赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🌸📃 【越中宮極楽寺由緒】(原本)を見て【高岡市曳山祭り】の真実 を知ろう ⇒皇室庄園「越中吉岡庄」赤丸村と後醍醐天皇皇子「宗良親王」!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸





●木舟城・赤丸浅井城の城主石黒重之が南朝の興国三年に、後醍醐天皇の皇子の宗良親王を御迎えし、各所に南朝の支持者を求めて潜行された。牧野に御入りになった親王は、赤丸城ケ平の「親王屋敷」に入られ、近くの「極楽谷」に「極楽寺」を創建されたと伝わる。この時には、赤丸浅井城・赤丸浅井神社を中心とする「越中吉岡庄」は父君の「後醍醐天皇」の庄園で在った。「越中宮極楽寺由緒」には「この間、赤丸村に在った。」と記載される。「越中吉岡庄」は、元々、後白河上皇の「後院領」で在ったが、後醍醐天皇迄、皇室領として伝領された。


(※「明治時代の公図」高岡地方法務局所蔵)






■「越中吉岡庄」は「後白河上皇」・「後鳥羽上皇」から南北朝時代の「後醍醐天皇」の時代迄、皇室領として続いた。南北朝時代の興国三年には「後醍醐天皇」の第八皇子「宗良親王」が赤丸城ケ平山の「親王屋敷」に入られ、「極楽谷」に「極楽寺」を創建された。

■「歴代、吉岡庄領主」⇒「後白河上皇」・「後鳥羽上皇」~「後醍醐天皇」


■明治維新は「後醍醐天皇」の天皇親政を目指した。




■「宗良親王」は「赤丸浅井城」に入城され、南朝軍を鼓舞された。






■「宗良親王」は「熊野社」を信仰され、「赤丸浅井城」の背後には「熊野社」を祀られた。高岡法務局公図にはその「社地」の記載が在り、この「熊野社」は現在、「赤丸浅井神社」に合祀されている。




■「射水郡誌」には、宗良親王が牧野に入られた時に親王を護衛して常に奉仕したのは「牧野太郎二と云い、この人物は木舟城を築いた石黒太郎光弘の後裔の牧野氏なるべし」と記載している。従って、木舟城、赤丸浅井城には石黒重之の手の者が、牧野には「牧野氏」が入っていたものと見られる。赤丸村には赤丸浅井城、極楽寺跡に近く「親王屋敷跡」が在り、親王は将軍としてあちこちの軍営を鼓舞されて転戦、巡行された時に、ある時には「馬」で、ある時には「與車ヨシャ」と呼ばれる牛車に乗られたものと見られ、「越中宮極楽寺由緒」には「高岡市の御車祭り」で使用される二輪の車はこの時に宗良親王が使用された「御車」を使っていると云う。その為に、二番町の山車だけは、二輪車で在り、飾り付けは宗良親王が信仰された「熊野社の鳥居にヤタカラスが二羽留まっている」形のものだとしている。従って、この祭りが始まる前には役員が正装して極楽寺に拝礼してから出発するのだと云う。
しかし、高岡市では、いつの間にか『この祭りは豊臣秀吉が後陽成天皇を御迎えした時の「鳳輦 ホウレン」と言う人が担ぐ輿を前田利家が拝領し、利長がそれを市民に与えたもの』と家臣や有力町人により喧伝されて引き継がれ、現在の「高岡市」もこの説を採用して引かない。

■「高岡市史」には宗良親王は妙法院院主、比叡山座主を歴任されたので、越中に入られた時には先ず、妙法院院領の「福田庄」に入られたとする。しかし、興国三年には「妙法院院主」は北朝の親王に代わっており、これは疑わしい。しかし、それ以前に「福田庄」は極楽寺庄園になっていた時期が在る事から、親王がこの地域に入られたと言うのは、「極楽寺」に入られた事を指すのではないか?
(※「国立歴史民俗博物館庄園データーベース」参照)
(※「鎌倉遺文 巻4 1974号 P58 慈鎮和尚……… 」参照)








■「越中宮極楽寺」、『宗良親王像』(※福岡町木舟の石黒家所蔵)、高岡市二番町の二輪の山車(熊野社の鳥居とヤタガラス)

《写真は二番町の山車》
■『二番町の曳山』【鉾留: 桐本座は千枚分銅(唯一人形ではない)。唐垣地幕は緋羅紗地剣梅鉢紋。 本金糸刺繍囃子。 還城楽(囃し方・枇杷首)。高さ 約9m、重さ 約2.5t】
⇒本座人形は無し。屋台前部に守護神を「熊野権現」とする「熊野神社」の朱塗りの鳥居があり、二羽の烏が留まる。7基の山車の内、唯一車輪が二輪である(直径 2.05m)。
4月30日の宵祭りには二番町のみ、神を迎える神事として提灯を手に、長持ちを担ぎ神様を迎え入れる。(※Wikipedia)



■「越中宮極楽寺」の熊野権現の厨子


■「後陽成天皇聚楽第行幸絵図」⇒後陽成天皇が「聚楽第」行幸の時には「鳳輦 ホウレン」と呼ばれる「輿 コシ」に乗られている。



■【※鳳輦(ホウレン)は「屋根に鳳凰の飾りのある天子の輿」の事。人達が担ぐ乗物で、日本では「天皇」の正式な乗物を意味する。現代の神社の祭りに使用されている鳳凰の飾りがある「神輿」(ミコシ)は同じ形をしている。牛に引かせた「牛車 ギッシャ」は正式には「與車 ヨシャ」と呼び、車に乗る時には後ろから踏台を使用して乗り、降りる時には必ず牛を外して前から踏台を使用して降りる定めが在ったと言う。関白、親王、妃等の人達の乗物。(※「與車考」有職故實)】

■京都葵祭りの「曳山」⇒神々が降臨される木等の植物を中央に建てた四輪車。引き回す「御神輿」の形。神々は杉や笹等の植物、或いは岩等の「自然物」に降臨される所から、地鎮祭等の神事でも必ず使用される。


■高岡市博労町の極楽寺由緒(絶版)に「元赤丸村に在った事」「高岡市の曳山に宗良親王の御座車の部品が利用されている事」等、興味深い事実が記載される。この極楽寺は、元、赤丸村の城ケ平山の「極楽谷」に創建されたと伝わり、赤丸城の中腹には「宗良親王屋敷跡」も史跡として残されている。この由緒は「極楽寺由緒編纂委員会」が昭和11年に発行したが、この原版は残されていない。
東京大学 史料編纂所 図書室( 東京都文京区本郷7-3-1)に「越中宮安養山守山極樂寺略縁起」(安養山守山極樂寺編、越中宮極樂寺史編纂所、 1936.9)が残されるのみ。この書籍は、全国を探した結果、大阪に1冊発見された。郷土の真実の歴史研究の為に公開したい。

■「越中宮極楽寺」


■毎年5月1日に行われる高岡市の「曳き山祭り」では、「越中宮極楽寺」に役員が拝礼に立ち寄る。この「曳き山」の「大八車」には後醍醐天皇の「第八皇子宗良親王」の御座車が使用されている事から、先ず、宗良親王に拝礼するのだと「極楽寺由緒」に伝わる。









■富山県高岡市福岡町赤丸に残る「越中宮極楽寺」創建の遺跡位置。
この場所は「赤丸城ケ平」に在り、この山の命名については、「城ケ平山」(※「赤丸名勝誌」)として、 【傳説には建武二年後醍醐天皇第八皇子比地に御殿を築かせ給ひ御遷殿の御歌に「城かきをきつき八重かき平らかに このうへなきや乗り合ひの里」上句の城平二字を取り城ケ平と名け給ひしとぞ 】 と記載されている。



■下記に「極楽寺由緒」の全編を公開する。高岡市の真実の歴史がどうなのかは御自身で確認されたい。
「越中宮安養山守山極楽寺 由緒」(※高岡市博労町校下)
























































🔴【平家の越中統治】「越中吉岡庄」に館を構えた平家の猛将【越中前司 平 盛俊】・【平 盛嗣 】⇒「平家物語」、「源平盛衰記」、「国吉小史」にも見える平家の猛将が統治した「高岡市国吉村」!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
▼「越中吉岡庄国吉名」に館を構え「能登、越中」を統治したと言われる「平清盛」の家臣「越中前司平盛俊、平次郎兵衛盛嗣(盛次)」


「飛騨国治乱記」




■「後白河上皇」の庄園、「越中吉岡庄」の郷社の「延喜式内社赤丸浅井神社由緒」(※富山県立公文書館)に拠ると、その神領として「国吉郷26ケ村、赤丸村他25ヶ村、小矢部市宮島郷二ケ村を含む53ケ村」とされ、勅書によって「毎年、各戸から米一升を集めた」とされる。
その「国吉郷」は鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に拠ると「国吉名」とされ、その「国吉名」には平家の猛将「越中前司 平次郎兵衛盛嗣」が館を構え「越中、能登二国」を統治したと「国吉小史」に記載される。父の「平盛俊」も安元元年(1175年)に越中守に任じられ、治承四年には強盗を捕縛して名を挙げている。
高岡市国吉の岩坪の村外れに由緒ははっきりしないが「居館跡」とされる敷地と墓地が遺されている。
この武将は「平家物語」や「源平盛衰記」にも登場し、平家武鑑にも記載されるが、高岡市では知る人は少い。

■【平清盛】は「保元の乱」で勝利した「信西」を殺害して政権を建て、「後白河上皇」が建立された「蓮華王院」に「三十三間堂」を寄進した。「後白河上皇」は「三十三間堂」に「一千一体」の「千手観音像」を祭って自らの持病の頭痛の快癒を祈願された。
(※「平治の乱」)




▼「楊枝の御加治」と呼ばれる法事が現在も三十三間堂で執り行われている。後白河上皇の頭痛は「熊野社」の僧が「柳の下」に埋もれていた事が原因とされて、その柳は伐られて三十三間堂の建物の部材に使用されたと言う。

「越中吉岡庄の歴代領主」


🔽「平清盛」は「平盛俊」を北陸統治の為に「越中国国吉名」に配置した。平盛俊は国吉名に拠点を置き、「越中」・「能登」を統治して【越中前司】(越中の前の国司)と呼ばれている。「平家物語」には、「平盛俊」が「源義経」の事を「背が小さくて出歯の男」と説明している。
(※「国吉小史」、「平家武鑑」)

🔽「越中国国吉名」は、「後白河上皇」の庄園「越中吉岡庄」と呼ばれた赤丸村の鎮守社【赤丸浅井神社】の神域で在り、「53村」が含まれていたとされる。
「吉岡庄」には「国吉名」、「赤丸村」、「宮島郷」が含まれていた様だ。
➡小矢部市に在った「宮島郷」は鎌倉幕府将軍藤原頼経の父親の「藤原道家」の庄園で在った。(※「鎌倉遺文」)

(※「赤丸浅井神社由緒」富山県立公文書館所蔵)


















🔴【延喜式神名帳巻十 礪波郡 浅井神社】は「越中国礪波郡五位庄五十三ヶ村惣社」!!

