栗太郎のブログ

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奥州三春観桜記

2015-05-23 13:22:51 | 見聞記 東北編

郡山市から東に行くと、小さな城下町・三春がある。三春は、梅 桃、桜、三つの花が一度に咲くから三春という。

幕末、ここ三春藩は、新政府軍が奥州の地に踏み入るや、奥羽列藩同盟から離脱した。
離脱したというよりは、あからさまな裏切りで、武士の節義もどこへやら、地理に不案内な新政府軍の先導を務めた。
おかげで、白河・棚倉を経てきた板垣退助率いる新政府軍は、三春を悠々と通り抜け、留守部隊が守る手薄な二本松をおとした。
その余勢をかって会津になだれ込んできたのだから、会津としてもひとたまりもなかった。
だから、のちに恨みを持って「三春きつね」と罵られるほどに三春は、会津や二本松にしてみれば憎らしい土地なのだ。

と触れながら、そんな遺恨話は今回の趣旨にあらず。
三春と言えば、滝桜がつとに有名で、日本三大桜の一つに数えられる。
ちょうど咲き頃の4月18日の土曜日、うまいこと休みがとれたので友達を誘って行ってみた。
(ひと月以上も前の話で恐縮です)



まずはその行きがけ、郡山市郊外にある、高柴デコ屋敷へ。
高速のインターからいくつもの山を越えた場所にある。
そこは、年賀切手の意匠にも使われた三春駒や、張り子人形などの民芸品を作る工人の住む集落。
「デコ」とは人形のこと。つまり、人形屋敷、ということになる。
おそらく、農閑期の手仕事として発展したのだろうか。
かつてはここも三春領だった。
民芸店が数軒点在していて、何軒かで張り子の絵付け体験をさせてもらえる。
ってことで、僕もやってみた。

立ち寄ったのは、彦治民芸店。




干支の中から好きなのを選べるので、可愛げのある寅にしてみた。1000円。




こちらがその仕上がり。今はパソコンの脇で笑ってます。




民芸店を出て、集落のはずれに行くと、「天神夫婦桜」の看板。
そっちの方角からは、陽気な音楽が聞こえてきていた。
行ってみると、二本の桜が寄り添って立ち、花も気持ちのいいくらいに満開に咲いていた。
根元には小さな祠があり、祀られている天神様がこの桜の由来のようだ。
桜の下では、お狐様やらひょっとこやらに扮した踊り手が、お囃子にあわせてやにわ陽気に舞い踊り。




弾けたおじさんも、そよぐように漂うように、ゆらりゆらりと舞い踊る。




つられた女性が飛び入り参加。
周りを囲んだおじさんおばさんが、やんややんやの大喝采。
この田舎踊りを見れただけでも、もう十分に来た甲斐があった。




デコ屋敷をあとにして、今日のメインを目指し三春の町へ向かった。
やってきた三春の町は、山間の城下町。
どこか、茂木の町を思い起こさせる町並みだった。

まずは、役場裏の高台の無料駐車場に車を停めて、町中を散策しようと計画。
交通整理のおじさんに滝桜のことを聞いてみると、
あそこもいいが、三春の町の中にだっていっぱい見事な桜は咲いているのだ、と自慢げに言う。
たしかにここに来るまでにも、咲き誇るような見事な枝ぶりの桜の木がたくさんあった。
おじさんの言葉に気づかされるように、ふと駐車場脇に並ぶ桜を見上げてみれば、青空を隠すほどの大振りの桜の花。

 

さらにおじさんが言うには、ゲンユウさんとこの寺の桜が一番のおススメだという。
この山向こうにお寺があるというのだが、「ゲンユウさん」て言われも、地元じゃないんだから誰のことだか分かんないよと苦笑い。
まずは行ってみるかと歩き出したあたりで、ふと誰だったか思い出した。
ああ、あのよくTVにも出てくる坊さんだ!
この間も、NHKのEテレにでてたな?と思い出しつつ、漢字が浮かんでこない。
歩きながらググって、「玄侑宗久」と書くことを知る。そうだそうだ、この名前。
漫画『ギャラリーフェイク』にでてくる「地蔵大作」に似て、どこかにホクロがあり、失礼ながらそのうさん臭そうなとこもまた似ている印象があった。
そんなことを思いながら歴史民俗資料館の脇をぬけると、視線を上げた先にお墓があった。
そのお墓を覆うように、傍にお侍さんが佇んでいたら絵になりそうな桜の木があった。



夜分に、ここに来いと言われたら、僕には無理だ。昼でもちょっと怖い。
もしも、坂口安吾の短編『桜の森の満開の下』にでてくる、山賊にとり憑いた妖艶な桜の精霊がいるとするならば、こんな桜の木にこそ宿っているのかもしれないと思うほどだ。
青空文庫で読めます)
桜の木までたどり着きその向こうをのぞくと、眼下には段々になった墓地と、その先のほうに寺院の堂宇が見えた。
視界にはいくつもの桜の木があり、おじさんが言っていた桜がどれを指すのかよくわからないまま、よく清掃された墓地をすり抜けながら下まで降りた。
工事中の本堂の近くまで来ると、正面に、たしかに立派な枝垂れ桜が咲いていた。




