昨夜の「夫婦道」
‘本音でしゃべることのできる家族っていいね,って話・・・
見ながら3年前を思い出した・・・
その頃私は、末っ子である娘が幼稚園の年長さんで、PTAの役員をしながら
実は、介護のまねごともしていた
夫の実家と同じ敷地内に家を建てた私たち
義母はその4年ほど前に他界し、義父はひとりで住んでいた
あまり人付き合いが得意ではなく、義母が亡くなってからはひとりで買い物をする事が好きだったが、
少しずつ、物忘れやおかしな言動が出てきた
いわゆる‘認知症,である
特に4年前ぐらいからは、急激に進み、介護保険の申請を受けた
認定がおりて、週に1・2回のデイサービスを受けることから始まった
それまで上手にやっていた自分の身の回りのことが、徐々にできなくなり、
私が食事を作って、身の回りのことをするようになった
足腰も少し弱ってきて、杖をついた方が楽になってきていた
正直、小学生を頭に4人の子を抱えながら、認知症の義父をみるのは大変だった
夫はこの頃仕事がとても忙しく、家庭をかえりみてる余裕はあまりなかった
病気のせいとはいえ、日に日に想定外のことをやってくれる義父に苛立ったり、悩んだり・・・
私も介護する人間としての、覚悟が足らなかった
実家の母や社会福祉事務所の方に、いろいろ教えてもらったり、励まされたりしながらも、
なかなかうまくできずに、日々苦戦していた
義父につきっきりになると、子ども達はほったらかし・・・
子ども達のことをやっていると、義父はいなくなる・・・
どちらも「待った」がきかない
義父に手がかかっているうちに、下の子は夕飯も食べずに寝てしまうこともあった
こんな日がいつまで続くのかと、途方に暮れていた
そんな日が続き、
私の肉体的・精神的疲労もピークに達し、
加えて腰を痛めて、それにも悩まされていた
そんなある日、
いつものように義父の様子を見に行くと、ご機嫌ナナメ・・・
認知症になると、妄想と現実の区別がなくなり、こういうこともしばしば・・・
でもその日は、一段と機嫌が悪い
むすっとしたまま、私を睨みつける
「どうしたの?」と聞くと、「お前は俺にさっき嫌なことを言った」
「おとうさん、私今来たよー、さっきおじちゃん(義父の弟)が来てたけど、
ケンカでもした?何か言われた?」
近くに住む義父の弟と義父は、毎日のように会ってはケンカも多かった
「いや、おまえが言ったじゃないか」と義父は怒りだした
いつもなら、「はい、ごめんね」と言う私も、
この日は「言ってないってば」と言って、部屋を出ようとした
このままいると、爆発しそうな気がしたから・・・
「ごはん、後で持ってくるから」とドアを閉めようとしたら・・・
「2度とくるな」
私の中で、プツッときれた
「じゃあ、ご飯どうするの」
「そんなのいらん」
「あーそう、じゃあもう持ってこない」
「ホント、何で息子はオマエみたいな嫁をもらったかな」
私も、もう止まらない
「うちのダーリンは、こんな私がかわいくてしょうがないの
私のこと、だーい好きだから嫁にもらったの、残念でした」
「なにを言うかもう出て行け
おまえとは、もうしゃべらん」
「あー、そうやって困ったら、しゃべらないんだ
えー、おかしいのー」
「嫁のくせに生意気な」
「父親だったら父親らしくしたら」
怒りの収まらない私は、義父の前で夫に電話をし
「おとうさんが、私に出て行けって言ってる
もう私知らないからね」
電話の向こうで、夫は
もう子どものケンカだ
自分でも大人げないと思いつつ、もう止まらない
「ちょっと俺より若いからって、なめるんじゃないよ」
ちょっとって・・・
「昔から足は速かったし、今でもオマエなんかには負けんぞ」
えっ・・・かけっこ?
