱に染まったと云う。現在は戦場で散った武将達を弔うかの様に『純白のこぶしの花』が谷のあちこちに咲いている。この花は辺りに芳しい薫りを振り撒いている。








🏯🏯「高岡瑞龍寺」の【鉛瓦】⇒高岡市博物館に陳列されている加賀藩の真実!!

2021-04-20 | 富山県高岡市



加賀藩は金沢城、瑞龍寺の屋根を鉛瓦で葺き、戦時に砲弾を造る供えにしたと云う。又、加賀藩が流罪地としていた五箇山では鉄砲の火薬を造る為の煙硝を製造していた。そのやり方は、人尿を合掌葺きの高床式の床下に撒き、その上で囲炉裏の火をガンガン燃やして蒸発を早くしたと云う。尿は各地から五箇山に山越えで送られ、出来た煙硝は富山県福野の山中から金沢の湯涌温泉に至る山越えの道を通って密かに金沢に運ばれたと云う。これは「煙硝の道」と呼ばれたと云う。加賀藩は五箇山を流罪地としてカムフラージュして、実際は徳川幕府に隠れて罪人に火薬を製造させていた。流罪地の警備が厳しいのは当然だが、外部から密偵が入る事も防いでいたと云う。

🔴🔹【五位庄柴野城城主寺嶋牛介】(※「末森記」)の末裔、高岡町奉行「寺嶋蔵人」の金沢屋敷 !!

2021-04-20 | 富山県高岡市







■「上杉謙信」が一向一揆対策として能登畠山氏の要請を受けて越中に進攻した時に、「越中五位庄」の安堵状が「寺嶋牛介」に与えられ、後に上杉謙信の家臣名簿にも載せられている。
(※「寺嶋家文書」金沢市立玉川図書館、「上杉家文書」山形県上杉博物館)






■「越中・能登守護畠山氏」が統治した時代の越中国は八郡に分割されていた。「室町幕府第三代将軍足利義満」が「相国寺」の庄園として「五位庄」を寄進した時代には、「赤丸浅井城」には「越中守護畠山持国」の名前が記されている。(※「畠山家文書」大阪府羽曳野市)



■加賀藩の重臣寺嶋蔵人の屋敷は今も金沢市内で観光地として現存している。金沢では加賀藩算用場奉行、改作奉行をした寺嶋蔵人として紹介され、高岡市では高岡町奉行として寺嶋蔵人を紹介している。高岡市では高岡市博物館に寺嶋蔵人の絵や書を保管し、時々、特別展示されているが、金沢では高岡町奉行をしていた事はどこにも出てこない。高岡市内でも観光で街へ来た人は高岡大仏の前に鐘楼があり、そこに「当初は寺嶋蔵人が製作させ、時鐘として使用していたが割れた為再度製作した鐘である。」と記載されて、ようやく寺嶋蔵人の足跡の一部が判る。又、国吉村の柴野城の山裾に在る「高岡市指定文化財観音像」の説明に「寺嶋氏が立山から運んだ石像」として寺嶋氏の名前が出て來る。寺嶋氏は神保氏の家臣として元立山山麓の池田城を拠点としていたが、後に国吉の柴野城を拠点とした時に立山からこの石像を国吉村に運んだものらしい。
(※「富山県立立山博物館」の学芸員の調査によるとこの石仏は柴野城で造られ立山に納める前に事情があって納められずに柴野城に祀られたものだと言う。)
寺嶋氏の足跡はこの様にバラバラに知るのみで一般の人達は「五位庄の領主寺嶋氏」を知る人は少ない。寺嶋氏は本家筋は山偏の付いた「嶋」を用い、分家筋は「島」の文字を使ったと伝えられている。戦国の武将の歴史は、各地を転戦して居た為、各地に伝承が残るが、どの歴史書もその武将の一面、一地域での行動を記録するのみである。赤丸浅井城の中山氏--柴野城の寺嶋氏--高岡守山城の神保氏張--能登畠山氏と繋がる主従関係が歴史の背景に有った事が判らないと、起った歴史的な事実が理解できない。又、畠山氏は能登、越中の他、大阪の河内地方、紀州地方を同時に領有していたと云う歴史的な背景が判らないと、起った事象の理解が進まない。高岡銅器が河内から伝えられ、高岡総持寺の国指定重要文化財の千手観音像が河内金剛寺から伝えられたと云う事、蘇我氏や源氏は元々、河内を拠点とした一族であったという事等が河内地方と高岡が歴史的に密接な理由でもある。しかし、残念ながら、歴史の研究者も地域毎に分かれており、歴史研究の分野も地域史、仏像、絵画の専門家等多くの分野に分かれ、行政も地域毎に分割されている為に、なかなか行政区分を跨いだ研究はされないという事情が有る。すぐ隣接の富山県と石川県は元々、加賀藩として一つの国で有ったにも関わらず、富山県の歴史資料が石川県や金沢市の図書館に収蔵され、富山県の人達は目に触れる事が無い為、各地域で細切れの歴史しか存在しないのは残念だ。又、中央の歴史書は国立国会図書館や各大学の図書館に収蔵され、地方の人達は目に触れる事が無い。最近、国立国会図書館は保管図書をデジタル化してインターネットで一部公開しているが、重要な歴史資料は「一部では無く全部」を公開して、関東や関西の人達に限定せず、国民平等に閲覧できるようにすべきだ。この事は、各大学、各図書館も同じ事で、所有図書を秘蔵せずにデジタル化して全て公開し、さまざまの研究者、国民が平等に閲覧できるようにすべきだ。



🔴🔨 【織田信長】の四女【永姫(前田利長の妻)】の寄進➡越中刀工【宇多派】の一族の菩提寺「高岡市柴野 臨済宗三光寺」!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●南朝の刀工「宇多派一族」の墓地が高岡市柴野(十日市)の曹洞宗「三光寺」に在る。


















■「宇多派」の本家は「宇多」と名乗り、分家は「宇田」、「鍛冶」を名乗る。この三光寺には室町幕府の越中守護畠山氏の墓らしき墓も多い。室町時代には越中の西山沿いは一族の畠山持国の所領で在り、守護代遊佐氏、井上氏が統治した様だ。(※室町幕府統治絵図)
宇多派は鎌倉末期、南北朝の頃に大和国宇陀郡から越中吉岡庄に移り住み、室町時代に多くの作刀を行い、江戸時代迄続いたとされる。この寺の畠山家の家紋は「剣かたばみ紋」を使用しているが、「宇多家一族」も全て「剣かたばみ紋」を使用している。五位庄の赤丸村周辺にはこの「剣かたばみ紋」や「かたばみ紋」を使用している家系が多く、「剣」を入れている家系は先祖を武士としている家系。
この経過からすれば、「宇多派」が室町時代に五位庄で作刀していた時の主要な得意先は畠山一族で在った事から、この時期に主家の畠山家から家紋を授けられたものと見られる。

