
1965年に出た「おせっかいな神々」というショートショートを、2017年の秋にやっと読み終えました。五十二年の時間差ですね。
でも、全く古くありません。とても新しい。
でも、とっかかりがなくて、一つ一つおもしろいのに、1つか2つお話を読んだら、すぐ寝てしまいます。それでとうとう1ヶ月くらいかかってしまった。十月一日の古本市での購入だから、そういうことです。
文庫本の中の真鍋博さんの挿絵。私はまともに見ていないというのに気づきました。
いろんなメッセージが真鍋さん的に込められているはずなんだけど、小さくてちゃんと見られないんです。
そうか、もうコマゴマとしたものには目がいかないというのか、見えなくなっているようです。ザンネンながら見落としているモノがたくさんあるでしょう。そして、これから更にたくさんのものを見落としていくのかあ。悲しいというのか、仕方ないというのか。
真鍋さんのイラストは、もっと時間をかけて向き合わなきゃいけないのに、何だか見落としてしまうだろうと思っていると、その通りに見落としてしまっています。何しろ小さい挿絵が見えないし、あまり細かいところに気が行かないのかもしれない。
愛媛県の人らしい。息子さんは私と同い年ということのようです。もうビックリです。そして、もう十数年前に亡くなっておられた。

そんなことよりも、星新一さんでしょ! と思うのだけれど、今ごろになって星新一さんを読んでいる私は、今さら何も見つけられない感じです。
中学・高校時代、熱烈な星新一ファンの人がいました。彼らに勧められても、一切拒否してかたくなに読まなかったけれど、当時読んでいたら、私の世界観も変わったかもしれません。
けれども、私はSFどころじゃないんだよ。もっと古典的な文学を読みたいし、現代物なら、戦争を扱ったものを読みたい。世界文学も読みたい。あれこれ理由をつけて星新一さんには関わりませんでした。私のことだから、高校生の時に読んだとしても、何もおもしろくないやと切り捨てていたことでしょう。だから、たぶん、読まなくてよかった。
でも、オッサンになって読んでみると、ああ、そういうことか。と、変に納得してしまって、驚かないのです。……高校時代の罪滅ぼし・埋め合わせで読んでいるから、身につかないのかもしれないな。もっと新鮮な気持ちにならなくちゃ!

もっと単純に驚いたり、頭脳を刺激されたらいいのに、あまり反応できなくて、フーンと流してしまうのです。
いくつかのお話の内容はすべて忘れてしまっているので、もう一度読んでも、ああ、こういうオチなのかと、同じような感想を持つような気がします。何度読んでも、新鮮に読めそうです。それくらいアタマに残っていないみたい。
もう悲しいくらい記憶に残らなくて、「日々これ新た」というといい響きだけど、何もかもが毎日リセットされている自分としては、少しこわいくらいです。
自分のブログの記事も、いつも同じことを、さも新しいように書いている気がして、こわいですね。
星新一さんのことを書いてなくて、自分のアタマの怖さを書いているだけですね。
1ヶ月もかけて読んだのに、何も残っていないのです。星新一さんが悪いのではなくて、私のアタマが壊れかけているということなのかな。
だから、いくら面白いお話をしてもらっても、若い人ならすっと入っていける世界が、毎回入り口で苦戦して、ようやく入り込めたと思ったら、終わってしまって、あっ、そう。と切れてしまって、次を読みたいというステップにつながりませんでした。ザンネンです。

三連休の最終日、お仕事をして穏やかに終えたいと思います。もっとどこかへ行こうという気持ちもありましたが、もう行く気力もなくなりました。何が足りないのかな。
また、夜にでも考えます。

★ 日曜の夜です。トランプさんの日本観光は進んでいます。お嬢さんもいろいろとお土産をゲットして帰ったのかな。あんな背の高いお嬢さんがいて、お父さんはあんなクマみたいな体格なんですね。わたあめヘアーはどうにもならないから、とにかく北朝鮮を刺激しないでね。そう祈るしかありません。
ゴルフ、レストラン、パールハーバー、次はどんなお楽しみがあるのかな。大統領って、好きなことができるんですね。成金さんは違います。ちゃんとお金を払って来て欲しいな。たぶん全部タダだし、こっち持ちですよね。私の税金を返せ!