2021-04-20 | 富山県高岡市福岡町










■「越中吉岡庄」・「越中五位庄」と呼ばれた時代から、歴代の天皇・皇族が勘請された「延喜式内社赤丸浅井神社」に祭られる神々は、神世の神々から天皇の信仰の神々迄、多くの神々を祭っている。
主祭神には皇室八神の一の「高皇産霊神 タカミウブスナノカミ」、大河の小矢部川の鎮守「八河江比売 ヤガワエヒメ」を祭る!!






■【義経記】の弁慶が義経を扇子で殴打したシーンが展開された「赤丸浅井神社」の前の「二位の渡し」⇒皇室庄園[越中吉岡庄]の鎮守赤丸浅井神社の掲額「義経」と「弁慶」!!



🔻「赤丸浅井神社の七の社の伝承」は「赤丸浅井神社」が以下に示す数多くの祭神を祀っている事から来ている。
「赤丸浅井神社祝詞と赤丸の管理神社」は以下の祝詞にも記載されている。「赤丸浅井神社」ではこの長い祝詞を毎朝神前で読み上げていた記録も遺されている。

🔽「白山山伏」が信仰する【木花咲夜比売命】のシンボルの二本の「桜」の大木が植えられ、「遅桜」と呼ばれ、「吉岡庄、「五位庄」の農作業の神とされた。





◆「赤丸浅井神社祝詞」
掛巻毛畏支比乃御社尓添弖(そえて)齋比奉利座寸奉畄。神皇産霊(かむみむすびの)大神。八幡(やはたの)大神。相(あへ)殿(どの)尓(に)座(ま)寸(す)。天照(あまてらす)大神。熊野(くまのの)大神。
八幡(やはたの)大神。天満(てま)大神。八幡(やはたの)大神。諏訪(すわの)大神等(たち)。日吉(ひよしの)大神等(たち)。愛宕(あたごの)大神。白山(しらやまの)大神。富士大神。庚能((かなへの)大神。
赤丸舞谷(まへのや)入會(いりあへ)尓座(ま)寸(す)。清水(きよみづの)大神。向野新(むかへのしん)尓座(ま)寸(す)。天照(あまてらす)大神。石名田尓座(いしなだにま)寸(す)。天照(あまてらす)大神。麻生谷(あそや)尓座(ま)寸(す)。熊野(くまのの)大神。少名彦(すくなひこの)大神。諏訪(すわの)大神。八幡(やはたの)大神。西廣谷(にしひろたに)尓(に)座(ま)寸(す)。
白山(しらやまの)大神。天照(あまてらすの)大神。諏訪(すわの)大神。沢川尓座(そうごうにま)寸(す)。愛宕(あたごの)大神。東石堤尓座(ひがしいしづつみにま)寸(す)。八幡(やはたの)大神。笹川尓座(ささがわにま)寸(す)。丹生川(にふかわ)大神。熊野(くまのの)大神。高田島尓座(たかたじまにま)寸(す)。五位庄(ごいのしょうの)大神等乃(たちの)。御前乎遥尓(はるかに)拝美奉利弖。畏美々々毛白左久。敷座畄氏子等乎。守利恵美給倍止稱言竟(おえ)奉良久止白寸。

■赤丸浅井神社管理の宮
・愛宕社 祭神 軻愚突智命
赤丸村古谷五四〇二(古村)
・清水社 祭神 大巳貴命  清水山鎮座
赤丸村古谷五三六三(古村)
■赤丸浅井神社に合祀されている神
(明治四十二年合祀)
・神明社 祭神 天照大御神
赤丸村向野新村字石名田八一八番(向野新村)
・神明社  祭神 天照大御神
赤丸村焼田六七一四(鞍馬寺)
・八幡社 祭神 誉田別尊
赤丸村砂田六二九〇(鞍馬寺)
・熊野社 祭神 伊弉諾命
赤丸村古谷五〇三一(古村)
・天満社 祭神 菅原道真
赤丸村子吉三八七三(古村)
・諏訪社 祭神 健御名方命
赤丸村縄田二五一七(川原)
・諏訪社 祭神 健御名方命
赤丸村草安五七五三(鞍馬寺)
・庚能社 祭神 金山彦命
赤丸村焼田六六一九(鞍馬寺)
・庚能社 祭神 金山媛命
赤丸村古谷五二七五(古村)
・日吉社 祭神 大山咋命
赤丸村勝負田一四五四(古村)
・日吉社 祭神 大山咋命
赤丸村山王四三九八(古村)
・富士社 祭神 木花咲夜比売命
赤丸村山王四五〇六(古村)
・白山社 祭神 白山媛命
赤丸村古谷四八三八(古村)






























🔘📖 【富山県高岡市福岡町赤丸】 【越中吉岡庄】 「国立歴史民俗博物館」の「庄園データーベース」の『越中吉岡庄』の記載⇒南北朝時代に【京都下鴨神社】の庄園に成った記録『柳原家記』!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「国立歴史民俗博物館」の庄園データーベースには「参照」として「越中吉良庄」についての注記が有る。これは「柳原家記」(※「大日本史料第六編四十一」)、「康正二年造内裏段銭並国役引付」(※「群書類従28 雑部」)、「賀茂御祖神社諸国神戸記 巻七 越中」等の記載から、『南北朝時代末期から越中吉岡庄は下鴨神社の庄園に成って居た事は確実で在り、室町時代の足利義政の時代に見られる「越中吉良庄」は明らかに「越中吉岡庄」の誤記又は「岡」の崩し字を間違えて「良」と解釈した解釈ミスで在り、越中には「越中吉良庄」は聞いた事も無いので庄園データーベースを修正して戴きたい』旨、「民俗博物館」に申し入れして協議して頂いた結果 、2018.2.7以下の連絡が在った。








【回答】
『国立歴史民俗博物館 総務課情報システム係 ●●と申します。
いつもデータベースをご利用いただきありがとうございます。
いただいた内容を元に再度本館担当者に確認しまして、下記の通り回答とさせていただきます。
----ここから---
 ご連絡の件ですが、ご指摘の通りだと思います。
 この史料はデータベースの典拠になっている『角川日本地名大辞典』が見落としていたようです。よって吉岡荘は南北朝時代には下鴨社領になっていたのは間違いないと思いますし、吉良荘は吉岡荘と同一(誤記)の可能性はかなり高いように思います。
 今後、データベースの内容の見直しを進めていきますので、そのなかで修正したいと思います。ただし、「吉良荘」を削除するのは昨日のメールの通り躊躇されますので、今回ご指摘いただいた史料を踏まえて、「吉岡荘の誤記か」を「吉岡荘の誤記の可能性が高い」というような内容に修正させていただきたく存じます。
----ここまで---』













▼しかし、室町幕府第三代将軍足利義満は室の日野業子の追善料として「越中五位庄」を「相国寺」に寄進し、引き続いて足利義持は五位庄の半分を「等持院」に寄進しており、その後の記録では「等持寺」の記録も在り、「五位庄」は長く足利家菩提寺の庄園に成っており、「下鴨社」の庄園と成っていたのは「五位庄の西庄」の一部と見られる。「五位庄の東庄」はこの時期に公卿の「勧修寺」の庄園に成っており、「東寺百合文書」によると高岡市中田~砺波市にかけての地域は「般若野庄」に含まれている。





■「相国寺」の記録『相国考記』に記載される「越中五位庄」の相国寺庄園への寄進!!







