赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔷🏯 五位庄石堤村「西光寺縁起」に記載される【室町幕府第10代将軍足利義稙(義材)】の足跡!! ⇒ 「五位庄」の『鞍馬寺』の信仰。

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸




●「室町幕府第10代将軍足利義稙」と「足利家菩提寺相国寺~等持院、等持寺の庄園」の「越中五位庄」の関係!!
(※上皇の庄園「後院領吉岡庄」は、南北朝末期に「五位庄」に改名されたと云う。)









■「明応の政変」で将軍職を追われ、幽閉された「足利義材(義稙)」は小豆島へ流されることを知り、明応2年(1493年)6月29日に側近らの手引きで京都を脱出し、「畠山政長」の領国である越中国放生津に下向し、政長の家臣の「神保長誠」を頼った為に「越中公方」(越中御所)と呼ばれた。この時に「足利義材」は越中国で陣容を整えて臨時政権を樹立しており、「放生津幕府」等とも呼ばれる。越中の歴史ではこの「放生津幕府」についての研究が少いが、「鞍馬寺」の資料等を調査すると、この「足利義材」の越中での行動の一端が浮かんで来る。
「足利義材」は北陸へ亡命する直前の「明応2年4月」に「京都鞍馬寺」に「天下安全の願文」を納めている。
越中には「三代将軍足利義満」が室の追善料として「相国寺」に寄進した「越中五位庄」が在り、この赤丸村鞍馬寺村には京都の「鞍馬寺」を勘請した「川人山鞍馬寺」と三社権現の「延喜式内社赤丸浅井神社」、「石堤浅井神社」、「舞谷八幡宮」が在った。
「足利義材」は、この鞍馬寺集落の隣接地の「石堤村西光寺」に【度々、休憩に立ち寄り、西光寺に寺領を寄進した】と「西光寺由緒」には記されている。これも「足利義材」の鞍馬寺信仰や八幡宮、賀茂御祖神社等の信仰に根差したもので在ったのだろうか?
又、この時期に「西光寺開基」の「井口氏」が、この辺りに強力な影響力を持っていた事を暗示させる。














■「石堤村西光寺」の開基は「赤丸浅井城」を拠点とした「越中石黒氏」の同族の「井口氏」だが、鎌倉時代に「後鳥羽上皇」が起こされた「承久の乱」では、同じく同族の「加賀の富樫氏」と共に鎌倉幕府の「北条方」に付いて、同族が敵味方に分かれて戦い、「越中石黒氏」、「越中宮崎氏」、「加賀林氏」は「後鳥羽上皇」側に付いて戦っている。「承久の乱」の当時は「越中吉岡庄」と呼ばれた「後鳥羽上皇」の「後院領」で在ったが、「承久の乱」で「越中石黒氏」が降伏した為に、代わって「越中井口氏」が「五位庄」統治に乗り出していたものと見られる。「承久の乱」以後は「越中の石黒氏」、「加賀の林氏」は衰退して代わって「加賀の富樫氏」が室町幕府の重鎮に成っている。
(※南北朝末期に、越中石黒氏が復活して大規模な井口氏の掃討作戦を行った事も記録される。)




■「五位庄石堤村西光寺縁起」
応安元年了順の開基にして初め天台宗なりしが明応年中真宗に帰し今は本派に属す。廣谷山と号し西光寺の名を綽如上人より賜る。了順の俗姓は鎮守府将軍藤原秀郷五世の孫光義 康平七年三月越中守源義家に従ひて當國に下り礪波郡井口郷に住し井口三郎光義と稱す 光義五世の孫光成は俵藤太(※「藤原秀郷」:田原に住み、大ムカデ退治の武勇伝が在る。)を縁り養藤蔵人と號す 光成九世の孫光高後に蔵人成綱と改め井口城に據る  元弘二年名越時兼に攻められ戦死す 年三十九 嫡子倉之助逃れて隠處を求め礪波郡山川村 石堤村山川村也 の開祖となる 倉之助の無常を悟り剃髪染衣して応安元年天台宗に帰依し法名を了順と改め草庵を結びて出家す。 大骨、四辻 山川地内、と轉遷して後ち廣谷 石堤村西廣谷瑞京寺干場 に一宇を建立せり。亨徳二年麻生谷 石堤村麻生谷現境内 へ移転したり、明應の頃将軍足利義材越中に逃れ一向宗徒に據り當寺に陣止せし事あり 永正二年義材 義植と改 再び将軍となるや麻生谷村山岸領分の寄進を受け 永正二年、永祿六年直安、景直より墨付 たりといふ 了秀の世延寶八歳秋十五日、十日市九郎兵衛の寄進せる鉅鐘成る 工人加州金澤住人河江長兵衛作 元禄十三年六月八日堂宇類焼に際し鉅鐘敗れたり 了淳元禄十五年に堂宇 今の本堂 再建せり 了照 現住 明治四十五年庫裏を改築せり
一説 鎮守府将軍藤原利仁の後裔井口三郎ともあり
累世左の如く養藤の姓を冒し檀家三百有餘あり
定紋 圓に三俵は秀郷百足退治の功により龍宮より賜はりたる大豆栗米(永世祿)の三俵に縁りて票示せりと傳ふ
 以下省略  (※「石堤村史」参照)


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