信州山里だより

大阪弁しか話せないの信州人10年目。限界集落から発信している「山里からのたより」です。

年末からの分です

2008年01月09日 08時08分38秒 | Weblog
ブログ、長い間アップできませんでした。原稿は書いていたのですが、カメラを落とした時に壊れてしまったようで、写真もないし…ということで逡巡していました。でもまあ、文字だけでもとりあえず、ということで実に読みにくいかもしれませんがご辛抱の程を。


2008年1月8日(火)
『道祖神まつり』

昨日の7日は『道祖神まつり』。
道祖神といえば安曇野の、男女が抱擁しているものや手をつないでいるものが有名ですが、北信のこのあたりは大きな岩に『道祖神』と彫りこんだカタチ。
この『道祖神』さんの前で、「どんど焼き」をします。

当日の朝8時ころまでに、正月の松飾り、注連縄(しめなわ)、(紙や板の)神札、お守り、祝い箸、習字、ダルマなどを持ってきます。昔は子どもが集めに回ったようですが、現在わがムラでは10軒のうち、子どもがいるのは1軒で2人のみ。そういう訳で今は各自が持ってきます(簡単に持って行くといっても我が家からは急な山道を歩いて10分以上はかかります。我が家の下の家からは20分!)。
集まった松飾りなどを2~3mの高さに組み上げていくのですが、これは男の仕事。勤めのある人は午前中休暇をとったり、やむを得ず欠席したり。てっぺんにはダルマを飾ります。この状態で、夜まで待ちます。
さて夜の7時。再びムラ人が集まって『道祖神』さんにお酒を供えます。これはお神酒(おみき)となって後で参加者全員がいただきます。そして昔は『当番』になった人が朝から縄文時代よろしく轆轤で火を起したそうですが、今はライターかマッチで点火。火の勢いで農作物の出来具合を占ったり、舞い上がった習字の紙で字が上手になったり勉強がよくできるように祈ったり、これは関西も同じです。

燃え盛る炎によって周りが明るくなってくると、積もった雪の白さが浮かび上がって幻想的な雰囲気が生まれてきます。また人々の顔が炎に映されて…想像してください、雪国はなかなかいいでしょう。この時はなぜか皆の言葉数が少ないです。炎に映えた沈思黙考の顔、顔…ね、ね、いいでしょう!

火も小さくなると傍の集会所に場所を移してささやかな宴になります。この集会所は20数年前にムラ人が材木やお金、労力を出し合って建てたのですが、他のムラにはないのでそんな場合はどうしているのでしょう。当番さんの家でやるのでしょうか。先人に感謝感謝です。

こんな山里でも20分も車で走ればAコープ(農協のスーパーマーケット)などあるので、宴に「造り」などもでますが、やはり野沢菜漬け、たくあん漬けです。私の漬物好きはムラで有名で、残ると「もって帰り」と言ってくれますので、遠慮なく頂戴します。これがまた各家庭で味が違うので大きな楽しみです。そうそうこの宴はきっちりワリカンなんですよ。これもいいでしょう。ちなみにこの日は1人500円でおつりがあります。ま、つり銭分は来年にまわしていますが。

大切な情報交換の場でもある宴が終わるころ、当番の引継ぎが行われます。この日の出席は当番さんの奥さんを含めて8所帯9人。こんな小さな集まりでも引継ぎ時には謡(うたい、謡曲)があります。
どうもこの習慣は北信だけらしいですが、どういうわけか『おかず』と言ってます。そう御飯の『おかず』。以前正式な名前を問うたのですが、誰もが「おかず、て言うなぁ」。まあいいです、『おかず』で。

次期当番さんが今期の当番さんに「ごくろうさまでした」の意味を込めて杯(さかずき)を差し上げるのですが、この間誰かが謡をうたいます。これはなかなかいいものです。一度見せてあげたいですね。
さてさて次期当番は……、なんとこの私がすることになりました。でもね、「このムラのもんは家族と同じ。みんなで教えてあげるから」なんて温かい言葉をかけられると嬉しいものです。
「このムラのもんは家族と同じ」。この日に限らず何度も言われています。ありがたいことです。

引継ぎも終わり、10時半も過ぎたのでそれぞれが家に帰ります。
普通-5~6℃なのにこの夜は-2℃と暖かく、この時期には珍しく2~3m先も見えないくらいに犀川の川霧が濃く濃く立ち込めていました。
一人住まいの杖つく80半ばのおばあちゃんと、凍った雪道に足を取られないように手を添えてあげている60歳の独身男の二人づれが、街灯の裸電球に浮かび上がって霧の中に長い影を作りながら家路をゆっくり歩む姿を背にして、私も凍った山道を一歩一歩踏みしめて下っていきました。




