地図のいろいろ

半世紀も地図作りに携わっていましたので、この辺で振り返って地図を見直してみようかな~・・・。

簡易カーナビ

2008-04-13 12:00:27 | Weblog
簡易カーナビ「PND」(パーソナル・カー・ナビゲーション・システム)
昨日の日経に特集記事が載っていました。
軽自動車や二輪車などにも手軽に使えるナビで、普及し始めているそうです。
私の好きな、サイクリングや山登りにも使えそうですね。
少し調べてみましょう。

日経の記事によると、
DVD再生などの本格的なAV(音響・映像)機能は付いていないが、設置が簡単で、車から取り外して屋外でも使えるのが特徴。
価格は、本格的な高機能カーナビが20~30万円に対して、3~7万円程度。
機種には
①、 高い位置測定機能を備えたソニーの「nav-u NV-U2」
②、 交差点を三次元表示できる三洋電機の「NV-SB360DT」
③、 手のひらサイズで持ち歩きやすい米ガーミンの[nuvi250]などなど

私の知人で、サイクリストの K さん(TCA所属)の携帯ナビ遍歴を紹介しながらその機能を説明してみましょう。

①、1999.7 EMPEX社のGPS65EZを購入(7万円程度)。
経緯度入力で地図上にその位置を確認できるGPS機能付き。
目的としている位置の座標を入力すると、その方向・距離が表示される。
また、マップモードで走行軌跡も表示できる。
他社でも、GARMIN、eTrex などが販売されていた。

②、2005.7 GPS内臓のPDA(Mio-168RS)を購入。
MioMap、とSuperMapple の2種類の地図が内蔵されている。
常に現在地が画面の中央に進行方向を上に現れる。
(北を上にするNorthアップ表示も可能)
拡大・縮小も可能。
MioMapは事前にルート検索をして音声ガイドで走ることもできる。
コースをはずれると再検索(リルート)する機能もある。
精度は地域によって異なるが、都心部は1:2500程度の縮尺図が利用できる。
走行履歴をSDメモリやUSBケーブルを介してパソコンに取り込み表示することも可能。

その Kさん曰く、「・・・改めて気がつくと、ここに(ハンドル部分)最も高い部品がついてることになる。・・・」そうです。彼の宝物なんでしょうね。

このように見てくると、簡易カーナビはいいこと尽くしですが、
「機械は故障する時もある」ことを忘れないように。
その時、パニックにならないよう地図常識だけは頭に入れて置かないと・・・。
または、簡単な紙地図を携帯するとか・・・
アナログ地図屋の老婆心!?




満月ならぬ“満地球”

2008-04-12 12:40:21 | Weblog
4/6 06:44 NHKのハイビジョンカメラが「満地球」の撮影に成功しました。
12日の日経には「満月ならぬ“満地球”」とうたって記事を載せていました。

昨年9月に打ち上げられた「かぐや」は、月からの高度約100kmの高さを回りながら、観測を続けています。
「かぐや」は月の周りを約2時間で回るそうです。

荒涼とした月の大地から完全に丸い形をした地球が昇っていく様子を、月探査衛星「かぐや」がハイビジョンカメラで撮影することに初めて成功しました。
PCでもその様子が見れます。勿論「満地球の入り」も楽しめました。

完全に丸い地球の姿をとらえるチャンスは1年に2回しかないそうです。
38万km(地球円周の約10倍)のかなたの宇宙に青く輝く地球が浮かび上がっています。

今から47年前、1961年に、ロシアの宇宙船ボストーク号が初めて有人宇宙飛行に成功し、ガガーリン少佐が言った言葉「地球は青かった」が思いだされます。

さて、月探査衛星「かぐや」が撮影したのは、太陽の光に照らし出されて完全に丸い形をした地球が、月の地平線から昇っていく、いわゆる満月ならぬ「満地球の出」の様子です。
地球から見た月は地球の周りを24時間かけて廻りますが、月から見た地球は約2時間で廻るそうです。
従って、「満地球の出」も「満地球の入り」もスピーディーですよね。
NHKのハイビジョンカメラも、地球が漆黒の宇宙に浮かぶまでの姿を撮影した時間は1分聞でした。

