弓道修行日記

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原発もあの戦争も、「負けるまで」メディアも庶民も賛成だった?ー加藤陽子東大教授に聞く【第1回】

2011-09-04 | 意見発表
原発もあの戦争も、「負けるまで」メディアも庶民も賛成だった?加藤陽子・東京大学文学部教授に聞く【第1回】
池上 彰  【プロフィール】バックナンバー
2011年8月9日(火)
 池上彰さんの新連載、スタートです。池上さんが、さまざまな分野の学者・研究者を訪ねて、日本と世界が直面するさまざまな問題を、各界を代表するプロの「学問の目」でとらえなおす。いわば、大人の大学、それがこのシリーズです。

 第1回でご登場いただくのは、東京大学で歴史学の教鞭をとる加藤陽子教授。加藤先生は、以前も日経ビジネスオンラインにご登場いただき、ベストセラーとなったご著書『それでも日本人は戦争を選んだ』をテキストに、なぜ日本人が負けるとわかっていた第二次世界大戦に突入したかを検証しました。

 いま加藤先生にお話をおうかがいする理由。それは、東京電力福島第1原子力発電所の事故で明らかになったように、日本の原子力発電にまつわる行政、政治、企業、地域社会、そしてメディアの行動パターンがおそろしいほど、第二次世界大戦のときのそれとそっくりだったからです。

 日本人はどうして同じ過ちを繰り返すのか?
 どうすれば「歴史に学ぶ」ことができるようになるのか?
 池上彰さんがときに「生徒」となり、ときに「対話相手」となり、加藤先生とこの問題を論じます


池上:3月11日の東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故を受けて、加藤先生が書かれたコラムを、3月26日の毎日新聞朝刊で読みました。(注、次稿に掲載)大岡昇平の『戦争』の一節を引いていましたね。『(昭和)十九年に積み出された時、どうせ殺される命なら、どうして戦争をやめさせることにそれをかけられなかったかという反省が頭をかすめた、(中略)この軍隊を自分が許容しているんだから、その前提に立っていうのでなければならない』と。

 改めてお聞きしたいのですが、なぜあの一節を引用したのですか?

大岡昇平のように「引き受ける」ことから始めるべき
加藤:大岡は、35歳となった1944年7月、フィリピンへと向かうちっぽけな輸送船に乗せられるとき、初めてはっきりと死を自覚しました。そして自分自身、軍部を冷眼視し批判したつもりになっていたけれども、本当は許容していたのだということが身にしみる。ですから、自分が戦争や軍隊を書くときには、自らがそれらを許容していたという率直な感慨を前提として書かねばならないと心に決めるのですね。歴史を外から批判するのではなく、「引き受ける」感覚とでもいうのでしょうか。

 ですから大岡は、『レイテ戦記』で、非常にクールな書き方をするわけですね。出だしは、「比島派遣第十四軍隷下の第十六師団が、レイテ島進出の命令に接したのは、昭和十九年四月五日であった」となっています。

 それが読む人の心に訴える。なぜでしょう。それは、大岡にとっては自らが捕虜となり渦中にいたレイテ島での戦いを、極めて冷静に書くことで、大岡が、同時代の歴史を「引き受ける」感覚、軍部の暴走を許容したのは自分であり国民である、との深い洞察が読む者に伝わるからです。上っ面だけの批判では、大岡は歴史の外部に立つ者になってしまう。それが『レイテ戦記』にはないからです。

 震災と津波は天災ですが、今回の原発事故はその全貌が明らかになるにつれて、人災の側面が極めて大きいことがわかりました

 では、その責めを負うのは誰か? 国か? 東京電力か? いや、それだけじゃない。事故が起きる当日まで、電力の大量消費の便利さを積極的に享受していたのは、私たち一人一人ではないのか。となると、大岡昇平に倣って、私たちは、まさに己が干与した事態について「引き受ける」ことから再スタートしないと、建設的な議論もましてや本当の復興も難しいのでは、と思ったのです。

池上:第二次世界大戦のまっただ中、大岡だけでなく、大半の日本人は、戦争を許容していた。それと同じように、現代の私たちは、消極的ながら原子力発電を許容していたのではないか――というわけですね。

 加藤先生の著書『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』のタイトルを借りると、戦争を選んだ日本人は、「それでも、原発を選んだ」ことになります。

 メディアに籍を置く人間として自責の念があるのですが、戦時中、当局以上に戦争を礼賛していたマスコミと同様、現代のマスコミも原発を許容し、あるいは他人事と考えていた側面があります

