弓道修行日記

このブログに、弓道修行する中で、学んだこと、考えたこと、試行したこと等を書き残し弓道修行の友とする。

北方4島は日本領土であるーロシアの戦勝記念日に反対ー戦争はしていない

2010-07-27 | 意見発表
北方4島は日本領土であるーロシアの戦勝記念日に反対ー戦争はしていない

拙稿「ソ連(ロシア)の不当性を突くー北方4島は不法占拠である(1)」にも書いています。
ソ連との戦争はどんなものかを調べました。

讀賣新聞に「事実上の対日戦勝記念日、9月2日に…露下院
 【モスクワ=山口香子】ロシア下院は7日、第2次大戦で日本が降伏文書に調印した9月2日を新たに大戦終結の「記念日」として指定する法案を可決した。ロシア政府は法案を支持しており、近く大統領の署名を経て発効する見通しだ。
 ロシアでは5月9日を「対独戦勝記念日」としてきたが、これに加え、事実上の対日戦勝記念日を制定することになる。日本の北方領土返還要求をけん制する狙いとみられる
 対日戦勝記念日の制定は、北方領土を管轄する極東サハリン州がロシア政府に要請していた。」と言う記事が載っていた。

ソ連との戦争の経過を調べました。

「日ソ戦争(=ソ連の対日参戦)は1945年8月9日に、ソ連(現ロシア)が仕掛けてきた戦争である。
日中戦争と太平洋戦争は日本が仕掛けた戦争である。(☆正しくはアメリカのルーズベルト大統領によって仕掛けさせられた戦争と言うべきです)
この点が日ソ戦争と日中戦争・太平洋戦争とが大きく異なる点である。

2.日ソ戦争によって、戦中、戦後に死亡した者は下記4つに分けられる。
①満州(中国東北部)、南樺太(南サハリン)、千島列島における
  戦闘中に戦死した日本人軍人数は不明である。
  2008年4月現在、日本政府は国会においてその旨答弁している。
②戦闘終了後、シベリア・中央アジア・モンゴル等へ拉致移送され、
  拉致移送中に死亡した日本人捕虜(軍人及び民間人)は
  4万人以上である。
③戦闘終了後、シベリア・中央アジア・モンゴル等へ拉致移送され、
  奴隷労働を強制され、奴隷労働中に死亡した日本人捕虜
  (軍人及び民間人)は16万人以上である。
④ソ連軍が日本への帰国を禁止したため、満州及び北朝鮮で
  飢え、病気、極寒、栄養失調、絶望、自殺等で死亡した民間人は
  25万人以上である。
上記4区分の合計は50万人以上である。

3.日本がソ連を含む連合国に対する降伏文書に署名したのは1945年9月2日である
ソ連が北方領土の国後島、色丹島を不法に武力占領したのは9月1日である
ソ連が北方領土の歯舞諸島を不法に武力占領したのは9月3日~9月5日である。
4.日ソ戦争は極悪非道なスターリンのソ連(現ロシア)による領土獲得、奴隷獲得、財貨獲得のための不正不義の帝国主義侵略戦争であった

下記の歴史事実はソ連(現ロシア)が、1945年8月9日~9月2日の25日間の帝国主義侵略戦争で莫大な富を獲得したことと、その富がエネルギー資源、漁業資源として、現在もなお、ロシア(旧ソ連)に莫大な利益をもたらし続けていることを明確に示している。
①南サハリンを日本から取り戻した。
②日本の固有領土であり、古来、日本人が平穏無事に居住していた千島列島全部及び北海道に帰属する歯舞諸島を米国とのヤルタ協定に基づいて武力占領した。
  これは領土不割譲を宣言した大西洋憲章に違反する【領土獲得行為】である
③ポツダム宣言・第9に違反して70万人以上の日本人捕虜(軍人及び民間人)を拉致移送し、奴隷労働を強制して、現在の日本円価値で【年間3兆円以上の労働搾取】を行った。
④満州(中国東北部)及び北朝鮮を占領したソ連軍は金塊、宝石、貴金属、産業設備、産業資材、医薬品、衣料品、生活資材などあらゆる財貨を略奪して、昼夜兼行ですべてソ連領土に運び込んだ。
  20世紀における軍隊が行った典型的な【国家による強盗行為】である。