「何言ってんの?私が勝つに決まってんでしょう」
もう、わけがわからない・・・
「じゃあ、オモテで勝負しよう」
「ああーいいよそのかわり私が勝ったら、言うこと聞いてよね」
これが私の周囲では伝説になっている、
「じいちゃんとかけっこ事件」である
ふたりで意気揚揚と外へ出た
門から車庫までの10mほどのアプローチが、勝負の場所となった
杖をついた老人と腰を痛めた中年女の
世紀の10m走・・・
‘真昼の決闘,である
私の中で、
「転んでケガさせたらいけない・・・おとうさんが転びそうになったら、
私がスライディングして、私の上に転んでもらえばいいか」
なんて考えた
とにかく、もう後にはひけない
「じゃあ、行くよ・・・よーいドン」
私のかけ声で、ふたり走り出した
当然、私が早いわけで・・・
「へっへー、私の勝ち」
すると義父は悔しそうに
「待て、今度は俺がよーいドンを言う、そしたら勝つから」
よくわからない原理だが、まあいい
再スタート
勝負は決まった
腰痛中年女の大勝利
「ほら、これで私の言うこと聞いてね、約束だから」
「あー、わかったよ」
ふたりでヨタヨタしながら、とりあえず玄関先に座りこんだ・・・
義父が少し息をきらしながら、
「ちょっと距離が短すぎたもっと長い距離なら俺が絶対勝つのに」
・・・まだ言うか
「そう、じゃあまた今度、長い距離で勝負しようね」
そして、子どもが‘悪さ,した時の様な笑顔で
「でも、おもしろかったな」と言った
普段から、困ったり意見が食い違ったりすると黙って不機嫌になるタイプ
そうやって、何十年もやってきたんだろうが・・・
やっぱり、人間本音でしゃべる時はそうした方がいい
もしかして、義父は初めてだったのかも・・・
我が家の方から、夫の車が止まる音がした
そうだ、電話したんだっけ
義父とふたり、玄関先で肩を組んで座っていた・・・
慌ててやってきた夫に、
「ごめん、今仲直りしたから」
義父と私、満面の笑み
夫は「はあ・・・」
義父はとっても嬉しそうだった
その翌年、
より症状が進んだ義父は、グループホームに入所した
「やれるとこまでは・・・」と思っていたが、
夫の「もういいよ、これ以上はムリだよ、よくやった」という言葉に説得された
入所してすぐは、
「本当にこれでよかったのだろうか?もっとやれたんじゃないか?」
と、自責の念にさいなまれたが、
息子に、「お母さんがんばったんだから、悩むことないよ」と言われ、涙が出た
いろいろと我慢させてきたはずの子ども達は、ちゃんと見ていてくれた
グループホームに会いに行くと、
今はもう、夫や私が誰なのか、わからない時が多い・・・
それでもニコッと笑ってくれるのを見ると、嫌われてはいないのかなと思う・・・
私の介護経験はほんの短い期間で、
他の介護をなさってる方と比べると、大したことでもないのかもしれないが
いろいろ考えさせられるものだった
昔、2人の介護をした実家の母の偉大さを痛感し、
老いていくことへの‘覚悟,が生まれた
だからこそ、
1日1日‘老い,に向かっていくのではなく、
いつか訪れる‘老い,まで、どう過ごしていくかが大切なのかも
そして、
高畑さんがドラマで言ってたように、
素敵に歳を重ねて、潔く‘老い,を受け止める・・・
ぜひ、そうありたいものだ
余談だが、
あの‘真昼の決闘,の翌日・・・
義父に「昨日はおもしろかったねー」と言ったら、
「はあー?なんかあった?」
すっかり、忘れていた
・・・まあ、そんなもんだ・・・
‘本音でしゃべることのできる家族っていいね,って話・・・
見ながら3年前を思い出した・・・
その頃私は、末っ子である娘が幼稚園の年長さんで、PTAの役員をしながら
実は、介護のまねごともしていた
夫の実家と同じ敷地内に家を建てた私たち
義母はその4年ほど前に他界し、義父はひとりで住んでいた
あまり人付き合いが得意ではなく、義母が亡くなってからはひとりで買い物をする事が好きだったが、
少しずつ、物忘れやおかしな言動が出てきた
いわゆる‘認知症,である
特に4年前ぐらいからは、急激に進み、介護保険の申請を受けた
認定がおりて、週に1・2回のデイサービスを受けることから始まった
それまで上手にやっていた自分の身の回りのことが、徐々にできなくなり、
私が食事を作って、身の回りのことをするようになった
足腰も少し弱ってきて、杖をついた方が楽になってきていた
正直、小学生を頭に4人の子を抱えながら、認知症の義父をみるのは大変だった
夫はこの頃仕事がとても忙しく、家庭をかえりみてる余裕はあまりなかった
病気のせいとはいえ、日に日に想定外のことをやってくれる義父に苛立ったり、悩んだり・・・
私も介護する人間としての、覚悟が足らなかった
実家の母や社会福祉事務所の方に、いろいろ教えてもらったり、励まされたりしながらも、
なかなかうまくできずに、日々苦戦していた
義父につきっきりになると、子ども達はほったらかし・・・
子ども達のことをやっていると、義父はいなくなる・・・
どちらも「待った」がきかない
義父に手がかかっているうちに、下の子は夕飯も食べずに寝てしまうこともあった
こんな日がいつまで続くのかと、途方に暮れていた
そんな日が続き、
私の肉体的・精神的疲労もピークに達し、
加えて腰を痛めて、それにも悩まされていた
そんなある日、
いつものように義父の様子を見に行くと、ご機嫌ナナメ・・・
認知症になると、妄想と現実の区別がなくなり、こういうこともしばしば・・・
でもその日は、一段と機嫌が悪い
むすっとしたまま、私を睨みつける
「どうしたの?」と聞くと、「お前は俺にさっき嫌なことを言った」
「おとうさん、私今来たよー、さっきおじちゃん(義父の弟)が来てたけど、
ケンカでもした?何か言われた?」
近くに住む義父の弟と義父は、毎日のように会ってはケンカも多かった
「いや、おまえが言ったじゃないか」と義父は怒りだした
いつもなら、「はい、ごめんね」と言う私も、
この日は「言ってないってば」と言って、部屋を出ようとした
このままいると、爆発しそうな気がしたから・・・
「ごはん、後で持ってくるから」とドアを閉めようとしたら・・・
「2度とくるな」
私の中で、プツッときれた
「じゃあ、ご飯どうするの」
「そんなのいらん」
「あーそう、じゃあもう持ってこない」
「ホント、何で息子はオマエみたいな嫁をもらったかな」
私も、もう止まらない
「うちのダーリンは、こんな私がかわいくてしょうがないの
私のこと、だーい好きだから嫁にもらったの、残念でした」
「なにを言うかもう出て行け
おまえとは、もうしゃべらん」
「あー、そうやって困ったら、しゃべらないんだ
えー、おかしいのー」
「嫁のくせに生意気な」
「父親だったら父親らしくしたら」
怒りの収まらない私は、義父の前で夫に電話をし
「おとうさんが、私に出て行けって言ってる
もう私知らないからね」
電話の向こうで、夫は
もう子どものケンカだ
自分でも大人げないと思いつつ、もう止まらない
「ちょっと俺より若いからって、なめるんじゃないよ」
ちょっとって・・・
「昔から足は速かったし、今でもオマエなんかには負けんぞ」
えっ・・・かけっこ?