💠🔹 「越中吉岡庄」に移り住んだ「宇多派刀工」と江戸宇田川氏・歌川国芳!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸

●浮世絵の「歌川国芳」等の使用した「歌川」は元、「宇田川」から変化したと言われ、「宇田」は「宇多天皇」を祖とする「宇多源氏佐々木氏流」の「宇多刀工」の一族の末裔とされ、本家だけが「宇多」を名乗り刀剣にも「宇多」の姓を「銘」に刻んだと云われる。分家筋は「宇田」や「鍛冶」と名乗り、「宇多刀剣」には直系以外は「姓」を打ち込めなかったと云われる。




■「越中吉岡庄」に南北朝時代に奈良県宇陀郡から移り住んだ刀工の一派の祖「宇多国光」の刀







■『越中国吉岡庄』に栄えた「宇多刀工」と「渋谷区宇田川」(※Wikipedia)
⇒(※「吉岡庄」は南北朝時代から「五位庄」と改名)
Wikipediaに興味ある話が記載される。室町時代から関東に「宇田川氏」が栄え、渋谷区には「宇陀川」と言う河川が在ったと言う。この「宇陀」については大和国宇陀郡に起こった「宇多刀工」との関連が在る?ともしている。
「宇多氏」は「宇多源氏」の祖の「宇多天皇」の末裔の「宇多源氏佐々木氏流」とも云われ、「越中吉岡庄」を「後院領」とされた「後宇多上皇」が院政を敷き、南朝の「後醍醐天皇」を即位させられ、後醍醐天皇の皇子宗良親王が「浅井城」に入城された時に「吉岡庄」へは宗良親王と共に戦った南朝の重臣で伊勢国司の「北畠親房」の輩下の「大和国宇陀郡」から「宇多派刀工」が呼び寄せられたものと見られる。







【●『宇田川氏』(武蔵国)
武蔵国の宇田川氏とは、15世紀頃から品川や葛西など東京湾岸に定着した豪族である。地域によって、佐々木氏庶流もしくは上杉氏庶流と伝えられる。
■宇田川氏の由来については諸説ある。
一説に、宇田川氏の由来は、渋谷を流れていた宇田川であると言われている。渋谷区史によれば、その一帯は古くから「宇陀野」(うだの)と呼ばれており、宇田川は当初「宇陀川」と書かれていた。宇陀野の由来は定かではないが、宇陀は『日本書紀』や『古事記』にも登場する奈良(大和国宇陀郡)の歴史的地名であり、奈良の同地にも宇陀川という河川が存在する。
宇田川は東京によく見られる姓として知られているため、宇田川を名乗る一族が河川の宇田川や渋谷宇田川町を開発しその名を残したという説も、根拠に乏しいものの地誌などでは根強くある。実際に、宇田川氏が開発し「芝宇田川町」と名付けられた町が現在の港区内にあった。渋谷宇田川周辺から出た一族がその地にちなんで宇田川を名乗り始めたわけではなく、宇田川氏が渋谷宇田川の名の由来であるとするならば、宇田川氏の由来が問題である。この場合、一族が分かれ出たとされる宇多源氏佐々木氏の祖宇多天皇に由来するという説、刀の名前に由来するという説が可能性として残る。

■『江戸鹿子』では渋谷宇田川について、「宇田」という刀が落ちた川であることから宇田川と名付けられたという説が紹介されている他、浦安市の有形文化財・旧宇田川家住宅では上杉定正愛用の刀「宇田丸」にちなんだ家名であるとしている(刀剣につく「〜丸」は一般に愛称で特別な意味はないため、名前としては同一視できる)。「宇多」と呼ばれ「宇田」とも書かれた刀剣としては、実際に「宇多派」と呼ばれる刀工一派のものとして存在する。宇多派は、鎌倉時代末期に大和国宇陀郡出身の宇多国光が創始し、ちょうど宇田川氏が歴史に現れる室町時代に栄えた一派である。刀説もまた証拠に乏しく伝説の域を出ないが、渋谷宇田川の由来と同時に宇田川氏の由来も説明できるものではある。
⇒この「宇田川氏」は浮世絵の「歌川氏」の祖に当たるとも記載される。

■2008年、富山県の農家の蔵から国芳を中心とした歌川派の版木が368枚発見され、購入した国立歴史民俗博物館により2009年に公開された。これにより、歌川国芳作品の創作過程の解明および浮世絵本来の色の復元が始まっている。この版木については同年4月12日放送のBShi「ハイビジョン特集 幻の色 よみがえる浮世絵」、5月16日放送のNHK総合「ワンダー×ワンダー 浮世絵 よみがえる幻の色」で取り上げられた。「東都三つ股の図」に描かれているのは「東京スカイツリー」を予見していたとして話題になったが、井戸掘りの櫓(やぐら)ではないかと推察される。】



▼高岡市美術館では開館20周年記念として 『江戸の劇画家 歌川国芳の世界』[会期/2014年9月9日(火)~10月19日(日)]が開催されている。

▼大和国宇陀郡は神武天皇を大和に導いた『ヤタガラス』を祀る『ヤタガラス神社』が在り、南朝の後醍醐天皇はこの神社を崇敬された。宇陀郡は南朝の武将北畠親房の家臣の沢氏等が統治していた国で在り、南朝と密接な国で在る。宇陀郡から「宇多国光」が「越中吉岡庄」に移り住んだのは「吉岡庄」(※高岡市福岡町赤丸の延喜式内社赤丸浅井神社周辺)が 後白河上皇から後醍醐天皇迄伝領した「後院領」と呼ばれた皇室庄園で在り、越中での南朝の牙城で在ったからで在り、興国三年には後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が吉岡庄赤丸浅井城に入城されている。
宗良親王は北畠親房と共に南朝軍として戦っている。





🔴◆◆城かきをきつき◆◆【越中吉岡庄・五位庄の歴史】奈良時代から歴代の権力者の庄園として栄えた【越中の古都】≫≫≫歴代の天皇家庄園から「足利義満」の庄園へ!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■🎌🏯「後醍醐天皇」の皇子の「宗良親王」の「李花集」には
『かそふれば七とせもへぬ 頼みこし 七の社のかけをはなれて』 と御詠歌された。
又、建武二年、赤丸城ケ平山に御殿を築かれ、御遷殿の御歌に
『城かきをきつき 八重の垣平らかに このうへなきや 乗り合ひの里』 と歌われて、この御殿の建つ場所を「城ケ平」と名付けられられたと言う。




🔽「義経記」の「二位の渡し」は後白河上皇の庄園「越中吉岡庄」の「赤丸浅井城」の前に在ったが、この渡し場では「勧進帳」の「弁慶が義経を山伏の金剛杖で殴打するシーン」が展開された。「赤丸浅井神社」には「義経と弁慶」の巨大な絵が奉納されている。



■【越中吉岡庄の歴史】
【藤原摂関家長者藤原頼長】の庄園【越中吉岡庄】は、「保元の乱」で【後白河上皇】の庄園として没官され、以後、【後鳥羽上皇】から「大覚寺統」の【後醍醐天皇】に至る迄皇室庄園「後院領」として伝来して、南北朝時代末期に「後醍醐天皇」の第八皇子【宗良親王】が興国三年、越中に入られた時に【五位庄】に改められたと加賀藩記録「宝永誌」に記されている。【東寺百合文書】等からは、「後院領」から「後院の庄」、「御位庄」、「おいの庄」、「後位庄」、「ごいのしょう」、「五位庄」等と変化した経過が窺える。「宗良親王」が「赤丸浅井城」に入られ赤丸村の「城ヶ平山」の親王屋敷に入られたと伝わり、「親王屋敷跡」と伝わる跡地も遺されている。

▼「義経記」に見える「五位庄」とは【越中吉岡庄】の事➡「御いの庄」と在るのは「後院の庄」、或は「御位庄」とされる位田を示す言葉との混同と見られる。後の「五位庄」は「後院の庄」から「後位庄」、「五位庄」に転じたものと見られる。
「東寺百合文書」には「おいのしゃう」等の変化が記されており、「足利義満」が相国寺へ寄進した時の記録では明確に「五位庄」と記されている。

(※「義経記」巻 7 に「くりから山を経て、黒坂口の麓をごいしようにかかりて、六とうじの渡りして」と見えるが・・・・、 文書上の初見は文永 8 年 12 月 25 日の「秦守高田鳥浦立始次第注進状」(泰文書若狭漁村史料)に、「御いの庄」とあり・・・・・《角川日本地名大辞典 16富山県版》)





【兵範記】後白河上皇の時代を記した越中吉岡庄の記録






【人車記】(※「近衛家陽明文庫」)










































🔽「足利義満」の時に「五位庄」は室町幕府御粮所となり、義満は室「業子」の追善供養の為に自らが創建した【相国寺】(※「金閣寺舎利殿」)に寄進した。




「相国寺塔供養記」(写本 部分)









「赤丸浅井城」に記載される「室町幕府越中守護 畠山持国系図」




■足利一族の「桃井直常」は「足利尊氏」と対立して南朝軍として「南朝の牙城」の『後位庄』(※五位庄)で戦った。その様子は「群書類従」の『花営三代記』に記されている。この戦いで桃井勢は敗れて「桃井直常」は行方不明になったと云う。又、越中石黒氏の「石黒佐近将監重之」も敗れて降伏したと云う。
【・応安元年12月、「足利義満」が征夷大将軍に就任する。
・応安2年1月、南朝方の楠木正儀(クスノキマサノリ)が幕府に降伏。
・応安4年(北朝、1371年)・建徳二年(南朝)、『越中後位庄』(※五位庄)で桃井直常が足利尊氏側と戦闘をして敗れて、飛騨に落ち延び、行方不明になったと云う。一説に、五位庄で戦死した桃井直常の遺体は首を取られない様に密かに富山へ運ばれて埋葬されたと云う。
※「楠木正儀」;南朝の有力武将楠木正成(クスノキマサシゲ)の三男。】





■五位庄福岡町舞谷村の麻畑島には、桃井直常の三男が「西大寺」を建てていた。
桃井直常の孫の「幸若丸」が越前朝日町に落ち延びて編み出した「曲舞 クセマイ」を『幸若舞』と言い、明治始め迄、舞谷村、石堤村に幸若舞の舞手の「舞々人」が住んでいたと云う。『幸若舞』は戦国武将に愛されたが、特に朝日町の隣の織田町の「剱神社の神官の末裔」の「織田信長」がこよなく愛して、戦いの前には「敦盛」を舞ったと云う。「人間五十年下天のうちを比ぶれば・・・・」の歌詞は有名だ。