>>次ページ自衛隊問題と似た構造になっていた原発論争
原発もあの戦争も、「負けるまで」メディアも庶民も賛成だった?
加藤:それで取り返しのつかない事態が起きてしまいました。第二次世界大戦に続いて、あらゆる日本人が「絶対的な間違いを犯してしまった」と思うに至った出来事は、今回の原発の事故が近代に入って二度目です。

池上:では、私も籍を置いていたマスコミと原発報道の問題を掘り下げてみましょう。

 NHK時代、私は現場の記者として、かつて原発建設の反対運動を取材したことがあります。反対側は「原発は危険だ」と言います。一方、電力会社側は「安全だ」と主張する。マスコミは、両論を併記して記事を書いたり、番組を作ったりする。そして、客観報道が成立しました、はいおしまい、というわけです。私たちの取材もそうでした。

 けれども今にして思えば、実に甘かった。両論併記は重要ですが、「安全」の是非が問われるのであれば、その安全とはどの程度のリスクに対して安全なのか、徹底的に取材で詰めるべきだったのです。それこそ、今回のような巨大地震の可能性や大津波の可能性をも前提においた議論をぶつけるべきでした。マスコミは、両論併記が客観報道、と逃げていたきらいがある。
加藤:よくわかります。だから私も、新聞で今回の原発事故に至る原発問題を語るときに、他人事のように語りたくなかった。同時代の、自分もまたその社会の構成員である人間として、歴史を引き受ける、その静かな覚悟があって初めて、真に建設的な意見を考えることができると思います。

池上:原発反対と原発推進の議論が、並行線をたどるだけでいっこうに交わらず、結果として現実に悪い影響をもたらした、という点においてそっくりだなと連想するのは、「第二次世界大戦時の日本」以外に、「自衛隊問題」があります。

自衛隊問題と似た構造になっていた原発論争
加藤:55年体制というのは、安定多数を占める自民党と、改憲勢力としては足りないけれども議席の三分の一を占める社会党が手と手をとりあって、1993年まで、宮沢改造内閣までやってきた安定的な政治構造でした。安保条約の第2条の経済協力条項と、憲法第9条の相互作用によって、日本は東南アジア諸国を安心させつつ、経済成長をひた走ることができました。政治と経済があまりにも安定的に来てしまったので、国民としては、自衛隊とは何か、憲法9条の国内的な意味は何か、真剣に考える必要なくして、ここまで来てしまったという気がしています。自衛隊は合憲かといった表層的な議論に収斂してしまった。

池上:この問題についてもマスコミには責任の一端があります。自衛隊問題に関しては憲法違反か合憲かという話だけを報道すればいい、と決め込んでしまったのです。つまり現実に存在していて、日本の防衛機能を実質的に請け負っている自衛隊自体の、たとえば設備投資内容のチェックがおろそかになってしまいました。どのメーカーのどの戦闘機をいくらの予算で買うのか、その戦闘機は現在の自衛隊の機能に照らし合わせるとはたして適切な投資なのか? それを誰も報道しなかったのです。検証が十分に行われたとは思えません。
加藤:原発問題も、推進か反対かの神学論争になってしまっていましたが、そして今も残念ながらそうですが、たしかに自衛隊問題を含む安全保障問題も憲法9条問題も、違憲か合憲かの神学論争だけがひたすらクローズアップされて、実際に存在する自衛隊の機能についてのチェックはマスコミも怠っていましたね。
池上:その通りです。だからこんな事件が起きます。2005年にインドネシアを震源とする大震災と大津波があったのは記憶に新しいことと思います。あのとき救援や復旧活動のために、自衛隊が派遣されました。ところが、そこで問題が起きた。陸上自衛隊に配備されているヘリコプターを海上自衛隊の護衛艦に載せて運ぼうとしたところ、船に載らないんです。陸上自衛隊のヘリコプターは、プロペラを折り畳めないタイプ。艦載するには折り畳めるタイプでなければダメなんですね。結局、陸自のヘリを改造するまで出艦できなかった。つまり、いざというときにすぐに役に立たないムダな投資をしていたことになる。でも、「いざ」が来るまで誰も指摘しなかった。なぜだと思いますか

加藤:自衛隊の建前は専守防衛ですから、護衛艦にヘリを載せて海上に出る、というのは専守防衛の精神にもとる、よってそもそもこうした事態を想定していなかった。ヘリを運ぶという発想そのものがなかった――。

