二日市教会主日礼拝説教 2023年5月28日(日)
聖霊降臨(ペンテコステ)
使徒2:1~21、Ⅰコリ12:3b~13、ヨハネ20:19~23
「ペンテコステとシンデレラ」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
本日は、聖霊降臨あるいはペンテコステというキリスト教の祝祭日にあたります。ただこれは、わかりやすく言うと教会の創立記念日のようなもので、クリスマスのような子どもが喜ぶ行事もありません。ところが、広島県のある教会は、子どもたちにペンテコステを感じさせようと凧揚げ大会をいたしました。凧あげなら風の力ですから、ぺちゃんこのビニールの凧も、風を受けたら大きく膨らんで舞い上がります。ペンテコステもそんな感じで、この日お弟子さんたちは、聖霊をいっぱい受けたので、世界中に元気に出かけて行った。そういう話をしたら、子どもたちは納得したようだったと書かれていました。
ところで、本日は話の題を「ペンテコステとシンデレラ」にしました。つまり、シンデレラの話を通してペンテコステを考えてみようということなのです。ところで、シンデレラはグリム童話ですが、その話ならよく知っているという人も、多くはディズニーのアニメ映画、あるいは絵本から知っているのかもしれません。しかし本日は、原作で考えてみたいと思います。
ところで、原作の日本語訳を見ると、題はシンデレラではなく「灰かぶり」になっています。シンデレラという言葉にも灰かぶりという意味があるのですが、フランス語を解さない人はそこまでは分かりません。しかし、灰かぶというのは非常に大事だから翻訳はそうしたのだと思われます。
ということで、いつもはシンデレラと呼ばれる女の子を、私たちは灰かぶりと呼ぶことにします。さて、原作本では、話はこう始まっています。
むかし、ある金持ちの男の奥さんが病気になりました。そうして、自分の最期がもう近いと感じると、奥さんは、たったひとりの娘をベッドのそばに呼びよせて、こう話しました。「わたしのかわいい子、いつまでも神さまを深く信じて、すなおな心でいるのですよ。そうすれば、神さまがいつも助けてくださるわ。わたしも、天の上からおまえをながめて、見守っていますよ」。
そう言い残して母親は死に、入れ替わるように継母とその二人の娘がやってきました。そのため女の子は、屋根裏の部屋さえ許されないで、炉端の灰の中にもぐって寝るしかありませんでした。だから、その子の名前も灰かぶりとなるのでした。
ところで、古代社会で灰は、死の象徴でした。だから、灰かぶりと呼ばれた彼女は、死んだも同然でした。しかしまた、灰をかぶることは、生まれかわりの準備の意味もありました。ただ、灰かぶりがそうなるには、紆余曲折が必要でした。
ところでこの話は、彼女のもう一つの面を明らかにします。というのも、彼女は死んだ母親のお墓に木を植えたからです。するとその木は大きく育ったので、彼女がその木の下で泣いて祈っていると、白い小鳥がやってきて、彼女の望んでいたものを投げ落としました。思い出されるのは、死の間際の母親がこう言っていたことです。「神さまがいつも助けてくださるわ。わたしも、天から見守っていますよ」。つまり、母の約束が実行されたのでした。言い換えるなら、灰かぶりは、天の意志との交信を始めたのでした。そのため、たとえ彼女が灰にまみれて汚いなりをしていても、心の中は、やさしい母のイメージで満たされることになったのでした。
けれども、事はそう単純ではありませんでした。なぜなら灰かぶりは、美しい娘にならないと生まれ変われなかったからです。そのとおりで、彼女は変化を始めたのでした。きっかけとなったのはお城の舞踏会でした。自分には招待状がない灰かぶりは、継母に連れて行ってとせがみ始めます。ところが、返事はノーでした。何度でもダメなので、自分から行く以外にないと考え、墓の木の下に行き、「やさしい木よ、からだをゆすりゆすぶって、金や銀を投げとくれ」と呼びかけました。すると、誰も見たことがないきらびやかなドレスと、金と銀の靴が投げ落とされ、それを身につけて急ぎお城に出かけました。なお、このあとの舞踏会の場面は省略します。
しかし原作は。映画や絵本にはないすごいことが書かれていました。なぜなら王子の手を振り切り帰宅するのですが、捜索の目をゴマ化そうとトリ小屋に隠れたからです。そこに父親が現れ、斧で小屋を叩き割ったのでした。
ショッキングな話ですが、ある児童文学者はこう書いていました。「大変意味深い。なぜなら、父親による切断は、母の世界への娘の執着を絶つことであり、母と娘の心理的葛藤に終止符を打つことだからである」。でも、これを裏返すなら、執着と葛藤さえ取り除けば、あとの残りは全部大丈夫なのです。つまり残りとは「母が見守ってくれている」という信頼の部分です。児童文学者も、それだけはいつまでも大切にしようと言っていたのでした。
トリ小屋事件の意味することは、灰かぶりはもう女の子ではないということでした。というのも、王子と結婚してお妃になるのですから、もう甘えは許されません。それに、お妃は国民の母ですから、国民から寄りかかられる存在であらねばなりません。でも、そういう場合でもだいじなことは、お妃が備える母性というのは、幼時から育ってきた信頼感、つまり「母が見守ってくれている」という思いに根差していることが大切なのでした。
ところで、聖霊降臨は、冷え切った心が暖められる出来事でした。その心はいつも冷えやすいので、聖霊の働きもいつも必要なのです。それは、母が木と白い鳥を介して娘に投げ与えた素敵なドレスのようなもので、それが聖霊についての教えなら、子どもたちは真っ先に理解してくれるのです。そう思うと、聖霊のことをあれこれ難しく考える必要はなくなるのです。
聖霊降臨(ペンテコステ)