■この「西大寺」は舞谷村から高岡市佐野の光釜に移り、その後、高岡市木町に動いて「光釜山西大寺」を名乗る。住職は「桃井」を名乗り、本堂には創建の住職の木像が安置され、寺紋は「結び雁三羽紋」で、三男で有ることを示している。三男は幼少だった為に奈良の西大寺に預けられ、成長して「西大寺」を名乗ることを許されて、当初は福光近くの山裾に庵を建てたが、後に舞谷村に移ったと云う。現在も舞谷村のほとんどの住民がこの寺の門徒で、赤丸の清水山の山裾には一万坪近くの「西大寺山」が残されていると云う。「舞谷村」の名前は、現在の「加茂宮」の地に在った「下加茂社」に舞を奉納する為の「舞屋」から名付けられたと云う。現在、この「幸若舞」は九州の「みやま市」のみに伝承されているが、近年、朝日町でも復活してきたと云う。


🔴🔷🔹 「源平盛衰記」の越中国人領主達⇒【倶利伽羅谷の戦い】に参戦した越中西部の武将達!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●朝香年木氏著【治承寿永の内乱論序説】には、「源平の戦い」に参戦した越中国人に付いて検討されている。



🔻【木曾義仲は埴生護国八幡宮に戦勝祈願の願文を納めている。義仲に従った「向田氏」の本拠地「高岡市福岡町向田」は源氏の統領「八幡太郎義家」がかつて、越中守の時に開発した源義家ゆかりの地だと云う。➡「福岡町史」】












■「木曽義仲」を小矢部市の「埴生八幡宮」に案内した「池田次郎」の一族が開発したと云う地域が、氷見市~井波町にかけて「池田」と言う地域として残っている。又、この一族は加賀藩時代には、高岡インター周辺の池田地域も開発している。
この一族の本拠地は「延喜式内社赤丸浅井神社」の門前に在って「池田市衛門家」と云われ、加賀藩時代に赤丸村を所払いに成り、本家は国吉村の隣地の「細池村」に移っている。
(※「所払い」は加賀藩に無断で家に他所の者を宿泊させたりした時に課せられた罪で、加賀藩の悪政の一ツとされる。加賀藩では軽微な罪にも重罪を課して民衆を圧迫し隷属させた。)
この家の仏壇には、高岡市関町の「総持寺」の「国指定重要文化財木造千手観音座像」の「胎内仏」や源平の頃、兜に納めた「兜仏」(※坂上田村麿像)が祀られている。
赤丸村の「市衛門」の跡は、弟の「五衛門」が全財産を承継して「肝煎」を継ぎ、「奥田五衛門」と名乗った。
(※「石堤村史」・「杉野家文書」)



■「赤丸城」の麓や「今石動城」の麓にも「池田」と言う地域が在る。この一族は、「越中石黒氏」が統治した二上庄にも知行地を持ち、現在の「総持寺」が在る高岡市関町もこの池田氏の所領だったと云う。
又、この一族は加賀藩時代には「赤丸村」の「肝煎」を勤めている。










💥💢 【百合】に滅ぼされた【佐々成政】の記憶⇒【小百合】と【黒百合の花】‼

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸








■「佐々成政」は「三階菅笠」の旗標を用いており、無形重要文化財の越中菅笠文化と密接な武将で在る。高岡市の「守山城神保氏張」、「柴野城寺島牛介」、「赤丸浅井城中山直治」は【佐々成政】に従って「能登末森城」の【前田利家】勢を攻めたが、【豊臣秀吉】の北陸出陣により降伏して、新川郡を知行されたが、後に肥後に転封された。しかし、検地を強硬して地元郷士の反乱を受け、秀吉から統治の不始末を咎められて切腹を命じられた。
成政は愛妾【小百合】を不義の罪で惨殺したと吹聴されて、武将としての信用を落とされたが、一部には後に越中を支配した前田利家の統治戦略で在ったとも云われる。又、豊臣秀吉の妻の【ねね】に珍しい越中立山の【黒百合】を取り寄せて献上したが、これが「不吉」として「謀叛」を疑われたと云う。





【佐々氏】
【隅立四つ目結紋】
(宇多天皇から出た宇多源氏佐々木氏流で、元々は【佐々木】を名乗ったが、主家の斯波家からの文書に誤って【佐々】と書かれた事から【佐々】を名乗ったと云う。⇒「佐々成政関係系譜」佐々成政研究会)
近江国佐々木の出と云われ、この系統の佐々木氏流高島氏からは、【豊臣秀吉】の本姓の【木下氏】も出ている。

■【佐々成政】と【小百合伝説】!!
「佐々成政」は富山市呉服の娘「小百合」を見初め、他のどの愛妾よりも寵愛した。他の愛妾はこれに嫉妬し家臣と共謀して「小百合」の追い落としを画策した。「岡島金一郎」という若侍と不義密通しているとして証拠になる品を「小百合」の部屋の前に置き、共謀した家臣が「佐々成政」に不義の証拠としてこれを届け出たのである。激怒した「佐々成政」は「小百合」の一族とその噂になった若侍を惨殺した。憎悪に満ちた成政は富山護国神社の裏に立っていた大木に「小百合」を吊るし、アンコウ切りという残虐な方法で「小百合」の肉を切り裂いて殺したという。「小百合」は恨みに満ちて「必ず佐々成政を滅ぼす」と言い残して死んだと言う。「佐々成政」が「前田利家」に対して連敗して、遂には腹心の氷見阿尾城城主の「菊池伊豆守」も「佐々成政」の内部情報を「前田利家」に通報して裏切り、前田方から佐々が「豊臣秀吉」を滅ぼそうとしていると秀吉に通報した事もあって秀吉が越中に進軍した。「佐々成政」はこれに対して刃向わず、頭を丸めて墨染の衣を着て秀吉の陣に出向いて降伏し、許されてその後は九州に転封されたと云う。「佐々成政」は秀吉の妻の「ねね」に対して、立山に生えている【黒百合】と言う珍しい花を取り寄せて届けさせた。これを見た秀吉は、嫉妬で在ったか占いをさせて、「佐々成政が逆心を持っている」として警戒し、遂に統治不始末をもって秀吉に切腹を命じられた。この一連の「佐々成政」の不運は、残虐な方法で惨殺した無実の【小百合】や若侍、一族郎党の怨念によるものであると吹聴された。この物語は、成政を追い落とした「豊臣秀吉」の言い訳にも成ったし、越中の前統治者「成政」に心酔していた越中の民衆を離反させる目的が在ったとも云われる。「越中」では、立山から流れ出る「常願寺川」が何時も氾濫して民衆を苦しめて居たが、これに対して成政は大規模な「佐々堤」と言う護岸工事を施工して氾濫を食い止めたと云う。この事から、越中では成政を慕う声が強かったと云われる。現在の高岡市から福岡町にかけて勢力を持った、高岡守山城「神保氏張」、柴野城「寺嶋牛介」、赤丸浅井城「中山直治」、木舟城「佐々平左衛門」等は「前田利家」と能登末森城で戦った。越中に侵攻した「前田利家」は、先ず、石川、富山県境の「石動山」の寺院を攻めて全山の僧や女、子供、或は身寄りの無い乞食迄も殺害してその首、一千余りを寺の三門に吊るしたと云われる。その後、富山県西部の西山の麓の民衆を高岡市和田新村の開発の為に移住させ、赤丸村に多く在った寺社を高岡城の出城代わりに高岡城の周辺に配置したと云う。「前田利家」は前任地の福井県武生でも、反抗する一向一揆衆を根絶やしにして、農民一千人余りを捕らえて「釜に入れられ、磔にされた」と云う。

💠🏯📃 「二宮氏」の事 ⇒越中五位庄「加茂城」の【二宮円阿軍忠状】!!

2021-04-20 | 富山県高岡市


■貞治2年(1363年)3月、南朝の武将桃井直常討伐に従軍した「二宮円阿」が「五位庄の鴨城衆と頭川城、松根城等での戦い」を命じられて任務を果たした事等が記載された「二宮円阿軍忠状」が有り、是が「五位庄鴨城」の説明に登場する。この「二宮氏」について調べて見る。

【二宮次郎左衛門入道円阿申軍忠事】
「右、去年二月九日令発向越中国、可致忠節之由、賜将軍家自并七条殿(斯波高経)御教書、当国松□(根)御陣下向仕、同七月三日大将御共仕、和三(田)合戦令致忠節、致其外圧城・野尻御供申、自同十一月至今年三月令和田十一警固、同十三日可為鴨城衆由依仰下候、於当城致忠節、同五月十二日向馳頭高城、追落凶徒等、焼払彼城、鴨城衆等相共致忠節、至南条枯本木金山城、令致忠節候上者、賜御判形為備後証、恐々言上、如件、
貞治弐年六月 日
一見了 印 」

詳細を調べるとこの二宮円阿という人物は足利一族の斯波高経の家老に見られる。
■「斯波高経」; 尾張足利氏四代目 1362年細川頼和に代わり越中に息・義将を派遣。信濃国から越中乱入。南北朝時代の南朝の武将で守護大名。越前・若狭・越中守護。南朝の勇将新田義貞を福井県で破る。観応の擾乱では足利尊氏と直義双方にその都度、仕える。

■「二宮円阿」;次郎左衛門入道貞光円阿。斯波家家老で信濃口から越中へ乱入し庄城、野尻城、和田城、鴨城、頭高城で戦う。1363年(正平十八年)に軍功を申請する申請書を提出した。

■天正二年に上杉謙信から知行安堵された新川郡(現富山市)上熊野の二宮左衛門大夫は、神保長住から越中国入国直後の天正六年五月十七日付け(1578年)で知行安堵状が出されて、更に同年七月八日に重ねて織田信長から知行安堵の朱印状が発給されている。当時は最終的に織田信長の朱印状を頼っていたらしい。(※「富山県史」資料編Ⅱ中世)

