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栗太郎のブログ

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「希望の地図」 重松清

2012-03-29 03:32:10 | レヴュー 読書感想文

中学受験に失敗した光司は、春から通いだした中学でいじめにあい、引きこもり状態。
そんな光司は、父の友人のルポライター・田村の被災地取材に同行することになる。
そこで見る想像以上の現実。
それでも必死に生きようとする人たち。
ここにでてくる何人もの「希望」のエピソードは、もちろん現実の話だ。
それはまるで、泥沼から天に向けて茎を伸ばして咲くハスの花のような希望。
触発された光司は、自分自身の困難に立ち向かう勇気を得る、というラスト。

たしかに、重松清らしくていい。
なのに、読み終えてもなかなかレヴューを書く気になれなかった。

今日、あるコラムを読んでいて、その理由に気がついた。
僕は、知らず知らずのうちに分かったようなことを書こうとしていたからなのだ。
言い換えれば、さも優しいことを書き連ね、いい人になろうとしていたのだ。

そのコラムのなかで、あるタレントの言う言葉がこうだ。
「まあ、人に優しくできる時ってのは、大体は何かしらの優越感があるときだよね」と。
誤解を恐れず、装飾せず、本音をむき出しに吐き出せば、
あの時、被災者にならなくて良かったと思っている自分がいる。
だけどそれは自分だけに限ったことでなく、被災3県以外に住んでる人の中で、
実際どれだけの人が本気で我が身のことのように心痛めているのだろうか。
たとえば阪神大震災のとき、関東の人間はどれだけリアルに現実を受け止めていただろうか。
たぶんこんな言葉を当の被災者の方々が目にすれば、まちがいなく憤るだろう。
だけど、僕は聖人でもなければ、哲学者でもない。
ずるいし、天邪鬼だし、そのくせ、いい人に見られようと狡っからい努力をする。
それは自分でもわかっている。
それが親鸞聖人のいう煩悩なのであれば、それはそれでいいと開き直ってもいる。
だから、自分が被害の少なかった我が家に住み、テレビや雑誌からの情報からだけで、
およそ被災地の現実を見知ったかのような、そんなシタリ顔をしてしまう。
そして、テレビでコメントをする多くの有識者や政治家や、そして現地で汗水流しているボランティアの方々のことまでも、
ほんとうは自分と同じなんじゃないかと、疑っている。
いい人になろうとしているんじゃないかと。
だから、どのメディアに出てくる人もどうも嘘っぽく感じてしまう。
いい人を演じている人を、見ている自分もいい人になれたような、欺瞞を。

1年経って、募金があれば「頑張ってください」とチリンとやるし、
親族に不幸があったと聞けば、「お気の毒ですねえ」と慰める。
だけど、その優しさにみえる行為は、けして心から相手を思ってのことではなく、
何もできない自分への言い訳なのだ。
結局、もし、自分や自分の家族が同じ目に遭ってしまったら、という想像さえも、
自分の感情の中では真実味もなく、想像の域を超えられない。
それどころか、何か行動をおこしているひとを尊敬するどころか、嫉妬している。
そんな浅ましく、意地汚い根性を持ち合わせているのが自分なのだと、気付かされてしまった。
悲しいかな、自分はイヤな奴です。

希望を訪ね歩く未来に向けた物語が、まるで相反するものをうつす鏡のように、
読者である僕は、自分の汚い内面を書いている。
こんな僕には、希望の光は、はるか遠い地平線のむこうにかすかに見えているような錯覚しかない。
これって、読後の感想として不適切、、、、だろうなあ。

満足度、2★★(ヘコミ度は数十倍)

希望の地図
重松 清
幻冬舎





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