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九里 【九里】を探して三千里

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『兼仲卿記』紙背文書正応元年八月巻

2019-01-03 | 中原氏バラバラ情報

兼仲とは、勘解由小路兼仲である。
またの名前は「広橋兼仲」

この人の書いた文書である『兼仲卿記』の裏になんと「能兼申状」があったのだ。


この能兼が「中原能兼」と同一人物かどうかはわからないが、中原景経が1244年に勘解由小路と関りがあるので、今一度書き出してみよう。

【九里の祖】一代前の兄弟。兄・中原景経は判官を広橋経光に推薦されている文書が残っており(1244年)、その後富永庄・鐘の銘に名前が残っております。(富永荘 御鎮守新日吉神社 文永五年(1268年))

この広橋経光の二男が「兼仲」である。 藤原北家日野流広橋家である。

この家と関りがあるという事は、中原は家司であったのだろうか?

弘安9年カ)2月21日
少将所望事除目之次、無相違之様 、令申達給候哉、…と部分しか見ることができないので、よくわからないが、

ともかく、この書状が有名な『兼仲卿記』の裏に書かれていたようである。

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広橋氏を調べてみると、
広橋経光 の妻は「藤原親実の娘」であった。
その藤原親実とは、(コトバンクより)

生年:生没年不詳
鎌倉前期の幕府吏僚。明経道の中原忠順の子。評定衆中原師員の叔父。仁治2(1241)年の安芸厳島社神官等申状は,親実が70歳を超えていたことを記す。摂家将軍藤原頼経に仕えた諸大夫で,将軍御所の儀礼や祭祀などの奉行を務めた。確認できる官職は,周防守。文暦2(1235)年,厳島社造営の人事として,周防守護から安芸守護に転任,厳島神社の神主に任ぜられた。寛元2(1244)年には上洛して,六波羅評定衆となる。その後,周防守護に戻り,寛元3年から建長3(1251)年までの在職がみとめられる。建長5年の法勝寺阿弥陀堂供養では,在京人として西二階門を警固した。<参考文献>佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』,森幸夫「六波羅評定衆考」(小川信古稀記念論集『日本中世政治社会研究』)


藤原親実(読み)ふじわらのちかざね
朝日日本歴史人物事典の解説
藤原親実
生年:生没年不詳
鎌倉前期の幕府吏僚。明経道の中原忠順の子。評定衆中原師員の叔父。仁治2(1241)年の安芸厳島社神官等申状は,親実が70歳を超えていたことを記す。摂家将軍藤原頼経に仕えた諸大夫で,将軍御所の儀礼や祭祀などの奉行を務めた。確認できる官職は,周防守。文暦2(1235)年,厳島社造営の人事として,周防守護から安芸守護に転任,厳島神社の神主に任ぜられた。寛元2(1244)年には上洛して,六波羅評定衆となる。その後,周防守護に戻り,寛元3年から建長3(1251)年までの在職がみとめられる。建長5年の法勝寺阿弥陀堂供養では,在京人として西二階門を警固した。<参考文献>佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』,森幸夫「六波羅評定衆考」(小川信古稀記念論集『日本中世政治社会研究』)

(永井晋)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
世界大百科事典内の藤原親実の言及
【安芸国】より

…ほかに新補地頭として確かめうるものに,大朝本荘の吉川氏,三入荘の熊谷氏,安芸町村の平賀氏,都宇竹原荘の小早川氏,八木村の香川氏,温科村の金子氏などがある。厳島神主職も佐伯氏から藤原親実に移った。23年(貞応2)の同社炎上後安芸国を造営料としたが,再建事業遅滞のため国務を社家に付し神主親実を守護に任じその権限による造営の促進がはかられた。…
【守護領】より

…鎌倉・南北朝・室町時代の守護の直轄所領・所職。鎌倉時代のものとしては1235年(嘉禎1)に幕府が認めた安芸守護藤原親実の例が著名である。それは国府ならびに同近辺の郡地頭職,在庁兄部(このこうべ)職(国衙在庁官人の支配・指揮権をもつ),祇園神人兄部職(交通・商業活動を行う祇園社神人の支配権をもつ),国内に広く分布する久武名(有勢な国衙在庁の仮名)などから成っており,これらは前守護武田信光さらに宗孝親の体制を継承したものであった。…

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他のweb情報では

中原親實: 明経道の中原忠順の子。藤原氏系の文官で親能などの同族にあたる。周防守護・安芸守護などを転任した後の寛元二年(1244)には在京の御家人として六波羅評定衆に任じている。

「周防前司親實」藤原親実(生没年不詳)幕府吏僚。明経道(みょうぎょうどう:律令制下に於ける大学寮の学科の一つ。儒教の経学を専攻したが、平安時代以降は中国の史書・詩文を学ぶ紀伝道が盛んとなるに従って次第に衰え、教官の世襲化が強まって中原・清原両氏の家学となった。ここは「大辞林」に拠った。)の中原忠順の子で、評定衆中原師員の叔父。

仁治二(一二四一)年の安芸厳島社神官等申状には親実が当時七十歳を超えていたことを記している。将軍頼経に仕えた諸大夫で、将軍御所の儀礼・祭祀などの奉行を務めた。文暦二(一二三五)年の厳島社造営の人事で周防守護から安芸守護に転任,厳島神社の神主に任ぜられている。寛元二(一二四四)年には上洛して六波羅評定衆となり、その後は周防守護に戻って寛元三年から建長三(一二五一)年までの在職を認めることが出来る。建長五年の法勝寺阿弥陀堂供養では老体にも拘わらず、在京人として西二階門を警固している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

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中原忠順!!この人は「大江忠順」でもある。
出てきました。

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更に面白かったのは、広橋経光の父母。
広橋頼資と源兼資の娘。
さらに遡ると藤原兼光と院慶娘。
院慶とは、コトバンクによると
?-1179 平安時代後期の仏師。
院覚の子といわれる。仁安(にんあん)2年(1167)西林寺新堂の丈六阿弥陀如来像,安元3年白檀(びゃくだん)釈迦三尊像,翌年院尚らと中宮徳子(建礼門院)の安産祈願の不動明王像を制作した。法眼。治承(じしょう)3年4月死去。

源兼資とはwikipediaによると妻は藤原為光娘  娘は藤原隆家室 となる。

源 兼資(みなもと の かねすけ、天徳4年(960年) - 長保4年8月6日(1002年9月15日))は平安時代中期の貴族。文徳源氏、参議・源惟正の三男。母は従三位藤原国章娘。官位は正四位下・左馬権頭。子に『尊卑分脈』には頼仲・頼兼を挙げるが、『権記』では三女はあっても一男も無しとされる。娘に藤原隆家室、源成信室。妻に藤原為光(『小右記』長保5年4月24日条など)。

はじめ近江掾に任官した後、蔵人・治部輔を経て薩摩守に任ぜられる。その後は頻りに美濃国司に任ぜられ、重ねて伊予守に任ぜられた。伊予守の任期が満了して京に戻ると、伊予の諸郡の郡吏らが上洛して、兼資の治能をもって重任を請ったという。任中、左馬権頭を兼任。

長保4年(1002年)7月の末から寝食が通常を失い、左馬権頭の辞職を請ってこれを辞任。長保4年(1002年)8月6日の辰刻に出家し、同日の巳刻に死去した。享年43。

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なんと言っても日野と広橋と同族であったことがわかり、うれしい!(忘れてただけ‥)
そして、大江=中原忠順が元は「親盛」と名乗っていた事も分かり、一歩前進。(忘れてただけ‥)









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