地図のいろいろ

半世紀も地図作りに携わっていましたので、この辺で振り返って地図を見直してみようかな~・・・。

大日本沿海実測図

2008-02-11 10:51:04 | Weblog
伊能忠敬先達(以下忠敬)が、幕府の許可を得て最初に測量したのは、寛政12年(1800)年4月から12月にかけてで、その成果は次の形で幕府に献上されました。
「大図」:21面 奥州街道11面と蝦夷地南岸の10面   縮尺1:43,636
「小図」:1面  縮尺1:436,360

忠敬の測量事業は、個人事業として始められましたが、途中で将軍・徳川家斉の上覧を受けるなどで幕府に認められ、幕府事業として、全国にわたり行われまた。

日本全国が纏まったのは、16年後の文化13年(1816)で、地図として完成し、正式に幕府に納められたのは、忠敬が亡くなって後の文政4年(1821)でした。
(伊能忠敬先達は文政元年(1818)没)
その地図は
 日本全図  「大図」:214面 縮尺1:36,000
       「中主」: 8面 縮尺1:216,000
       「小図」: 3面 縮尺1:432,000
  これに、 「大日本沿海実測録」 14冊 です。

しかし、これらの原本は正、副ともに無くなっており、現存するのは、地方の大名達の要請で作図した写本だけです。
写本である証拠に、地図の要所、要所に針穴が開いているそうで、ポイントを押さえて複製されたようです。

伊能図の特色ですが、
①、 海岸線や街道を中心に多角測量をしながら、要所で天文測量をし、補正をしていました。
多角測量とは、海岸線や街道沿いに、方向と距離を測定しながら目的地の位置を決めていく測量方法(トラバース測量とも云う)で、長距離の場合、だんだん誤差が膨らんできます。従って、時々天文測量をして誤差を修正する必要がありました。
②、 正確さと同時に、芸術的美しさ:幕末、イギリスの測量隊が日本の沿海を測量しようとやってきましたが、この地図を見て、その正確さと美しさに驚き、改めて測量する必要はないと帰国したそうです。多分、複製を持ち帰ったのでしょうが。
それと、日本侮るべからずの印象を与えたようです。(その国の地図を見ると、その国の文化の程度がわかるとか・・・)
③、 測量精度の高さ:忠敬は最初、寛政12年(1800)に、江戸から蝦夷地南岸まで測量の旅に出かけました(井上ひさし著「四千万歩の男」)が、その目的の一つに、子午線1度の弧長を測ることがありました。天文測量の知識を駆使して測った結果は、28里7町12間(110.749km)でした。
日本測地系のベッセル楕円体の35~41度の平均の長さ110.98kmと較べて誤差が僅か0.2%です。鎖国当時の知識からして素晴らしい成果です。

④、 自分達が測量し調査した結果しか地図に記載しなかった。(地図作成の鉄則ですね。「疑わしきは記載せず」です)

これら特徴からもお察しいただけると思いますが、長年地図を作成してきた私にとって、尊敬すべき先達の一人です。後日採りあげますが、他に長久保赤水先達の「東海道分間絵図」があります。