一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

神の愛、私の愛

2016-10-20 07:32:54 | カトリック
よく私は神様の正義と、自分が煉獄さえ行けないだろうと普段から言っているので、数人の方から「神様の愛をもっと感じた方がいいよ。厳しく宗教を考えすぎだよ」みたいなこと言われたことがあります。
それでも私が誰よりも自分自身が弱いこと、そして自分をよく知っています。
主とはどのようなお方でしょうか。
神様は全知全能です。無限の憐れみをお持ちです。愛です。私は主を愛していると思いこんでいます。しかし主の私への愛に対して私の愛はどうでしょう?私の日々の行動はどうでしょう?同じ完璧な愛に対して主は正義の主です。そして完全な聖なる主です。私達は逆です。真逆です。時折サタンの配下に入る者です。愛される資格はあるのでしょうか?愛されたとしてそれに相応しい行動を主はお望みです。愛の主は主と私達の一致を求めています。
私は小学生の頃から寝る前はよく新約聖書を熟読していました。私はよく思いました。自分は主に相応しい者ではない、と。
主に出会う前の聖ペトロの事はあまり記述にはありませんが、ペトロは主に出会ったとき、自分の罪や身分から、私には相応しくないので近付かないでください、と言いました。しかし主はペトロを選びました。そして最終的にはペトロは主のために命を捧げて逆十字架刑で死んだのです。これこそ主に相応しい愛ではないでしょうか。なぜならば、主は私達のために受難を受けて、侮辱されてお亡くなりになりました。命を懸けて下さったのです。つまりそれほどに私達を愛されたのです。
その主に対して軽々しく愛しています!と言えますか。私は言えません。なぜならば、やはり私は弱く卑しいからです。
私達は主の子供です。子供のいる方はご存知かもしれません。または愛して大切にしている方でも構わないと思います。その愛しまくっている子供やその人が、罪を犯してあなたを裏切っているとき、どうでしょうか?どんな想いでしょうか。それでも愛するその人が「自分は愛されてるから」「自分は(あなたを)愛しているから大丈夫ですよね?」と言ったとして、あなたはどう思うでしょうか。悲しくなりませんか?そして傲慢に見えませんか?私は主に対して傲慢でした。
確かに人間には愛があります。同時に悲しみもあります。喜怒哀楽があります。比率は人によって違います。
しかし主は、等しく愛と正義をお持ちです。ですから主は、愛の神、裁きの神と呼ばれています。愛と正義は全然矛盾しません。どちらか一方から見ることはずるい事かもしれません。
ですから私は自分の救霊を考えるとき、こんなにも愛してくださっている主に、どうしていつも裏切っているのだろうか。主を愛すると祈りながらも自己愛ばかりが先行するのだろうか、と自問自答しています。それでも主は愛の主だから、御国にはみな入れますか?私は主を愛してるので御国に相応しいですか?
いいえ!ですから、私は自分自身のために、自分の祈りだけではなく、他の人の祈りも必要だということをよく知っています。




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