注:ポツダム宣言・第9
「日本の軍隊は完全に武装を解除された後、各自の家庭に復帰して平和的、かつ生産的な生活を営む機会を与えられる」

5.ロシア政府及びロシア国民は、こぞって、一貫して「日ソ戦争は軍国主義侵略国家・日本帝国を打倒したスターリンのソ連の正義の戦い」と固く信じている。
6.日ソ戦争勃発当時、満州、北朝鮮、南樺太、千島列島に駐留していた日本軍軍人は91万5733人である。この地域に居住していた日本人民間人は223万2752人である。
合わせて314万8485人がソ連支配地域にいたことになる。
この地域からは軍人及び民間人が合計235万8203人引き揚げてきた。
差し引き約79万人が死亡、中国支配地等へ移動、及び消息不明と
いうことになる。

2.ソ連の日ソ中立条約廃棄通告、及び、ソ連の対日宣戦布告文
①対日宣戦布告4か月前の4月5日、当時米英と連合して対ドイツ戦を遂行していたソ連は、日ソ中立条約の廃棄を通告してきた。

ロシアの国際関係史専門家であるボリス・スラヴィンスキー氏の著書『日ソ戦争への道-ノモンハンから千島占領まで』(加藤幸廣訳 共同通信社 1999年8月発行)の第374頁に記載されているソ連の日ソ中立条約の廃棄通告は次の通りである。

ソ連の日ソ中立条約廃棄通告
「ソ連と日本との間の中立条約は1941年4月13日に締結された。すなわち、この条約が締結されたのは、ドイツがソ連を攻撃する前であり、また日本を一方として、英国と米国を他方とする両者間で戦争が開始される前であった。

そのときから状況は根本的に変化した。ドイツはソ連を攻撃し、ドイツの同盟国である日本は、独ソ戦においてドイツを援助している。
のみならず、日本は、ソ連の同盟国である米英両国と戦争をしている。

このような状況のもとで日ソ中立条約は意味を失い、この条約の期限を延長することは不可能となった。

以上の理由により、(省略)ソ連政府は、この通告をもって、条約の廃棄を表明する。」

ソ連はヒトラーのドイツの大軍団に侵攻され死闘を続けていたが、ドイツとの死闘に勝利する見通しが明確となったので、ソ連はドイツの同盟国である日本を攻撃するため、日ソ中立条約の廃棄を通告してきたのである。この通告文に明確に述べられている通り、当時、ソ連は米英両国の同盟国であった。当然、このソ連の中立条約廃棄通告は、明確な、事実上の対日宣戦布告であると思う。

ソ連の【対日宣戦布告】は、モスクワの日本大使館の電話線を全部切断した上で、開戦1時間前の日本時間8月8日午後11時に、モロトフ外務人民委員が、突然、日本の佐藤大使に言い渡すという
卑劣なやり方で行われた。
佐藤大使には日本本国に直ちに連絡する通信手段は無かった

ソ連の対日宣戦布告文
ヒトラー・ドイツの敗北ならびに降伏の後、日本は依然として戦争の継続を主張する唯一の大国となった。

日本陸海軍の無条件降伏を要求した今年7月26日の三国、即ちアメリカ合衆国、英国ならびに中華民国の要求内容(=ポツダム宣言)は日本の拒否するところとなった。

従って極東における戦争の終結斡旋に関してソビエト連邦に寄せられた日本政府の申し入れは一切の基礎を失った。

日本の降伏拒否を熟慮した結果、連合国はソビエト政府に対して、日本の侵略に対する戦争に参加し、戦争終結の時期を短縮し、犠牲の数を少なくし、世界全体の平和をできる限りすみやかに回復することを促進するよう求めた。

ソビエト政府は連合国に対する自国の義務に従い、連合国の求めを受諾し、今年7月26日のポツダム宣言に参加した。

ソビエト政府はこの戦争参加方針のみが平和を促進し、各国の国民を今後の新たな犠牲と苦難から救い、日本国民をして、ドイツが無条件降伏を拒否した後に蒙った危険と破壊を避けしめ得る唯一の道と考える。