■高岡市守山城の神保氏張は能登畠山氏から神保氏に養子に入ったが、静岡県立図書館にある徳川家臣の「神保系図」に拠れば、守山城の神保氏はその祖先は平姓良文系「二宮氏」で有り、守山城を居城として中村、神保と改姓している。(※「神保氏」には「惟宗姓」と「平姓良文流」の二系統在り、各々が能登畠山氏から「神保」の姓を授かったと云う。)

【武蔵七党と二宮氏】
中世の薩摩国甑島の領主小川氏は、武蔵七党の一である「日奉姓西党 ヒマツリセイニシトウ」から出たと云う。
「日奉姓西党」は武蔵守として赴任した藤原宗頼が武蔵国に土着したことに始まり、系図によれば宗頼の孫宗忠が西内大夫を称している。宗頼→長男は西太郎宗守、次男宗貞→宗貞の長男宗綱(宗綱の系統が西党の嫡流)→二男上田二郎の子宗弘[小川(小河)太郎入道を名乗り小川氏の祖]
その他、西党からは長沼、稲毛、平山、由木、立河、二宮、由井、小宮氏らが分出して、多摩郡を中心として都築・橘樹郡に一族が広まった。 子孫は居住地が国衙の西方にあった事から西党を名乗る。
治承四年(1180年)に「平治の乱」に敗れて伊豆に流されていた源頼朝が旗上げする。安房の頼朝の下には上総・下総・武蔵武士達が参集してくる。相模国鎌倉に本拠を置いた頼朝は東国の武士団の棟梁になり、武士達は頼朝の家人となる。小川氏や同族の二宮氏・小宮氏も頼朝の御家人となり本領を安堵された。頼朝はこれ等の東国武士団を率いて平家と戦い、遂に鎌倉幕府を開く。 鎌倉幕府を樹立した頼朝が建久元年(1190年)に上洛した時に随兵の中に小川二郎、二宮小太郎、小宮七郎が見える。同四年の的始の射手に二宮弥次郎が選ばれている。(※『吾妻鏡』 )

[武蔵七党]
・野与党 平忠常の次男胤宗子、基宗が興す。
・西党 日奉連宗頼(ヒマツリノムネヨリ) が祖。小川・由比牧支配。(日奉・西・長沼・上田・小川・稲毛・平山・川口・由木・西宮・由井・中野・田村・立河・狛江・信乃・高橋・清恒・平目・田口・二宮)
・私市党 私市家盛が祖。「私市キサイ」は皇后領を治めた。皇后の牧を管理。
・児玉党 藤原道隆の孫の子で維能コレヨシが武蔵介児玉郡を開いた。
・横山党 小野篁の7代目子孫の小野孝泰が武蔵守となり多摩たまの横山(八王子)を開く。
武蔵七党中最大の規模。(※小野篁…平安初期の有名な学者、参議。)
・丹党 宣化天皇系の多治比古王の子の広足が丹治姓を賜姓され、武蔵守となる。
・村山党 平忠常の子孫、野与基永の弟、村山貫主頼任が祖。狭山丘陵。
・猪俣党 横山党の一族。小野孝泰の子孫の時範が児玉郡猪俣に住。荏原氏、岡部氏等。

【二宮氏】東京多摩地域の「あきる野市二宮」の「二宮城」を拠点とした。
「西党」は藤原氏真夏流の日野中納言資朝の玄孫資忠の後裔説がある。又、大伴氏と同じ「高皇産霊尊」(タカミウブスナノカミ)の後裔共云う。武蔵守として下向した日奉連宗頼の後裔は小川牧、由比牧の別当を兼ねて多摩川中流域に勢力を扶植して武蔵七党の一として一族は西党とも呼ばれる。

■「斯波義将の二宮信濃入道に対する文書」⇒棟別銭免除の事(※「東寺百合文書」)





 



🔴『富山県高岡市福岡町赤丸村』⇒ 【後白河上皇】の「後院領」の【越中吉岡庄】!!

2021-04-20 | 富山県高岡市福岡町赤丸村




■「越中吉岡庄」は初めて院政を敷いた「白河上皇」の時に「上賀茂神社」の庄園として寄進されたと云われる。


■「吉岡庄」については、歴史家の中には氷見の吉岡、富山の吉岡を挙げて「射水郡吉岡庄」として富山の吉岡を比定する学者もいる。しかし、赤丸を中心とした「吉岡庄」(後の五位庄)では、当地こそ「吉岡庄」として伝承されてきた。加賀藩でも奉行が報告した報告書「宝永誌」にその伝承が記載されている。赤丸と隣接する加茂集落の間には、「吾妻鑑」記載の源頼朝の書簡にも出て來る「吉岡成佐」の居館が在ったという場所「吉岡谷」が有り、この「吉岡庄」が吉岡成佐や石堤長光寺の開基の小田氏朝により治められていたとの伝承も有る。又、この吉岡成佐が福岡町木舟城の近辺の大滝地区を開発したとの伝承も有る。氷見や富山には吉岡谷も無いし、伝承も無い。歴史家の推定でどうにでもされてきたと云うのが歴史的な史実だ。福光町図書館には、加賀藩に伝わる「宝永誌」を書写したものが伝わっている。それによると、長く藤原摂関家の庄園で有ったが、「保元の乱」で摂関家長者の藤原頼長が敗れると、この庄園は勝者の後白河上皇に没官され蓮花王院(三十三堂)の糧所となり、その後、後鳥羽上皇~後醍醐天皇の時代まで「後院領」と呼ばれた天皇家伝来の庄園の「吉岡庄」であった。この藤原頼長は、NHKの大河ドラマ「平清盛」で首に矢を受けて亡くなった藤原氏の長者であり、「悪佐府」と呼ばれた当時の知恵者で権力者で有った。この頼長は奥州平泉の周辺にも荘園を持ち、奥州藤原氏に荘園の管理をさせていた。これらの荘園は奥州藤原氏が権力者の藤原頼長に寄進したものだった。越中吉岡庄赤丸と奥州は何れも藤原頼長の庄園で有り、この事が後に義経が奥州下りをした際にも北陸道を選んだ事情かも知れない。義経の母の常盤御前は平清盛との間に女子を出産した後に藤原氏と婚姻しているが、この相手の一族も奥州藤原氏の一族で有ったと云うから、この辺にもその背景が有ったのだろう。「後院領」とは「天皇を引退した上皇の所領」という意味で有り、「宝永誌」によると、この庄園は後醍醐天皇の第八皇子の宗良親王が赤丸浅井城に在城された時、「吉岡庄」を「五位庄」に改められたと云う。「五位庄」は元々領有していた石黒氏の先祖の利波臣志留志が外従五位の下に任官された事から「五位庄」になったと伝承されてきたが、最近の学者の意見では、「後院の庄」「御いのしょう」が「五位庄」となったと云われている。この庄園は、南朝の終わり頃、「下鴨神社」の庄園となり、足利義満は足利家菩提寺の相国寺(金閣寺)に寄進し、足利義持の時にはその半分を足利家菩提寺の等持院に寄進している。
※富山県と石川県境の「石動山」も後白河上皇の時代に上皇の屋敷内に有った「長講堂」に寄進されており、その後も皇室直轄領として続いた様だ。「承久の乱」の後は鎌倉幕府の管理となっている。
※2014年、国立歴史民俗資料館はそのデーターベースの中の「吉岡庄」を「越中五位庄」の前身の赤丸村、加茂村地域周辺と確定しそのデーターベースを修正している。この地域に上加茂、下加茂社が在った事とこの「吉岡庄」が上、下加茂社の荘園で在った事等も検証して長い懸案が解決された。又、2016年には「東寺文書」に見られる、足利義満の時代の「おいの庄」と記載される事についても、「おいの庄」=「五位庄」と確認されて「庄園データーベース」でも「五位庄」と確定された。






■「東大寺庄園図」に記載される延喜式内社赤丸浅井神社の神田「浅井神1段」の記載。


■ 藤原摂関家長者「藤原頼長」の庄園「越中吉岡庄」は「保元の乱」に破れて「後白河上皇」の庄園「後院領吉岡庄」になり、後醍醐天皇迄皇室領として伝領した。(※「兵範記」参照)




■「吾妻鑑」に、後白河上皇の後院領吉岡庄で地頭の吉岡成佐が不法行為を働き源頼朝が交代させる旨文書で回答した旨が掲載されている。


■後醍醐天皇皇子宗良親王は「吉岡庄」を「五位庄」と改名された。「※「宝永誌」福光町図書館所蔵」





■室町幕府第三代将軍「足利義満」は、室の追善料として「越中吉岡庄」を「相国寺」に寄進した。






■「上杉謙信」は高岡市国吉の「柴野城主寺島牛介」に「五位庄安堵状」を授け、高岡守山城主神保氏張と共に上杉家家臣名簿に記載された。


●加賀藩の治世には「赤丸村」は長九郎左衞門、前田典膳等に知行された。



■「国立歴史民俗博物館」の「庄園データーベース」に「おいの庄」と表示されていた部分は、学会では別の庄園とする意見があり、どの庄園の事かが不明になっていたが、博物館の学芸員が協議して頂いた結果、2016.08.31に正式に「五位庄」のデーターベースとして登録されたとの通知が有りました。
これで、「越中吉岡庄」から「五位庄」に名称が変更された過程の様々な歴史的な文書の解明が進む事になります。







🔷【国立歴史民俗博物館の庄園データーベースへの追記事項】
「東寺百合文書」(応永19年)10月17日付二宮信濃入道書状(『富山県史 史料編Ⅱ』576号)によると、斯波義郷(左衛門佐)の所領として見え、東寺造営のための棟別銭が賦課されたことが確認できる。同様の内容が、「東寺百合文書」(応永20年)3月18日付斯波義郷奉行やなた某書状案(『富山県史 史料編Ⅱ』581号)として確認でき、ここでは「五位庄」と見える。ともに東寺造営の棟別銭賦課に関すること、時期が非常に近接していることを勘案すると、「おいの庄」=「五位庄」と判断される。

■「東寺」(※教王護国寺)と「越中五位庄」(※「おいの庄」)の関係が国立歴史民俗博物館によって確認された。
「東寺百合文書」に有る三通の古文書には、室町幕府越中守護畠山満家の時に京都「等持寺、等持院」(※棟頭寺院は金閣寺)の庄園となっていた「五位庄」の「棟別銭」の課税について記されている。

■「東寺」は空海が唐から帰国した後与えられた寺で「教王護国寺」とも呼ばれる。「東寺」には空海が唐から持ち帰った80粒の「仏舎利」が天皇勅封の壺と東寺長者管理の壺に分けて保管されていたが、河内金剛寺に伝わる「後醍醐天皇の勅書」と「東寺長者文観の仏舎利施入状」に拠ると、金剛寺から赤丸村に在った「総持寺」へ伝えられた「千手観音座像」に後醍醐天皇が二粒、文観が三粒の仏舎利を施入されたと伝わり、実際にこの千手観音像の胎内からはこの仏舎利は発見されていないが、仏像の胎内には二ヶ所に「奉納仏舎利」の墨書が残されている。この「東寺」に残されてた「東寺百合文書」に「五位庄」の記載がある文書が残されていた事は、東寺と五位庄の密接な関係を証明するものだろう ❗❗







🎌🔴「後醍醐天皇の八宮宗良親王」と「越中石黒氏の系譜」!!

