もう一度復習すると
大江宗秀の娘と長田広常が婚姻関係となり、その長田の系には途中大橋氏からの養子も入っている。
大江宗秀は、父は長井時秀、母は安達義景の娘。
北条実時(金沢実時)の娘を妻とし、その間の子に長井貞秀がいる。
その他の男子に、長井時千、長井冬時がいる。← ココに 永井時千
時千は「ときゆき」というらしい。
【太平記の生成と守護大名】長谷川 端 著
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chusei/49/0/49_49_35/_pdf
宗秀の父は長井時秀で
時秀の母は佐々木信綱の娘である。
そして、時秀の妹が那波左近将監妻となっている。
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時秀の母が佐々木信綱の娘
つまり、宗秀の祖母が佐々木信綱の娘
時千は彼女の曾孫である。
「曾孫の娘」が今度は佐々木氏頼(1326-1370年)の母親となっていたのだ。
因みに氏頼自身は信綱の娘の「曾孫」である。
氏頼が1370年に没していることを覚えておく。
一方の片岡を称することとなった直綱が
「応永十八年十二月、始めて土佐国吾川郡 徳光の庄に移り…」とある。1411年。
上記の【太平記の生成と守護大名】長谷川 端 著によると氏頼は高野山に引き籠っていたようである。
氏頼が1326年生まれで、観応の乱が1352年とある。
氏頼の妻は「佐々木道誉の娘」であり、間に挟まれた状況となったのではないだろうか?
一時は三歳の息義信に家督を譲っていたが、(家臣の九里も驚きだったのでは…)
正平9年/文和3年(1354年)には政界復帰したようである。
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http://www.myouji.org/kataoka.htm
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ts_kataoka.html
http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-gen-kataoka1.html
直綱という人物が片岡を称し、土佐へ移ったという事は事実の様なのだが、この佐々木氏の系図の中にいる点が?である。
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武家家伝片岡氏の系図をよく見ると「佐々木盛季」「忠綱」と見える。
この盛季こそ、あの「浪合記」に出ていた盛綱と平貞能の娘との息!なのではないだろうか?
盛季…記憶がある。
「貞能の子、大橋太郎貞経の後裔は、代々尾張、三河に居住した。貞能が尾張で成した四人の女子(二人の妾が同月同日に二子を産んだ)を、後に頼朝卿が鎌倉に召して、一人を三浦の佐原太郎平景連に下された。これが真野五郎胤連の母である。一人を佐々木三郎兵衛西念に下された。これは小三郎盛季の母である。一人を安芸国羽山介宗頼に下された。そして、一人を大友四郎経家に下された。これは豊前守能直の母である。」
野村を称していた、とある。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E7%9B%9B%E5%AD%A3
「盛綱の次男盛季(小三郎左兵衛尉・左衛門尉)が近江国野村郷を領したことから、野村氏が始まりました。
盛季が嫡男として在京御家人として京都に出仕していました。しかし承久の乱で、盛季は佐々木広綱・経高らとともに京方であったため、盛季の子盛蓮は出家し、さらに日向国諸縣郡に四ヶ所の所領があったことから日向に下向しました。盛蓮の長男頼親は踏切郷・村角郷を領し、六男光盛は伊東祐光の養子になりましたが後に帰家し中村を領し、七男光秀は佐土原を領しました。
このうち光盛の孫信盛は肥後国楠郷を所領を得たと伝えられます。」
確かに佐々木氏の流れの中に「盛季」がいる。その流れの中に養子として「三宮実綱の息直綱」とある。
さらに経季=忠綱とある。中原経季、中原経久の弟であるが…関係があるのだろうか? 年代は1190年あたり?
想像だが、片岡氏の所領であった上野国片岡郷「片岡盛保から経季と渡り、養子として入ってきた佐々木盛季の息忠綱に渡っていく。」
この片岡氏と同じく佐々木盛季の息が立原氏(裔に飯沼立原備前守幸隆など)を称して行くことと、似た構図があるようだ。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tatuhara.html
片岡氏の系図には、どうも「中原盛経」「中原盛保」らが下司として活躍が見えるようでならない。
この盛季~の裔は、丹波、信濃、土佐、等各地に飛んでいることからも、下司として入っている為なのではないだろうか?(想像)
中原氏と名前を検索するとちょうどその時代に似合った人物が出てくることからも、私は「中原氏」と思う。
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直綱の実の家と思われる「三宮」とは?
もしかすると、三宮水谷社?
天皇の三番目のご子息?
この周辺を調べていると、田代冠者という人物にあたり、よくよく探ってみると…
「工藤信綱」という。
伊豆国司と狩野氏の娘との息という。
工藤信綱(田代冠者) 三宮実綱 有綱
この信綱は、実は後三条天王の裔であるという。

この佐々木の直綱に関して「太平記」によりおぼろげながらわかった事は「佐々木四郎直綱」で、山内氏となった信詮と兄弟であった事。
また、法名が『中寛』であった事。
どこにも「片岡」の文字はなく、しかし上記の系図では四角で囲まれて強調されているため、何かしら片岡氏が佐々木氏の中に存在したという事を言いたかったのかもしれない。
「直綱」という人物が土佐国の片岡郷にいて、遡ると佐々木氏とも繋がっていたらしい…と聞き及び、佐々木氏の系図の中に入れたという事であったのかもしれず、氏頼の弟ではないかもしれない。
観応の乱で佐々木四郎直綱が活躍しているという事は、1352年には元服していたと思われ、という事は1411年に土佐国へ移住していた時には79歳となる。
重源のような例もあるので、全く可能性はないとは思うが…。
盛季の父が盛綱であり、盛季の異母兄弟に信実がいて、娘が後鳥羽天皇の皇子「頼仁親王」に嫁いでいる。
このこともどこかで関係しているのかもしれない。
https://6102.teacup.com/sankaku/bbs/131