以上に鑑みソビエト政府は、明日、8月9日よりソビエト連邦が日本と戦闘状態に入る旨宣言する。

1945年8月8日

モロトフ外務人民委員は佐藤大使に対し、以上と同時に、東京駐在マリク大使がソビエト政府のこの宣言を日本政府に通達する旨を伝え、佐藤大使はソビエト政府のこの宣言を日本政府に伝達する旨を公約した。

3.日ソ戦争勃発を報じた新聞記事
朝日新聞 昭和20年(1945年)8月10日第1面より転載

4.日ソ戦争という名称

筆者が2006年10月上旬、電話で問い合わせた結果では、外務省、厚生労働省、文部科学省、内閣府北方対策本部では【日ソ戦争】という名称は使われていない。

国立公文書館アジア歴史資料センターのキーワード検索で【日ソ戦争】で検索しても、わずか2件しか出てこない。

国立国会図書館の資料の検索のキーワード検索で【日ソ戦争】で検索してもわずか7件の文書が出てくるのみである。
ちなみに、日露戦争で検索すると146の文書が出てくる。

5.日ソ戦争の概要

1945年8月9日~9月2日の25日間の【日ソ戦争】は、極悪非道なスターリンのソ連の帝国主義侵略戦争であつた。
後述するソ連の歴史教科書によると日本軍の戦死者は8万人以上である。谷博之参議院議員の質問主意書に対する、閣議決定を経た2006年6月20日の小泉純一郎首相名の政府答弁書は、「日ソの直接の交戦で死亡した日本軍軍人・軍属の人数については日本政府は把握しておらず、お答えすることは困難である」と答弁している。

歴史事実は極悪非道なソ連の独裁者スターリンの戦争目的が、領土獲得、奴隷獲得、財貨獲得であったことを明確に示している。

①1945年8月15日の昭和天皇の降伏放送、8月16日のマッカーサー元帥と日本大本営の戦闘中止指令後も、ソ連は戦闘を継続して、千島列島の占領を行った。
ソ連が北方領土の国後島・色丹島を占領したのは9月1日である

ソ連が北方領土の歯舞諸島を占領したのは、ソ連が日本の降伏文書に調印した9月2日の後の9月3日である。
②ソ連軍は【日本人男狩り】といわれる【奴隷狩り】を行った。
【奴隷狩り】で逮捕した民間人と日本軍軍人捕虜合わせて70万人以上を、ポツダム宣言にも国際法にも違反して、シベリアに拉致移送して、奴隷として強制重労働をさせた。
拉致移送途中の死亡者を含め20万人以上を死亡させた。
ソ連のこれらの行為は国際裁判で裁かれるべき明白な国家による犯罪であり、【人道に反する罪】である。

1951年(昭和26年)7月25日に外務省が発表した『引揚白書』によると、終戦時、ソ連軍の手中に陥った日本人捕虜の数は、旧日本陸海軍の記録、及びその後の
日本政府の調査によると約86万人である。
ソ連側のいわゆる「正式の資料」では日本人捕虜の数は59万4000人である。
③ソ連軍は、間髪をいれず満州にあった金塊・宝石類・産業施設・運輸施設・資材・衣料・食糧、はては机・椅子にいたるまで、【金目の品は全て】略奪して、昼夜兼行でソ連領内に移送した。

さらに満州(中国東北部)と北朝鮮を占領した凶暴なソ連軍の兵士たちは、日本人女性に対してほしいままにレイプ(強姦)を行った。
朝日新聞1946年(昭和21年)4月24日第3面は、女性国会議員の談話として「満州の日本人婦女子も、脱走者の話によると、四割位は混血児を生む運命を背負っているらしい」と報じている。

 『高松宮日記 第8巻』(中央公論社1997年12月発行)の第176頁には「北朝鮮に侵入せるソ連兵は、白昼、街道にて、通行中の婦女を犯す。汽車の通らぬため歩いてくる途中、1日数度強姦せらる。2人の娘を伴う老婦人は、かくして、上の娘は妊娠、下の娘は性病に罹る。
元山か清津にては(ソ連軍に)慰安婦の提供を強いられ、(引き受け者の)人数不足せるを(補うものを)くじ引きにて決めたり、日本婦人の全部は強姦せらる。(慰安婦を)強要せられ自殺せるものも少なからず。・・・」と記述されている。」

まだまだソ連追求を続けます。

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