2021-04-20 | 富山県高岡市福岡町赤丸村


■真っ赤な夕陽は後醍醐天皇八宮宗良親王が滞在されたと伝わる赤丸城ケ平と言う西山の一角に沈む。この下には親王屋敷跡と宗良親王が創建されたと伝わる極楽寺(現在は高岡市内)跡と極楽谷がある。正に毎夕方にはこの一帯が西方浄土を具現化した極楽浄土の様相になる。


■現在は高岡市博労町に在る「越中宮極楽寺」は「高岡市史」では当初、牧野に創建され後醍醐天皇の三回忌を親王が営まれたとする。しかし、「李花集」に掲載される「忍びきや いかに越路の牧野なる 草のいほりに やとからんとは」と言う歌から推定すると、この時点の屋敷はいかにも急こしらえのもので、「極楽寺」もどこかの古寺で在ったかも知れない。
「赤丸浅井神社」の川人貞良神官(昭和16年没)は高岡総持寺の千手観音像が昭和12年に国宝になった時に、宮内省や歴史学者が赤丸村を調査した時に、資料調査、現地調査に中心的に協力された方で、南朝の長慶天皇(後醍醐→後村上→長慶天皇)の史跡調査も御手伝いされた。その著作「長慶天皇の御事跡」で、宗良親王が著された「李花集」の研究もされているが、通説とされている「牧野の御遺跡に就いて」は、親王の歌とされている次の歌については、
【「思ひきやいかに越路の牧野なる 草のいほりに宿からんとは」との御歌は射水通覧をはじめ諸書に見えているが、新葉集にも李花集にも載っていないもので、実は宗良親王の御歌ではないのである。そればかりではない。射水通覧をはじめ諸書に載する牧野における親王の御遺跡というは何れも徳川時代末期に虚構されたものである。】
と記載されている。親王の歌で、牧野で詠まれた歌があり、牧野を経由されたとしても、牧野で宿舎と極楽寺が建てられた証拠はない。「射水郡史」に拠れば、「宗良親王は石黒一族の牧野太郎二の城の高木城(※高木は大島町から牧野にかけての地域で在ったという。)に入られた」とされる。
親王の住まいを埋めたと伝わる「樸館塚」なる遺跡も、当時の習慣として果して建物を埋めたと云う事は信じられない。当時は木材が貴重で、古い文化財の建物は殆どが旧い建物部材を使用している。むしろ、親王の住まいの部材を転用して極楽寺を創建されたと言うのなら信憑性がある。 とすれば、「越中宮極楽寺由緒」にある様に、住まいの近くに極楽寺を創建されたとすれば、寧ろ、石黒氏が父君後醍醐天皇の庄園の「吉岡庄」に屋敷を建てて御迎えし、「赤丸浅井城」へ入城されて、その近くの極楽谷に牧野の仮住まいの建物を移設して「極楽寺」とされたとすれば、理解しやすい。何しろ親王は興国三年に寺泊から海路越中に入られて、興国五年迄の短期間の在留であれば、工期的にもその短期間に寺院は建たなかったとする方が筋は通るだろう。この辺りの伝承も、何とか赤丸村に在った事を伏せる為に加賀藩が考えたとも考えられるのだ。

「赤丸村史跡位置図」


■「越中宮極楽寺」の伝承では、「二百数十年間の間には赤丸村に在った」としており、その後、後醍醐天皇の庄園「越中吉岡庄」(※赤丸村)の石黒氏の居城「赤丸浅井城」の近くに「親王屋敷」が整備され、極楽谷には本格的な寺院が建立されたと見られる。「高岡市史」が「牧野で創建→守山に移転→高岡市の現在地に移転」としているのは、「室町時代」に「五位庄」が「足利義満」によって「臨済宗相国寺」へ寄進され、この時に臨済宗以外の寺院が五位庄の海側の地域へ動かされたと伝えられる事からこの時に「守山」へ動いたものか、或は、佐々成政の支援者の赤丸浅井城が在った赤丸村の歴史を前田家が消し去ろうとした為だとも考えられる。前田家は占領地の赤丸村に在った由緒在る寺院を高岡市等に強制移転させ、住民は和田新村に移転させて、徹底的に佐々成政の影響力を排除している。

■大正13年11月6日発行の「越中勤王史」(小柴直矩著)という古書がある。この書は東京富山県人会が小柴氏に編纂を依頼し、大正天皇が皇太子の頃の明治42年から大正10年にかけて13年にも亘り地方新聞にも掲載されていたもので、大正13年摂政秩父宮の北陸行啓の時に献上された。
明治維新を経て明治政府は南北朝の昔の後醍醐天皇の親政を範として「南朝を正統とする議決」を帝国議会で可決し、「勤王思想の高揚」「南朝顕彰」の活動が活発になり、越中では「北条一族の名越氏によって現在の高岡市内で暗殺された後醍醐天皇の皇子の恒性皇子」や「越中で南朝の為に援軍を募られた後醍醐天皇の第八皇子宗良親王の事跡」、「後醍醐天皇」、「後村上天皇」、「長慶天皇」の研究が熱心に行われた。この結果、「恒性皇子の墓」は正式に宮内省管理となり、「長慶天皇の遺跡調査」や「宗良親王の業績調査」、「元赤丸村創建で南朝と所縁の強い高岡市総持寺の千手観音像の調査」、「宗良親王開基の元赤丸村創建と伝わる高岡極楽寺の調査」等、幅広い研究活動が起こっていた。その結果、正式に天皇と認められず「皇統譜」にも載せられていなかった「長慶天皇」は「皇統譜」に載せられ、「総持寺の千手観音像」は国宝に指定された。赤丸村の「浅井城」や大滝村「木舟城」は「宗良親王が在城された浅井城、木舟城」として脚光を浴び、この城の城主の「石黒氏」は南朝に味方した「勤王の士」として研究が行われた。
「越中石黒氏」については、本流は織田信長の逆鱗に触れ一族皆殺しの憂き目にあったが、「長谷川」と名乗り名古屋へ逃れて前田家に仕官していたその傍流が加賀藩に仕官していた為、加賀藩の記録にも僅かにその系譜が見られる。石黒氏についてはいくつかの系譜が見られ、不明な点も多い。古代豪族で「東大寺大仏造営に貢献した豪族」とされながら系図が多い為、いろいろ意見が多い士族である。
「越中勤王史」には石黒氏について「倶利伽羅の合戦に驍名を馳せた福光城主石黒太郎光弘の後裔たる石黒左近大夫将監盛行(重之の事か?)、今の西礪波郡の木舟城に籠り同じく後裔たる石黒次郎光景、延元以来同郡浅井城により両士共吉野朝廷に心を寄せたる勤王の武士であっていずれも宗良親王を奉迎したので親王は両城に玉址を止めさせられた。」とある。
南北朝期に後醍醐天皇の第八皇子の宗良親王を浅井城に迎えたとされる石黒重定、石黒重之、重行の系統は石黒大介孫の石野志気蔵書の「尾張石黒光慶系図」、国立国会図書館蔵書の「諸系譜・石黒系図」には掲載されるが、同系図を採る石黒武重蔵書には見られない等、どの系図にも問題点があるが、「越中勤王史」の木舟城の石黒盛行?(石黒重定、石黒重之、重行)の系統と浅井城の石黒光景の系統の2系統があった事はこれ等の系図から読み取れる。
(✳「石黒左近大夫将監盛行(重行?)」の時代には蘇我氏系・利波臣系の石黒系図(石黒治男蔵)では「石黒左近丞光連」が南北朝期に石黒光景の叔父に見られる。この頃、石黒武重蔵の藤原氏系石黒系図にも「石黒左近丞政成」がおり、その祖父の光吉は桃井直常に従って「源姓」を賜ったと云う。「延元元年・建武三年・1336年」後醍醐天皇吉野に南朝を開く。)


🔴🔷🔹 【 詐りの高岡市の歴史】闇に葬られた暗黒の加賀藩の遺産【高岡市史】!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸



●加賀藩記録「石堤村氏神一件」
【※「金沢市立玉川図書館」所蔵の皆月家(※赤丸村組合頭)文書】








◆「五位庄五十三ケ村惣社 延喜式内社赤丸浅井神社」

(祭祀日程は変更可能性あります。)


