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波多野氏 佐伯氏 佐々木氏 宇都宮氏

2019-07-08 | 佐伯・波多野氏

佐々木頼氏の母は波多野左衛門経朝女

佐々木頼氏とは、【京極頼氏】のことである。
佐々木頼氏(ささき よりうじ、1242年~1297年2月1日)。鎌倉時代の武将、鎌倉幕府の御家人。
通称は対馬太郎、佐々木対馬太郎左衛門尉。左衛門尉。豊後守
のちの京極氏となる家系に生まれ、京極頼氏とも呼ばれる。
佐々木氏信の長男。弟に範綱・満信・宗綱、子に氏綱・貞頼がいる。

昨日、佐々木哲氏のメルマガ~佐々木氏と波多野氏~が届いた。
関係のありそうな部分をピックアップ+私の意見やweb情報を加筆していこう。

『吾妻鏡』では、「対馬太郎頼氏」(『吾妻鏡』正嘉元年十二月二十九日条)、「対馬太郎左衛門尉頼氏」母は氏信の本妻波多野左衛門尉経朝女と考えられる。

『続群書類従』巻百五十五松田系図では、波多野経朝女を宗綱の妻「将軍家女房右衛門佐」としており、宗綱の本妻が波多野氏であることがわかる。

(私:佐々木宗綱のwikipediaによると佐伯頼綱娘になっている。妻は二人いたのかもしれない。経朝の娘も何人かいたのかもしれない。)


『諸系譜』第八冊佐伯系図によれば、佐伯経範は相模目代佐伯経資の子だと伝える。
尊卑分脈では経範の母を佐伯氏としており、経資の外孫で養子になった人物とも考えられる。
尊卑分脈によれば経範は秀郷流藤原公光の子で、本名を公俊といい、兵庫助・右馬助を歴任して鎮守府軍監であったという。

波多野義通は源義朝に仕えて、妹も義朝の側室となり二男松田冠者朝長を産んでいる。
ここに、義朝の右筆であったと言われている中原久経が義通妹の義父となって、二人の仲介をしたという説がある。
波多野義通の次男忠経(忠綱)の母は宇都宮宗綱女である。

忠経とは忠綱のことで、
また中務丞忠経の長男経朝・次男義重(本名宣政)は承久の乱で鎌倉方に随い、義重は承久の乱の功績で越前国志比荘を給付された。

義重(出雲守)は北条重時(北条泰時弟)が南波多野荘地頭となると女婿となり、重時が六波羅探題になると六波羅評定衆として補佐し、
次男出雲二郎左衛門尉時光、長男出雲五郎左衛門尉宣時もあいついで六波羅評定衆となった。

また義重は曹洞宗の開祖道元を助けて永平寺建立に尽くした。
その義重の長男経朝の女子が佐々木豊後守頼氏母であり、次男の出雲二郎左衛門尉時光(六波羅評定衆)の女子が佐々木壱岐守長綱(六波羅評定衆)の妻であり、四郎左衛門尉貞長(六波羅評定衆)の母である。

つまり、佐々木頼氏の母は波多野経朝娘、佐々木宗綱の母も同じく波多野経朝娘か、または佐伯頼綱娘となる。

しかし、ここに義重の長男経朝とあるが、徐福王国相模の系図や下記の系図では、義重の弟経朝となっている。



系図には違いはあるが、
佐々木氏と波多野氏、あちらこちらでつながっているのではないだろうか?

===*===

さらに、この上記の系図に「白川氏」が見える。

白川義職ー義典 の部分である。
藤原秀能が松田(白川)義職の子であり、養子に入ったとの情報もある。
波多野氏と藤原氏、そして和田氏が繋がってくる。

さらに藤原秀宗の妻は土岐光基の娘である。
土岐氏とも繋がるのだ。 
その土岐光基の弟光重は源仲政の養子となり、波多野御曹司を名乗る。






何だか、難しい渦中に入ってしまっている。
公暁が没したのが1219年で、その時に21歳であった義定。
上記のそれぞれの年代はバラバラのような気もし、心中は複雑である。


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3 コメント

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Unknown (りひと)
2019-07-11 09:39:05
佐々木と松田ちょっと楽しみです、波多野を通じてというのも。

やっぱり神奈川の地名も気になってしまいます。
松田と秦野あたり地形的にもお水も道路も必ず通ることにもなるので佐々木の関係する場所探したいですね。そう最近東京回っていたんですけど稲荷が水神いそうな地に多くあるのを気付いてしまったんですよ。なので神奈川で探ってみます。あと今川崎も旧石器古墳あるみたいですよ。まだ眠っていて見えないだけかもしれません。九里や栗は結構出てきそうに思いますね。
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Unknown (りひと)
2019-12-17 13:44:38
北条重時絡みがなんかあるようです。東京って源氏の歴史しか残ってないかと思ったらどうも北条のが結構ありそうです。ただ個人的には神奈川方面が先で東京の方へかもしくは千葉よりから東京へなのかで動いてそう、でそのあと太田氏や徳川が特別視しているようにも。

秋にやっと行けた神社で何回か行かされるかな?って思ってたけど中々用事出来なくってかと言って動機がなく行けてなかったし、夏は散々動かされたあげくにあここだったんだあと。で昨日気付いたんですけど由緒で重時さんも出てくるんですよ。

どうも去年からの動きは北条さんの関係のようですね、どうも。で不思議なんですけどやっぱり関係者の昔からの縁ある土地も関係してくるんですよね。

去年は確かスイカ落としてそれを届けてくれた方がいたようで未知の駅に行ったんで何かあるんだろうなあと。今年はやたらとその辺りに行きでまた御嶽の神社で夕日みてなんかほっとしてまたスイカ落としてまた届けられた場所もありましたよ。でその後行けなくなるくらい遅くなったけど無事行けたのが御嶽。

御嶽(おんたけ)と御嶽(みたけ)と沖縄のウタキもどうも関わってくるんですよね、父祖母関係で。

共通項の中に御嶽も関わってくるのかもしれませんね。昨日は飛騨で木曽馬だったかな?頼朝あたりと馬は確実に繋がるんでこの辺りの一族と馬の接点も気になりましたよ。
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Unknown (りひと)
2019-12-17 13:48:22
重時の息子の義重と道元さんの接点それもとてもありがたいです。曹洞宗お世話になっておりますので先祖供養になります。
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