(※能登畠山氏の 家紋は足利家と同じ「二引兩紋」や、皇室の「五七桐紋」、「雪紋」を使用している。越中西部を所領とした畠山持国は、室町時代の守護大名で室町幕府管領、河内・紀伊・越中・山城守護。足利氏一門の畠山氏出身。高岡市に在る「総持寺」が一時期海岸寄りに移った時の「浜総持寺」で三回忌法要が執り行われた畠山満家の嫡男。「五位庄」が「三代将軍足利義満」により「相国寺」に寄進された時にはこの管理が「畠山満家」に委ねられていたと云う。畠山義就の父。)



■刀剣研究家に拠ると、「宇多派」の刀剣には本家筋だけが「宇多●●」と姓の「宇多」の銘を掘り込んでいる。本家以外は姓を入れず名前だけを銘として打ち込んでいると云う。












■「臨済宗三光寺」には殆どの墓が「剣かたばみ紋」を入れた墓が立ち並び、その中で「宇多」と刻まれているのが一軒だけ在り、その他は一族の「宇田家」、「鍛冶家」、「畠山家」の墓で在る。「宇多」と言う姓はそれほど格式の高い家で在り、刀剣にも直系以外は「宇多」の名前を打ち込めなかったものと見られる。

(※「三光寺」は加賀藩の前田利長の妻「永姫」の支援で中興された為に「梅鉢紋」を寺紋にしている。)





🔷🏯 五位庄石堤村「西光寺縁起」に記載される【室町幕府第10代将軍足利義稙(義材)】の足跡!! ⇒ 「五位庄」の『鞍馬寺』の信仰。

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸




●「室町幕府第10代将軍足利義稙」と「足利家菩提寺相国寺~等持院、等持寺の庄園」の「越中五位庄」の関係!!
(※上皇の庄園「後院領吉岡庄」は、南北朝末期に「五位庄」に改名されたと云う。)









■「明応の政変」で将軍職を追われ、幽閉された「足利義材(義稙)」は小豆島へ流されることを知り、明応2年(1493年)6月29日に側近らの手引きで京都を脱出し、「畠山政長」の領国である越中国放生津に下向し、政長の家臣の「神保長誠」を頼った為に「越中公方」(越中御所)と呼ばれた。この時に「足利義材」は越中国で陣容を整えて臨時政権を樹立しており、「放生津幕府」等とも呼ばれる。越中の歴史ではこの「放生津幕府」についての研究が少いが、「鞍馬寺」の資料等を調査すると、この「足利義材」の越中での行動の一端が浮かんで来る。
「足利義材」は北陸へ亡命する直前の「明応2年4月」に「京都鞍馬寺」に「天下安全の願文」を納めている。
越中には「三代将軍足利義満」が室の追善料として「相国寺」に寄進した「越中五位庄」が在り、この赤丸村鞍馬寺村には京都の「鞍馬寺」を勘請した「川人山鞍馬寺」と三社権現の「延喜式内社赤丸浅井神社」、「石堤浅井神社」、「舞谷八幡宮」が在った。
「足利義材」は、この鞍馬寺集落の隣接地の「石堤村西光寺」に【度々、休憩に立ち寄り、西光寺に寺領を寄進した】と「西光寺由緒」には記されている。これも「足利義材」の鞍馬寺信仰や八幡宮、賀茂御祖神社等の信仰に根差したもので在ったのだろうか?
又、この時期に「西光寺開基」の「井口氏」が、この辺りに強力な影響力を持っていた事を暗示させる。














■「石堤村西光寺」の開基は「赤丸浅井城」を拠点とした「越中石黒氏」の同族の「井口氏」だが、鎌倉時代に「後鳥羽上皇」が起こされた「承久の乱」では、同じく同族の「加賀の富樫氏」と共に鎌倉幕府の「北条方」に付いて、同族が敵味方に分かれて戦い、「越中石黒氏」、「越中宮崎氏」、「加賀林氏」は「後鳥羽上皇」側に付いて戦っている。「承久の乱」の当時は「越中吉岡庄」と呼ばれた「後鳥羽上皇」の「後院領」で在ったが、「承久の乱」で「越中石黒氏」が降伏した為に、代わって「越中井口氏」が「五位庄」統治に乗り出していたものと見られる。「承久の乱」以後は「越中の石黒氏」、「加賀の林氏」は衰退して代わって「加賀の富樫氏」が室町幕府の重鎮に成っている。
(※南北朝末期に、越中石黒氏が復活して大規模な井口氏の掃討作戦を行った事も記録される。)




■「五位庄石堤村西光寺縁起」
応安元年了順の開基にして初め天台宗なりしが明応年中真宗に帰し今は本派に属す。廣谷山と号し西光寺の名を綽如上人より賜る。了順の俗姓は鎮守府将軍藤原秀郷五世の孫光義 康平七年三月越中守源義家に従ひて當國に下り礪波郡井口郷に住し井口三郎光義と稱す 光義五世の孫光成は俵藤太(※「藤原秀郷」:田原に住み、大ムカデ退治の武勇伝が在る。)を縁り養藤蔵人と號す 光成九世の孫光高後に蔵人成綱と改め井口城に據る  元弘二年名越時兼に攻められ戦死す 年三十九 嫡子倉之助逃れて隠處を求め礪波郡山川村 石堤村山川村也 の開祖となる 倉之助の無常を悟り剃髪染衣して応安元年天台宗に帰依し法名を了順と改め草庵を結びて出家す。 大骨、四辻 山川地内、と轉遷して後ち廣谷 石堤村西廣谷瑞京寺干場 に一宇を建立せり。亨徳二年麻生谷 石堤村麻生谷現境内 へ移転したり、明應の頃将軍足利義材越中に逃れ一向宗徒に據り當寺に陣止せし事あり 永正二年義材 義植と改 再び将軍となるや麻生谷村山岸領分の寄進を受け 永正二年、永祿六年直安、景直より墨付 たりといふ 了秀の世延寶八歳秋十五日、十日市九郎兵衛の寄進せる鉅鐘成る 工人加州金澤住人河江長兵衛作 元禄十三年六月八日堂宇類焼に際し鉅鐘敗れたり 了淳元禄十五年に堂宇 今の本堂 再建せり 了照 現住 明治四十五年庫裏を改築せり
一説 鎮守府将軍藤原利仁の後裔井口三郎ともあり
累世左の如く養藤の姓を冒し檀家三百有餘あり
定紋 圓に三俵は秀郷百足退治の功により龍宮より賜はりたる大豆栗米(永世祿)の三俵に縁りて票示せりと傳ふ
 以下省略  (※「石堤村史」参照)