池上:そう、まさに「想定外」だったわけです。本来ならば、専守防衛だろうといざ敵国が攻めてくる事態になったら、陸海空が協力しなければ防衛できません。陸自のヘリが海自の船に載ることだって想定内なのが当たり前です。ところが、実際は海自の船に陸自のヘリを載せる、という想定は侵略につながるんじゃないか、というふうに「想定すること自体」をタブーにしてしまった可能性がある。そして、マスコミもこうした実質的な視点で自衛隊の設備に対して報道をしてこなかった。政治のチェックはもちろん、マスコミのチェック機能も働かなかったわけです。

殺人事件報道の多さの背景にあるもの
加藤:「想定すること自体」がタブーというのはまさに今回の原発事故と同じですね

 話はちょっとずれますけれど、マスコミの問題で私が連想するのが、殺人事件報道の多さです。国内における殺人事件の発生件数は戦後どんどん減って、いまや史上最低だったはず。なのに、マスコミの報道はむしろ増えている感じがする。すると奇妙なことに、日本は昔より物騒で殺人ばかりが起きている国に思えてきてしまうんですね

池上:2010年の殺人事件発生件数は1067件。戦後最小記録を2年続けて更新しました。いまの日本は、殺人件数から見ると、世界に冠たる平和な国で、自身の歴史のなかでもおそらく最も殺人が少ない社会です。

加藤:ところが、一般の人はそう思っていない。マスコミで毎日のように殺人事件を報道しているからです。テレビを見て新聞を読んでいると、1日3件くらいずつ、新しい殺人事件を目にする。極端に言うと、テレビと新聞によって、全国津々浦々の人が日本で起きている殺人事件を知っていることになる。国民の安全感が刺激され過ぎていますね。世の中が殺人鬼で溢れているように感じてしまう。報道のマジックです

池上:1980年頃、NHKで私は警視庁捜査一課担当、つまり殺人事件専門の記者だったことがあります。当時は、特殊な例を除き、殺人事件はローカルニュースにしかなりませんでした。2、3人まとめて殺されるような事件でない限り、全国ニュースにはまずなりませんでした。北海道で起きた殺人事件は北海道のローカルニュースでおしまいだったわけです。

加藤:なぜ、事件数は減っているのに殺人報道は増えているんでしょう?

池上:殺人事件の取材報道がマスコミにとって一番楽だからです。現在、民放を中心に、ニュース番組の時間枠がどんどん拡大しています。芸能人を起用したコストのかかる番組の代わりに、予算のわりに視聴率が見込める、という理由からです。

 でも、報道記者やニュースに強いディレクターが増えるわけではない。そんなとき、殺人事件報道ほど、注目を集めやすく、かつ取材が楽なものはない。事件の概要は警察が全部発表してくれるし、容疑者や被害者の写真も貰える。カメラマンを現場に出せば、とりあえず現場の映像が撮れる。マイクを向ければ、近所の人は「怖いですね」と言ってくれる。あっという間に5~6分の報道が一丁上がり、なんですよ。

加藤:しかもその報道によって一般の人たちには「怖い」という感情が植え付けられる。警察にとっても好都合。予算が多く取れる材料になる――。

>>次ページなぜ「反対意見」が国民を動かさなかったか
池上:本来ならば、警察のほうだって、日本は我々警察が優秀なので治安がいいんです、と治安の良さを成果として堂々としていればいい。けれども、殺人事件は過去最低、といったことは、警察白書の中にさりげなく書くだけ。なぜか。治安がいいならば警官の数も少なくていいのでは、と言われたくないからです。その結果、残念ながら、「日本の治安は悪化している」というイメージは、すっかり世間に浸透しています。08年に橋下徹大阪府知事が、経費削減のために警察官増員計画を取りやめようとしたら、「こんな治安の悪いときに」と大阪府民から突き上げられたくらいですから。結果、大阪府の警察官は増員されました。監視カメラが増えているのも、警備会社が増えているのも、同じ理屈ですね。そしてどちらも警察官僚の天下り先です。

加藤:戦争の時代もそうでしたが、我々はどうもマスコミ報道を含めた「世論」に流されやすい傾向がある。ちょっとでも危ない、という情報が流れたら、みんなが一斉に怖がる。いま池上さんが説明した殺人報道が典型ですね。一方、威勢のいい「大本営発表」には乗せられてしまう。このような国民の姿を見ている為政者やマスコミは、ある意味で、国民を舐めてかかる気性が生ずるでしょうね。ここに、情報を握る政府や官僚や企業が、「本当のこと」や「都合の悪いこと」を隠したがる、という悪循環が生まれる。日本の国民は、本当の危機を、その危機のその渦中に、政府によって率直に吐露された経験がないのではないか。いつも後になって、ああ、瞞されたと嘆き、なぜ伝えてくれなかったと嘆くことになる。