この映像ですが、上が南極で中央に真っ青な太平洋が広がり、左下に北アメリカ大睦が映っています。南が上です。
宇宙から見た地球は月と同じように満ち欠けをしているため、およそ1か月に1回、「満地球」になりますが、「かぐや」のカメラの向きとの関係で、撮影のチャンスは1年に2回しかないそうです。
撮影は、この機会をねらって初めて行われたもので、今回は、「満地球の出」のほかに、丸い地球が月の大地に沈んでいく「満地球の入り」の撮影にも成功しています。

ボツボツ、「十五夜お月さん」に替わる「満地球・・・」の唱歌を、あちらに逝かれた野口雨情さんに作ってもらいたいもんですね。
“私の生まれた 地球さん、こっちは天国、そちらはドンパチ・・・”

しかし、青空のない漆黒の空ばかり眺めて暮らしてたら、今の人間のような笑顔は生まれないでしょうね。若し、月に生物がいたら、是非地球に行ってみたくなるでしょうね。
何時までも青いきれいな地球であって欲しいものです。


「満地球」がハイビジョン映像で撮影されたのは世界で初めてだそうです。
宇宙航空研究開発機構とNHKでば、今後も撮影を続けて地球の最新の姿を配録していくことにしているそうです。

トスカネリの世界地図

2008-04-11 09:54:30 | Weblog
トスカネリの世界図
コロンブスが携行したというトスカネリの地図です。
現在の地図と対比してあります。
アメリカ大陸がなく、即アジアです。真ん中の四角い島がジパング(GIPPANGU=日本)です。随分大きな島ですね。

パオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリ (1397~1482)は、イタリア・フィレンツェ出身の地理学者・数学者・天文学者です。
当時の、地理学者は科学の先端を行く学者でした。現在のように細分化されていませんでしたので、地理学は森羅万象を対象にした科学の最先端の分野でした。
フンボルト大学(ベルリン大学)などそのメッカでした。

さて、トスカネリは、パドヴァ大学で数学を学び研究の結果、78才で地球球体説を主張しました。私など、まだまだ若造ですね。彼は結局85歳の生涯だったようですから・・・頑張らなくっちゃ!

そのトスカネリが作成した地図には、もちろん新大陸は描かれてなく、ヨーロッパから即ジパング(日本)が望めます。今のメキシコの辺りと考えられていたようです。コロンブスは彼の描いたこの地図を持って、西に向かったそうです。

当時の情況を辿ると、
1474年、トスカネリは西回りでインドに至る航路の可能性をポルトガル王に書簡で送りました。
それを聞いたコロンブスはトスカネリに、アジアへの航路を尋ねる手紙を出しました。
トスカネリの返事には、地球球体説と大西洋を西航する方がインドへの近道であるという説を唱えて、「アフリカ大陸を南下するのではなく、イベリア半島を真西に行くのがアジアへの近道だ」と提唱したそうです。この地図を頭に置くと、当然の提唱です。
また「西航していけば、マルコポーロが(東方見聞録)に書いている黄金の国”ジパング”(今のメキシコ付近)を通過して、インドへ行ける」ともあったそうです。
黄金の国という、この辺のイメージがどうしてわいてきたのか、知りたいですね。



月全体の地形図

2008-04-10 10:43:22 | Weblog
4月10日、日経朝刊に
「国土地理院により月の表と裏の地形図が発表された」との報道がありました。

コロンブスどころではなくなりました。急遽この地図に飛び付きます。

宇宙航空研究開発機構などは9日、月探査衛星「かぐや」の観測データをもとに作った月全体の地形図を公開しました。
この地図は、宇宙航空研究開発機構と国立天文台がデータを解析し、国土地理院が地形図に作成しました。それが上の地図です。

従来、探査できなかった極域(緯度75度以上)を含む月全球の、すなわち月の北極、南極とさらに裏側も地形図として作成したわけです。
ベハイムの地球儀どころではなくなったわけです。

地形図ということは、等高線により月全体の高低差も表現しているということです。
等高線の間隔は、1km?だそうですが、今後ますます精度の高い、縮尺の大きい地形図が発表されるでしょう。

それにしても、高低差の最大は約15kmだそうです。地球とは桁が違うようですね。エベレストの約2倍です。地球上の登山者、真っ青!?

