( 8½ )(68 ⅔ rev.)VR奥儀皆伝 TP-VR Attract. 謎解き・テーマパークVR Web版

2023-04-08 | バーチャルリアリティ解説
Number68 ⅔ rev. / パーク VRアトラクションの 品格
                          【( 8½ )総目次
《 本Blogの 今回の頁は引用できます。本頁は近く鋳型化されます。2023.05.xx 鋳型化ここから 》

 〇 上宮法皇の維摩経 つづき 日本の国宝とその時代 (12)

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 世界の名著2「大乗仏典」
「付録22」 
中央公論社 昭和42年(1967年)12月
 「現代人にとって仏教とはなにか」〈対談〉
 梅原猛
 (立命館大学教授)、長尾雅人(第2巻責任編集) 図書館や 古書では 通常 読めません。


   対談は、京都の老舗 懐石「美濃幸」でした。

 『大乗仏典』の意義 
((68½)に初出しました。ここは再掲です。)

梅原 こんど先生の出されます『大乗仏典』を読ませていただいたのですが、たいへん勉強になりました。ふつう日本では、原始仏教は わりあいよく知られている。同時に、われわれに近い禅や 浄土教も知られている。ところが 原始仏教と禅・浄土教を結ぶところの、こんど訳されたいわゆる大乗仏典、それに中国の古い仏典など、そこらへんの研究が まあずいぶんされてはいるのでしょうが、まだ一般の人にわかるようなものができていなかった。それがこんどのお仕事で、埋められたということを感じたのですが。
長尾 
実は そういう ねらいをわれわれも最初から考えておりました。大乗仏教は、仏教の中で主流になっていくものでしようし、本巻ではその中心になるものをねらっているわけです。そういう意味からも、本邦初訳が だいぶ はいっているわけです。
梅原 その点で、この「世界の名著」全体を見渡しますと、すでに古くから訳のある巻が比較的多いんですよ。本邦初訳 というのは、おそらくこの巻がいちばん多いのではないですか。その意味で、これは 全体の中でも最も文化的な意義をもった巻 だと思います。龍樹・世親 というのは、名まえだけは われわれも知っているし、日本の どの宗派でも、龍樹・世親というのは、だいたい自分たちの教派の系譜におくわけですが、実際に龍樹・世親の思想がどういうものであるかということは、仏教学者以外のインテリには 知られていなかった。
(このあと『大乗仏典』の意義 の章の、後半を少し省略。)

 漢訳仏典とインド原典 
新たに 本Blog(68 ⅔)に掲載 ここから)