寺の名は、福聚寺。読みはふくじゅじ、臨済宗妙心寺派の寺院。
毎月一回、25日の夜に座禅会があるようだ。
山門脇の掲示板には、「さまざまの 事おもひ出す 桜かな」とあった。




境内のたたずまいが心地よい。
来客者に対する敷居の高さも感じられず、着飾ったてらいもない。

興味がわいて、帰ってから玄侑宗久氏の芥川賞受賞作、『中陰の花』を取り寄せた。

中陰の花 (文春文庫)
玄侑 宗久
文藝春秋

中陰とは、あの世とこの世の中間。
死んですぐの魂が、いまだ現世に残っているうちのこと、らしい。
説教じみた講釈もどきの小説かと思いきや、いやあこれが実にいい具合に俗的でよかった。なるほど受賞も頷けた。
仏教者ならでは知識を活かしながらも、押しつけがましくもなく、時に坊さんが書いている文章だということを忘れてしまう描写もある。
それでも、「仏ってほどけるっていう言葉からきている」「ほどけた(純化した)状態が成仏」だという台詞には、さすが現職の坊さんらしい言葉だなと思わされた。
読み終えて、氏に対するそれまでの印象が、好転した。
経歴を調べて見れば、なるほどその経験も多様で、いまの氏の思想信条の底辺を支えていそうなユニークさ。

家の本棚をみると、氏の本、『御開帳綺譚』があった。

御開帳綺譚 (文春文庫)
玄侑 宗久
文藝春秋

21年ぶりに御開帳を迎えた薬師如来は、じつは偽物だったという話。
これもまた、「坊さん」が書いているのだからという先入観からくる、堅苦しいストーリーでは?というこちらの予想を、たくみに外してくる。
インモラルでスキャンダラスな過去の事件が絡んでくる、まるで、浅見光彦がなぞ解きをしそうな筋書きなのだ。
夕子の存在(『中陰の花』の嫁もそうだが)の説明が不足しているので、ずっと気になってしまうのは、作者の意図した仕掛けなのか。
どこか、鼻先でさっと嗅がされた得体のしれない匂いの、艶めかしい姿態を想像させられてしまう感覚。
そして最後に、御開帳に立ち会うことを心から喜び、皆それぞれの罪や穢れが、薬師様に許されたかのようなラストであった。



さて、僕らは滝桜へ向かう。

運動公園に車を置き、無料シャトルバスで移動する。
現地では、手慣れた野外コンサートの運営のような手際の良さ。
何年も重ねて、一番いい段取りができているといった印象を受けた。関係者各位の労力に感謝。
売店を抜け坂道を登ると、いよいよ、菜の花に囲まれた滝桜が現れた。



江戸時代にはすでに、その老巨木ぶりは知られていたようだ。
でもいつ頃からここにあるのか、天文年間(1532~1554)に植えられたという説もあるものの、確証はないらしい。
推定樹齢、1,000年以上。エドヒガン系のベニシダレザクラ。
保全も行き届いているようで、回廊も整備されている。
青空と、白い雲と、菜の花と、淡い色の桜と、そのコントラストに気持ちがわくわくしてくる。



桜の根元には、ちいさな祠が。
やはり、精霊が宿っているような気がしてくる。
梶井基次郎は、『桜の樹の下には』の中で、桜の花の色は木の下に屍体が埋まっているからだ!と言った。
(これまた、青空文庫で読めます)
それがほんとうなら、桜の木の数だけ死体が埋まっていなくちゃいけなくなる計算になるのだが、
桜の花の儚い美しさを見るにつけ、あながち、屍体など嘘だと言い切る気分も失せてくる。



見上げれば、大きな枝ぶり。つっかえ棒で支えている。



裏手の高台へ移り、滝桜を見降ろしてみる。



どこもかしこも人だかり。



ぶらぶらと桜の周りを散策しながら、腹ごなしに名物の三角揚げを食らう。



そろそろ辺りが暗くなりだし、ライトアップの瞬間を待つ。



振り返れば、観客がいつのまにか増えている。



真っ暗になる前にぽうっと照明が点きだし、方々からため息がもれだした。



暗闇にならずとも、ライトアップを見た感激を味わえたので、帰路につくことにした。
見納めにと振り返った滝桜は、ねぷたの山車が現れたのかと見まごうばかりの壮観な風景だった。




坂道を下り帰ろうとする僕らは、まだまだ大勢の観客とすれ違う。
どうやらこの人たちははじめから、暗くなってからの滝桜を目当てにきたようだ。
その顔はどれも笑顔。
年に一度、この時期にしか会えない満開の桜を目の前にしているのだから当たり前。
そう、まるでこの笑顔は、まさに数年に一度の仏さまの御開帳に立ち会った時の参拝者の顔と同じだと思った。



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