2008年1月6日(日)
『露天風呂デビュー』

もう平常モードです。
ということは、今日は日曜日なので温泉めぐり。

若い頃、ということはスキーや山登りをやっていた頃、「信州湯田中」という地名から自分勝手に作ってしまったイメージにとらわれていたのか、なぜかしらその方面に足を踏み入れられなかった。
そのイメージとは。
電車(長野電鉄)が終点の湯田中駅に到着。ホームに下りると1mも降り積もった雪の隙間のあっちからもこっちからも、除雪された雪が積まれている道路の側溝からも、温泉の湯気がもくもくしゅうしゅう出ていて、寒いのに暖かくて…

このイメージがなぜ私の足を踏み止まらせていたのか、どうも良くわからない。雪・温泉が期待はずれ、ということを恐れていた? そうかも知れない。
で、今回はこっちの方面に行こう、ということになりました。
ところがさすがに信州。その途中に著名な温泉が、あっちにもホイ、こっちにもホイ。結局湯田中の手前の『高山温泉郷』に決定。ここは家から地道で1時間。ちょうど良い。

まずは子安温泉。まだとっかかりなのでパス。次は山田温泉。日帰り入浴のできる旅館に加え興味のある『大湯』という外湯。「安いから石鹸、シャンプーないかも」ということで、ここもパス。次に洞窟風呂。これは値段が不明なのでまたパス。次に五色温泉。ここは1軒宿。日帰りOK。誰か入っていった。入ろうか?いや、もう少し行ったら七味温泉や。ここの○○館へ行こう。で七味温泉へ。
ところが○○館へ行く道が雪で通行止め。3~4軒他の旅館もあったが観光バスが止まっていたりしてやめ。五色温泉に戻ることに。

この旅館の駐車場に止めて、さあ行こうとすると女将さんのような人が小走りで来て「お泊りの方ですか」「いいえ、風呂だけです」「申し訳ありません。外来入浴の方は3時までなんです」時計を見ると3時は過ぎている。
さあ仕方ない。オカンに「一軒知ってるけど、そこは露天風呂が混浴や。どうする?」「混浴かぁ…どうしようかな」「いややったら別のとこへいこか」
と言いながら車を走らせていると到着。
ちょうどそこに風呂から上がって千葉ナンバーの車に乗り込もうとしていた若い夫婦に「ここは混浴ですよね」の問いかけにあっさりと、こだわりなく「あ、そうですよ」。
「さあどうする」「どうしようかな」「さぁ、さぁ、さぁ」「うーん」「さぁ、さぁ、さぁ、浜の真砂は尽きるとも…」「うーん、いいわ、入ろ。露天には行かないかも知れんけど」

駐車場から急勾配の崖に沿った雪道を川に向かって降りると、雪を被った数棟の小屋。なんと雰囲気が抜群。ロケーションもOK。「温泉には不要」という経営者の考えで石鹸もシャンプーも置いていなかったけれどすごくいい。
内湯で体を洗ったあと露天へ。女性が数人、なんとその中にオカンも入ってる!これで混浴履歴は2回目。1回目は20年近く前、白馬三山縦走の終盤に『白馬鑓温泉』へ。ここは女性用も隣接してあったのですが、水着着用で混浴槽へ。というのは私の独身最後の山行きでここに立ち寄った時、満月を眺めながら「彼女をここに連れてきたいなぁ」との願いがあったので。

さて、ここ雪の露天風呂、いいです。決していやらしい雰囲気もなくごく自然に男も女も入ってる。岩の配置にも工夫が見られ、恥ずかしい人は隠れることができるようになっている。でも誰もそんなことはしていないし、覗き込もうとする人もいない。若い女性の一人は、腰から上は湯から上げているにもかかわらず、胸に普通のタオルを当てているだけでほとんど裸に近かったし、他の一人はバスタオルで体を巻いていたけれど縁の岩に座って連れ合いだか、知り合いだかと話しこんでいた。それはごく自然な姿だった。
そりゃ男の中には(女だってそうかも知れないが)ちらっと見ているかも知れない。いや正直私だって見ました。ほんの少しちらっと見ましたよ。でも本当にそれだけで、ただそれだけのこと。「へえーっ、若い子も入ってるわ」。

風呂から上がったオカンに「入ってたのでビックリした。混浴デビューやな。なんでその気になったん?」「後で入ってきた若い女性が、内湯にも入らずそのまますっと露天に行ったので、私も、って」「どう抵抗ある?」「別に感じなかった。これから入れそう」
湯がよいので、抵抗のある人は夕方から夜に入るといいのでは。ここはお勧めです。家族連れも来ていましたよ。
ここの温泉の名前は伏せておきますが、「甲信越一の温泉」と言われるだけあって、評価基準の厳しいオカンも石鹸・シャンプーがなかったにもかかわらず、星3つを出しました。