いや、まてまて!月には海がなかったですよね。すると地球の海深との合計になります。ということは、エベレスト8,848m+マリアナ海溝10,920m=19,768m、
かろうじて、地球の威厳が保てたわけですか・・・くだらない威厳!

また、月面の物質分布など.別の観測と組み合わせれぱ、月の内部構造もわかるそうです。
将来は、鉱物資源を月に求めるようになるのでは?
レアメタルなどという言葉もなくなるのでは?
長生きしたいね~。

これまでの地形図データ数は1990年代に米国の撮影した約27万点だそうですが、かぐやの観測占数は2ヶ月で、すでに600万点を超しているそうです。
今後、さらに観測点の数が増え、より詳細な、より高精度な地形図が作成されるでしょう。
ますます、長生きしたくなって来ました!




ベハイム地球儀の展開図

2008-04-09 10:22:08 | Weblog
ありました! ベハイムの地球儀の展開図が・・・
織田武雄先生の「地球の歴史」世界編に載っていました。

北極圏は省かれていたようで、北緯60度までが描かれています。
南極は全く描かれていません。
オーストラリア、ニュージーランドも皆無です。

インド洋が大変広く、ヨーロッパからインドの間に日本が比較的大きな塊でかかれています。
セイロン島、インドシナ半島やマレー半島、スマトラ島辺りが広く大きく描かれています。

そのマレー半島の先端まではやや確信を持って描かれたようですが、それより東は曖昧模糊としていたようで、
「プトレマイオスはこれより先の世界については記していないが、マルコ・ポーロ(多分「東方見聞録」から)とマンデヴィル卿(当時の探険家)が述べている・・・」ことから、想像を逞しゅうして描いたようです。

地球全体の大きさは、天体観測や公転の時間から約4.6万km(実際は約4万kmですが)と解っていたので、つじつまを合わせるためにも、苦心しながら描いたものでしょう。

アフリカ南端の喜望峰を経てインド洋に出れる形が明確に描かれていますが、マダガスカル島辺りがまだ混沌としていますね。

以上の世界観は、コロンブスが第一回の探検航海に携行したといわれるトスカネリの地図とも一致しているそうです。
未知の世界への探検には“わくわく”したでしょうね。
当時の新聞があれば、見たいものですね・・・あればですが・・・

当時の探検は単に、欲に駆られただけではなさそうですね。命がけですからね。
お詫びして訂正します。



マルチン・ベハイムの地球儀

2008-04-08 12:37:22 | Weblog
マルチン・ベハイム(1459?~1507)はコロンブスのアメリカ大陸発見と同じ年の1492年に地球儀を作成しました。
現存する最古の地球儀です。(ニュールンベルク国民博物館 蔵)

主に、プトレマイオスの世界地図とマルコ・ポーロの「東方見聞録」を参考にして作られたそうです。

2世紀にプトレマイオスが天動説を唱えて以来、コペルニクスの地動説が登場する16世紀まで、この天動説が支持されていて、カトリック教会も公認していた世界観です。
太陽も星も、静止した地球の周りを廻っているとされていました。
だから、空を飛んでいる鳥達も地球から取り残されることはないと理解されていたとか・・・

大航海時代の到来と共に、プトレマイオスの地理の本も広まり、地球が丸いことが常識化するにつれ、地球儀が作られるようになりました。

ベハイムの地球儀は直径50cmの金属製で、書き込まれた地名は1100カ所以上もあります。そして、赤道や黄道、南北回帰線、北極圏や南極圏も記されているそうです。
既にアフリカは大陸として、ほぼ正しい形で描かれています。
ただ、一番知りたい、この写真の裏側の画像=太平洋もオーストラリアも北アメリカもない地球儀の写真が見たいですね。
アジアは経度で50度ほど東に広がってズレていたそうです。
マルコ・ポーロの「東方見聞録」によって伝えられた中国(カタイ)や日本(チパング)も、想像のみで描かれたためか、アジアはアメリカ大陸の位置まで伸びているそうです(見た~い)。

ただ、この地球儀も北極と南極を軸にして、回転させることができるように作られているが、どうにも解せない。
天動説で地球は静止しているのではなかったのですか?

また、垂直方向に23.4度傾くように軸受がつけられているそうですが(写真もそのように見えます)、当時、既にそのことは解明されていたのですか?