「何言ってんの?私が勝つに決まってんでしょう」
もう、わけがわからない・・・
「じゃあ、オモテで勝負しよう」
「ああーいいよそのかわり私が勝ったら、言うこと聞いてよね」
これが私の周囲では伝説になっている、
「じいちゃんとかけっこ事件」である
ふたりで意気揚揚と外へ出た
門から車庫までの10mほどのアプローチが、勝負の場所となった
杖をついた老人と腰を痛めた中年女の
世紀の10m走・・・
‘真昼の決闘,である
私の中で、
「転んでケガさせたらいけない・・・おとうさんが転びそうになったら、
私がスライディングして、私の上に転んでもらえばいいか」
なんて考えた
とにかく、もう後にはひけない
「じゃあ、行くよ・・・よーいドン」
私のかけ声で、ふたり走り出した
当然、私が早いわけで・・・
「へっへー、私の勝ち」
すると義父は悔しそうに
「待て、今度は俺がよーいドンを言う、そしたら勝つから」
よくわからない原理だが、まあいい
再スタート
勝負は決まった
腰痛中年女の大勝利
「ほら、これで私の言うこと聞いてね、約束だから」
「あー、わかったよ」
ふたりでヨタヨタしながら、とりあえず玄関先に座りこんだ・・・
義父が少し息をきらしながら、
「ちょっと距離が短すぎたもっと長い距離なら俺が絶対勝つのに」
・・・まだ言うか
「そう、じゃあまた今度、長い距離で勝負しようね」
そして、子どもが‘悪さ,した時の様な笑顔で
「でも、おもしろかったな」と言った
普段から、困ったり意見が食い違ったりすると黙って不機嫌になるタイプ
そうやって、何十年もやってきたんだろうが・・・
やっぱり、人間本音でしゃべる時はそうした方がいい
もしかして、義父は初めてだったのかも・・・
我が家の方から、夫の車が止まる音がした
そうだ、電話したんだっけ
義父とふたり、玄関先で肩を組んで座っていた・・・
慌ててやってきた夫に、
「ごめん、今仲直りしたから」
義父と私、満面の笑み
夫は「はあ・・・」
義父はとっても嬉しそうだった
その翌年、
より症状が進んだ義父は、グループホームに入所した
「やれるとこまでは・・・」と思っていたが、
夫の「もういいよ、これ以上はムリだよ、よくやった」という言葉に説得された
入所してすぐは、
「本当にこれでよかったのだろうか?もっとやれたんじゃないか?」
と、自責の念にさいなまれたが、
息子に、「お母さんがんばったんだから、悩むことないよ」と言われ、涙が出た
いろいろと我慢させてきたはずの子ども達は、ちゃんと見ていてくれた
グループホームに会いに行くと、
今はもう、夫や私が誰なのか、わからない時が多い・・・
それでもニコッと笑ってくれるのを見ると、嫌われてはいないのかなと思う・・・
私の介護経験はほんの短い期間で、
他の介護をなさってる方と比べると、大したことでもないのかもしれないが
いろいろ考えさせられるものだった
昔、2人の介護をした実家の母の偉大さを痛感し、
老いていくことへの‘覚悟,が生まれた
だからこそ、
1日1日‘老い,に向かっていくのではなく、
いつか訪れる‘老い,まで、どう過ごしていくかが大切なのかも
そして、
高畑さんがドラマで言ってたように、
素敵に歳を重ねて、潔く‘老い,を受け止める・・・
ぜひ、そうありたいものだ
余談だが、
あの‘真昼の決闘,の翌日・・・
義父に「昨日はおもしろかったねー」と言ったら、
「はあー?なんかあった?」
すっかり、忘れていた
・・・まあ、そんなもんだ・・・