甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

街道をゆく 北海道の諸道(司馬遼太郎 1979)

2024年03月03日 09時21分58秒 | きたぐにへの旅

 本そのものは文庫本で1992年に買いました(単行本はなるべく買わないようにしています)。その年の夏に私は北海道に行きました。札幌から新十津川、富良野、十勝岳温泉、戻ってきて札幌の発寒と、普通は行かないコースを研修させてもらう旅でした。コースは少し違うけど、司馬遼太郎さんと一緒に歩くような感じで、旅が終わってから本は読みました。

 私の旅と司馬さんの旅は、かなり違うんですけど、自分が見てきたところを別の視点から見直す気持ちになれたはずでした。レベルが違うけれど、重なったような気になっていました。でも、すぐに忘れていて、30年後の今なんて、どれも初めて読んでる感じがしました。

 奈良県から北海道に集団移住した新十津川町のお話は、自分も1992年にたまたまそちらに行かせてもらったので、司馬さんのお話も、すべて吸収できそうで(気持ちだけ)、ありがたく読ませてもらったんです。

 司馬さんの旅は1978年の9月あたりだったそうですから、45年前の旅になるんでしょうか。ものすごく昔のことでした。けれども、歴史そのものは変わらないし、あいかわらず陸別町は日本で一番寒い土地として、場所さえはっきりわからないのに、名前だけはずっと今も聞かされています。



 司馬さんが陸別町を旅の(本の)最後に行かれるのは、その町を開いた関寛斎(せきかんさい)または関寛(せきゆたか 1830~1912)という人の足跡をたどるためだったのですが、司馬さんの作品の『胡蝶の夢』という作品で関寛斎さんのことを書いておられたそうで、その人が最後まで暮らしておられたところで「街道をゆく 北海道編」の旅でも終わらせる気持ちだったんでしょうか。(2024年の今も、『胡蝶の夢』は読んでいません。ファンのつもりだったのに、途中でフォロワー辞めたんですね? 今は文庫本の文字の小ささがカベになっています)

 私が30年前に読ませてもらった時には、全く何の印象にも残らなかった章段でしたが、今となっては何となく引っかかってしまうところです。

 幕末から維新にかけて、医療の現場に立った人たちを取り上げた『胡蝶の夢』は、まだ読んでいない作品です。けれど、何だか興味がわいてきたりします。でも、はたして読めるのかどうか、自信はないですね。

 榎本武揚(えのもとたけあき)さん、松前藩、高田屋嘉兵衛さん、松浦武四郎さんなど、いくつかの北海道ネタを探すために旅を続けられ、本拠地は札幌で、単独行動とはいうものの、ほかにも旅の同行者がいて、桑原武夫さんご夫婦、松山善三・高峰秀子ご夫妻のみなさんも一緒だったそうです。とはいえ、そういう人たちとのやり取りなどは書かれてなくて、あくまでも司馬さんが取り上げる歴史の中の人たちとのかかわりを書いておられます。

 1960年の初め、新聞記者と小説の二足のわらじを履いてた時代、司馬さんは新選組を書こうとしていろいろ調べていたようです。すると、『新選組始末記』という本を参考にせねばならず、著者の子母澤寛さんにひとこと参考にさせてもらうことの挨拶をせねばならなかったそうです。

 やはり、それぞれの創作とはいえ、歴史小説はもとになる本と、その人との自分の関係ははっきりさせねばならなかったでしょう。大先輩ではあるし、無視するわけにはいかなかった。

 その先輩作家の子母澤寛さんのふるさとが、石狩湾沿いの厚田という村だったというのです。


 せっかく取材みたいにして札幌に来ているのだから、仲間と相談して厚田村を訪ねてみることにしたみたいでした。

 司馬さんたちはチャーターしたマイクロバスに乗っています。

 望来(石狩湾沿いの町)をすぎたあたりから山が急傾斜で海へ落ちこみ、その落ちこむ寸前が道路になっている。私どもは棚の上を走るような気配のまま厚田村の主邑(しゅゆう 中心街)に入った。

 厚田村の地形を想像するとき、つい夭折した画家三岸好太郎(1903~34)を想い出すという癖は、その画集を見てからであるらしい。

 いよいよ司馬さん、厚田村に到着ですね。北海道の海って、たいていはものすごい崖か、広大な海岸が続くか、デコボコのリアスか、もうとりどりですからね。日本海側って、崖が多い気がするな。いよいよ厚田村です!

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