どうにも理解しがたい・・・?






ポルトラ-ノ型海図

2008-04-07 16:45:35 | Weblog
ポルトラーノ型海図(地中海の地図)
大航海時代の幕開けは、帆船の誕生や、羅針盤の活躍、それに地図のレベルがアップしたことでより華やかになりました。

その地図がここに取り上げた、ポルトラーノ型の海図です。

羅針盤が登城したこともあり、地図上に記された多数の方位線が航海を助けました。方角と距離を教えてくれたのです。

16C以降にプトレマイオス図が採用されるまで、長い間地中海での航海にはポルトラーノ型の地図が使われていました。

ポルトラーノとは人名ではなく、「ポルトラーノ」と呼ばれた水路誌の名前です。

地図上のある一点から32方向に航程線という方位盤が描かれ、この32の線のうち東西南北を含む16の線上の中心点から等距離のところにさらに新しい中心点を取り、ここからまた32の航程線をのばすことにより、地図上をこの方位盤でうめることができるわけです。
こうして普通は合計17(=16+1)の中心点が地図上に設けられ、その中心点には羅針盤をモチーフにした装飾的な方位盤が描かれています。

「ポルトラーノ型海図」は大航海時代の14Cから16Cにかけて、地中海地方で大量に作られました。海岸線は「現代の地図と比べてもそれほど遜色が無」く、海岸沿いの都市は詳しく書き込まれています。主要港を赤で、その他の地名を黒いインクでかかれています。
また、水深の記載こそ無いが、航海に欠かせない岩礁や浅瀬などは記号化して書き込まれています。
一方、当然ですが、航海用という特性から内陸の情報はさほど詳しく書かれていません。

これら海図とともに、羅針盤の活躍があります。
羅針盤は中国で発生したようですが、もとは水の上に磁石の針を浮かべて方向を見ていたようです。しかし、何しろ波の荒い海の上のこと、水がこぼれて役に立たず、1560年ころイタリアで水平に磁針を保つ宙ずり式の羅針盤が作られ一件落着したようです。

また、自分の位置を知るのに、緯度は星の角度を測ることで容易に知ることができますが、経度は正確な時間がわからなければ知る方法はほとんどありませんでした。
当時、正確な時間を計れる時計はまだ無く、航海に使われたのは砂時計だったそうです。これを船員が30分おきにひっくり返すというものだったそうで、当然正確な時間は計れません。また、この砂時計は使っているうちに中の砂がガラスをけずって、落ちる時間がだんだん早くなるような代物だったそうです。

このため、南北は問題なかったようですが、東西方向の距離は長いあいだ正確な値が測定できなかったそうです。
コロンブスの計画もそうした地図を基にしていたため、実際のインド、中国は3倍以上遠くにあったので、途中にアメリカ大陸がなければ、延々と航海する羽目になっていたでしょう。
多分、行方不明になっていたのではといわれています。
「アメリカ大陸発見」のお陰ですね。


カンティーノの世界地図

2008-04-06 10:26:04 | Weblog
カンティーノの世界地図
コロンブスが1492年アメリカ大陸を発見したとされた後の世界地図のひとつに、カンティーノの世界地図があります。
これは1513年のビリ・レイスの世界地図以前の、1502年の地図です。

当時は、大航海時代で、各国は競って新地を探検していたので、新しい航路図は秘密にされていました。そうした時代に、イタリアからポルトガルのリスボンへ出向いたカンティーノは、その秘密の航路図を密かに制作したと云われています。まさに、宝島探検の地図ですね。

この地図を見ていますと、北アメリカはまだハッキリした形をなしておらず、西インド諸島と南アメリカの北東部分が中途半端に描かれています。
そして西経50度当たりに南北に伸びた線が描かれています。これが、ポルトガルとスペインの植民地開拓のテリトリーを決めた境界線=トルデシリヤス条約の線です。常識的には、随分スペインはポルトガルにコケにされていたように見えますが?後日の宿題にしておきましょう。