📙📘📖 「信西」の孫『小督』の妹は「長谷部信連」の妻⇒「長氏」と「五位庄赤丸村」!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸









■「平家物語」の冒頭を飾る「長谷部信連」は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将で能登の国人長氏の祖である。
長谷部信連は胆勇を誇った人物で滝口武者として強盗を捕らえた功績により左兵衛尉に任ぜられ、後に後白河上皇の皇子の以仁王に仕えた。治承4年(1180年)に以仁王は源頼政と謀って平氏追討の計画を進めていたが、計画が発覚した時、長谷部信連は以仁王を三井寺に逃がし、検非違使の討手に単身で立ち向かった。奮戦するも検非違使の源光長に捕らえられ、後に平宗盛に詰問されるが屈する事なく、以仁王の行方をもらそうとしなかった。『平家物語』巻第4「信連」に拠れば平清盛はその勇烈を賞して信連を伯耆国日野郡に流した。平家滅亡後、源頼朝は以仁王の遺臣の信連を安芸国検非違使所に補し、能登国珠洲郡大家荘を与えた。信連の子孫は能登の国人として存続し、長氏と称し能登畠山氏、加賀前田氏に仕えた。加賀前田家に仕えて後は知行所として越中国五位庄赤丸村を与えられた。(※「吾妻鏡」、「小矢部市史」)
越中国五位庄赤丸村は保元の乱[平安時代末期の保元元年(1156年)7月)]の前は藤原摂関家藤原氏長者藤原頼長の所領の「越中吉岡庄」であったが、後白河上皇と信西の企てで藤原頼長は崇徳上皇をお守りして戦う事になり、敗北して崇徳上皇は恨みを残して讃岐に配流され、藤原頼長は首に流れ矢を受けて父の忠実に助けを求めるも拒否されて失望の中に亡くなった。「越中吉岡庄」は直ちに没官されて後白河上皇の「後院領」になった。
(※「兵範記」・「人車記」近衛文庫)

■知恵者の信西は巧みに悪左夫と呼ばれた藤原頼長を追いつめて乱に至ったと云われるが、元々、信西も鳥羽天皇、崇徳天皇にも蔵人として仕えた人物で、藤原家から高階家に養子に入り、高階通憲と名乗っていた。藤原一族の高階家は院の君臣、藤原摂関家の家司として活動した家系であり、鳥羽上皇の時には北面の武士として仕えていた経歴の持ち主である。しかし、実務官僚としての無力感から出家を思い立った時に藤原頼長は通憲の出家を止めようとしていたとも云われ、鳥羽上皇も出家を止めようとしたと云う。しかし、通憲は天養元年(1144年)に出家して「信西」と名乗った。保元元年(1156年)7月に鳥羽法皇が崩御されるとその葬儀を取り仕切り、鳥羽天皇が後継者とした二条天皇を即位させようとする信西は崇徳上皇、藤原頼長と対立して、両者を挙兵に追い込み勝利する。(※「保元の乱」)
信西はその後は自らの縁者を要職に就けるなど権力を欲しい侭にした為、反信西派は平治元年(1159年)12月、清盛が熊野詣に出かけて都に軍事的空白が生じた隙をついて院御所の三条殿を襲撃する。これが「平治の乱」である。この時、信西は逃亡するも発見されて獄門台に首をさらされた。信西(高階より復姓して藤原通憲:1106年~1160年)の三男は桜町中納言こと藤原成範(フジワラシゲノリ)で、その娘「小督局コゴウノツボネ」は初め清盛の娘である建礼門院徳子の紹介で宮中に上がったが、高倉天皇は中宮の徳子よりも小督局を寵愛するようになり、清盛は怒って宮中から追い出してしまう。この小督の物語は『平家物語巻六』に登場他、有名な能の『小督』にも登場する。『小督』は高倉天皇の寵愛を受けて範子内親王を生んでおり、その直後に出家したとされる。同じく藤原成範のもう一人の娘は「長新大夫信連室=長谷部信連」の妻であったとされる。何と信西の血脈は長谷部氏により能登、越中に伝わっていた事になる。[吾妻鏡30巻文暦2年(1235)6月29日条には長谷部信連の子の長谷部朝連(三郎左衛門尉)の記載がある。]

■富山県小矢部市岡の「法性寺」は越中石黒氏の所縁のお寺としても名高いが、この寺の住職は代々、能登の国人長谷部氏の末裔の「長一族」初瀬部氏である。又、この寺からは五位庄石堤村の「長光寺」との養子縁組が古くから行われ、現在の住職も「法性寺」からの養子縁組である。「法性寺」も「長光寺」も浄土真宗の古刹で加賀一向一揆の拠点になったと云われ、「長光寺」は越中吉岡庄(南北朝以前の五位庄)の地頭をしたと古書に伝わる「小田(織田)氏知」が開いた寺と云われる古い寺院である。五位庄のこの地に古くから越中・能登の領主畠山氏の家臣でもあった長氏の勢力も浸透していたものか、この地には意外に長氏の痕跡が残る。
しかも、「歴史は巡る」という事か、その昔は「保元の乱」で敵対した藤原氏長者の藤原頼長領であった「越中吉岡庄」はその後の加賀藩時代には、敵対した「信西」の子孫所縁の能登国人長谷部氏の末裔の長九郎佐衞門が知行地とし、長谷部氏の子孫が今も尚、五位庄の多くの信徒を抱える浄土真宗の古刹の住職になっている事に断ち切れぬ歴史の因果が感じられるのである。






🏯 🐎 織田信長の武将達⇒ 佐々成政の故地「尾張比良城」と 越中石黒氏末裔の長谷川氏の「尾張如意城」

2021-04-20 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■「越中で激突した戦国の武将達」


■「佐々成政の多彩な系図」


■「佐々成政 生誕地の尾張比良城」と「越中石黒氏後裔、長谷川重行の尾張如意城」



■[石黒氏の後裔長谷川氏が勘請した名古屋大井神社の「塩竃神社」由緒]

