甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

既視感がないと、ものは見えない!

2024年01月19日 22時09分54秒 | 本読んであれこれ

 あれこれと大騒ぎして毎日それらしくブログを書いていましたけど、私のブログなんて、すべて既視感の積み重ねであり、過去のいくつものイメージをつなぎ合わせているパッチワークみたいなものでした。

 あらためてそう思うような文章を見つけました! 田中真知(まち 男性)という思想家みたいな方の書かれたものから引用させてもらいます。

 ありのままの世界とはどのようにイメージできるのか。それは生まれたばかりの赤ん坊や、先天的に目の見えなかった人が手術で目の機能を回復して、初めて目でものを見たときに感じる世界に似ているかもしれない。脳神経科医のオリヴァー・サックスは、そんな患者が初めて自分の目で世界を見たときのことを書いている。

 さあ、初めて世界を自分の目で見たら、どんなものが見えるのか、少し気になるでしょ? まさか、そんなピッタリの人がいたのか、それともフィクションなのか、それはわからないのですが、こんな風に見えたそうです。



 そのとき患者は「何を見ているのかよくわからなかった。光があり、動きがあり、色があったが、すべてがごっちゃになっていて、意味をなさず、ぼうっとしていた。」と語ったという。

 私たちは、こんな風に光あるものの中に進み、光の中でものごとを見て、よくわからないままに何となく受け止めていたらしいのです。

 それが、だんだんいくつもの刺激を処理するようになり(ある意味不感症になって)、見たいものをピックアップして見るようになるらしいのです。本当は、その人の目の前にはどんな風景が広がっていたのかですけど、



 普通の人は、部屋を見れば、手前にテーブルがあり、その上に花瓶があり、その向こうに壁があり、絵がかかっている、といった関係性をすぐに把握することができる。

 しかし、その患者は全ては見えているのに、物や人の境界線、遠近感、関係などがわからず、色も形も動きも全てがごっちゃにしか感じられなかったのだ。脳に信号は送られていたが、脳はそれらを意味づけることはできなかった。……『美しいをさがす旅にでよう』2009 田中真知


 ということだったそうです。見るということは、何かを目の前のところから切り取って来ることだったんですね。

 確かに、私たちは、絶景を前にしたら、大抵は見ることを放棄して、とりあえず写真でも撮ろう、そこに何が写るのかは知らないが、とにかく、絶景であると意識し、自分の力では限界もあるし、ほとんど何も見えてないから(何を選んでいいのかわからないから、……大海原を目の前にしても、私は海を見てるようで海を見てなかったのかもしれないです)、めんどくさいし、写真だけ撮ろうとなるようです。

 写真とは、見ることを放棄することでした。記念にとか、証拠としてとか、あれこれ言い訳はするけど、自分が見ることができてないから、諦めてそんなことをしてた、のかもしれないな、という気がしました。


 でも、果敢に、言い訳しつつ、なかなかこれはというものを切り取れないけど、だからこそ、写真を撮ってみる、みたいなものが見えてないから写真、ということは続いていくのかもしれないな。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。