しかし、アフリカは大変ハッキリと形を現しており、ほぼ正確です。
ポルトガルによる、喜望峰を迂回してインドに向かう航路の発見の賜物です。

また、インドの他に、マレー半島やスマトラ島(陸続きになっていますが)らしきものも描かれています。
だんだん、太平洋が見えてき始めたようですね。

しかし、大航海時代、新大陸発見、といったところで、それはヨーロッパの人が、欲に駆られて独り占めしようとした海賊行為であって、現地の住民にとっては、ズート以前から暮らしてきた固有の土地ですよね。新発見なんかじゃないですよ。あなた達の勝手な発見だけのことですよ。


そこへ、文明人面をして、我が物顔に専横したのですから、今にして思えば許されるべき行動ではありませんよね。まさに帝国主義と同じです。わが国もご他聞にもれずですが。
「ぺんぺん草の生えた土地を開拓し、道路や鉄道を敷いて暮らしを向上させた」という、帝国主義の理論武装は、一皮剥けば、腹黒い利己主義なんだと思いますが・・・?

あまり干渉しないほうが、いいのでは。

そんなに急いで文明開化しなくても、自分のスピードでゆっくり進めばいいと思いますがね~



ピリ・レイスの世界地図

2008-04-05 10:49:45 | Weblog
コロンブス後の世界地図
コロンブスが1492年アメリカ大陸を発見したとされた以降の世界地図のひとつに、ピリ・レイスの世界地図があります。

羊皮紙に描かれたものです。惜しいことに、インド洋を描いていたらしい右半分はなくなっており、大西洋を中心にした左半分のみが現存しています。

多分、セント・ヘレナ島でしょうか、そこに羅針盤が置かれ、そこから多くの方角へ航路が描かれた海図です。

地図に付記されたコメントによると、この地図は1513年に作成され、1517年にエジプトを征服したセリム1世に献呈されたものだそうです。

ただし、コロンブスがアメリカ大陸を発見した1492年から、20年しか経っていないのに、南アメリカの東海岸がこんなに精しく書けるわけがないという異論も出ています。


また、1513年当時、未発見であり、しかも氷に閉ざされていて当時の技術では観測不能であるはずの南極大陸の輪郭が描かれているのもおかしいといわれています。

しかし、明日採りあげてみようと思っている1502年のカンティーノの世界地図 が事実だとすると、この地図の信憑性を疑うことはできないようにも思えますが・・・



コロンブスの地図

2008-04-04 11:25:47 | Weblog
コロンブスがアメリカ大陸を発見する直前の1490年頃の大西洋側の地図です。
まだ、大西洋の向こうは真直ぐインドに繋がっていると信じられていた時代の地図です。
海岸沿いには無闇に地名が記されていますが、当時の航海用の地図としては当然でしょう。地中海の中は特に精しく書かれています。アフリカの西海岸の精しい表記には驚きましたが。

そうした認識の時代に、トリデシリヤス条約のためか、スペイン国王をスポンサーにしたコロンブスは西回りでアジアに向かうほかなかったようです。
一行は、1492年8月3日、スペインの西南の港・パロス港を出発し、 約2ヶ月間陸地を見ることなく、西へ西へと航海をつづけ、10月12日、ついにサンサル・バドル島を発見して上陸しました。
コロンブスは死ぬまでそこがインドのそばの東の島だと思っていたようです。

コロンブスが乗るのがサンタ・マリア号。積載能力150トン、全長23メートル、幅7.5メートル。三本マストの当時としてはごく普通の船だそうです。
残りの二隻のピンタ号とニーニャ号は、サンタ・マリア号の約半分の大きさだそうです。
 乗組員は、なかなか集まらなかったようです。
何しろだれも行ったことのない西廻り航路ですし、当時は、インドに着くどころか、途中で「世界の端っこの大きな滝、ドウドウと流れ落ちている滝に落ちて死ぬかもしれない。」という世界観、世界地図の概念でしたから。
そこで、仕方なく、国王の与えてくれた囚人どもを乗せて航海することになりました。未熟練者が多かったようです。

その後、1498年ポルトガルのバスコ・ダ・ガマがアフリカの南端をまわってインドに到達しました。
さらに、ポルトガル人のマゼランがアメリカの南をまわってはじめて太平洋にたっし、ポルトガルに帰ってきました。
はじめて世界一周をしたわけです。
こうして世界地図は飛躍的に変化してきました。
しかし、まだオーストラリアなど南半球の様子が詳らかではありませんでしたが・・・