「天皇家」の「菊御紋」を掲げる「延喜式内社赤丸浅井神社」







徳川幕府と手を組んでいた高岡市の「関野神社」は、越中の「吉田神道」の筆頭に在り、皇室と縁が深い「両部神道」(※修験道本山派聖護院、修験道当山派、熊野修験道、白山修験道等)・「白川神道」(※伊勢神道)等と対立して全国で吉田神道への改宗を迫り、半ば強制的に吉田神道に改宗させた。

■全国で吉田神道の陰謀が巡らされて、越中では加賀藩の前田利長を祭る神社として加賀藩を背景に延喜式内社赤丸浅井神社や二上射水神社、先宮熊野社等を関野神社の配下にする陰謀が氏子も交えて組織的に行われた。「前田利家」は、「豊臣秀吉」が行った「修験道聖護院派別院」の京都「方広寺」の造営に対しても高額な寄進をしたとも云われ、徳川幕府の手先的な吉田神道に対しては表向きの対応をしていた様だ。天皇家と密接で歴代の天皇皇子が門跡となられた「聖護院」の末寺の「川人山鞍馬寺・延喜式内社赤丸浅井神社」には、密かに歴代藩主が書面を遣わし、前田利家自身も赤丸浅井神社に五位庄管内53ケ村からの初穂米徴収権を安堵していたと云う。又、現在の「浅井神社」の額は、「加賀藩第十三代前田斎泰」の書によるもので、加賀藩の江戸板橋下屋敷には「赤丸山」と言う「築山」迄を造っていた事が知られる。

🔽「前田利家屋敷への天皇、聖護院宮の行幸記録」(※「群書類従」)
➡「前田利家」と「赤丸浅井神社」の別当「川人山鞍馬寺」の本山の「門跡寺院聖護院」との蜜月を知らずに、「吉田神道高岡関野神社」は無謀な陰謀を「赤丸浅井神社」に仕掛けたが、加賀藩寺社奉行は厳しく「関野神社」とその配下の高岡市国吉の「月野谷神主」に対して原状への回復を命じている。




🔽「富山の寺社」より
(富山県の著名な郷土史家「佐伯安一氏」の著作部分)



■「吉田神道神道関野神社」は、「二上射水神社」を配下に組み入れて高岡城の旧跡に移設する事に成功した事に味をしめて、高岡市熊野町の「先宮熊野社」(※後醍醐天皇皇子宗良親王創建)や元後醍醐天皇庄園「越中吉岡庄」の鎮守社の「延喜式内社赤丸浅井神社」等の由緒在る神社を密かに簒奪する陰謀を巡らした。「先宮熊野社」では、無断で関野神社の鳥居に「先宮熊野社」と額を掲げた事から、熊野町の氏子が関野神社に押し掛けてその額を破壊したと云う。これは、加賀藩時代には「先宮事件」として有名な事件であったと「越中宮極楽寺由緒」に記載されている。
「赤丸浅井神社」に対しては、「赤丸浅井神社」の末社の「石堤浅井神社」の神官の国吉村月野谷の清水神官を焚き付けて、「五位庄53ケ村総社、郷社延喜式内社浅井神社」と名乗らせて、「浅井神社」の本社は「石堤浅井神社」で在るとして、本来の「石堤浅井神社」に祭られていた祭具等を撤去して勝手に吉田神道の祭具を運び入れて吉田神道の「湯の花の神事」を行い、赤丸浅井神社に前田利家が安堵したと言う「初穂米の徴収権」を主張して勝手に管内から初穂米を徴収して廻った為に、「赤丸浅井神社」の別当「聖護院派川人山鞍馬寺」や加賀藩内の「聖護院派寺院」は連帯して「門跡寺院聖護院本山」や「加賀藩寺社奉行」に「関野神社」と「石堤浅井神社」の「不法」を訴えた。






■加賀藩では、寺社奉行の吟味が行われて「赤丸浅井神社」に勝訴を告げ、「月野谷清水神官は石堤浅井神社から勝手に持ち込んだ祭具を撤去して原状に戻せ」と命じた。
それでも、この争いの後も、加賀藩を背景にした関野神社一派は、事在る毎にその主張を続け、「宗良親王」の御車を改造したと「越中宮極楽寺」に伝わる高岡市二番町の「御車」も、【豊臣秀吉が後陽成天皇を聚楽第に御迎えした時に天皇が使用された鳳輦と言う輿を改造したものだ】と由緒を捏造して、高岡市の【御車山祭り】は「関野神社の神事」にまつわるものだと詐称している。「後陽成天皇」が聚楽第に行幸された時には「與車」(※牛車)では無く、人達が担ぐ「輿」を使用されている。
(※「後陽成天皇行幸絵巻」)










■しかし、現在の高岡市では、歴史的検証も無く、「高岡の命名由来」 や「御車山祭り由来」、「如意の渡し史跡」等についても検証される事無く、事実を伝えていない。「高岡市史」には「資料編」が無くて、「高岡市史」の信憑性は甚だ疑わしい作文が見られる。近年、この疑わしい「市史」に基づいて高岡市の文化が「●●遺産」として指定されている事に 著しい違和感を感じざるを得ない。



■【修験道廃止令 明治五年】全国の修験道は廃止を命じられて建物や本尊が廃棄された。この時に、修験道の寺院は「天台宗」か「真言宗」への改宗を迫られた。又、還俗して「神道」に基づいて「神社」のみを遺した両部神道寺院の「神官」には「苗字帯刀」を許すとされて、砺波郡赤丸村の門跡寺院聖護院派「川人山鞍馬寺」の別当「西宝院」は、還俗して「延喜式内社赤丸浅井神社」の神官になる事を選択して、名前も「川人他治馬」と改名した。この一族は平成に入って当主の47代川人貞現氏が亡くなると後継者が途絶え、今は縁者の「白川神道」の神官が代わって神官を勤めている。





🔘 「富山県西礪波郡紀要」記載の「五十嵐篤好」、「田畑兵衛」!!

2021-04-20 | 富山県高岡市

■越中西部の「赤丸浅井城」、「赤丸浅井神社」の周辺はかつて、【後鳥羽上皇】の庄園「越中吉岡庄」が広がっており、「後鳥羽上皇」が起こされた「承久の乱」では赤丸浅井城の「石黒氏」や石川県境の宮崎城の「宮崎氏」等の国人領主達が参戦して都迄、進撃したが、「後鳥羽上皇」が敗北するとそれらの軍はチリジリに落ち延びて行った。「越中石黒氏」は「長谷川」と姓を変えて東北に落ち延び、ついには奥州から尾張如意郷に来て「如意城」を築いたと伝える。


🔽「越中吉岡庄」の中心施設「赤丸浅井城」、「赤丸浅井神社」周辺の古絵図
(※「石川県立図書館森田柿園文庫」)










■「五十嵐篤好」は加賀藩時代に現在の高岡市東五位、国吉、石堤地区の「十村役」を歴代勤めた家系で、著名な国学者で在り、算学、測量術に通じ、現在の富山市で農地の開発を行った。住居は現在の高岡市立東五位小学校の敷地と云い、小学校の入口には「五十嵐篤好の墓」が在る。
「吾妻鏡」に「五十嵐氏」は越後の五十嵐神社の神官一族で、「承久の乱」の時に幕府側で戦功在り、「越中吉岡庄の一部の国吉名」を賜り、その後、幕府側と所有を巡って争論と成った事が記載される。








■「田畑兵衛」は佐々成政が能登末森城を攻めた時に、佐々成政に能登への間道を案内すると称して、道なき山道に佐々軍を迷わせて自らは逃亡したとされる。その為に、佐々軍の末森城への到着が遅れた為に、急を聞いて駆けつけた前田利家軍の参戦で落城を免れた。
その結果、知らせを受けた豊臣秀吉が参戦して、佐々成政は降伏し、赦されて、暫くは新川郡を知行されたが、遂には肥後に伝封された。
その戦功を前田利家に賞されて、十村役の上の無役十村役、山廻役と成り家臣待遇を受け、周辺一帯の山林を知行された。












🔴🔹後醍醐天皇の皇子「宗良親王」の創建の 【越中宮極楽寺由緒】⇒高岡市の「御車山祭り由緒」の誤りと「吉田神道 高岡関野神社」の寺社簒奪の企み!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●高岡市博労町の「越中宮極楽寺由緒」では、【「熊野社」の鳥居を飾った「二番町の山車」は、「後醍醐天皇の皇子宗良親王」が使用された「與車ヨシャ」を利用したもので、熊野信仰はそもそも、天皇家から天皇家庄園の「越中吉岡庄」に伝ったもので、宗良親王が創建された「越中宮極楽寺」も吉岡庄極楽谷に創建されてから二百数十年間、「赤丸村」に在った】事を伝えている。






















■赤丸村は嘗て「後白河上皇」の庄園の「越中吉岡庄」で在ったが、「後白河上皇」は原因不明の頭痛に悩まされていた。 ある時に夢枕に熊野修験道の僧が夢枕に立ち、この僧は「熊野の川に生える柳の根が頭の中に入って苦しい!」と訴えた。上皇は早速、熊野の川を調べると、遺骸の頭蓋骨に柳の根が入り込んだものが発見された。そこで、上皇はその遺骸を供養して、その柳の大木を伐って自らの住まいに「蓮華王院三十三間堂」を創建して、その中に一千一体の「千手観音像」を祭られ、熊野には三十四回の参詣を繰返したと云う。「後白河上皇」は自らが出家された「三井寺」に「熊野三山検校」の地位を与えて熊野三山の保護を命じられた。
その為に、その後の歴代天皇は熊野参詣を繰返したと云う。又、「熊野信仰」を伝えた賀茂氏が信仰する京都の「賀茂御祖神社」を保護された。そもそも、この「賀茂氏」は神武天皇が大和宇陀郡に入られる時に「金色の鳶」に変身して神武天皇を道案内したと伝えられて、大和国宇陀郡には賀茂氏の象徴の三本足の「ヤタカラス」を祭る「ヤタカラス神社」が在り、歴代天皇が崇敬されたと云う。
「後白河上皇」から「後醍醐天皇」迄、皇室庄園として続いた「越中吉岡庄」の「延喜式内社赤丸浅井神社」の背後には「総持寺の持宮」と伝わる「熊野社」の跡地が在り、この神社は現在、「赤丸浅井神社」に合祀されている。