2008年1月4日(金)
『帰省』

1月2日に長男夫婦が帰ってきて、二男、三男と6人全員が揃った正月でした。社会人になると落ち着いてくるし、出てきた別の面を見るのも面白くまた心強く感じるものでした。
親の前ではその片鱗も見せないのにユーモアあふれた話をする者、意外と常識的な考えをする者、気配りする者、それらを交えながら兄弟が仲良く語り合っているのを見るのは快いものでした。
ただやはり時折「年老いた親」的に見られることもあって、それは子どもの立場からは当然なのでしょうが「おいおい、ちょっと待て」という気もしないでもなかった。
でも、私も思い浮かべるとそんな時期があったことを思い出す。
子どものころ苦労をかけられたこともあって関係は淡白だったけれど、親父の歯が1本また1本と抜けたのを知って、『老いていくオヤジ』が身に迫ってきてたまらなく思ったこともありました。

囲炉裏を囲んで酒を飲み、兄弟が語り合っている、似たような情景。随分前に夢に見ていました。

黒ずんだ太い柱や梁(はり)がむき出しの大きな古民家です。息子3人は土間を見下ろせる中二階のコタツの中に入って「オヤジは…」「…なオヤジやったで」と語り合っています。その3人の頭上を喜びながら、満足しながら、感謝もしながら私が浮遊しているのです。そこから土間の台所で何かを作っている割烹着姿のオカンの上まで飛んでいって「3人、仲良う話しとるわ」と話しかけます。聞こえているのかいないのか、「ルンルンルン」と鼻歌を歌っています。「はよう、何か持っていったれや」。鍋を持ったまま下駄を脱いで座敷に上がり、3人にもって行ってます。

この3人、それぞれがそれぞれの悩みやしんどさを抱えている。あるいはこれからいろんな荷物を担いでいかねばならない時だって来る。その渦中にいる時は、いつまで続くのか無間地獄のように思うものだ。私だってそう思ったこともある。
でも、ある人が言っていた。「障害を持って生まれた子は『福子』。福をもたらす子。大事に大事に育てないと」。
今振り返ると、随分いろんなことがあったけれど、いろんなことすべてが『福子』だった。一つ一つを大事に育てたかどうか疑問だけれど振り返ってみればすべての事柄が『福子』だったことは間違いなかった。



2008年1月1日(火)
『除雪』

新年明けましておめでとうございます
ここ信州の山里の新年は、NHK『ちりとてちん』風に言えば「そっこ抜けに雪」です。
31日の朝4時過ぎには降っていなかったのですが、6時ごろから降り始めると間断はあるもののずーっと降り続き、やっと今日の夕方止みました。積雪量は50cmはゆうにあるでしょう。郵便受けに積もった量で判断しているのですが、ボクの広げた手のひらを20cmとして、2回落としてまだ積もっているからそんなもんになります。
幸い息子が帰省していたので『下の道』の除雪を手伝ってもらったのですが、県道までには至らず。村の神社へお参りに通った『上の道』は完全にクルマは通れない。向かいには90を過ぎたおばあちゃんが長野市内の息子さんの家には行かなかったので急遽除雪機を使って除雪することにしました。で、除雪機を集会所まで取りに行くとガソリンが不十分。『下の道』はあきらめて『上の道』だけでも確保しておこうと。
午後の4時ころから始めて終わったのは7時半。

『上の道』を登りきったところにあるムラの集会所から『下の道』を下って県道まで。かなり長い距離を自分たちで除雪しなければならない。市道は市が、県道は県の負担で地元の土建業者がやってくれるのですが、我が家への道は市道であるにかかわらず自己負担。先に「自分たちで」と書いたが90過ぎたおばあちゃんに除雪はムリだし、下の1軒(*)は車を持たない老夫婦なので歩くだけの幅の除雪。これだって大変なのですが、こういうことで実質私一人。
 (*)この『信州山里だより』ではたびたび登場しますので、ムラの人が呼んでるのに習い今後『シバの家』『シバ』と言います。ひょっとすると屋号かもしれません。

この除雪問題は大きい。おばあちゃんの隣家は今、空き家になっているのですが、出て行った理由のひとつがこれ。「ここのタケノコがおいしい」と毎年タケノコを取りに来るのですが、以前会って話したときに「ウチばっかりに負担がかかって。それも出て行った理由の一つ。本当はここにいてもいいんだけど。でも将来は帰ってきたい。だってここいい所でしょ、雪以外は」と言ってました。