(塩竃六所大明神)
 石黒大炊助藤原重行は、後醍醐天皇の皇子宗良親王を貴船城に迎え、建武の中興に功績のあった越中国奈呉郷貴船城主石黒越中守藤原重之の子で、勤王の志を継ぎ度々兵を挙げたが、遂に越中国を去り一時奥州へ移る。後亀山天皇の明徳四年(一三九三年)に至り、奥州千賀に鎮座される塩竃六所大明神の御分霊を奉斎して、尾張国春日部郡如意郷に来て潜居し大井神社に合祀する。以来氏神とともに崇敬され現在に至る。
(※「石黒系図」では「石黒越中守重行」の子が「長谷川重之」とされる。この子孫は加賀藩前田家にも仕官したと云う。)


■織田信長の祖は越前町織田(福井県丹生郡越前町織田)の剣神社の神官で、足利一族の管領斯波氏に従って尾張に出て尾張守護代となり、後に斯波氏の跡を受けて清洲城を拠点にしたと云う。織田信長は板東平氏の官職「上総介」を名乗り、美濃の国の天台宗円徳寺に寄進した梵鐘には「大壇那上総介平信長公」と刻ませている。信長は清和源氏の足利家傍流今川氏、甲斐源氏の武田氏、近江源氏の佐々木氏、村上源氏の北畠氏、遂には清和源氏の嫡流の足利将軍家も追放したが、「天下布武」の志も半ばの天正十年(1582年)に美濃源氏の明智光秀によって京都の本能寺で討たれた。織田信長の生涯は正に源氏との戦いであった事が判る。
(※「織田氏系図」 平清盛→重盛→資盛→親真(織田)→信秀→信長)
(※信長の妹の市が嫁いだ浅井氏は藤原氏。)
(※織田信長は当初藤原氏を名乗り、後には平家を名乗った。)

■「織田信長譜」⇒平家の子孫が福井県織田町の劔神社の神官の養子になったと記されている。




■信長が討たれた「本能寺」は越中の富山県大門町(現射水市)浅井城跡に日蓮宗本門法華派を開いた足利、斯波の一族で桃井直常の子孫の「日隆聖人」が開き、織田信長に鉄砲の情報を伝えていたと云われる。本能寺は織田信長が宿泊する為に砦の様に改造されていた様だ。又、越前朝日町に逃れた桃井直常の孫の幸若丸が編み出した「幸若舞」は織田信長初め、戦国武将に愛されて一子相伝で江戸末期迄伝承された。特に織田信長は幸若舞のち「敦盛」を好んだと云われる。越中五位庄赤丸村、石堤村や福光町には明治初年迄その舞手の「舞々人」が住み、各地を巡業していたと云われる。「幸若舞」は、一子相伝とした為に衰退して、現在では九州のみやま市や織田信長の先祖の地の福井県越前町織田(旧織田町)の隣地の越前町(旧朝日町)に僅かに伝承されている。



■富山県高岡市の守山城主「神保氏張」は、源姓足利家一族の能登畠山氏から神保氏(平姓良文流。初代は山辺六郎・頼尊。中村、土屋、土肥、新開、二宮の祖。守山城主二宮氏が神保氏に改名)に養子に入り、元亀二年(一五七一年)に越後の上杉謙信と越中の神保氏張が激突した関野夜戦では、氏張は神保清十郎・神保正武・久瀬但馬守・ 益木中務丞・遊佐信濃守・小島甚介(柴野城主寺島牛介の兄)・倉光・鞍知・寺崎・唐人等総勢七千余騎を率いて越中・関野(現・富山県高岡市)で戦ったが、上杉謙信の夜襲で大敗を喫して関野を奪われた。その後、氏張は京都に流浪して、天正初年頃織田信秀の息女(信長の腹違いの妹・お市の方の姉)を妻として、天正三年(1575年)に子息の氏長が誕生し、天正六年4月には初めて京都で信長と会見している。(※「信長公記」)しかし、信長の家臣の佐々成政に従って能登末森城で前田利家と戦い、成政の九州転封に従って肥後熊本に移ったが、成政の失脚、切腹により熊本に流浪した。天正十七年には徳川家康に召し出されて徳川幕府の旗本になり、文禄元年(1592年)江戸で亡くなった。氏張の妻は何時かは分からないが氏張の失脚に伴い実家に帰り、美濃三人衆の一人の稲葉一鉄の子の貞通に再嫁した。その息女は信長の子息の三吉郎信秀に嫁いでいる。
※「佐々成政」の娘は、織田信長の七男信高、神保氏張の孫(氏長の子の氏則)の妻になっている。(※「佐々成政系図」参照)


■【明智光秀】に従った【越中蜷川一族】と赤丸村!!
「物部氏」、「宮道氏」の末裔「蜷川新右衛門親当」は、「将軍足利義満」の縁者・「政所代」として越中新川郡、利波郡を知行され、「室町幕府政所」の伊勢氏(伊勢平氏)と組んで、幕府の中枢を担った。
蜷川氏は新川郡太田の蜷川城、滑川城を拠点として、利波郡では、「越中守護畠山持国」(在京)の代理として守護代を勤め、神保氏を代官にして越中西部を統治したと見られる。赤丸村の「川人山鞍馬寺」で「赤丸村在住の藤原直家」が「蜷川最勝寺住職亀阜豊樹」に拠って父親の法要を営んだ記録が、「守山城神保氏」の一族の「東海宗洋」が記録している。
(※「富山県史中世」)



■明智光秀の家臣「斎藤利三」の娘【徳川家大奥総取締 お福】
蜷川氏に従った「斎藤利三」の娘は四国の長曾我部に嫁ぎ、織田信長が長曾我部氏と結んだ盟約を破って長曾我部攻めを企てた事に、明智光秀は苦境に追い込まれ、「織田信長」の襲撃を決意したとも云われる。
やがて、光秀死亡後、斎藤利三の娘の「お福」は「徳川家康」に呼び出され、徳川家光の養育係として、奥向きの「大奥」の最高権力者になって行く。