使徒2:1~21、Ⅰコリ12:3b~13、ヨハネ20:19~23
「ペンテコステとシンデレラ」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
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本日は、聖霊降臨あるいはペンテコステというキリスト教の祝祭日にあたります。ただこれは、わかりやすく言うと教会の創立記念日のようなもので、クリスマスのような子どもが喜ぶ行事もありません。ところが、広島県のある教会は、子どもたちにペンテコステを感じさせようと凧揚げ大会をいたしました。凧あげなら風の力ですから、ぺちゃんこのビニールの凧も、風を受けたら大きく膨らんで舞い上がります。ペンテコステもそんな感じで、この日お弟子さんたちは、聖霊をいっぱい受けたので、世界中に元気に出かけて行った。そういう話をしたら、子どもたちは納得したようだったと書かれていました。
ところで、本日は話の題を「ペンテコステとシンデレラ」にしました。つまり、シンデレラの話を通してペンテコステを考えてみようということなのです。ところで、シンデレラはグリム童話ですが、その話ならよく知っているという人も、多くはディズニーのアニメ映画、あるいは絵本から知っているのかもしれません。しかし本日は、原作で考えてみたいと思います。
ところで、原作の日本語訳を見ると、題はシンデレラではなく「灰かぶり」になっています。シンデレラという言葉にも灰かぶりという意味があるのですが、フランス語を解さない人はそこまでは分かりません。しかし、灰かぶというのは非常に大事だから翻訳はそうしたのだと思われます。
ということで、いつもはシンデレラと呼ばれる女の子を、私たちは灰かぶりと呼ぶことにします。さて、原作本では、話はこう始まっています。
むかし、ある金持ちの男の奥さんが病気になりました。そうして、自分の最期がもう近いと感じると、奥さんは、たったひとりの娘をベッドのそばに呼びよせて、こう話しました。「わたしのかわいい子、いつまでも神さまを深く信じて、すなおな心でいるのですよ。そうすれば、神さまがいつも助けてくださるわ。わたしも、天の上からおまえをながめて、見守っていますよ」。
そう言い残して母親は死に、入れ替わるように継母とその二人の娘がやってきました。そのため女の子は、屋根裏の部屋さえ許されないで、炉端の灰の中にもぐって寝るしかありませんでした。だから、その子の名前も灰かぶりとなるのでした。
ところで、古代社会で灰は、死の象徴でした。だから、灰かぶりと呼ばれた彼女は、死んだも同然でした。しかしまた、灰をかぶることは、生まれかわりの準備の意味もありました。ただ、灰かぶりがそうなるには、紆余曲折が必要でした。
ところでこの話は、彼女のもう一つの面を明らかにします。というのも、彼女は死んだ母親のお墓に木を植えたからです。するとその木は大きく育ったので、彼女がその木の下で泣いて祈っていると、白い小鳥がやってきて、彼女の望んでいたものを投げ落としました。思い出されるのは、死の間際の母親がこう言っていたことです。「神さまがいつも助けてくださるわ。わたしも、天から見守っていますよ」。つまり、母の約束が実行されたのでした。言い換えるなら、灰かぶりは、天の意志との交信を始めたのでした。そのため、たとえ彼女が灰にまみれて汚いなりをしていても、心の中は、やさしい母のイメージで満たされることになったのでした。
けれども、事はそう単純ではありませんでした。なぜなら灰かぶりは、美しい娘にならないと生まれ変われなかったからです。そのとおりで、彼女は変化を始めたのでした。きっかけとなったのはお城の舞踏会でした。自分には招待状がない灰かぶりは、継母に連れて行ってとせがみ始めます。ところが、返事はノーでした。何度でもダメなので、自分から行く以外にないと考え、墓の木の下に行き、「やさしい木よ、からだをゆすりゆすぶって、金や銀を投げとくれ」と呼びかけました。すると、誰も見たことがないきらびやかなドレスと、金と銀の靴が投げ落とされ、それを身につけて急ぎお城に出かけました。なお、このあとの舞踏会の場面は省略します。
しかし原作は。映画や絵本にはないすごいことが書かれていました。なぜなら王子の手を振り切り帰宅するのですが、捜索の目をゴマ化そうとトリ小屋に隠れたからです。そこに父親が現れ、斧で小屋を叩き割ったのでした。
ショッキングな話ですが、ある児童文学者はこう書いていました。「大変意味深い。なぜなら、父親による切断は、母の世界への娘の執着を絶つことであり、母と娘の心理的葛藤に終止符を打つことだからである」。でも、これを裏返すなら、執着と葛藤さえ取り除けば、あとの残りは全部大丈夫なのです。つまり残りとは「母が見守ってくれている」という信頼の部分です。児童文学者も、それだけはいつまでも大切にしようと言っていたのでした。
トリ小屋事件の意味することは、灰かぶりはもう女の子ではないということでした。というのも、王子と結婚してお妃になるのですから、もう甘えは許されません。それに、お妃は国民の母ですから、国民から寄りかかられる存在であらねばなりません。でも、そういう場合でもだいじなことは、お妃が備える母性というのは、幼時から育ってきた信頼感、つまり「母が見守ってくれている」という思いに根差していることが大切なのでした。
ところで、聖霊降臨は、冷え切った心が暖められる出来事でした。その心はいつも冷えやすいので、聖霊の働きもいつも必要なのです。それは、母が木と白い鳥を介して娘に投げ与えた素敵なドレスのようなもので、それが聖霊についての教えなら、子どもたちは真っ先に理解してくれるのです。そう思うと、聖霊のことをあれこれ難しく考える必要はなくなるのです。