「なぜ市がやってくれないのか」とある人に聞くと、道幅がせまく除雪車が入らないから、というのがその理由。
確かに道は狭い。くろねこヤマトの宅急便は雪の路肩に落ちてからわが家へは、雪の積もった時は配達拒否(郵便局も落ちたが、その後歩いてでも配達してくれる)。
でもそれがホントの理由だろうか? 以前『上の道』で雪崩があってその復旧工事のとき、『下の道』から除雪車が雪をかきかきあがってきたのを見たけれど。

何かの本で読んだのか、聞いたのか、行政は5戸を一単位と考えるらしい(そういえば江戸時代にも五人組という単位があった)。なるほどわが家、おばあちゃん、シバの3戸しかない。これは「しかたない」? 
とりあえず小泉さんと竹中平蔵さんにお礼を言っておこう。



2007年12月31日(月)
『本年最後の温泉行き』

大晦日です。
オカンの勤め先が29日(土)まで出勤だったので、30日、31日の2日間で家の掃除、おせちづくり、ネコ4匹のうち子ども3匹が競争で破ってくれたぼろぼろの障子張りなどで大車輪。こんなとき、つくづく「男は家にいても役に立たないなぁ」と実感します。
でもまあひと段落つけて1年の垢を落とそうと、帰省中の息子と3人で松代温泉『松代荘』に行ってきました。
この温泉はオカンと二人でよく行く温泉で、湯そのものも気に入ってます。有効成分が随分含まれていて、湯の色は鉄サビ色。有馬温泉の『金泉』に似ています。
この松代温泉には国民宿舎『松代荘』、旅館(入浴のみOK)、昔は旅館だったけれど今は日帰り専門の3軒が、住宅地の中にあります。風景的には単調なのですが、どうしてどうして温泉はすばらしい。

私が特に気に入ってるのは日帰り専門のところ。名は『一陽館』。
ごぼごぼと源泉が吹き出ていて、初めての人にはここの主(あるじ)が丁寧に説明してくれる。
内湯はまさにウナギの寝床、数時間もじっくり浸かっている人もいる。
露天風呂もいい。特に雪の時は。
ただ欠点が一つ。石鹸・シャンプーの使用は禁止。これがねえ…どうしても松代荘に行ってしまうんですよねぇ。まあ典型的な、湯治のための温泉、ということなのでしょうか。

さあ、紅白歌合戦で『吾亦紅』と中村中の『友達の詩』を聞きたいので。
みなさん、よいお年を!



2007年12月26日 
『今どき「お菜漬け(野沢菜漬け)」の話?』

お久しぶりです。本日でリンゴの発送をひとまず終了しましたので、ブログ再開です。
ゆっくりするために田舎暮らしを、と信州の山里に移り住んだのですが、なんのなんのなかなかの繁忙です。時には二人でカップラーメンをすすった昼も。この時期はリンゴ、畑、冬に備えての食・住の準備の最盛期。加えて地域公民館の役員をおおせつかっているものですから尚更でした。
この公民館の行事、10・11月はやたら多い。行事の数々はこの『信州山里だより』にピッタリだったのですが、なにぶん夜の9時になると意識朦朧。というわけで1ヵ月強、ブログを休ませていただきました。

さて冬の準備といえば野菜の収穫、保存作業がありますが、信州ではなんといっても『お菜漬け』。つまり野沢菜漬け。これが無いと信州の厳しい冬は越せない。なのに、昨年は畑に野沢菜があるにもかかわらず漬けることができなかった。
悔しい思いで春先、『菜の花浅漬け』にして食べたのですが(これはこれで美味なのですが)、やっぱり野沢菜漬けを食いたい。なにしろ信州に来た目的の一つが、ホンモノの米、ホンモノの野菜、ホンモノのかしわ(決してブロイラーではないのです)、ホンモノの卵かけご飯を食いたいためでもありました。
(横道にそれますが、鯨肉の代用の豚肉と水菜で『ハリハリ鍋』をしたのですが、砂糖を全く使わないのに甘~い)。

さて今年は…。
「女の人の体には、男より乳酸菌が多く着いているので、漬物はやっぱり女の人が漬けるとおいしいんだけど」「漬物をよく食べる人はぼけないんだって」「健康には漬物の乳酸菌がいいらしいよ、」「女の人には肌がつやつやするって何かの本に書いてあったなぁ」などなど、囁き作戦、独り言作戦も結局徒労。6ウネのうち、オカンに聞きながらやっと1ウネ分を自分で漬けただけ。ほかに1ウネ分は収穫したものの洗い場に放置したまま10日は経っているかな。12月26日現在、4ウネ分はまだ畑。ご近所では「お正月にはもうそろそろ食べれるかな」なんて言ってるのに。
一方オカンは大根漬けに専念。『信州地大根』を150本ほど漬けてくれました。昨年は加賀打木の『源助大根』。実にうまかった。今年は信州の本来種のダイコンだけれど、どんな味か楽しみです。
(2007.12.26記)