貴志子が、遠間からパキスタンのフンザを話を聞きながら、世界地図を開いて空想旅行に浸る。
彼女はそうやって地図を開くのが好きだという。
好きといったことは、小説のなかじゃなくて映画の中だけのセリフだったかどうかは忘れたが。
僕も、そんな空想旅行が好きな一人だ。
大阪を舞台にしたこの物語では、尾道、K市(おそらく笠原)、丹後伊根などの国内を行き来する。
そして、最終章にて、中国のウイグルへと旅立ち、カシュガル、タシュクルガン、国境を越えて、パキスタンのフンザへと到る。
そうなると、本を読むことは滞り、google mapのなかのかの地に飛び込む。
「大きさの異なる薄い紙を、丹念に何百枚、何千枚と貼り重ねたような砂の丘と風紋」が「巨大な口をあけている」という、日本列島がすっぽり入るタクラマカン砂漠はどこか、
標高が5000メートルあるかないかはっきりとしない中国とパキスタンの国境のクランジュール峠とはどこか、
かつてフンザ王国があり、7000メートル以上の名峰が囲む谷に位置するカリマバードはどこか。
多少の地理勘を得ることで、彼らの感情の機微の理由らしきものが伝わってくるような気がしてくる。
この物語の主人公・遠間憲太郎は、カメラメーカーの中間管理職に籍を置くサラリーマン。
遠間は、あるきっかけから取引先の社長・富樫重蔵に「親友になってくれ」とせがまれる。
同齢50のふたりは、お互いを呼び捨てにし、飾らずにお互いをさらけ出しながら、いつしか心から許せる、そして心から信じられる親友となっていく。
それは、ふたりがそれまでの人生で犯した大なり小なりの失敗があるからなのだろう。
50にして、相手の些細な欠点を気にもせず、恥ずかしげもなく自分の本性を吐露することに抵抗がなくなったのだ。
隠さずに自分を晒すことができる人間は強い。負い目がないからこそ、自分にも正直になれる。
そんなふたりが出会った貴志子もまた、40を間近にして、女としての経験を重ねて彼らと同じような心境に差し掛かっていた。
彼女にも人には言えない過去があり(それはなにか読者も知らず)、しかし、それが何事か知る必要はない。
遠間も富樫も、知りたいとも思わず、今の貴志子に魅力を感じているのだ。
そんな三人には、おとなとしての節度、分別、それからユーモアを持ち合わせている。
それは、作者のいう「人間修養」を重ねた経験によって、「心根」のある「おとな」へと成長してきたからだろう。
その三人と、児童虐待を受けて心を閉ざしてしまった少年・圭輔が、フンザへの旅にでる。
圭輔の態度が氷解し、心を開いていく膏薬は、まさしく三人の「心根」なのだ。
人はひとりでは生きていけない、と言うけれど、それはなにも経済面のことや、ひとりじゃ寂しいとかじゃないと思う。
ひとりでは人として成長することができないのだと思う。
孤高を好み、独力で人より優ろうとする向上心もいいけれど、「おとな」になるためには、自分にとって大切な誰かがいるといい。
その誰かのために踏ん張って、その誰かの願いに副えるように努め、その誰かの喜ぶ顔のおかげで自分も笑顔になれる。
たとえば、その誰かがもう故人の場合もあるだろうし、訳あって二度と会えない人の場合もあるだろう。
その誰かにとって自分が恥ずかしくない人間でありたい、その想いを心の軸にしていれば、人は自然と「おとな」になっていくのだろう。
遠間、富樫、貴志子、圭輔。四人それぞれがどの相手にたいしてもその想い、つまり、「心根」の優しさを持ちあわせている。
禅問答のような会話の中で遠間がフンザの老人に言われた、「正しいやり方を繰り返しなさい」という言葉は、その想いを持ち続けなさいと言っているように、僕にはそう聞こえてきた。
映画も観た。公式HP
時間的な制約のせいか、人物やら土地やらの設定にずいぶんと変更があったが、大筋において、作者の意図を汲んだいい映画だった。
配役では、遠間役の佐藤浩市がよかった。貴志子役の吉瀬美智子、娘の弥生役の黒木華も適役。
フンザのあるパキスタンといえば、かつてビンラディンが潜伏し、米軍に襲撃されたのも同国だった。
その一部始終を描いた映画『ゼロ・ダーク・サーティ』のなかのパキスタンは、他人を寄せ付けない混沌とした雰囲気があったが、この映画の中のフンザの谷はまるで異世界。
フンザでの四人に余韻を残した小説と違って、ラストにきっちりオチをつけるところは説明過多の気もするが、そこは興行を優先しなければいけない映画の因果でしょう。
「草原」についての示唆が足りないのが、物足りなさといったところか。
ともかく。
小説は、四人の今後に余韻を残したおかげで、今も僕の心にフンザの景色が広がっているまま。
いつかフンザに行きたくなった。そして、椅子がなくてもいいから草原に腰をかけて、ウルタルほかの名峰を眺めてみたい。
そのとき、自分が何を感じるのか、どんな自分がいるのか、興味がある。
満足度は、8★★★★★★★★
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