 たとえば、1944年6月、日本は前線司令部を構えていたサイパンで米軍と激突し、7月にはほぼ全滅状態でサイパンが陥落します。この時点で日本が戦争に負けるであろうことは、天皇も近衛文麿元首相も大本営も国家の中枢にいた人たちはみんなわかっていた。けれども、事実をひた隠しに隠し、まさに大本営発表を繰り返しました。なぜかといえば、国民の前に真実を伝えた時の国民の反応が恐い。そのような経験がないからです。敗北という事態を想定しないわけですので、合理的な敗け方がわからないのです。政府も国民も。
なぜ「反対意見」が国民を動かさなかったか池上:とはいっても、戦争反対を説いていた人もいましたよね、戦時中から。

加藤:その通りです。でも、なぜその反対意見が国民を動かさなかったのか、支持されなかったのか。その点をきっちり見据える必要があります。戦前の場合は、治安維持法や軍機保護法のような、取締まり法や弾圧法規があったことも事実ですが。原発反対の場合も、研究のための研究費が貰えなくなったり、干されたりといった就職差別もありました。戦前は弾圧、戦後は差別という、同じ構造が見えます。原発についても、原発反対の正々堂々とした意見は前からありました。しかし、なぜそれらの意見が人や社会を動かすことがなかったのか。

池上:なぜでしょう。

加藤:それは、反対派の論じ方にも問題があったと思います。現実的な反対論というのは、本当に難しい。すぐに「絶対反対」の理想論に走り、神学論争を仕掛けてしまう。すると、先ほど池上さんがお話しされた自衛隊のヘリコプター問題のような「現実」がないがしろにされてしまう。今の原発だって、止めるにしろ続けるにしろ、「原発が実際にある」という「現実」を見据えないと、対応はできませんよね。廃炉に至るまでの工程では、まさに原子炉工学の粋が必要になってくる。専門家と技術者と運営主体は今後も欠かせないわけです。理想を掲げた反対運動に殉じてしまう。これでは「現実」は動きません。  個人的にはリベラルや左派こそ、オタクと称されるほどに、軍事や科学や技術に通暁して欲しいと思います。リベラルによる現実主義、保守による理想主義。この、あまり見かけない、たすき掛けの組合せを追求したいものです。

池上:第二次世界大戦、自衛隊=安全保障、そして原子力行政は、政府もマスコミも国民も、「現実を見ない」という点では「失敗の構造」が同じだったことが、はっきりわかりました

加藤:今回の原発事故を契機になんとかこの「失敗の構造」から皆で抜け出なければ、また別の場所で同じ失敗が繰り返されますね。

(次回につづく)

(構成:片瀬 京子)


1.「戦争を選んだ日本人は、「それでも、原発を選んだ」ことになります」と言うが、マスコミがそう盛り上げたのではないでしょううか。戦争推進は売る揚げ部数のため、原発推進は正力讀賣社主が総理大臣を目指すため原発導入を考え、大キャンペーンを展開した。加藤先生の分析は正しくないのでは?
2.「大半の日本人は、戦争を許容していた」と言うこともおかしい。マスコミの宣伝、軍隊の権力、その中で反対できたでしょうか?

毎日新聞 2011年3月26日 東京朝刊
時代の風:東日本大震災=精神科医・斎藤環、東京大教授・加藤陽子
 東日本大震災は被災者ケアや復興財源が長期の課題になっている。先週に続き「時代の風」執筆者につづってもらった。

 ◇「復興」の10年を若者の希望に--精神科医・斎藤環
 東日本大震災から、早くも2週間が過ぎた。

 私の故郷である岩手県も大きな被害を受けた。幼い頃から何度も通った宮古の海岸、陸前高田の砂浜、潮干狩りをした宮城県の気仙沼などに刻まれた津波の爪痕を見るにつけ、胸がつぶれる思いがする。亡くなられた方々のご冥福と、被災された方々が一日も早く日常を取り戻されることを祈りたい。

 大きな災害は、人々の意識にも少なからぬ影響をもたらす。16年前の阪神淡路大震災がそうだった。あの震災の後、私たちは「トラウマ」や「こころのケア」といった言葉に敏感になり、被災して傷ついた心に配慮する作法も定着した。

