甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

桑名の駅(中原中也) 1935

2016年02月29日 22時03分31秒 | 三重の文学コレクション
 三重県の北端、桑名市は名古屋から電車で20分ほどで着いてしまいます。名古屋の通勤圏だし、人々の目は、完全に名古屋に向いていることでしょう。

 昔、カゴシマの遠い親戚(?)がこの街に住んでいました。一度大阪の実家に遊びに来てくれたのは、あれは今からかなり昔のことでした。そのころ、家の前で何枚か写真を撮って、都会で暮らしている先輩風を父と母はふかせていたことでしょう。

 息子の私は、例によってエキセントリックで、何だかとっつきにくいくせに、人なつこそうな目をしている子どもだったのかなあ。とにかく、たくさんの大人たちに混じってみたかったのに、入り込めなくて、取り残される感じがしたものでした。

 その桑名の親戚さんが亡くなったという話を母から聞かされ、まだ若いのに、どうしてそんなに早く亡くなったんだろう。理由は何だったんだろうとは思うものの、くわしいことは何もわからなくて、ただ、うすいつながりがあった街がいっぺんに遠くへいってしまった感じでした。

 18キップで遊ぶようになってから、何度も桑名を通るようになって、たまには途中下車することもあったりしたんですが、あいかわらずこの街は、私にはなかなか遠い街になっています。

 付近に知人もできたし、仕事で出かけることもあったのに、どういうわけか遠いのです。

 たぶん、都会的な部分と、土着の古くからの体質とが混ざっていて、たぶんカゴシマの親戚はそこで悪戦苦闘したと思われますが、なかなかなじめない部分があったのかもしれない。



 中也さんの詩を見てみましょう。 

   桑名の駅   中原中也(1935・8・12)

桑名の夜は暗かつた
蛙がコロコロ鳴いてゐた
夜更(よふけ)の駅には駅長が
綺麗(きれい)な砂利(じゃり)を敷き詰めた
プラットホームに只(ただ)独り
ランプを持つて立つてゐた


 1933年、遠縁の上野孝子さんと郷里で結婚。奥さんの出産のために翌年に故郷の山口県湯田町に帰った。その年の10月に長男の文也くんが誕生する。

 翌年の1935年の8月、家族3人で東京へ向かう旅に出た。ところが、関西地方は水害で、大阪から関西線経由で名古屋に出ようとしていた。臨時列車であり、水害もあり、列車は「桑名駅にて長時間停車」を強いられることになりました。

 だから、カエルがコロコロ鳴いていたり、線路の砂利を整備したりしているのかもしれないのです。みんな手持ちぶさたで、ぼんやりしている。中也さんはさて、何をするというのでしょう。



桑名の夜は暗かつた
蛙がコロコロ泣いてゐた
焼蛤貝(やきはまぐり)の桑名とは
此処(ここ)のことかと思つたから
駅長さんに訊(たづ)ねたら
さうだと云(い)つて笑つてた


 とてもヒマを持てあましていますね。時間はまったく過ぎなくて、しかも車内はがらんどう。小さい文也くんはまだ1歳にもならないのです。お母さんは、早く動いてくれないかと思うけれど、全く動く気配はなかったのでしょう。

 雨は降ってたんでしょうか。雲ってたのかなあ。気持ちは焦るけれど、どうにもならなくて、何もない駅でどうしたらいいのかわからない時間を過ごしていた。

 昔から宿場町としてそれなりに発展してきたこの街も、このころは宿場町としての役割はすでになくて、鋳物、水産業、その他に何か産業でもあったんでしょうか。今も、名古屋に近い割に、何だかシンミリした街ではあったのです。

 奥さんは、何をしているんでしょう。旦那さんに、どうしてこんな日に旅をしているの? どこか泊まるところはないの? 泊まるにしても、こんなさびしい街はいやよ。名古屋で泊まりましょ、とかなんとか言ってたかなあ。中也さんは、そんな所帯じみたことは書かないですね。そりゃ、もうやはり詩人ですからね。



桑名の夜は暗かつた
蛙がコロコロ鳴いてゐた
大雨(おほあめ)の、霽(あが)つたばかりのその夜(よる)は
風もなければ暗かつた


   「此の夜、上京の途なりしが、京都大阪間の不通のため、臨時関西線を運転す」



 中也さんのこの不安で、どんよりした気持ち、これは未来を予感していたのでしょうか。まさか、そんなことはないですね。たまたま、長時間の停車で、本来ならもっとウンザリするべきところを、わりと軽やかに、雨も上がって、夏の暑い車内の中で、ムシムシもしないで、ただ、気楽に待てていたと思うのです。

 それもこれも、家族がいたからです。家族がいたから、わりとケロッとして待っていることができた。そんな軽やかさというのか、いくらでも待つよという余裕も感じられます。

 ただ、その後に悲しい出来事があって、それは詩人の能力としても予知することはできなかった。

 というか、それよりも幸せな気分を味わいたかったことでしょうし、味わえていたと、私は思うのです。




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