梅原 こんど訳されたのには、経典と論書と二つありますが、経典のほうで『維摩経』の訳を拝見しまして、漢訳仏典の『維摩経』と印象が たいへんちがうような気がするのです。漢訳仏典より もっとイマジネーションが豊かで、きらびやかで、壮大な感じがします。実にみごとな ドラマをもった経典だ という気がしました。漢訳仏典というのは、文学的には なかなかみごとなものと思いますが、やはりあの当時の名文家が書いた文だと思うんです。それに反して、インド = チベットからの訳のほうが非常に読みにくいという印象を いままで私はもっていたのですが、漢訳仏典以上に これはたいへん明快で、インド原典からの直接の訳としては 画期的な進歩ではないかと思います。
長尾 『維摩経』は ほとんど省略しておりません。ほとんど全部です。そういう意味では 翻訳に相当苦心した。日本語になりうるように、同時にインド的な いいまわしも保つように。
梅原 ただ、漢訳仏典には、中国語の簡潔さで押してくるような強みがあるでしよう。インド原典からの直接の訳ですと、なかなかそれが出にくいでしようね。
長尾 もとの文章は まだいいのですよ。文章の構造が簡潔ですから。しかしその短い表現を日本語にするとだらだらして、押していけないのです。最後に はいっている『タルカバーシャー 』(注:「法称」の 認識論、論理学、弁証論の要約)は、いままでは まったくなじみのなかったもので たいへん むずかしいのですが、これはインド仏教末期のものとしては、それこそ学間の進歩を示すものですね。(注:「付録22」からの引用のあとに『タルカバーシャー』の解説を「世界の名著2」p.62から引用します。)
梅原 そうですね。これはたいへん哲学的なもので、インドにも、こういう西洋の古代末期から中世にかけての議論のしかたと同じようなものがあったわけですね。龍樹の、たとえば「廻諍論』(えじょうろん、注:龍樹が「実在論」からの批判に答えて「中観」のメリットを説いた論書)でも、こんどの訳で 論理の構造が非常にはっきり理解できます。やはり漢文に訳した場合に、こういう忠実な論理構造は出ないものでしようか。
長尾 訳した人は わかっていたと思うんです。玄奘
げんじようなら玄奘 というような人には。しかし、表現できないんでしようね。インドから中国に行く過程において、いわゆる認識の問題とか、存在の問題とか、そういう精密な論理が ほとんど落ちてしまうのではないかと思います。それは一つには、漢文という言語の構造が精密な論理をうまく表現できるかどうか。受身か能動か、名詞か動詞か、きつばりわからない というようなところがありますからね。
梅原
 日本語のほうが、そういう徴妙な論理を表現することはまだ可能だと思います。
長尾 中国語と比べるとですね。しかし、翻訳してみますと、いかに日本語の語彙が貧弱かということを痛切に感じました。
梅原 サンスクリットというのは、ヨーロッパ語には翻訳しやすいものをそなえていると思うんですよ。だから、インドというのは、ヨーロッパとつないで考えるほうが よくわかるんですね。ところが、中国へくると、そこでちがってくるんですよ。
長尾 思想としては 儒家、さらに老荘の思想ですね。老荘を通じているから、いわゆるシナ仏教(注:「シナ仏教」は仏教学の正式表現)というものが できあがってくるわけでしよう。(注:「中国、中華思想」は、その昔は インドと その思想のことでした。「中国仏教」という表現は ありません。)
梅原 たとえていうと、天台では「空」ということをいう。あれは 龍樹からくると同時に、老荘からもくる。
長尾 禅宗もそうですね。禅は ことに老荘に近いのではないですか。
(注:ジョブズと禅の話に後で少しだけ触れます。)
梅原 仏教は中国で、論理がすっかり落ちて、実践的な生命の教えみたいなものになってくる。それがまた日本へくるわけですね。この『大乗仏典』には、インドのいちばん論理的なものが翻訳されている。これは仏教を見なおす一つのチャンスだと思いますね。

 インドの論理とヨーロッパの論理

梅原 本巻でその精密な論理、龍樹・世親の論理が非常に明らかになりましたけれども、もう一つ知りたいことは、インドの論理というか、仏教の論理というか、それとヨーロッパの論理とはどうちがうか ということです。これは、今後 仏教学者を含めていろんな思想家、学者が問わなければならない問題です。というのは、ただ論理の問題だけではなくて、いまヨーロッパを支配しているギリシア的な生き方と、インド的な生き方、あるいは仏教的、東洋的な生き方とのちがい というものが、その背後にあらわれていると思いますね。(注、下線は VR奥儀皆伝)
長尾 われわれ学者は、狭いところでうじゃうじゃしていて、それを越えて考えなければならないということは よく承知しているのですが、なかなかそこまでいけませんね。学問というものは、比較しなければ学問にならない。たとえば、この『中辺分別論』(注:中道と辺=極端とを唯識説に基づいて弁別し明確にしようとする論書)に出てくる三性説(さんしょうせつ。注:法の性質を宗教倫理的な価値で分類したもので、善・悪・無記=善でも悪でもないもの、に分類する)という考え方(注:Fellow 武田は 例えば VRのモーションデザイン=揺動の効果と スクリーンの映像の関係について、優れて効果的・酔う・ふつう、に分類しています)が、いったい どういう位置にあるのかということも考えてみなければならないのですが、なかなかそこまではいかない。それがやはり、これからの仕事だと思いますね。いろいろな人が集まって協力していかなけば、これはできないと思います。
梅原 私はこの「世界の名著」の中で、東洋の思想の巻が もう少しふくらんでもいいのではないかと思います。現代の日本では東洋の思想がだんだん知られなくなると同時に、ヨーロッパの思想だけでもいけない という気持ちが、だんだん強くなってきているような気がします。ヨーロッパでも 十九世紀には、ヨーロッパ万能という思想が強い。たとえばへーゲルは、歴史が発展すれば 世界は すべてヨーロッパ的になるのだ、東洋から学ぶ必要はない といっています。ところが二十世紀のヨーロッパの思想家、ハイデッガーや ヤスパースは、西洋の原理は このままではいけない、東洋から学ぶものがあるんだという。西洋自体が変わってきていると思います。
長尾 
とくにアメリカ人(注:の仏教学者)は、そういう点が正直ですね。このまま自動車を走らせているだけでは困るんだという感覚が、むしろ非常に強い感じがしますね。
梅原 
ヨーロッパ人には、学んでも最後はこっちなんだという自信がある。トインビーにしてもヤスパースにしても、そういう考え方がある。しかし、アメリカはそういう伝統もないでしようからね。だから、東洋から学ばなければならないという気持ちが強いと思います。私は、日本人のほうが 逆にヨーロッパを向いているので、それは非常によいことだと思うのですが、同時にもう一つ、東洋とくに 仏教 に目を向けないと、ヨーロッパ人やアメリカ人の知的欲求についていけない ということになると思います。