 いま気がかりなのは、若い世代に今回の震災がどのように受けとめられていくのか、という点である。震災によるダメージは、おそらく就活にも影をおとす。不景気に追い打ちをかけるような災厄の連続に、今この国に生まれた不幸を呪いたくなる若者がいても不思議ではない。

 しかし、と私は考える。最大のピンチの中にすら、チャンスの芽ははらまれているはずだ。もし震災を、社会的な「リセット」と認識できれば、格差社会の苛烈さにおびえて身動きできない若者たちには、動き出す好機たり得るかもしれない

 思えばバブル崩壊以降、若い世代にとっては、まっとうな希望を持つことがむずかしい時代がながく続いていた。ここしばらく、中高生の意識調査では「これから社会が良くなるとは思えない」「努力は報われるとは限らない」といった、悲観的な回答が大半を占めるのが常だった。いつ晴れるとも知れないニヒリズムの雲が、若者たちの頭上を、薄く広く覆い続けていた。

 震災・津波・原発事故という未曽有の災害によって、日本の産業や経済が受けたダメージははかりしれない。被害総額は20兆円以上とする試算もあり、立ち直りには長い期間を要するだろう。そう、これから私たちはかつてない「どん底」を経験する覚悟を固めた方がよい。

 しかし、私は期待している。この「どん底」の経験が、若い世代にとっては希望でありうることを
 私たちバブル世代には、無根拠な楽観主義が骨がらみに染みついている。幼児期には高度成長期を、思春期から青年期にかけてはバブル景気を経験したものとして、私たちはいまなお根拠なしに「そのうちなんとかなるだろう」と信じている。

 この種の感性は、思春期においてどういう社会状況を経験したかにかかわっている。その意味で今30代以下の世代の不幸は、思春期において社会の成長発展を実感できなかった点にあるだろう。就職氷河期、全世界同時不況、格差社会のなかで弱者化する若者……。これでは希望を持てというほうがむちゃというものだ

 そうした意味からも、「どん底」は好機なのだ。

 私はこの状況がずっと続くとも、どんどん悪くなるとも考えていない。政府に初動の不手際はあったにしても、インフラの復旧は、かなり順調に進んでいる。不安の種だった物不足にしても、流通は徐々に健全化しつつある。気がかりな福島の原発事故は、最悪の事態は免れるであろうと楽観できる雰囲気になりつつある。

 そう、これほどの災厄にもかかわらず、日本社会には、それをはね返すだけの基礎体力があるのだ

 ならば、これからの10年間は、間違いなく復興のディケイド(decadeデケイド・10年:管理人注)となるだろう。一度「どん底」を経験した社会が、じわじわと立ち直っていく姿を、私たちは目の当たりにすることになるのだ。ほかならぬ復興の当事者の一人として。

 津波や被災地の映像はもう十分だ。今後メディアは「復興の姿」をこそ報道し続けるべきではないか。人々が力を合わせて立ち直っていく姿は、若い世代にとっては何よりの励ましであり、希望である。リアルな希望を支えるのは、社会がよりよい状態に変わりうることの、具体的なイメージなのだから。

 ◇原発を「許容していた」私--東京大教授・加藤陽子
 3月11日午後2時46分。日本人あるいは日本に住む人々にとって、この時刻に何をしていたかについては、これから何度も問い返され、何度も記憶に再生されることとなろう。

 東京都文京区に住まいのある私は、その時、マンション中庭の草花に水をやっていた。しおれ気味の花々に、数日間水やりを怠ったことをわびつつ水をやっていると、自分の視界が、突然、横に引っ張られる感じがした。これから会議が一つあるのに目まいとは困ったことだと思った数秒後、地震だと気づいた。水道栓を閉め、ころがるように部屋に戻るまで、この間5分。

 それ以来、何をしていれば心が休まるかといえば、中庭で水をやることなのだ。あの時、水やりをしていた自分。依然として生きている自分。その単純な関連を、身体が勝手に何度も確認したがっていたようだ。震度5強とはいえ、ほぼ被害のなかった地域において、こうだ。被災された人々の心と身体を思えば暗たんたる気持ちになる。

 地震と津波の直後には、東京電力福島第1原発の複数の炉が制御不能となった。テレビは、首相官邸、原子力安全・保安院、東電等による記者会見の模様や現場の状況を臨戦態勢で報じていた。映像を見ながら私の頭に浮かんだのは、奇妙にも次に引く大岡昇平の言葉だった。

以下次稿「毎日新聞 3月26日 時代の風:東日本大震災=精神科医・斎藤環、東大教授・加藤陽子」に続く


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