■越中に伝わる「熊野信仰」は皇室庄園に伝わった信仰で在り、皇室の「伊勢神道」、「白川神道」に対抗した「唯一神道 吉田神道」の「高岡関野神社」が「熊野信仰」を伝える筈も無い。「吉田神道」は元々、「鹿島神宮」、「春日大社」の流れを汲み、「京都吉田神社」は、ある時に突然、「伊勢豊受神」が飛来したとして「神祇管領長上」を名乗り、「神祇官」の伊勢神道を排除して徳川幕府と手を組み、「神社祢宜諸法度」を幕府に出させて神道を独占しようと企んだと云う。(※「大鏡」)
古来、熊野は修験道の修行の聖地とされ、「延喜式神名帳」に「熊野坐神社(熊野本宮大社)」と「熊野速玉大社」と在り、「熊野那智大社」は那智の滝を中心とする自然の修行場そのものと見なされていた。3社が興ると3社の神が3社共通の祭神とされ、「神仏習合」によって「熊野本宮大社」の主祭神の「家都御子神(ケツミコノカミ」)《※「家都美御子神(ケツミコノカミ)》は「阿弥陀如来」、新宮の「熊野速玉大社」の「熊野速玉男神(クマノハヤタマノカミ)《※速玉神(ハヤタマノカミ)》は「薬師如来」、「熊野那智大社」の「熊野牟須美神(クマノムスミノカミ)」《※夫須美神(フスミノカミ)》は「千手観音」の垂迹神とされた。熊野の3神は「熊野三所権現」と呼ばれて主祭神以外も含めて熊野十二所権現と云う。
又、「那智山青岸渡寺」は、一千日(3年間)の滝籠りをされた「花山法皇」が、永延2年(988に)に行幸されて「西国三十三ヶ所第一番札所」として定められた霊場で在る。本尊の「如意輪観世音像」は、仁徳天皇の時代の4世紀頃に、インドから那智に渡来した裸形上人が那智滝の滝壺で見つけて本尊として安置されたと言われる。
「熊野信仰」は熊野の自然そのものと「熊野三山」、「那智山青岸渡寺」を信仰する「両部神道」、「修験道」の信仰で在り、「唯一神道」を唱えて「廃仏毀釈」の先頭に立った「高岡関野神社」が「熊野社」を祭り、高岡市の「御車山祭り」で熊野社の鳥居を飾った「二番町の山車」を引き廻す等して、之が「高岡関野神社の祭礼」と銘打つ等、は誠に笑止な事だ。明らかに、神社簒奪の企みが現在にも平然と行われて、市民もこの嘘に熱狂している。









●▲❎ 日本・富山県の文化財行政にもの申す⇒「千手観音像」の胎内名の一字が決定付けた「高岡市総持寺千手観音像」の由来!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●高岡市関町「衆徳山総持寺」の「国指定重要文化財 木造千手観音座像」の胎内名「金剛位理○」の解釈論争!!






■富山県高岡市の真言宗「総持寺」の「国指定重要文化財木造千手観音座像」の胎内にはビッシリと墨書が在り、その胸の部分の胎内には「本願聖人」として「金剛位理○」の文字が在る。
この○の部分については従来の学者の見解は、空海が書状に記していた「海」(※異字では「毎」の下に「水」を書いた。)であるとして富山県史、高岡市史、福岡町史等でも、この胎内名は「金剛位理海」であるとされて来た。しかし、この仏像が伝わったとされる大阪の「河内金剛寺」の研究者で「河内金剛寺の中世的世界」等を著されている「堀内和明氏」はこの崩し字は「海」ではなくて「乗」だと指摘された。解読説明も御送付頂いたが、確かに空海は「海」の崩し字として良く文書にこれに近い文字を使用しており、「仏教辞典」に拠れば、「海」は多くの山から流れ込む河川を呑み込んでいる事から、真言では【「海」は衆生の悩みを聞いて頂く「仏」や「出家者」を指す】と説明されている。しかし、堀内先生指摘の「乗」について調べると、旧来、【「真言宗徒」の事を指し、或いは真言宗の事を「金剛乗教」と云う。】とされている。堀内先生の御指摘に拠り、「古文書判読字典」(※柏書房刊)【浅井潤子;文部省史料館、国立史料館教授、藤本篤;関西大学古文書学、大阪市史編纂所長】を調査すると、以下に引用説明が記載されており、どうみても、堀内和明先生の御指摘が正解と見られる。従って、この胎内名は「金剛位理乗」と成り、真言宗で出家された後鳥羽上皇(※法名;金剛位理 良然)を指し示している。しかも、顔の内側に在る別の胎内名には「金剛位理卿」と言う記載が在り、「卿」は三位以上の天皇、貴族に与えられている事から、この「本願聖人 金剛位理乗」は「承久の乱」で幕府から隠岐島に流され、一部の貴族から強く赦免が要請されたにも関わらず、終生、鎌倉幕府北条氏によって本土への帰還を赦されず、終に、白骨になって都に帰還された後鳥羽上皇を間違いなく指し示しているのだ。
その胎内名の隣には「藤原浄円 大壇那」と記載されており、この人物は後鳥羽上皇の中宮の「九条(藤原)任子」の同族の「藤原氏」で、鎌倉幕府評定衆「斉藤長貞 入道して 藤原浄円」に他ならない。実際には、この人物が資金を出してこの千手観音像を慶派仏師「幸賀」に制作依頼したと云う事になる。この人物は、「後鳥羽院」が3月に隠岐島で亡くなられ、その年の10月に死亡している。
又、九条任子の父の「九条兼実」は後鳥羽天皇の摂政、藤原氏長者で、富山県の氷見市から小矢部市にかけて庄園を保有していた「東福寺」を創建した人物だが、娘の任子が男児を生めなかった為に職を辞し、娘も皇居から退出した。





■この仏像が国宝に指定された昭和12年に、文部省や富山県等の当時の一流の学者がこの胎内名解読に関わっているが、結局、この胎内名は南北朝時代の長慶天皇(※法名 金剛位理 覚理)の事だと結論付けていた事が当時の新聞報道に見られる。
これだけの学者、国家機関が携わっても「歴史」には誤りが在る。しかも、当時はこの仏像の胎内に「正平八年御入り」と記載されている事から、文化庁も「この仏像は南北朝時代に造られ、胎内名にも追記された事は見られない」と判定している。しかし、何と、国宝指定の時の学者群には専門の「仏像史」研究者が居なかったと云う。

🔴総持寺の千手観音像が「国宝指定」の際に発行された告示『国宝概説』

「国宝概説」昭和12年5月25日国宝指定
木像千手観音座像(本堂安置)一躯
像内ニ正平八年卯月三日金剛位
禅恵、仏師幸加竝ニ頼真等ノ銘アリ
富山県高岡市関
総持寺
像高ニ尺四寸四分
寄木造、玉眼嵌入、漆箔。像内腹背及ビ首柄、膝裏等ニ左記ノ銘ガアル。是ニヨレバ正平八年仏師幸賀竝ニ頼真ノ手ニ成リ、四月三日ニ納置セラレタモノデ、銘文中ニアル金剛位禅恵ハ河内金剛寺ノ学頭禅恵法印デアラウ。総持寺ハ慶長年間今ノ高岡市ニ移転以前ハ西砺波郡赤丸村ノ地ニ在ッタ。梨花集ニ興国三月宗良親王ハ諸国転戦ノ後越中国ニ赴カレ、名古浦ニ駐リ給フコトガ見エル。赤丸ハ庄川沿岸ニ位シ、名古浦(モト気比神宮ノ神領ナルガ、転々シテ当時ハ後醍醐天皇御管領トナル)ニ遠クナク、南朝方ノ策源地デアッタ関係上、王事ニ盡セル禅恵モ亦当地ニ来リシコトカト思ハレ、而カモ金剛寺所蔵ノ仏中ニ禅恵ノ筆録多イノニモ拘ラズ、本像銘記ノ正平八年ニハ記載スルモノヲ存シナイコトハコノ間ノ消息ヲ物語ルノデアラウ。即チ本像ハ製作年代モ知ラレ、ソノ造像銘記ハ北越地方ニ於ケル南朝ノ動静ヲ窺フベキ資料トシテソノ価値ヲ認ムベキデアラウ。




















■日本では「国宝」に指定された文化財ですらこの様な杜撰な調査しかされていない。現在でも文化庁ではこの意見を踏襲しており、指摘しても門前払いだ。学会と言う「権威組織」、「国家」と言う「権力組織」は各々が双方に依存しあって全ての「規制」を造り出しており、厚い壁は崩れる事が無い様だ。日本では「文化」とは「勝者のもの」、歴史とは「偽造されれるもの」と言う誤った理解が底辺に在り、真実等はどうでも良い事で、支配者や権力者にとっては自分に差し障りがなければそれで良い。敢えて誤りを訂正する事は歴史学者の沽券に関わると云う事か?
この胎内に記載された「後鳥羽上皇の法名」については、その仏像制作の本意を理解する人も無く、現在も尚、正に「鳳凰(法王)鳴けり高き岡に」と言う状態が続いている。後鳥羽院はこの仏像が元々、在った後鳥羽天皇の庄園「越中吉岡庄(赤丸村)」から、当時は辺鄙な関野の田舎に追い払われて、しかも、今も尚、誰も振り向いてくれない事に対して泣いていらっしゃる事だろう。