■前田利長正室玉泉院(永)の生母は織田信長の側室(元和四年、1618年、三月三日没)であった。素性はハツキリしていない様だが、天正二年(1574年)に「永」が産まれており、織田信長への輿入れはこれ以前になろう。「加能郷土辞彙」(日置謙著)では「前田利長の室玉泉院夫人の生母で、織田信長の側室。金沢八坂鶴林寺の境内にその墳墓がある。同寺が越中守山に在った時、元和四年三月三日逝去して春誉妙澄大姉と号し、遺体を寺中に移されたのを更に転送したものといふ。」と記載される。高岡市の瑞龍寺は前田利長の菩提寺で、僧堂の外部には織田と前田家の分骨廟が在り、「織田信長、その夫人。織田信忠。前田利長、利家の分骨廟」である。しかし、系図を考えると、織田信長夫人の墓は正室の「濃姫」では無く、「信長側室、利長夫人玉泉院の母親の墓」と考える方が筋が通る。瑞龍寺の墓所には「信長側室」の木札が置かれている。(※「織田信長総合事典」雄山閣発行)



■又、【「近江国安土古城図」安土摠見寺 [ソウケンジ]所蔵】(※「織田信長」 旺文社発行 )に拠れば、安土城には、「羽柴秀吉、徳川家康、菅屋九右衛門、堀久太郎(堀秀政)、長谷川の屋敷」が在った。「石黒氏の歴史の研究」※石黒秀雄著 に記載の「尾張石黒光慶系図」に拠れば、「越中石黒氏の主流の石黒重行は応永年中(1394~1427年)の南北朝の騒乱で尾張春日部如意属山田庄に移り、母方の長谷川を名乗り、後に斯波氏に属し、如意味鋺を領した」とされており、同じ斯波氏の代官の家系の織田家中には「尾張出身の長谷川与次(戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、号は可竹、嘉竹。子に長谷川秀一。弟に長谷川橋介)」がいた。永禄12年(1569年)8月の伊勢の大河内城の戦いに名があるのが初出とされ、野田城・福島城の戦い、志賀の陣に参加。元亀2年(1571年)5月の1回目の長島一向一揆攻めで佐久間信盛らと共に侵攻し、信長嫡男の織田信忠が尾張と美濃の一部を領有すると信忠の軍団に組み込まれ、天正2年(1574年)7月の3度目の長島一向一揆攻では信忠の指揮下に入る。天正6年(1578年)元旦に行われた茶会では信長が12人の家臣を招いて茶を振舞ったが、与次も織田信忠・明智光秀・羽柴秀吉・丹羽長秀などの重臣に混じり招待されている。また同年1月4日の信長の茶会には9人の招待客中にも与次は名を連ね、天正9年(1581年)に信長が秀吉を招いて開いた茶会にも与次は信長に同伴している。天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で信長が討れ、羽柴秀吉に接近して織田三法師(後の織田秀信)の傅役を務めた。弟の長谷川橋介は信長が弟信行(信勝)を謀殺した際に初めに斬りつけた3人のうちの1人とされている。又、子息の長谷川秀一は織田信長の小姓として寵愛され安土城下の馬場の築造を担当。徳川家康、羽柴秀吉は安土城外に屋敷を構えたが、長谷川秀一は安土城内に「長谷川屋敷」を構えている。本能寺の変の時には安土摠見寺 [ソウケンジ]で徳川家康の接待役を担当していて助かったが、家康と共に伊賀を越えて三河に逃れた。賤ヶ岳の戦いには秀吉に従って近江の肥田城主となり、天正12年小牧、長久手の戦い、天正15年の九州遠征に参陣。天正13年、越前東郷十五万石を領して羽柴東郷侍従と称し、朝鮮に出兵したがそこで亡くなった。弟の秀康も羽柴東郷侍従と称したが、子孫は絶えたと云う。長谷川秀一の菩提寺は福井県福井市東郷二ケ町「霊泉寺」。
(※「織田信長」が謀殺した弟の信勝[信行]の子の信澄の妻は明智光秀の娘であり、光秀にとって信長は娘の夫の父を殺した敵でもあり、その姑を実際に殺害したのは長谷川橋介等であった。長谷川橋介はその後、織田信長の不興を買い、徳川家康に走ったが三方ヶ原の戦いに参戦して戦死している。)

■佐々成政の生まれた「尾張比良城」は、長谷川氏が居城とした「如意城」の近所に在った。佐々家には家老の井口太郎左衛門がいたとされ、この井口氏も石黒氏の同族とされる。
越中石黒氏の同族とされる斉藤、長谷川、堀等が織田信長の家臣団におり、系図の詳細は明らかでは無いが、これ等の一族が加賀藩の家臣にもなっている。織田信長の祖は室町幕府の斯波氏の被官で在り、越中で戦った桃井直常や斯波高経・義将は足利一族で同族であった。越中吉岡庄が室町期に足利家所縁の相国寺(金閣寺)や菩提寺の等持寺、等持院の糧所とされていた事等から、越中吉岡庄には、成田、小田、小山、結城、土屋、中村等の室町幕府重臣の痕跡が多く残っている様だ。



■藤原北家→魚名流→利仁流と続く利仁流越中石黒氏同族とされる「掘氏」は、各地に広がった。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、前田利家等の家臣に「掘氏」が在り、高岡市長を長く勤めた「堀二作」、「堀健治」の「堀氏」が在り、映画最盛期の日活の社長を勤めた「堀久作」等各所にその姓が見られる。織田信長、豊臣秀吉に仕えた堀秀政は信濃住人堀秀郷重の子で、越前北ノ庄(福井市)に18万850石を領して、後に越後春日山に45万石で移封されている。その子の秀治は家康に仕え、その子忠俊は家康の養女を妻としたが、家臣堀直政(奥田直政)の御家騒動で改易になる。一族は越後蔵王3万石、下野真岡、烏山2万8000石、信濃飯田2万石を領して、天保年間には堀親宝(チカシゲ)が若年寄・老中各となり、幕末の米騒動対策等を担当して明治維新を迎えたと云う。
(高岡市名誉市民の三協立山アルミ創業者竹平政太郎氏は赤丸村向野新村の柴田トモヨを妻としたが、この仲人は高岡市名誉市民の堀健治氏だったと言う。高岡市の極楽寺由緒には、地元の国人「柴田氏」は南朝の宗良親王に仕えたとされており、石黒一族は赤丸浅井城に宗良親王を迎えた南朝の忠臣であった。竹平政太郎氏の墓所は石黒氏別邸の跡と云われる小矢部市岡702の「宝性寺」に在る。)

