栗太郎のブログ

一人気ままな見聞記と、
手づくりのクラフト&スイーツ、
読書をしたら思いのままに感想文。

「補陀落渡海記」 井上靖

2013-08-11 18:57:18 | レヴュー 読書感想文

先日、わが祖母が冥土に旅立った。
97の高齢なので、悲しむよりもお疲れさんおめでとうと言ってやりたい気分だった。
本人は、ひと月前くらいに、もうじゅうぶん生きたと言っていたくらいで、その言葉どおり、思い残すこともないような優しい死に顔だった。
その顔を見ながら、ふと、井上靖の短編に、南方浄土の補陀落へ生きながら小船で旅立つ「補陀落渡海」の話があることを思い出した。
身内の死に接し、いにしえの高僧の捨身行の心境を知るのもよしと、本を手にした。

時は戦国、永禄8年。舞台は那智、補陀落寺。実在の住職、金光坊のことである。
金光坊までの住職三代が、すべて61歳の11月に渡海していた。
さて、いよいよ自分がその歳になってみると、自分の意志も定まらないのに、周りがさあいよいよとけしかける。
外を歩けば生き仏のように拝まれ、賽銭は投げられ、はてはこれを一緒に舟に乗せてくれとまでせがまれる始末。
もうどうにも渡海をせねばならぬ雰囲気に呑まれ、とうとう否ともいえずに当日を迎える金光坊だった。
どうにも、このあたりからなにやら雲行きが怪しいと気付きだした僕。
もしや、この坊さん、渡海をせずに逃げたのか、もしくは試みたものの失態を犯したのだろうと思い始めた。
実はその予測はあたっていて、史実として渡海した者25人を数えるなかで、ただひとり失敗したのが、この金光坊だったのだ。
(つまり僕は、それを知らずに読み出したわけで)
さて、その金光坊の渡海当日の描写はこうだ。
とうとう気ののらないまま当日を迎えた今光坊、物の扱いが粗暴だとか自分の舟がちいさいだとか、諸事の段取りに不満を持つ。
沖まで曳かれていったあと、一夜をともにするはずの同行人や船頭が、悪天候を理由に早々と帰ってしまうことに、怒鳴り散らす。
その姿は、とても補陀落浄土を目指す観音信者の態度ではなく、俗世への未練が断ち切れない俗人間の姿。
ついに金光坊は、自分が閉じ込められている屋形の板をぶちむくと、海に放り出され、つかまっていた板子ごと近くの島に流れ着く。
島には、荒れた海を避けて拠った同行人たちがいて、彼らに発見された金光坊はなんと、別にしつらえた舟に無理やり乗せられてしまう。
そのとき、「救けてくれ」と金光坊が言うが、聞こえない振りをされるしまつ。
とうとう観念した金光坊は、観音信仰をもつからといって渡海したいとは限らぬのだよと解せる文字をしたため、再び潮の中へと押し出されてしまうのだった。

巻末解説に、同じような話として、菊池寛「首くくり上人」が紹介されていた。
読んでみると、なるほど、ここに出てくる寂真上人もまた、今光坊と似た環境におかれている。
むしろ寂真上人のほうが、高潔な初心が揺らぎ、しまいに誰かに止めてもらえないかとまで願い、とうとうまともに首をくくれずに、見物の群集の失望と嘲笑を買う分、哀れとしかいいようがない。

どちらも、はじめはその決意(金光坊は持っていなかったが)を敬い、何事か恩恵にあずかろう、行為を見届けようとする周囲の人間の心理は同じなのだ。
それが、期待した結果に終わらなかったことへの反発がうまれる。自分と約束したわけでもなく、損失があったわけでもないのに、だ。
そんな、もともと物珍しさで群れだした人々の声は、当の本人たちにとっては、ただの喧騒どころか、崖に追い込む獣の遠吠えのように聞こえてくるのだろう。
たとえば、今で言えば日本代表の試合のように、ふがいない試合をしたといっては、罵声を浴びせ、辞めろだなんだと騒ぎ出す。
どちらも、本来、自分にはできない決意や才能を持った相手なはずなのに、いつのまにか自分よりも愚鈍なる者のように蔑み、憎む。
まったく同じような群集心理だ。そのひとりに、僕自身がなっていないかと振り返ってみると、心あたりがなくもない。怖い話である。


この短編集には、先日の「姥捨」「グウドル氏の手套」もある。
ほかに、タイトルで興味をひいた「鬼の話」は、平安の世に出てくる鬼や昔話の鬼ではなく、鬼のつく字が星に多いだの、死んだ知人の額に角が置けるか置けないか、というもの。
あ、そうだせっかくなので、死んだばあ様の額に、角を置いてみたらどうだろう。
ううんどうも、ガキの頃あれほどどやしつけられたばあ様なのに、立派な角は似合わないようだ。
井上氏によれば、角がなくても鬼には変わりないらしいが、角のない死者の魂は天にのぼるらしい。
そうなるとどうやらいまごろ、ばあ様の魂は、無数の星のどれかに宿っているのかもしれないのだな。


満足度6★★★★★★


補陀落渡海記 井上靖短篇名作集 (講談社文芸文庫)
曾根 博義
講談社


最新の画像もっと見る

コメントを投稿