
昔、中国のとある地方に大きなお山がありました。山の頂に大きな卒都婆(そとうば)が一つ立っていました。
山の麓の里に年八十ばかりの女の人が住んでいました。彼女は日に一度、山のてっぺんにある卒都婆を必ず見たということでした。
突然に山の卒塔婆の話です。お坊さんの話を探してみようと、「宇治拾遺物語」を開いてみたのですが、なかなかおもしろいお坊さんが出てきません。
「今昔物語」とか、「十訓抄」にすればよかったのかもしれません。でもまあ、結局は「徒然草」に戻りたいだけだから、とりあえず「宇治拾遺」です。
中国の卒塔婆って、どんななんでしょう。日本のお墓のスタイルとは違うはずなんですけど、見聞が狭くて、イメージが湧いてきません。とりあえず、日本的なイメージでお話を読むしかありません。おばあさんは何をしているんでしょう。
毎日毎日おばあさんは登山をして、卒塔婆を見に行っていたそうです。
何も知らない若い人たちがいました。夏の暑い日に涼しいところへ行こうと、山のてっぺんで涼んでいたそうです。
おばあさんは汗をふきふき腰が曲がり、杖にすがって卒都婆のもとに来て卒都婆をクルリと回っていきます。拝んでいるのかなと見ていると、おばあさんは一目見ただけで帰っていきました。それから、何回も卒塔婆を一回りするおばあさんの姿が目撃されました。
余計なことをするのが若者で、何も知らないでいいものを、若者たちは、おばあさんに「どうして毎日卒塔婆のまわりを一回りして帰るのか」と訊こうと決めるのでした。
まあ、そうした人に興味を持つことは悪いことではありません。知りたいと思ったら、どうしたの? と尋ねてあげるのは、とてもいいことです。
しばらくしたら、チャンスが到来します。
「わ女(おばあさん)は何の心によりて我らが涼みに来るだに暑く苦しく大事なる道を涼まんと思ふによりて登り来るだにこそあれ、涼む事もなし、
別にする事もなくて卒都婆を見めぐるをことにて日々に登りおるること怪(あや)しき女のわざなれ。この故(ゆえ)知らせ給へ。」
さあ、質問してしまいました。これは正直な気持ちです。
どうして毎日お山のてっぺんまで来て、卒塔婆を一回まわったら降りていくんですか。何か理由があるんですか。できたら聞かせてください、ということでした。

「若き主達(ぬしたち)は実に怪しと思ふらん。かくまうで来てこの卒都婆見る事はこのころの事にしも侍(はべ)らず。物の心知り始めてより後この七十余年日毎にかく登りて卒都婆を見奉るなり。」
七十年ずっと卒塔婆めぐりをしているのだ、若いあなた方は不思議だなと思うでしょうけど、ずっと毎日卒塔婆を見に来ておるのですよと、おばあさんは言います。
さあ、疑問はふくらみます。これはその理由を問わねばならない。「どうしてそんなことをされているのです」と若者たちは訊きました。
「己(おのれ)が親は百二十にしてなん亡(う)せ侍(はべ)りにし。祖父は百三十ばかりにてぞ亡せ給へりし。それにまた父の祖父などは二百余年ばかりまでぞ生きて侍りける。
その人々の云ひ置かれたりけるとて、
「この卒塔婆に血の付かん折になんこの山は崩れて深き海と成るべき」
となん父の申し置かれしかば、麓に侍る身なれば山崩れなば打覆(うちたお)れて死にもぞする。と思へばもし血付かば逃げて退(しりぞ)かんとてかく日毎に見侍るなり。」
私の先祖はみんな長生きをしておりました。ひい爺さんなんぞは二百年も生きたのでございます。その先祖たちの言い伝えで、お山の卒塔婆に血が付いた時、山のふもとは深い海になるということでございます。ですから、私は七十年毎日欠かさずこの卒塔婆を見に来ているのでございます。……そういうことでした。
物語は、たいてい人の心に魔が差したとき、とんでもないことが起こすものです。若者たちがおばあさんに興味を持ち、話しかけたのは立派な心掛けです。
けれども、人間世界というのは、いつも正しい心がけで終わるものではありません。
他人が大事にしていることを、そんなのはつまらないことだとバカにした瞬間から、もう魔がさしていたというべきかもしれない。
そして、彼らはとんでもない世界に落ち込んでしまうのでした。
さらりと流せばいいのに、彼らの心にはもう悪魔の心が生まれている。
「恐ろしいことですね。もし、お山が崩れる時には私たちにも教えてくださいよ。お願いしますよ。」と笑いを隠しつつ、たいそうにコメントします。
おばあさんは「もちろんです。どうして私一人が逃げましょう。みなさんにお知らせしますから、まかせておいてください。」とけなげに答えます。そして、そのままふもとに降りていきました。
若者たちはイタズラ好きです。おばあさんは今日はもう来ないとわかっています。明日来た時にびっくりさせよう。そのためには何がいいかというと、おばあさんが一番心配になっていることをしてやればいいのです。おばあさんがびっくりするところを大笑いしてやろう。そういう計画がすぐに決定します。

若者たちはイタズラします。卒塔婆に血を塗りつけてしまいます。本当に余計なことをするものですが、それが人間というものでしょうか。そして、
明日威(おど)して走らせんとて卒都婆に血を塗りつるなり。さぞ崩るらんものや。など云ひ笑ふを里の者ども聞き侍りて迂愚(うぐ?)なる事の例に引き笑ひけり。
愚かなばあさんがいるものだよなと笑いあっていました。それから、おばあさんは毎日欠かさずですから、次の日も登ります。
女登りて見るに卒都婆に血の大らかに付きたりければ、女うち見るままに色を違(たが)へて倒れ転び走り帰りて叫び云ふやう。
この里の人々疾く逃げ退きて命を生きよ。この山は只今崩れて深き海になりなんとす。
と遍(あまね)く告げまはして家に行きて子孫どもに家の具足どもおほせ持たせて己も持ちて手惑ひして里移りしぬ。
おばあさんは卒塔婆に血がついているのを発見しました。先祖の教えの通りに、ふるさとは深い海になるということですから、みんなで避難しなければなりません。家族一同を連れて彼女の一族は避難しました。その慌てる様子を若者たちはさらに笑ったことでしょう。
さあ、しばらくすると、
風の吹き来るか。雷の鳴るか。と思ひ怪しむほどに空もつつ闇になりてあさましく恐ろしげにてこの山動ぎ立ちにけり。
こはいかにこはいかに。と喧騒(あざけ)り合ひたるほどにただ崩れに崩もて行けば。女は誠しけるものを。など云ひて逃げ逃げ得たる者もあれども、親の行方も知らず子をも失ひ家の物の具も知らずなどして喚(わめ)き叫び合ひたり。
あっという間に、山は崩れ、嵐は起こり、雷もなり、人も村も呑み込んでいきました。
この女一人ぞ子孫も引き具して家の物の具一つも失はずしてかねて逃げ退きて静かに居たりける。かくてこの山皆崩れて深き海となりにければこれを嘲り笑ひし者どもは皆死けり。あさましき事なりかし。
人は真面目にお仕事している人をついつい嘲(あざけ)り笑うものである。余計なことにイタズラをして、その人を笑いのネタにしようとたくらむ者もいる。
そういう者には必ず報いが来てしまう。
きっと中国にも、こういうお話があると思われますし、教訓もあるはずです。