 「付録22」からの引用は、今回(pp.1 - 5)はここまで。残りは 次回以降に。

 ※「付録22」は このあと 更に「中道思想について」「釈迦・キリスト・ソクラテス」「仏教の将来」と話が核心に迫ります。中村元先生の注力された「比較思想史」の議論です。「付録22」は「日本の思想」に収録しても良いくらい深い内容でした。

 ※ ところで 中村元先生が、東大の最終講義(1973年)で こんな発言をされていました(『日本の最終講義』角川版 2020年 の p.251 )私の言葉で 要約します。「日本では、仏教哲学、イスラーム思想などの論文について 歴史的に 宗門単位や 学会単位での用語選択・書き方がされており、高度な研究であっても読んで腑に落ちないものが多い。一般の哲学者や思想家が感心し得ない論文を書いて、どこが ”思想研究”と呼べるだろう。欧州に目を転じると、エジプト学の講座の先生が 大乗仏典の古典語であるパーリ語も読めるので(オリエンタル、つまり東方由来の思想を ひとからげにして)仏教も講義されたり 研究発表もされている。」つまり、世界の名著2 で長尾先生が「漢訳仏典の定訳語」を採用されなかった理由は、英語訳による仏典の新訳が、欧米の思想界で「現代思想」としての反響を学問的に得ていることへの日本の仏教思想研究者としての対応でした。今後、VRの研究者が VR開発の参考書として『維摩経』を利用するとき フランス語訳を活用するのか、英語から 或いは 日本語翻訳で理解しようとするのか という問題で、日本人は「世界の名著2」を読めば 日本語で理解できる のですから、この大乗仏典を日本人に「VR研究の参考書」として使って貰う目的で、文科省が高校生に無償で配ると良いだろう、というのが私の考えです。

 実は、

 千年たったら少子化で「日本人が 200人位になる」という人口推計は「似非科学による大嘘」です。なぜ、文科省が 間違いを指摘しない のでしょう。他省の報復による 予算カットを恐れているのでしょうか。江戸時代にも 人口は、自然や人為で 増減しました今後の日本の人口減少について、人口波動の専門家 古田隆彦氏は 2086年に 人口 約7000万人で底を打つが、その後 人口は増加に転じる とされています。長期蓄積エネルギーの育成に成功すれば 22世紀の日本列島には、2億人以上が居住している可能性もある、と古田氏は著書「日本人はどこまで減るか」2008年 に書きました。平均余命が延びているのに、定年が動いていないから「年金の原資」が減っている「だけ」に 過ぎません。
 人口減少の対策は、60歳から 74歳までの高齢者を「VR技術のアシスト」によって 生産可能年齢人口に組み込む以外に ありません。「25歳-74歳が 生産年齢人口だ」と正しく再定義されて仕事が得られれば「年金の原資不足」は無くなります。高齢者は 年金以上の所得を受け取り、企業からの法人税も増加します。VRによる就業ですから、若手社員も壮年社員も、ベテランに批評されているみたいな意識を感じず 仕事ができます。こうした品格のある VR製品を新開発して 高齢者の活力を引き出すために、上宮法皇の選抜された三経義疏を 国宝VRデジタル復元して活用しよう、というのが 私の考えです。 将来の社会保障のための 今の徴税は、ぜいたく税 で十分です。