■藤原氏に藤原不比等の4人の息子が興した藤原四家がある。「大鏡」と言う古書に、「藤原不比等は妊娠中に母と共に天智天皇(中大兄皇子)が中臣鎌足に下げ渡した」人物で、実の天智天皇の子供であったと記載される。又、その子の宮子を「夫人 ブニン」とした文武天皇は「不比等以外の藤原氏は中臣に戻り、不比等の系統だけに藤原と称する事を認める。」と勅令を出している。
その藤原四家には、
・藤原南家 - 藤原武智麻呂(680年 - 737年)
●藤原北家 - 藤原房前(681年 - 737年)
・藤原式家 - 藤原宇合(694年 - 737年)
・藤原京家 - 藤原麻呂(695年 - 737年)がある。
⇒藤原北家本流(摂関家流)に、房前から続き「房前系」「真楯系」「魚名系」等が有る。「真楯系」は大きく繁栄し、この系統から 藤原道長 -藤原頼通 -藤原師実 -藤原師通 -藤原忠実 -藤原忠通(養子に藤原頼長※関白・「越中吉岡庄*赤丸村他」の領主 )-近衛基実 -九条兼実 (忠通三男)等を排出して「摂政・関白」を受け継いだ。一方、「魚名系」からは「秀郷流」、「利仁流」が出ている。
*「秀郷流」⇒奥州藤原氏、西行、結城氏、小山氏、八田氏、宇都宮氏、小田氏等
*「利仁流」⇒魚名→鷲取 →高房→時長→利仁流(石黒・富樫・林・加藤・後藤・進藤・竹田・斉藤・疋田・堀・遠山・仙石等) (※「日本の名字」実業之日本社 参照)



📕 🌛 【越中吉岡庄(富山県赤丸村)】≫≫≫【保元の乱】・【平治の乱】と『信西』 ⇒【平家物語】の「小督」の妹と『能登長谷部 氏 』!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸










●『藤原通憲』(※「高階通憲」・「信西」)は「保元の乱」では「後白河上皇」の側で「崇徳上皇」と【越中吉岡庄】の領主の「藤原頼長」と対立してこれ等を追い落としたが、その後の「平治の乱」では恩賞に不満を持つ「源義朝」等に追われて殺害された。
その「信西」の 三男の「藤原成範」の娘の「小督 」は平家物語でも有名だが、その妹は朝臣の「長谷部信連」の妻に成った。
★「小督」は「高倉院」の後宮と成ったが、「平清盛」は中宮である娘の「徳子」を差し置いて小督を寵愛する高倉院を牽制して「小督」を朝廷から追い出してしまうが、後には再び高倉院に会うと言う切ない物語が「平家物語」に登場する。

■文徳天皇第四皇子の人皇第五十六代「清和天皇」の末裔の「清和源氏」の「長谷部氏」は、「季頼」の時に大和国長谷部に住み、豪勇を以て「長谷部宿弥」 を賜り、その四代孫の「長谷部信連」(※三郎、又、九郎を称す)は近衛院に仕えるが、高倉院に代わった時に近衛院に従った為に追われて伯耆国に流された。しかし、平家が滅んでからは再び関東の土肥二郎に參向して戦功を上げ、文治二年六月二十三日に能登国能登郡の地頭に補任された。信連の弟の「景連」は伯耆国で「長氏」の祖と成った。

■「長谷部信連」の妻(※その子は「三郎朝連」)は加賀藩保管の系図では「由利小太郎重範の娘」と成っているが、別の系図では「信西」の孫娘が妻で在ったとしている。
「長谷部朝連」は「後鳥羽上皇」が起こされた「承久の乱」では、鎌倉幕府に従って北条朝時に従った。嘉禎四年正月に「藤原(九条)頼経」が将軍として鎌倉に入った時に先陣を勤め、次いで、その子の「藤原頼嗣」が将軍と成った時にも左親衛として勤めた。

■能登の長谷部氏は室町時代に源氏の畠山氏が能登守護と成った時に畠山氏に従って、以後、畠山氏重臣と成り、畠山家中の反乱では主君が暗殺される等の苦境に立ったが、その子孫は上杉謙信に従い、更に前田利家に従って、加賀藩になると越中国赤丸村を知行された。
(※「小矢部市史」)
⇒小矢部市岡村の「宝性寺」の住職は「初瀬部」と名乗り、能登の「長谷部氏」の末裔とされ、浄土真宗の有力寺院である。
高岡市石堤の「長光寺」住職もこの「法性寺」の御子息。


💠🏯 🔹【東京神田神保町のルーツ】 戦国時代に「越中富山城」を拠点とした「惟宗姓神保氏」の幕末!!

2021-04-20 | 富山県高岡市
■越中に展開した二つの『神保氏』⇒『寛政重修諸家譜』に拠ると、越中に展開した神保氏には渡来系で秦の始皇帝の末裔とされる「秦氏」の系統の「惟宗氏」から派生した『神保長職』の系統と、桓武平家由来の「平姓良文流」の『神保氏張』の二つの系統が在る。








■文久2年頃の「江戸切絵図」には「神保伯耆守」の屋敷が表神田小路に面している。この人物の役職は【神保伯耆守:神保長興(大目付)】と在り、軍部でも要職を勤めて【騎兵奉行神保伯耆守長興(文久3年5月8日 ~文久3年11月8日)】と在る。幕末の上野合戦の時にはこの屋敷は「夜戦病院」に為っていたと云う。(これは現在の神田神保町二丁目辺りに位置すると云う。)
「旗本神保伯耆守」の先祖の『神保長治』は徳川家康の墓所、日光山の管理を任されたり、佐渡奉行に任命されたりしていたそうで、屋敷敷地は九百九十五坪も在ったと云う。神保長治はこの日光山管理を任された時に、石高900石を多摩地区に拝領して、この屋敷地も拝領した様だ。
江戸時代は武家地には地名がなかったそうで、1872年(明治5年)から「神田神保町」と名前が付けられた。明治維新後には大名は領地に帰った為に、これ等の広大な土地は明治政府が接収して、後に、この辺りは「本の町の神田」として発展してくる。
この屋敷は【旗本神保長治が元禄二年三月に神田小川町の屋敷地九百九十五坪(旧南神保町一丁目十番地)を賜わった】のが始まりで、その後、幕末迄、代々、神保家の屋敷で在ったと云う。

