
「葉陰に残った花びら1つ。もう誰も‘‘桜,,と呼ぶ人はなくて。いずれすべては、散り行くさだめなら、もう振り返らないで。そこにはもう誰もいないから。過ぎ去りし花を思うのはいつだって春なんだ」
(篠原美也子『葉桜』2004年 より引用)
そんな歌が似合うな、と思って撮影してみた。↓

多分、もう全ての花は、私の住む身近な場所からは消えてしまったと思う。
花が散れば、もう誰も「桜」と呼ぶ人は居ない。その木が「桜である」と解る人は除いて。
何でもそうだが、「注目されているうちが良く」て、見放されればそれまで。
桜の花はいつまでも咲いていてはくれない。散ってしまい、葉桜となる。葉桜でも結構良い…とは言われるものの、「華やぐ物」はもはやなく、「単なる街路樹」としてそこにある。まるで、甘みのなくなったガムみたく、香りはしても味はない。
花として咲いた以上、散るのは必然である。ずっと華やいでは居られない。けれど、人々は「華やぎ続ける事」を望む物。けれど、その方法は誰ひとりとして解らないままである。
散り逝った後の葉桜。色の薄い若葉も陽の光にやけ、やがて濃い緑となり、輝きが更になくなりゆく。何時しか飽きられ、目にも止まらなくなった頃、その葉自体も散り行き、眠りにつく。
日曜の25時近くは、そんな桜の葉が散り行く時か、葉桜になる頃だろう。もう誰もを喜ばせる存在ではなくなる時だと思う。
(篠原美也子『葉桜』2004年 より引用)
そんな歌が似合うな、と思って撮影してみた。↓

多分、もう全ての花は、私の住む身近な場所からは消えてしまったと思う。
花が散れば、もう誰も「桜」と呼ぶ人は居ない。その木が「桜である」と解る人は除いて。
何でもそうだが、「注目されているうちが良く」て、見放されればそれまで。
桜の花はいつまでも咲いていてはくれない。散ってしまい、葉桜となる。葉桜でも結構良い…とは言われるものの、「華やぐ物」はもはやなく、「単なる街路樹」としてそこにある。まるで、甘みのなくなったガムみたく、香りはしても味はない。
花として咲いた以上、散るのは必然である。ずっと華やいでは居られない。けれど、人々は「華やぎ続ける事」を望む物。けれど、その方法は誰ひとりとして解らないままである。
散り逝った後の葉桜。色の薄い若葉も陽の光にやけ、やがて濃い緑となり、輝きが更になくなりゆく。何時しか飽きられ、目にも止まらなくなった頃、その葉自体も散り行き、眠りにつく。
日曜の25時近くは、そんな桜の葉が散り行く時か、葉桜になる頃だろう。もう誰もを喜ばせる存在ではなくなる時だと思う。
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