12月7日(水)明治新政府の心意気
3日づけの小欄に明治5年の12月は3日で終わり、その日が明治6年1月1日になったと書いた。そのためにサラリーマンの月給など社会生活にいろいろな支障が出たと思われるが、手元に資料がないので分からないのは残念だと記した。
今朝の朝日新聞一面のコラムに、それらの疑問の一部に関する答えが出ていた。それによると唐突な改暦を決断したのは大隈重信で、新政府の財政難を切り抜けるためだったという。彼が目をつけたのが官吏の給料で、旧暦なら明治6年は閏月の関係で給料を13回払わなければならないが、太陽暦にすれば12回で済む。またたった2日しかない明治5年12月の給料も払わなければ2ヵ月分の給料が丸々浮くことになるからだ。
このコラムのお陰で、疑問の一部は解けたけれども、民間の生活に与えた様々な影響はどんなものだったのかは依然として謎である。大晦日がすっ飛んでしまったのだから、借金取りに攻められる心配がなくなって喜んだ人が大勢いただろうが、一方で当てにしていた12月分の給料が入らなくなって慌てた人も居たに違いない。また正月を迎える準備も間に合わなかったのではないか。明治6年の正月は門松も注連縄飾りもない寂しいものだったかも知れない。
そんな中で明治新政府は矢継ぎ早に社会変革を打ち出している。1月22日には髪を長くすることも結婚することも許されなかった尼僧に蓄髪・婚姻等を許し、2月7日には仇討ちを禁止した。同月24日にはキリスト教禁制の高札を撤廃するなど、封建時代の名残を打破して近代国家に衣替えする姿勢を明確に打ち出している。
その当時に比べると、今の政治のテンポは何とまだるっこしいことだろうと思う。多様な言論が許されていて調整に手間取ることは分かるけれども、世の中がどの方向に向かって動いているのか判然としないことに苛立ちを覚えるのである。
3日づけの小欄に明治5年の12月は3日で終わり、その日が明治6年1月1日になったと書いた。そのためにサラリーマンの月給など社会生活にいろいろな支障が出たと思われるが、手元に資料がないので分からないのは残念だと記した。
今朝の朝日新聞一面のコラムに、それらの疑問の一部に関する答えが出ていた。それによると唐突な改暦を決断したのは大隈重信で、新政府の財政難を切り抜けるためだったという。彼が目をつけたのが官吏の給料で、旧暦なら明治6年は閏月の関係で給料を13回払わなければならないが、太陽暦にすれば12回で済む。またたった2日しかない明治5年12月の給料も払わなければ2ヵ月分の給料が丸々浮くことになるからだ。
このコラムのお陰で、疑問の一部は解けたけれども、民間の生活に与えた様々な影響はどんなものだったのかは依然として謎である。大晦日がすっ飛んでしまったのだから、借金取りに攻められる心配がなくなって喜んだ人が大勢いただろうが、一方で当てにしていた12月分の給料が入らなくなって慌てた人も居たに違いない。また正月を迎える準備も間に合わなかったのではないか。明治6年の正月は門松も注連縄飾りもない寂しいものだったかも知れない。
そんな中で明治新政府は矢継ぎ早に社会変革を打ち出している。1月22日には髪を長くすることも結婚することも許されなかった尼僧に蓄髪・婚姻等を許し、2月7日には仇討ちを禁止した。同月24日にはキリスト教禁制の高札を撤廃するなど、封建時代の名残を打破して近代国家に衣替えする姿勢を明確に打ち出している。
その当時に比べると、今の政治のテンポは何とまだるっこしいことだろうと思う。多様な言論が許されていて調整に手間取ることは分かるけれども、世の中がどの方向に向かって動いているのか判然としないことに苛立ちを覚えるのである。