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九里 【九里】を探して三千里

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夢窓疎石のつなぐ糸。佐々木流乾氏と土岐流乾氏(2)

2019-10-07 | 雑記

上記の浅小井系図の師方の妹に注目してみると、

浅小井師方の妹 金澤修理介時秀室とある。


二カ所に記載がある。
ひとつは久時の息「時英」(種時)、もう一つは養子に入った政顕の息「時英(種時)」となっている。
同一人物とみていいだろうか。

北条 政顕(ほうじょう まさあき)は、wikipediaによると、
鎌倉時代後・末期の武将・鎮西探題。
北条氏の一門。父は金沢流北条実政で、金沢政顕とも称される。北条貞顕の従兄にあたる。

政顕の父は実政で、師時の従兄弟に当たるのではないかと思う。
氏族 北条氏金沢流
父母 父:北条実時、母:北条政村の娘
兄弟 実村、篤時、顕時、実政、時直、女子(長井宗秀室)、女子(北条長頼室)、女子(飛鳥井雅有室)
妻 千葉氏の娘

子 政顕、義政、政基、岩難手殿

北条 実政(ほうじょう さねまさ)は、鎌倉時代中・後期の武将、元寇(弘安の役)の日本軍の現地総司令官。北条家の一門。父は金沢流の祖・北条実時。金沢実政とも称される。

===*===

前回の記事にもあったように「土岐氏の外戚北条氏がいずれも元寇で西国に赴任しており、これが鎌倉末期に土岐氏の活動拠点のひとつが伊予にあった理由」とある。

いつでも助けに駆け付けることができるようにと「伊予」にいたという事のようである。
光定は美濃国内の本領のみならず伊予国に地頭職を得ていたという、又、国房も伊予守を名乗っていた。

===*===

話を戻し、夢窓疎石との関係を見ていこうと思う。

夢窓疎石の生まれた場所は、伊勢国といわれている。
(浅小井氏直系の深尾氏が北伊勢郡の員弁にいた。ここには饗庭御厨もある。)

8歳の時に甲州市河にある平塩寺の門をたたく。

http://www.musokokusi.com/teienn-hirasiosann.htm


その寺のある場所は、まさに市河庄で、以下のように義光の息と孫の配流先の場所であった。


佐々木朝綱は父経泰、祖父泰綱であり、佐々木秀義の系である。
秀義の父季定の妻は(秀義の実母かどうかは?だが)新羅三郎義光の娘である。
その義光の息と孫が常陸で乱行をはたらき、配流に至ったという説がある。
義光は甲斐守でもあったので穏便な処置と思うが、ともかく佐々木秀義の祖母に当たる人の兄弟と甥が館を築いていたかもしれない場所である。

母は私が死んだら「平塩山寺」へ、と8歳の息子に言い含めていたのか、それとも他界する以前に寺に預けたのか。

その後、19歳には東大寺へ行き授戒を受けて、正式に小僧になる。(以下のページを参考にした。)
その後、京都の建仁寺二年、鎌倉の建長寺で四、五年参禅、奥羽地方へ遍参(へんさん)行脚(あんぎゃ)に出、あちらこちらで修業を十二年間積む。三十四歳まで甲府に浄居寺(じょうごじ)という寺を建てて住し、その後美濃へ移り住む。
虚渓山(こけいざん)に庵をつくり住む。そこから京へ移り、北山に庵を結んで、そこでじっと坐禅をした。

http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-262.htm

その後、鎌倉北条高時の母(覚海円成…安達(大室)泰宗娘)から鎌倉に来るようにとお達しがあり、一時高知へ逃げたが、再三の招請に鎌倉に赴く。
1321年という事なので、その高時は17歳くらいであったと思われる。夢窓疎石46歳である。

北条師時は父を早くに亡くしており時宗の猶子となっていたそうだ。とすれば貞時とは義理兄弟である。
その貞時も、叔父の師時もすでに10年前に他界しており、それまで政治的な場との縁を避けてきたようなきらいのある夢窓疎石なのだが、この時は渋々ながらその地に赴いている。
覚海円成は、貞時の13回忌供養で建長寺に華厳塔を建立している。これも夢窓疎石と関係していると思われる。

その後に、後醍醐天皇が「南禅寺の住職を。住職と言っても煩雑なことはしてもらわなくてよい。南禅寺に住んで仏法の話を私にして頂ければよい」という勅命がくだる。
南禅寺に行く。しかし、一年でまた鎌倉へ帰ってくる。というのは、京都の街はすでに天皇を中心に倒幕の運動が起こっていたためという。
その間、夢窓は再び甲州へ入って、甲斐の恵林寺(えりんじ)を開く。
https://erinji.jp/history/%e5%a4%a2%e7%aa%93%e5%9b%bd%e5%b8%ab
https://erinji.jp/history/erinji

