「万国総図」(屏風絵)
大航海時代といわれる15世紀末頃、当時の大国=ポルトガル・スペインの間では植民地や貿易の勢力圏争いが起こっていました。
その結果、1491年、両国の間で大西洋の真ん中を通る子午線で地球を2分するトリデシリヤス条約が結ばれ、日本はポルトガルの勢力範囲となっていました。酷い話ですね。
スペインは南北アメリカ、ポルトガルはアフリカからアジヤをテリトリーとしました。
その結果が、スペインはマルコポーロによるアメリカ大陸発見であり、ポルトガルは天文12年(1543)に種子島に漂着したのです。
ポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲を伝えて以来、ポルトガル船やキリスト教宣教師達の来日が多くなり、日本人の世界観も世界的に拡大されました。
南蛮趣味が時代の趨勢となり、流行し始めたわけです。
大名や豪商達は競って、室内装飾のために世界図を絵師に描かせ、世界図の屏風を重宝したようです。
その一つが、本日採りあげた「万国全図」(屏風絵)です。
正保2年(1645)に、マテオ・リッチの「坤輿万国全図」をもとに簡略化して絵師が描いたものです。(神戸市立博物館 蔵)
もともと中国で作られたものの渡来物ですから、地名は漢字で書かれていたそうですが、それを日本の「かな書き」に書き直されています。
とくにこの地図の特徴に、世界40カ国の人物絵が並んで描かれていることです。男女ペアです。肌の色の違いや、民族衣装の様子が見られます。
今でも面白く拝見できるだけに、当時としては、画期的な見ものでしたでしょう。
私も、20年位?前、 JALが民族衣装を纏った世界の美女の写真をカレンダーにしたのを見たことがありますが、その美しさと珍しさに、今でも時折思い出します。当時はもっと強烈な印象を与えたことでしょう。
巷問でも木版刷の世界図が売られたそうです。
わが国が鎖国を布く前のことです。
さて、マテオ・リッチなる人物ですが、イタリア生まれのイエズス会士で、中国へのキリスト教布教のため、1582年にはじめて中国へ入国し、さらに明の万暦帝の信用を得て北京に在住を許され、ヨーロッパ製の世界図を参照して、万暦30年(1602)に「坤輿万国全図」を刊行し、その後、日本にも輸入され、転じて上の写真のような屏風絵になり、話題を読んだようです。
大航海時代といわれる15世紀末頃、当時の大国=ポルトガル・スペインの間では植民地や貿易の勢力圏争いが起こっていました。
その結果、1491年、両国の間で大西洋の真ん中を通る子午線で地球を2分するトリデシリヤス条約が結ばれ、日本はポルトガルの勢力範囲となっていました。酷い話ですね。
スペインは南北アメリカ、ポルトガルはアフリカからアジヤをテリトリーとしました。
その結果が、スペインはマルコポーロによるアメリカ大陸発見であり、ポルトガルは天文12年(1543)に種子島に漂着したのです。
ポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲を伝えて以来、ポルトガル船やキリスト教宣教師達の来日が多くなり、日本人の世界観も世界的に拡大されました。
南蛮趣味が時代の趨勢となり、流行し始めたわけです。
大名や豪商達は競って、室内装飾のために世界図を絵師に描かせ、世界図の屏風を重宝したようです。
その一つが、本日採りあげた「万国全図」(屏風絵)です。
正保2年(1645)に、マテオ・リッチの「坤輿万国全図」をもとに簡略化して絵師が描いたものです。(神戸市立博物館 蔵)
もともと中国で作られたものの渡来物ですから、地名は漢字で書かれていたそうですが、それを日本の「かな書き」に書き直されています。
とくにこの地図の特徴に、世界40カ国の人物絵が並んで描かれていることです。男女ペアです。肌の色の違いや、民族衣装の様子が見られます。
今でも面白く拝見できるだけに、当時としては、画期的な見ものでしたでしょう。
私も、20年位?前、 JALが民族衣装を纏った世界の美女の写真をカレンダーにしたのを見たことがありますが、その美しさと珍しさに、今でも時折思い出します。当時はもっと強烈な印象を与えたことでしょう。
巷問でも木版刷の世界図が売られたそうです。
わが国が鎖国を布く前のことです。
さて、マテオ・リッチなる人物ですが、イタリア生まれのイエズス会士で、中国へのキリスト教布教のため、1582年にはじめて中国へ入国し、さらに明の万暦帝の信用を得て北京に在住を許され、ヨーロッパ製の世界図を参照して、万暦30年(1602)に「坤輿万国全図」を刊行し、その後、日本にも輸入され、転じて上の写真のような屏風絵になり、話題を読んだようです。