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■【木曾義仲は倶利伽羅谷の戦いに臨んで源氏の祖先の八幡太郎義家が信仰した埴生護国八幡宮に戦勝祈願の願文を納めた。この一帯は、かつて、越中守を勤めた「源義家」が開発し、近くには「福岡町向田」が在る。源氏累代の家臣と見られる向田氏もこの倶利伽羅谷の戦いに木曾義仲軍として参戦していた。】(※「福岡町史」)
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■【源平古戦場地図】
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(※「砺波山古戦場誌」埴生小学校校長平野良作 著)
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■「喜多川歌麿作」の浮世絵には木曽義仲軍の「石黒光弘」の姿が記載される。
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●木曽義仲軍に取り囲まれた平家軍の陣営を見ると、「火牛の計」を用いられなくても平家が慌てた事は理解できる。狭い間道に500頭もの牛を走らせると言う戦略は実際には不可能だ。義仲軍は地元に精通した「石黒」、「樋口」、「林」、「富樫」、「宮崎」、「向田」、「高楯」、「蟹谷」等が中心で在り、この布陣を見ると、平家軍は逃れられない袋小路に自ら入り込んでいた事が判る。この布陣では平家軍が逃げる場所は背後の地獄谷しか無かった。そこは獣も通れない険しい谷であり、この谷は平家の遺骸で埋まり、谷川は朱に染まったと云う。現在は戦場で散った武将達を弔うかの様に『純白のこぶしの花』が谷のあちこちに咲いている。この花は辺りに芳しい薫りを振り撒いている。
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