栗太郎のブログ

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出羽三山の旅(1) 湯殿山神社

2015-08-11 23:45:52 | 見聞記 東北編

羽黒山、月山、湯殿山、その三つを総して出羽三山という。
そのなかで湯殿山は、三山の奥宮とよばれ、修験道の霊場であった。
古来より『語るなかれ、聞くなかれ』と戒められ、参拝したものはその体験したことを秘匿すべしとされた。
と言いいながら、観光案内のチラシには拍子抜けするほど手軽に、この社に本殿はなく、御神体は岩だと書かれている。
しかし、本殿がないだの岩だのと聞いてはみても、行ってみて見てみないとやはり気が済まないのが、性分というもの。

で、やはり行くなら、夏。
8月はじめの土曜日、いつものJ君たちを誘って、軽いいで立ちで颯爽と行ってきたという次第。
早朝4:30に宇都宮をでて、東北道、山形道を経、湯殿山自動車道を登り、仙人沢の駐車場に9時前に到着。
霊験な神様も手軽になってしまったものだ。

 左・レストハウス、右・参籠所、大鳥居、その右に隠れて行人塚がある。


レストハウスからシャトルバスが出ている。往復300円。
歩いても行ける距離らしいが、せっかくあるのだから乗っていくことにする。
楽をしようとしてるんじゃなくて、地域振興に役立とうとしているのですよ、念のため。




ブロロ~ンと音をたて、舗装の割れた道を行き、欄干に車体を擦りそうな狭い朱色の橋を渡り、わずか5分やそこらで、終点。
コンクリ造りの直務所脇の階段から、本宮へと向かう。




石段を登るとすぐに、本宮の石碑。
この横にしめ縄が掛けられていて、ここから先は御神域となるため、撮影禁止となる。
さて、語るなかれと言われるならば、どこまで見聞記に記してよいものやら、と悩んだ。




・・・という良心は杞憂だったようで、ネット上でググってみると、案外その概要がわかる。
語るや聞くどころか、御神体でさえ”盗撮”されている始末。
いまさら僕が遠慮せずとも、それ以上のことが曝されていた。
(といっても、禁撮影のルールは守っているので、画像なしで見聞のみを。)

粗末な造りの手すりを頼りに先へと歩いて行くと、右手下にいくつかの掘立小屋が見えた。
風雨除けなのか御神体を隠す目的か、小屋をつなぐように囲いがめぐらされている。
どう見ても、山奥の秘湯の雰囲気にしか思えなかった。
片手に手ぬぐいと着替えの下着がない手持無沙汰が不自然なくらいに。

沢に下り、御祓所で500円の参拝料を払い、お祓いを受ける。
「もろもろのつみけがれをはらいたまひきよめたまへ」と唱え、人型を模した薄紙で身体をなぞり、身の穢れを落とす。
漢字を当てれば、諸々の積み穢れを、祓い給え、清め給え、ということ。
人間は穢れているものという前提。なので、それを浄化し身をきれいにしてから神様の前に出向くわけだ。
ここから裸足になる。おかげで余計に露天風呂かと錯覚してしまう。
囲いに沿って進むと、ぱっと目の前に御神体が現れた。
僕は、あっと声をあげた。
あまりにも想像していたものと違っていたからだった。
「岩があって、ちろちろとお湯がでてて、もわもわっとしてた・・・」とおおざっぱすぎる説明を人に聞いていたことがあったので、
まあ、割れた岩の裂け目から温泉が湧き出てて、それを溜めて露天風呂のようになっているのだろう、
そこはかつて修験者の癒しの場であったのだろうから、人に教えたくない「和尚さんの水あめ壺」のような話なのだろう、と考えていた。
しかし、目の前に現れた御神体の岩は、先端に梵天を付けた竹の柵で囲われ、鏡を神前に供え、その左手の岩場から湧き出る温泉水で濡らされている。
予想以上に大きく、ぬめぬめとした岩肌をしていて、こんもりと盛り上がった鍾乳石のように見えた。
そんな岩自体の存在感にたじろいだのだった。
おまけに水質に含まれてる鉄分が岩の色を褐色に見せているせいで、その感想を正直にいえば、女性のなめらかな恥骨に見えた。
まさに、予期せずに、露天風呂につかってる女人に出くわしてしまった感が、僕にはあった。
話すことをはばかられる理由は、勿体ぶって「語るなかれ」ではなく、女性の乳房のふくらみやプリっとした尻を評する下世話に似ているからではないかと思えた。