 2070年代には 人口減少も ゆるやかで、人口 200人説は 笑い話になっています。

 さて、ここから、
 ◇『タルカバーシャー 』(「法称」の 認識論、論理学、弁証論の要約)
 の 長尾先生による解説世界の名著2「大乗仏典」p.62)に移るのですが、

 疲れていませんか?
 『シャイニング』の ジャック・トーランスは発狂して All work and no play makes Jack a dull boy. とタイプを打ち続けました。dull boy は「粗野な」「薄情な」「狂気の」男です。
 ここらで、一息入れましょう。

   《 鋳型化ここまで 》
   Fellow 武田 「国宝 (12) 上宮法皇の維摩経 つづき」(VR奥儀皆伝(8½)(68 ⅔))
   Blog TP-VR Attract.のトリビア 2023.04.xx
 

 ◇ ドミノ(ドミニク) は フランスの人名。日本名の博美 と同じで、男女どちらにも使えます。

 Lucienne DELYLE - Domino

ドミノ ドミノ / 春が私の中で歌っている / ドミニーク / あなたは私に欠かせない /
でも 私は あなたを許しすぎたの / あなたが くれた夜よりも 多くの夜を 私は失った /
あなたの腕の中の、私の場所を誰かが盗むかも知れない / たとえあなたを殺しても、
あなたを手放さない /
ああ、でも / ドミノ ドミノ /
あなたの浮気ごころを あなたは 変えられない / ドミノ ドミノ /
わたしは許すから いつでも帰って来て / ドミノ ドミノ・・・ / もう何も言わないから

 Domino, Domino, Et je ne te dirai plus rien. (最後の一行)

「わたしは許すから いつでも帰って来て」は 切ないです。 東洋の文芸との関係は、また改めて。

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 それではここから、

『タルカバーシャー 』の長尾先生による解説(世界の名著2「大乗仏典」本文 p.62)
 抜粋します。「法称 ほっしょう(ダルマキールティ」による 認識論、論理学、弁証論の要約です。

 「『タルカバーシャー』(認識と論理)は、インド仏教の掉尾をかざる著述である。(略)七世紀以降のインド哲学は、法称を知らなくては理解できない といってよいほどである。(略)この系統の思想の全貌は、まだ明らかになってはいない。『タルカバーシャー』は、あまり大部の書ではないが、後期仏教思想を体系的に論述したものとして大きな価値を持っている。ここに収録した翻訳は、日本で最初であるのはいうまでもなく、現代語訳として世界最初のものである。」(p.62)

   【2023.05.10 追記】
龍樹(ナーガールジュナ)コトバンク
   150-250年頃の人。大乗仏教の大成者。竜宮に行ったという伝説がある。万物には不変の実体の
   ないこと(空 くう)を明らかにし,有と無の両端を排して中観を立て,大乗仏教の理論的開拓
   者となった。(「世界の名著2」論争の超越(廻諍論)の著者)
世親(ヴァスバンドゥ)コトバンク
   400-480年頃(または 320-400年頃)の中期仏教の大学者。『倶舎論』を書いた。
法称(ダルマキールティコトバンク
   7世紀中葉のインド仏教最大の知識論学僧。認識論、論理学入門書などで「ネタ本」にされているのでは?
【禅の参考資料】中村元禅の世界思想史的位置づけ(1975)太祖瑩山弾師六百五十回大遠忌奉讃<特輯> 禅研究所紀要 (4・5), p321-335, 1975-03 愛知学院大学 ジョブズ氏は Apple Ⅲ、Lisa(NEXT)での失敗を教訓に、永平寺(曹洞宗)が米国で開いた禅の道場に参加したとき ウォズニアック氏が最初に気付いた「ユーザが育てる市場」という発想を得度。これを再認識して、ユーザーが育てる iPhone市場を確立しました。



 『十七条憲法』第四条第五条の一部 中村元著『聖徳太子』 1990年 pp.230-231 )の紹介については、次号以降に移しました(2023.05.10)。中村氏の『聖徳太子』1990年は、大和王朝の聖徳太子の伝記として書かれていますが、中村氏の 太子思想の分析は痛快で見事です。また、米田良三氏が「オリジナル」の「九州王朝を舞台にした『源氏物語』光源氏の物語」があったと主張されており、「法隆寺移築説」と併せて読むと納得できます。この話題も次号以降に。

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