栗太郎のブログ

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出羽三山の旅(3) 注連寺

2015-08-30 18:45:17 | 見聞記 東北編

次に、同じ大網地区のなかのお隣の集落、七五三掛(しめかけ)にある注連寺へ。




集落の七五三掛という名前からも、寺の名の注連寺からも、その名から連想されるのは「しめ縄」であり、神社の神域の中にあるお寺であることがわかる。
このお寺が、森敦が寄宿し、のちに芥川賞をとった『月山』の舞台だ。
森は、戦後間もない貧しい時代、本堂の奥にある二階屋の二階に一年弱居候した。



その二階屋の前に、森を顕彰した石碑があった。
「月山 すべての吹きの寄するところ これ月山なり」とある。
顕彰碑の後ろには、森敦文庫の建物があったが、取り壊されて今はない。
森は、旧朝日村の名誉村民であったらしい。現在は、それを引き継ぎ鶴岡市名誉市民となっている。



弘法大師開山と伝わる歴史あるこの寺(もちろん箔をつけるための作り話でしょうが)も、明治の廃仏毀釈ののちに、荒れ果てた破れ寺となっていた。
そんな寂れた注連寺を舞台にした『月山』が世に出、芥川賞を獲得したことで、この寺も世間から注目されることとなった。
『月山』の中の注連寺は無住で、七五三掛集落の公民館的な役割を果たしていた。
真冬には豪雪に閉ざされてしまうこの集落の住民の狭隘な思考や、ヤッコ(乞食)の身代わり即身仏の噂話など、けしてこの地区の印象を良くは書いていない。
それでも、この七五三掛の人にとっては、自分たちの故郷を紹介してくれたことをうれしく思ったのだろう。
まあ、まだ昭和の初めのころのこと、どこの田舎も偏狭で他所者に懐疑的で、似たようなものだったとも思う。

受付で拝観料500円を払い、本堂の中を案内してもらう。
この寺は、天井絵図が有名な寺のようで、本堂のどの部屋の天井にも、迫力ある絵が掲げられていた。
ふと、窓の向外の足場のような木組みが気になった。
どうやら、雪囲いのためらしい。夏でも解体はしないようだ。いや、簡単に解体するほどヤワには組まれていないのだろう。 
感心して右手に目をやると、さっきの二階屋の北面も同じように囲ってあった。
これまでしても、真冬の極寒期には凍えてしまうのだ。
あの中で、かつて森が祈祷簿でこしらえた繭玉のような蚊帳をつくっていたのか、と想像してみた。



月山はどちらのほうに見えるのですか?と尋ねると、こっち(下の画像の方角)だという。
だけど薄曇りの天気のせいで、目をこらしても、目の前の山並みの奥に、臥した牛のような月山のかげろうさえも見えない。



写真がありますよ、というので、それと目の前の景色を見比べてみると、なるほどあのポコッとした山の向こうにあるのは間違いはない。



そんなことを鑑賞している横でJ君が、「あれはなに?」と、フェンスで囲われたデカい土管のようなものを指さした。



「あれは、シュウスイコウです。地下に水が溜まらないようにするための地滑り対策です。」
J君いわく、ここに来るまでにいくつもあって気になっていた、らしい。
さすが、パンチラが見える自転車女子を発見する才能にかけては抜群のJ君、僕と視点が違う。僕は全然気にもしていなかった。
シュウスイコウだか、チュウスイコウだか、聞き取りずらかったが、いろいろググった結果からすると、どうやら「集水工」でいいのだろう。
(「集水井工」でググれば、各地の防災対策として行政の対応がいくつも紹介されている。)
聞けば、この七五三掛の集落は、6年前に地滑りが起こり、壊滅状態になったという。そのため今は、ここにだれも住んでいないらしい。
だから、注連寺で働くこの方も、毎日通ってきているのだとか。
『月山』のなかでも月山水系の河川の豊潤な恵みをを讃えているほど、月山に連なるこの谷あいには、地下水が豊富だ。
しかし、その豊かな水がアダとなり、地下に水が溜まって空洞ができて、地滑りが起きてしまうらしかった。
なるほど、すぐ近くの大日坊が地滑りのおかげで移転したもの当然の話だった。
(この地区の地滑りについては、こちらのブログが詳しい)

