甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

日野資朝さんのこと 152段

2018年04月28日 04時49分05秒 | つれづれな人々

第152段
  西大寺(さいだいじ)静然上人(じょうねんしょうにん)、腰屈(かが)まり、眉白く、まことに徳たけたる有様(ありさま)にて、内裏(だいり)へ参られたりけるを、

  奈良にある西大寺の静然上人という方が、わざわざ今日の都に出てきて、内裏に参内したそうです。その様子は、腰はまがってしまっていて、眉毛は白く、とても徳の高い立派なお坊さんのように見えたそうです。

 西園寺内大臣殿(さいおんじのないだいじんどの)、「あな尊(とうと)の気色(けしき)や」とて、信仰(しんごう)の気色(きそく)ありければ、

 西園寺内大臣殿という方がおられて、お名前は西園寺実衡(さねひら)さんのことで、西園寺公衡(きみひら)さんのお子さんだそうです。元亨四年(1324)年に内大臣。嘉暦元年(1326)年に37歳で亡くなってしまわれます。

 その実衡さんはすっかり感心して言います。
「ああ、尊いお姿でありますことか!」と、上人様に対して信仰の気持ちを起こしそうになりましたので、

 資朝卿(すけとものきょう)、これを見て、「年の寄りたるに候ふ(そうろう)」と申されけり。

 日野資朝卿は、鎌倉末期の公卿さんです。後醍醐天皇に登用され、日野俊基(としもと)さんたちと討幕計画を進めた方でした。やがて、六波羅探題に探知されて捕縛されます。そのまま佐渡に配流されて幽閉される(正中の変)。

 元弘二年(1332)六月、後醍醐天皇さんの討幕計画の二度目が起こった際に、幕府の手によって天皇に関わる人間はすべて処分してしまおうという幕府の考えによって佐渡で斬られてしまいます。享年43歳でした。

 この資朝さん、どういうことを言うかというと、元も子もないというのか、それを言っちゃあおしまいよみたいなことを言います。

 「あのお方は年を召された方でございます(徳が高いわけではありません)。」というふうに言い切ってしまいました。


 後日(ごにち)に、尨犬(むくいぬ)のあさましく老いさらぼひて、毛剥(は)げたるを曳(ひ)かせて、「この気色(けしき)尊(とうと)く見えて候ふ(そうろう)」とて、内府(だいふ)へ参らせられたりけるとぞ。

 それからしばらくして、びっくりするような老犬で、毛は抜けてやせ衰えた犬をひいてきて「この犬の様子も尊く見えることでございますね。」と言いながら、内大臣さまのところへ行かれたということでした。

 資朝さんと実衡さんとは同年齢だそうです。けれども当然西園寺家の方が身分も上ではあります。そのおうちにみすぼらしいクタクタの老犬を連れてきて、「とても尊いお姿に見えまする」と芝居がかって言いに来るなんて、皮肉というのか、イタズラっぽいというのか。

 そんな姿にまどわされることなく、もっと真に尊いものを探しなさいというメッセージなのか。なかなかシャレたことをしたものです。

 兼好さんは、資朝さんみたいな、真実を見つけようと行動する人に対してかなり積極的というのか、賛同的というのか、トモダチ的な連帯感を持とうとした人でした。

 だから、資朝さんを責めようとしてこのエピソードを取り上げたのではない、と思います。確かに立派で徳が高いように見えた上人さまかもしれません。でも、見た目で判断はできないし、そこに落とし穴がある。それを一緒に探して見せようという、近づくための方策だったのかな。

 あれこれ考えさせられるお話です。


 とりあえず私たちも、実はつまらない(かもしれない)ものをありがたがること、いっぱいあると思うので、気を付けたいと思います。

 二十数年前、まやかしのウソツキ行者が、いつの間にかたくさんの若者たちを集めて、世の中に衝撃を与えたことがこの国にありました。あのウソツキ行者もひどかったけれど、現在だって垂れ目のブルドッグ野郎を私たちは「あな尊」とあがめてたりしないだろうか。

 見るからに怪しいのに、私たちは「経済をお願いね」「拉致問題を解決してね」「福祉のことよろしく」「年金問題も心配です」「国の借金なんとかしてね」と無責任に頼ってないかなあ。

 結論から言うと、すべては裏切られるはずです。そんなムクイヌにすがってもダメ! 頼れるのは自分と、信頼できる仲間だけにしなくてはいけません。テレビに出てくるムクイヌなんて、あてにならない。

 資朝さんなら見抜いていたことでしょう。でも、後醍醐天皇はあてになったんだろうか。おそらくギラギラしているお方で、何か一緒にやりたくなる人だったから、資朝さんも命を投げ出したんだろうな。



★ 後醍醐天皇って、部下の者たちから忠誠と行動を要求する方でした。ここまで司令塔になる天皇って、いなかったんでしょうね。

 たいしたアイデアもなくて、本人は英雄性のある方だったのかもしれないけれど、とにかく天皇親政というシステムを打ち立てたかった。でも、それは本人一代でしか実現しないし、日本の天皇制というのがわかっておられなかった。

 日本の天皇制は、取り巻き連中があれこれ動き回るシステムであり、だいたいのことを承知するだけでどうにか回っていたのに、何から何まで背負い込むなんて、もとから無理があったと思われます。

 天皇ご本人の時代には政治は回転したかもしれないけど、本人がおられなくなったら、政治が回らないわけだし、天皇ひとりがすべてを切り盛りすることはできないのだから、やはり誰かに任せる必要があった。

 ああ、それができない後醍醐天皇さまの政治は、挫折するしかなかったんですね。ザンネンです。でも、新しい時代を引き寄せるフロンティアにはなれたのかな。


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