終い弘法

2004-12-21 20:41:56 | KYOTO
東寺の弘法市です。
弘法大師空海の命日である21日(祥月命日は3月21日)に行われますが
一年最後の12月21日が「終い弘法」、年初めの1月21日が「初弘法」と言われていて、
一年間の弘法市の中でも一番の賑わいになります。

弘法市ですが、東寺出店運営委員会によると、
元々”縁日”とは神仏がこの世と”縁”を持つ日とされており、この日に参詣すると大きな功得があるということです。東寺では祖師空海入寂の3月21日を期して毎月21日に御影堂で行われる御影供のことを指しています。
当初は年に1回行われていたものが、1239年以降は毎月行われるようになったそうです。
一方、人々が盛んに参詣に訪れるようになったので、当時『一服一銭』と言われるごく簡素な屋台で茶を商う商人(茶店の前身のようなもの)が出てくるようになり、江戸時代には茶店だけではなく、植木屋や薬屋なども出てくるようになりました。これが現在の「弘法さん」の起源だと言われています。

子供が生まれる前は義母と一緒にお参りして
出店で翌年用のお蝋燭やお正月の寄せ植えようの葉牡丹・南天・千両・万両を
買い求めたりしていましたが、ここ最近は全く行ってませんでした。
健杜なんて連れて行くと絶対に迷子になります。

今日も義母が
「弘法さん行ってくるわ。時間ないし急いで行ってくる。今日は終い弘法や。」
と言って出て行きました。義母は毎月お参りに行きます。
惣次郎の散歩がてら、健杜の手を引き行ってみました。
もちろん境内は動物禁止なので外回りだけ。

境内にはいろんな出店が出てますが、外回りには植木屋さんが多いです。
東寺の弘法市といえば骨董品が有名ですが、外回りにはほとんどありませんでした。
パパの仕事関係の友達が毎月弘法さんに出店を出してるんです。
親子で出していて、友達は主におもちゃ関係。ブリキのおもちゃです。
親御さんのほうは壺や刀、絵画などの正真正銘の骨董品。
行けば会えるかと思いましたが犬連れなので入れません。
ま、惣次郎がいなくてもあの大勢のなかに健杜を連れて入る勇気はちょっと無かった(汗)
10分と経たないうちに。『けんと~どこや~!!!』と叫んでるでしょう(笑)

健杜に焼きとうもろこしを買ってぶらぶら回ってみると、
なんと観光バスが数台路上に止まっていて、添乗員さんが旗を持って声を張りあげていました。
『40分間ですので、○○観光の皆さんはこの旗のところにお戻りくださ~い!』
・・・無理。絶対無理。境内入ったら最後、40分で出て来れない・・・
いろんな店も出てるし、第一人が多すぎて出口わからなくなると思います。
地元民じゃないしね。

参拝客の層ですが、ダントツで年配の方が多いです。
腰の曲がったお年寄りももちろんいらっしゃいます。
地元のお年寄りは毎月必ずお参りされるんじゃないでしょうか。
病院の待合室がお年寄りの井戸端会議場になるのと同じで
弘法さんの境内もお年寄りのコミュニケーションの場だと思うんです。
なので雨や槍が降らない限り、東寺境内に集合されるのではないかと思います。
でもあまりの人の多さに押されて転ぶんじゃないかと思うと気の毒ですね。
実際、東寺までの道中でも手押し車を押して歩いている方や
座って休んでおられるお年寄り5~6人ほどに遭遇しました。
無事お参りして帰れたら何も言うことありませんが・・・。
案の定、救急車も出動していました。
どんな方が乗ってるのかは確認できませんでした。

毎月21日はこの東寺駅周辺は『何事!!!?』ってくらい人で溢れます。
来月もまたおお賑わいでしょうね。


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3 コメント

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@@@@@@ (HAL@仕事ちぅ)
2004-12-22 13:20:55
あらら、サブコピーがシンデレラバージョンに。

それと、もうひとつ。

るなちのとこのおチビちゃんが「けんと」という名前であることを

初めて知りました
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う、、途中送信してしまった (HAL)
2004-12-22 13:24:29
私はあんまりこういうことに詳しくないのだけれど

弘法さんていうやん。余所ではお大師さんていうやん。

同じお人やねえ?(←歳のわりにモノしらんヤツ。)
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(多分)千手観音 ()
2004-12-22 15:01:11
十数年前、

ちょっと反抗期の入り口にいる娘と

何故か京都旅行をすることになって。

東寺で期間限定で公開していた千手観音(多分)を観たの。

口をアングリあけて、その神々しさに見入っていたら、

娘が、ボソッっと、

「これ観れただけでこの旅行に来てよかった」と言ったのを、聞いて

「それ聞けてこの旅行に来てよかったよ」

と心でつぶやいた。

でもその時、信仰心のない私でも、信仰するってことがほんのちょっとわかった気がしました。

何か困ったらこの神様に頼もう。絶対力になってくれる。と思えたもの。

今でも目に焼きついています。
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