御神体の脇を裸足で登ることができる。裸足の理由はおそらく、靴では温泉水が中まで染み込んでしまうからだったのだろう。
やや熱めの温泉水は素足に心地よく、そこを越えて向こう側まで行くと、御滝神社という小さな社があり、眼下に沢下の眺望が広がっていた。
古くは、この先に鉄ハシゴがあって、この下の大滝まで降りられたらしい。
御神体の前まで戻りつつ、流れでる温泉水を舐めてみた。
沈殿物から想像するに鉄分が多そうなその水は、血を舐めた時やほうれん草を食べ過ぎた時のようなしぃしぃ感よりも、しょっぱい、という味覚が強かった。
たしかに温泉だと思えば、ごく自然なことで、別の場所に掲げられていた説明書きの泉質にも、含鉄(Ⅱ)、ナトリウム、カルシウム、塩化物泉、、の文字があった。
(化学が苦手だったので、このくらいしか確認できませんでしたが)
社務所で御朱印をいただきながら尋ねてみると、ちゃんと名前があり「おあか」というらしい。
売ってますよというのでその視線の先をみると、ペットボトルに入って販売もされていた。ラベルの端に、飲料ではありませんの但し書きもあった。
あかは、もちろん鉄分のことで、塩分も含まれているという。
ごくごく薄い麦茶のような透明に近い水に、鉄分らしい茶色のオリのようなものが混じっていた。
聞いたついでに、地図をみたら「丹生鉱泉」と温泉が書かれていましたが、丹生とは水銀の丹生のことですよね?と尋ねてみたが、それには反応が良くなかった。
真言系の霊場と鉱物資源の産出地は密接な関係にあると思っている僕なので、温泉が出ること以上に、何かの鉱物がとれた場所だったのだろうという素朴な疑問だった。
ありゃ、まずいことを聞いちゃったかな?と思いつつ、その場をそそくさと離れた。

ちなみに、ここではない別の場所で聞いた話で、その理由のおおよその見当はついた。
(その「別の場所」のブログの時にこの話を書けば出所が知れてしまうので、ここで書いておきます)
その方の話によると、かつてはこの近辺で病気にでもなると、ここのおあかを飲まされたものだったという。
しかし、水質検査をしてみると、微量ながら水銀とヒ素が検出されてしまった。それ以来、飲むことを禁じられたらしい。
おあかのラベルに飲用不可とことわっているのはそのためだったのか。
まあ、個人的には、水銀に限らず放射能でさえ自然界に存在するものという認識なので、ことさら驚くものでもないのだが。

改めて別の神職の方に声を掛けてみると、この場は冬には15mもの雪で覆われるのだという。
それでも空から見ると、御神体だけはその湯のお陰でぽっかりとその姿を見せてくれるらしい。
それゆえ、冬季はこの神社は休業となり、雪の重みで潰されてしまうので、小屋は全部取り払われるのだとか。
なるほど、毎年組んでは壊しているから簡素な造りにしているため、一見粗末に見えてしまうのか。
ここまでの道脇の手すりも、取り外しができるようになっているから粗末でグラグラしていたのだった。

絶界となるこの場所を想像しながら、とても冬には来れたものではないと畏れつつ、出口近くの足湯に浸かる。
湯元あたりの温度はやや熱いが、ほかはいつまでも浸かっていたいくらいの心地よさ。
なるほど、これならわが身に苦行を課している修験者にとって格好のオアシスであったろう。
まさに生き返る心地、「再生の地」である実感がわいてきた。

靴を履きながら、「月山まで約3時間」の立て看板が目につく。
J君はすかさず、行く?行ってもいいよ?と言ってきた。
そう言う彼の靴をみると、カラフルな色をしたクロックスのサンダルだった。
少なくともそれでは行けねえな、とたしなめると、J君はその答えを待っていたようで、なあんだ、なあんだ、と笑いながら悔しがった。
そして、すれ違う人に聞えよがしに、ああ往復6時間って疲れましたねえ!と臆面もなく、僕に言う。
あのね、6時間てね、朝から行ってもこの時間(およそ10時頃)にはまだ帰ってこれないから、と冷たく突き放してあげた。


 おあかの色は、まさにこのお守りの色。




 新しく御朱印帳を新調。


 いただいたご朱印は、見開き。


バス乗り場に戻ると、次までまだ時間があった。
歩いて降りようか?と言いながら、遠くに見える大鳥居を見つけると、誰ともなく話はなかったかのように口を閉じ、やはりバスを待つことにした。




案の定、歩けばよかったを連発するJ君を乗せたバスで、レストハウスまで戻って来た。
その場にでんと腰を据えた大鳥居を見上げる。
高さ18m、さすがにでかい。平成5年の建立。
扁額は、酒井家17代当主・酒井忠明氏による書。




その横には、行人塚がある。
御神体を囲っていた梵天と同じ梵天が、塚の周りにあった。
梵天は、神様の梵天のことではなく、神職が御祓いの時に祈祷者の頭上をバサバサと祓う、ボンボリのような房のついたあれ。(言葉がみつからないので)
それは紙でできているので、ビニール袋で覆っている。おかげで、ムーミンにでてくるミイの髪型のような状態になっていた。
この場所で、多くの行人が修行を積んだ。
このあと行く、六体の即身仏となった上人さまたちも、もちろんここで修行を行った。
塚のなかにあるお堂には、その模造の像があったが、好天のこの日では、そんな修行の辛さを感じるには無理のようだった。




駐車場をでると、かつて出羽三山の参拝街道として栄えた、六十里越街道の名残りがあった。
むかしは、ほぼこのような道を行き来したのだなあとしみじみ思い、山を下りた。




(つづく)



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