■系図に拠れば、惟宗系神保氏には幾つかの系統が在り、その一つの『神保相茂』の系統は、豊臣秀吉に従った時には大和国高市郡(奈良県橿原市)に6000石の知行地を受けていたが、関ヶ原合戦では徳川家康方で戦い、その戦功で1000石をを加増されて7000石を知行されていたと云う。従って、この神保氏は徳川時代は「大和高市郡」が本拠地になっていた。
(※この系統の系図では、『神保左京茂時』は「徳川秀忠」、「家光」に「服を献上して感状を受け」、「家綱」の時には舟を修復して褒美に休暇を頂き、将軍家には煙草を献上している。次の代の「神保主膳元茂」は元禄八年に「定火消し」に任命されている。この系統は明確に「惟宗長三郎」と名乗っており、この系統は惟宗姓で在った事が確認できる。)

「寛政重修諸家譜」に見られる【惟宗姓神保氏】






■「奈良県立図書館資料」に見られる「神保氏の知行地」



📚📃 一日も早く解明が望まれる高岡市関町「衆徳山総持寺」の秘仏「国指定重要文化財木造千手観音座像」!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


■「衆徳山総持寺」の『国指定重要文化財木造千手観音座像』は多くの胎内名からほぼ関係者が明らかだが、「国宝指定」の時に行われたズサンな調査の為に誤って解説されており、公的に詳細が解明されないままに放置されている。













■『願主 藤原浄円の系図』⇒「藤原浄円」の子の「斉藤清時」は「鎌倉将軍藤原頼経」の近臣!!


【御成敗式目】(※「貞永式目」)の制定に関わった評定衆の中に「斉藤長定(沙彌浄円)」がいた。









■「河内金剛寺住持持仏に後醍醐天皇2粒、東寺長者文観3粒、合わせて5粒の仏舎利が施入された。この仏舎利は空海が唐から持ち帰った釈迦の骨80粒の内から、後醍醐天皇が勅封を解き施入されたもの。合わせて文観の持つ3粒も施入された。→(※通常は仏像一体に一粒が施入されたと言う。)」
⇒金剛寺関係者に調査していただいた所、現在、この仏像は金剛寺には無いと言う。総持寺の千手観音像の顔内部の胎内には「奉納仏舎利」と二ヵ所に記載されており、又、別の部分には南朝の護持僧とされる「禅恵」の署名と共に「摩尼徳丸」の署名がある。「摩尼」は住持の居処「摩尼院」を指し、「徳丸」は寺の雑事をこなす「童形」の従事者の事。⇒この千手観音像が住持の居処の摩尼院に祀られていた事を示すものと見られる。











《「御成敗式目」起草者の「斉藤長定入道藤原浄円」⇒「沙彌 浄円」》



■「鎌倉幕府歴代将軍」
⇒(※「藤原頼経将軍」の父の「藤原道家」は「小矢部市宮島郷」の庄園領主でもあった。「赤丸浅井神社由緒」に拠れば、宮島郷2ヶ村、国吉郷24ケ村を含む53ケ村が、往古の浅井神社神域とされ、各戸から米一升の初穂米を集める勅許を天皇から受けていたと云う。)


■高岡市の名刹「衆徳山総持寺」の「国指定重要文化財木造千手観音座像」は河内金剛寺の南朝護持僧「禅恵」の胎内名があったとして昭和12年には「南北朝時代制作の仏像」として国宝に指定された。しかし、他の胎内名を調べると、その主要な顔部分の胎内名は鎌倉時代の人物である。「本願聖人金剛位理卿」は「後鳥羽上皇の法名」であり、「大壇那藤原浄園」は鎌倉幕府評定衆の「斉藤長定入道藤原浄円」である。又、「大仏師幸賀」は興福寺修理仏師の中に「慶派仏師」として見られる。「吾妻鏡」に拠れば、後鳥羽上皇は3月に隠岐で亡くなり、同年10月に藤原浄円も亡くなっている。又、「大壇那」として造仏資金を提供した「藤原浄円」の長男は鎌倉幕府引付衆であったが、藤原氏から出た頼朝の妹の系統の「九条頼経将軍」に近持していた事が、頼経追放の時の従者の中に見られる事から推定できる。九条家は、九条兼実(娘は後鳥羽上皇の中宮任子)→九条頼家→九条道家(小矢部市宮島郷の庄園領主)→九条頼経 と続く藤原摂関家の直系一族であり、九条兼実が創建した「東福寺」は氷見から新湊、高岡、小矢部市の海岸、西山一帯を庄園として、氷見の八代氏、同族の菊池氏が庄園の管理をしていた。藤原一門の菊池氏、八代氏の菩提寺でもある。(保元の乱以前は赤丸村を含む越中吉岡庄は藤原摂関家長者藤原頼朝長の庄園であったが、後白河上皇以後は上皇庄園の「後院領」となり、後醍醐天皇の時まで後院庁の管理下に在った。)
後鳥羽上皇が「承久の乱」を起こして隠岐島に流罪となり、度々の申請にも関わらず終世、北条氏は後鳥羽院を島から帰す事はなかった。時の将軍藤原(九条)頼経は後鳥羽上皇の中宮の「任子」の子孫であり、同じ九条家の出でも在った。後鳥羽院が配流された時に他の妾は付き添いを許されたが、中宮の任子には許されなかった。任子は女子を一人産んだが男子に恵まれず自ら宮廷を出たと云う。代々、朝廷の中枢に仕えた藤原一門としては、後鳥羽院の帰還は悲願であったに違いない。頼経将軍に仕えた斉藤清時の父も藤原一門であり、秘かに幕府重役の藤原浄円が資金を出して、大仏師幸賀に「悲願成就」を願って「千手観音像」を造らせ、源氏一族が創建し、代々朝庭の人々が結縁を結んできた河内金剛寺の住職の持仏として住職の居宅でもあった「摩尼院」に安置されていたものだろう。南北朝の時に後鳥羽院と同じく足利幕府に手を焼き、後鳥羽院の時の天皇親政を目指した後醍醐天皇は、禅恵の師匠に当たる東寺長者文観に東寺の仏舎利(空海が唐から持ち帰った)の壺の中から、長者の壺から3粒、天皇管理の壺から2粒⇒合計5粒もの仏舎利をこの千手観音像に施入して、金剛寺の禅恵に指示して、後白河院以来の皇室庄園「越中吉岡庄」の総持寺に運ばせたものと考えられる。
この頃、「赤丸浅井城」は、同族で音にも聞こえた南朝の忠臣で越中の名門の「越中石黒氏」が居城としており、正にこの千手観音像を守る絶好 の場所で在った。
この貴重な観音像が詳細の調査も無く、現在に至っている事は、信仰の上からも、貴重な文化財としても非常に惜しい事だ。何よりも「歴史のまちづくり」を標榜する高岡市や富山県が「国指定重要文化財」で有りながら、放置している事は教育県として誇ってきた富山県を貶める行為でもある。一日も早く、再調査をされん事を切に願っている。

