甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

ラバウルへ二度、三度! その1

2022年09月20日 21時46分14秒 | 本読んであれこれ

 水木しげるさんの『ねぼけ人生』(単行本は1982、文庫本は1986)というのを読みました。

 確か、マンガで水木さんが左手を負傷して、空を見上げて倒れているシーンを見たことがあったので、それは『水木しげるのラバウル戦記』というマンガ本だったんでしょうか。でも、そんなのを見たこと、借りたこともないので、テレビか何かで水木さんの生涯をふりかえる番組を見た時に、挿入されてた画像だったのかもしれません。

 でも、インパクトはあって、水木さんは、その左手からあふれ出る血潮を見て、自らの死を強く意識したのではないか……。もとより兵士なのだから、一寸先に死は広がっているのかもしれないけれど、自分はこうして死んでいく、というイメージはしっかり持てたのではないか、と思いました。


 でも、この『ねぼけ人生』は、飄々と書かれていて悲壮感はありません。外科的な処置もしてもらい、最前線を外され、傷病兵として補助的な立場になった。閑職ではないけど、命をさらすことがなくなったみたいに書かれています。本当はそういう場面もあったはずですが、それよりも村人との交流が描かれます。それが水木さんの財産になったんでしょう。

 ただ、傷病兵はそんなに戦わないから、食料も支給されず、傷病兵たちだけの陣地を抜け出して食べ物探しに出てみたそうです。

 そうすると、花が咲き、植物もちゃんと管理されている地元の人たちの集落に出ることができた。そこで出会いがあった。

 一軒の家から婆さんが出てきた。僕と目があうと、婆さんはにこりと笑った。僕も、にこりと笑った。それから、一人の少年が出てきた。少年も僕の顔を見ると、にこりと笑った。僕は、ビジン語(土着語と英語との混合語)のカタコトで少年と話をした。 


 少年はトベトロといい、お婆さんはイカリアンという名前だったそうです。ここから、水木さんとこの集落の人たちとの交流は続き、島を離れる時に7年後には再びこちらに帰ってくると誓うくらいの仲良しになったそうです。

 こうした交流は、水木さんの、人の心の中にスンナリ入っていくワザみたいなのを紹介するネタの一つなのだと理解して、その後の貸本雑誌や紙芝居で絵を描いても、なかなかお金にならない水木さんのキャリアを見ていても、ここからどんなふうにして「水木しげる」は生まれるのか、昔、朝ドラで「ゲゲゲの女房」というのは少しだけ見てたので、何となく知ってたところもあったけれど、とにかく本の読者としては、漫画家誕生のストーリーを気を取られていました。オマケ物語としての読んでいたところがありました。

 少しずつ「鬼太郎もの」で人気を博し、多忙になっていく中で26年が過ぎて、突然に関西のイベントで、ラバウルの時の軍曹に出会い、彼がラバウルにいくツアーを企画してくれることになります。

 ということは、70年代のことでした。

 その年の十二月のことだった。僕と軍曹どのは、南の楽園へ飛び立った。二十六年ぶりにラバウルの土を踏むということは、もう、感激なんていうものではなかった。日本では冬だというのに、ここでは夏だ。これだけでも、南方は楽園なのだ。


 ここから、水木さんだけがどういう訳か交流することのできた、地元の人たちの村探しになるのですが、それはまた明日にします。

 何だか、ふるさと探し・ルーツ探し・自分探しみたいで、おもしろいでしょ。まさか、戦争の最中に、縁もゆかりもない南の島で、自分のアイデンティティを見つけられるなんて、ものすごくタフで、ものすごく柔軟で、どんなものでも受け入れられるしたたかさ、これが水木さんの魅力でもあったみたいで、今さらながらそれに気づいた次第です。なんという時差なんでしょう。もっと早くから気づいていれば良かったのに!

 島は、もちろんかわっていくんですけどね。 

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