そしてこの寺には、鉄門海上人の即身仏がある。もちろん、訪問の目的はそれ。
湯殿山で修業をして即身仏になったお坊さんの中で現在もそのお姿が残るのは、先の大日坊から海沿いの酒田市まで合計6体のホトケ様がいらっしゃる。
全国にある即身仏17体のうち、実に1/3以上のホトケ様がこの庄内地方に集中していることになる。
その中での最もビックネームなのが、この鉄門海上人だ。この方もまた波瀾に満ちた人生を送った人だった。
江戸中期の宝暦9年(1759)に今の鶴岡市内に生まれた鉄門海上人は、もとは川人足として働いていた若者だった。
いざこざで役人を殺してしまったことをきっかけに仏門に入り、湯殿山で修業を重ね、東北地方のみならず全国を歩いて湯殿山信仰の布教につとめた。
加茂という峠道が険しいことで人々が難渋していることを知ると、何年もかけて隧道をつくったるするほどの人でもあった。
まさに、『恩讐の彼方に』の青の洞門を地で行く実話だ。
いたるところに上人の功績を讃えた石碑があり、100基以上(だったと思うが)にもなるという。それほど、崇敬を集めた上人だった。
現在、厨子の中に納められたそのお姿は、腐らないように漆を塗ってあるので全体に黒い。
頭蓋骨に薄く張り付いている皮膚は、眼窩と口のあたりが吸い込まれるように窪んでいる。
左目はないので、特に窪んでいる。眼病が流行った時に自らの眼を竜神様に差し出して祈願したからだ。
眼をくり抜くってどれほどの決意か想像するだけで震えがくる。
数か月前のNHK『歴史秘話ヒストリア』でも鉄門海上人が取り上げられていて、その回のタイトルは「オレは即身仏になる ~ミイラ仏の不思議な世界~」
もちろん、そのなかでは志高い聖人のような扱いだった。

旅から帰ってきてから、『鉄門海上人伝』なる上人の人生を描いた漫画を見つけた。
これがまあ、白土三平の「カムイ外伝」を思い出させるような劇画的な作画で、表紙の絵だけでその激動の人生が伝わってくる。
俗名を「鉄」といった若いころの上人は、そうとうの荒くれ者だった。
強い意志からの行動とは言え、自らの左目をくり抜くし、なんと男根を切断するのだ。
自分の男根を自分でちょん切るのである。
いやまあ、聞いただけでまさにキンタマが縮みあがる思いがするわ...。






注連寺を辞して坂道を下り、国道112号線に戻る。
いまではここが六十里越街道と言われるが、もちろん新道で、旧道は、注連寺から右手へ鶴岡市内のほうへ向かう山道がかつての街道であった。
いったん112号線から庄内平野へと向かうものの、どうも、旧道の十王峠を見てみたくなって、改めて旧道から峠道を引き返した。

たどり着いた峠には、そんな古くはないお地蔵さんが立っていた。
このお地蔵さんの裏手に抜ける小道が、おそらくかつての街道であろう。



森敦が七五三掛を訪れた昭和の初めころも、この峠道はまだ江戸や明治と同じそのままの道だったと思われる。
現在は、車も通れるように掘削してあるので、かつての街道よりは広い切り通しとなった。

峠の東側、七五三掛の谷を見下ろした。
この林の陰に、注連寺があるはず。



曇っているが、少し先に湯殿山があり、はるか左手の緩やかな稜線の山あたり、もしくはその向こうあたりが月山だ。
昔の風情はなくなってはいるものの、それでもここが、庄内平野の俗世間と湯殿山の神域を隔てる「結界」の雰囲気はあった。

(つづく)



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