■鎌倉時代に作られた【御成敗式目】の起草者筆頭にある「沙彌浄円」は「斉藤長定」→入道して「藤原浄円」の事である。

🚩🚩富山県西部の古代庄園⇒「上賀茂神社庄園」の【越中吉岡庄】と「慈円」の庄園【越中福田庄】!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


■「越中吉岡庄」については平成26~28年に「高岡市福岡町赤丸、馬場周辺の後の五位庄域にほぼ該当する」として「国立歴史民俗博物館庄園データーベース」を確定して頂いた。
又、その歴史の中で「白河上皇」の時に「上賀茂神社」の庄園として設定された庄園の中に「吉岡庄」も含まれていたとされている。
【※「山野川湊の中世史」(※久保尚文著)には、寛治四年に白河院政が庄園を寄進した時に富山市の「新保御厨」と「越中吉岡庄」が上賀茂社の庄園になったと記され、「庄園データーベース」にも「吉良庄」として記載されるが、これは学界では「吉岡庄」の事だとされている。「吉岡庄」が南北朝末期と室町時代に下鴨神社 《※下鴨神社、正式名称は賀茂御祖神社》の庄園に成った記録は、「賀茂御祖皇太神宮神戸記 巻7」に記載されている。】











■「兵範記」の記載


■「人車記」(※近衛家陽明文庫 陰影版)




■「越中福田庄」の「庄園データーベース」には「慈鎮領」の庄園記録が記載されている。これについて調査すると、その記載は「華頂要略 巻55」に記載されている。その中の「慈円」が遺した「慈鎮和尚重被譲進西山宮状案」等に「福田庄」が見られる。
(※この文書には織田信長の先祖の地とされる越前織田庄の記載も在る。)
(※「華頂要略」は青蓮院の寺史。→「天台宗全書第16」)
「福田庄」はその後、「妙法院領」と成り、後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が妙法院院主、天台座主と成り、その後は宗良親王の弟子の北朝の親王に受け継がれている。








■「華頂要略」(※天台宗全書16)



■「華頂要略」
【京都府立京都学・歴彩館 Kyoto Institute, Library and Archives】






■『越中西部』には藤原氏の庄園が広がっていた。
「慈円」【久寿2年4月15日(1155年5月17日)~ 嘉禄元年9月25日(1225年10月28日)】は、平安時代末期~鎌倉時代初期の天台の僧で『愚管抄』を著した事で有名だ。諡号は慈鎮和尚(ジチンカショウ)、通称は吉水僧正(ヨシナガソウジョウ)と呼ばれる。父は「越中吉岡庄」を所有していた藤原頼長の兄の摂政関白藤原忠通、母は藤原仲光の女加賀、摂政関白の九条兼実は慈円の同母兄に当たる。若くして青蓮院に入り仁安2年(1167年)には天台座主の明雲について受戒し建久3年(1192年)には38歳で天台座主になる。後に、慈円の天台座主就任は4度にも及んだ。兄の「九条兼実」の孫の「九条道家」の後見人を務め、「藤原道家」の子の「藤原頼経」は鎌倉幕府将軍として鎌倉に下向した。「後鳥羽上皇」の「承久の乱」では反対して『愚管抄』を書いたとされるが、「承久の乱」で「後鳥羽上皇」が隠岐島に配流されて九条兼実の曾孫の「仲恭天皇」(道家の甥)が廃位されたことに衝撃を受け、鎌倉幕府を非難して仲恭帝復位を願っていたと言う。又、「九条兼実」の娘は「越中吉岡庄」を所領としていた「後鳥羽上皇」の中宮「任子」である。
高野山下の女人高野と呼ばれた「河内金剛寺」から、元々赤丸村に在った総持寺に国宝にもなった「木造千手観音座像」が伝えられて、その観音像の胎内には「後鳥羽上皇」の法名『金剛位理卿』が記載されている。




■「越中吉岡庄」は藤原氏全体の最高権力者「摂関家藤原氏長者、左大臣藤原頼長」の庄園で在ったが、「保元の乱」で「後白河上皇側」に敗れて、保元二年に「吉岡庄」は「後白河上皇」の「後院領」に組み込まれ、「後白河上皇」はこの庄園を【蓮華王院】(※三十三間堂)に寄進している。又、「藤原道家」は小矢部市の「宮島郷」を庄園としていたが、後に官に返還している。(※「鎌倉遺文」)
この様に「五位庄」(※南北朝末期迄は「吉岡庄」)は天皇家、藤原氏と非常に密接だった地域だ。
(※「人車記」《兵範記》近衛家陽明文庫)

「赤丸浅井神社由緒」に拠ると、小矢部市宮島郷二ケ村、国吉郷二十六ケ村、後の五位庄域25ケ村を含む合計53ケ村が「赤丸浅井神社」に許された神域で在った事から、概ねこの範囲が「越中吉岡庄」の範囲だったと見られる。(※「皆月家文書」富山県立公文書館)

◇『国立歴史民俗博物館庄園データーベース』参照

🌄☁📃 門跡寺院「比叡山青蓮院庄園 」⇒【慈円】の庄園【越中福田庄】!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸








■青蓮院門跡は、天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つで、「後鳥羽上皇」の中宮「任子」や摂関家「九条兼実」の一族の「慈円」は「愚菅抄」を著して有名だが、この藤原氏の名門の「慈円」は越中の「福田庄」を庄園としていた。
この記録の原本は京都市のホームページに在る青蓮院記録の「華頂要略」で確認できる。(※「慈鎮和尚」とは「慈園」の事。)









■この隣接地は「後鳥羽上皇」の庄園「越中吉岡庄」で在り、氷見市から射水市にかけては、兄弟の「九条兼実」が創建した「東福寺」の庄園が広がっていた。越中國の東條保、河口保、曾祢保、八代等保 は「藤原道家」が寄進して東福寺領と成り、小矢部市に在った藤原道家の庄園の宮嶋保は国庫に返還された。 東條・河口・曽祢・八代等の保は 米100石で地頭が管理する事で地頭が連名で藤原道家に請状を提出した。(※「吾妻鏡」)