ここで二階堂貞藤に触れておきたい。二重三重と夢窓疎石と縁がある。
貞藤は法名を道蘊という。

wikipediaによると
この人が甲斐国山梨郡牧荘主で、嘉元3年(1305年)には鎌倉から夢窓疎石を招き浄居寺を再興した。
元徳2年(1330年)に引付頭人、守護となっていた甲斐において再び夢窓を招き庄内に恵林寺を創建
後醍醐天皇の譲位を促す使者として安達高景と共に上洛し、宮方の楠木正成が挙兵した千早城攻めに参加した。
正慶元年(1332年)には政所執事を務め、得宗・北条高時を補佐する。


さらに土岐氏と夢窓疎石の関係も見てみよう。
土岐光定の息頼貞

頼貞は正和2年(1313)に当時名声が高まっていた夢窓疎石を招いて父・光定の三十三回忌法要を催している。そして自身の領内に永保寺を創建し夢窓をその開山とした。
夢窓疎石38歳、土岐頼貞42歳の頃である。

その頼貞の息、道謙が乾氏の祖(土岐乾氏の祖)である。
同時代に佐々木京極道誉がいる。足利尊氏の配下に入り共に知己であったろうと思われる。
因みにではあるが、佐々木道誉の正室は、二階堂時綱娘である。

この道謙法師は、備後大田庄(現在の世羅町)の浄土寺の院主道謙であろうと思われる。

足利直義と共に和歌を詠んでいる。また、太平記にも登場している。






これは1336年の4月3日で、建武と同じ年で、途中で延元に変わっている。

足利尊氏は建武3年(1336年)2月、九州に落ち延びる際、浄土寺本堂で戦勢挽回を祈願し、幾つかの地頭職を寄進。更に九州での戦いに勝利再起した同5月5日に再び浄土寺本堂に参籠して、1万巻の観音経を読経し、足利直義や道謙法師と共に観音経にちなんだ33首の和歌を詠じて戦勝を祈願している。尊氏はその後、備後国の利生塔を浄土寺境内(元尾道市立筒湯小学校校庭)に建立し、寺では今も足利氏の家紋「二つ引門」を寺紋として使い続けている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AF%BA_(%E5%B0%BE%E9%81%93%E5%B8%82)


院主とあるので浄土真宗のようであるが、道謙の「道」が夢窓疎石が付ける法名なので、もしかすると父頼貞の影響もあり、夢窓疎石に帰依しているかもしれない。

二階堂道蘊・佐々木道誉の「道」もそうである、と思う。
道謙の「道」もそうであるならば、土岐乾氏もやはり夢窓疎石とつながっていることとなる。

ここに佐々木氏と土岐乾氏、共に夢窓疎石とつながり、共に足利幕府の中で活躍していたことを見る。
が、建武二年、道謙は遁世している。

浄土寺の院主となった後に、道謙は美濃国に帰ったのではないだろうか。

岐阜県山県市の梅谷寺は、臨済宗妙心寺派で、土岐左衛門尉光行が建立した寺、とある。
夢窓疎石の天龍寺派ではないが、ここに居を構えたのではないかと思う。(下記の地図参照)
それが土岐乾氏の始まりではないだろうか。

そして、太田庄(世羅)のことでもわかるように、源頼政の後裔でもある源氏として、もとから佐々木流の浅小井・深尾・乾氏とも繋がっていたのではないだろうか。

私が探している「九里氏」につながる話としては、

其の始まりが、江州中原と紀氏だと思う。
そこに源頼政が加わり、秀郷流が加わり、土岐氏が加わり…と縁が広がっていったのではないだろうか。

江州中原氏と佐々木氏の接点は、浅小井・深尾・乾氏周辺であったと思われる。
加えて、井・一井・櫟氏あたりも接点と思われる。

そして土岐氏も非常に近くにいたと思われる。
「土岐播磨守常忍」と名乗っても許されていたのかもしれない。

其の江州中原氏からある者は因幡国で富城氏となり、ある者は東国で富木氏となり、ある者は近江国で九里氏となって、ある者は、乾氏・浅小井氏・深尾氏となり、ある者は木村氏となったように思う。



夢窓疎石の母が乾氏かもしれないという所からの想像であった。

追記 

佐々木流乾氏も、土岐流乾氏も、院の役職を持っている点。
鎌倉時代は北条氏と婚姻関係を持ち、
また、幕府にも近く、協力的である点。
室町幕府でも乾氏・九里氏働いている。
そこも似ていると思う。

おまけ
夢窓疎石の対話集 現代語超訳

結構楽しかった。
http://bunchin.com/choyaku/muchu/index.html



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1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (りひと)
2019-10-08 10:34:07
昨日かな?大庭という場所調べていて藤沢あたりも出てきたのかな?縁ある場所です。
時宗の遊行寺ありますよね、そう時宗も絡んできます。
念仏があるからでしょうね。

あと父も戒名頂いた中に道ありましてお坊さんの名前で付く道はマークしてます。で神でも道関係の神さんも、道真さんもそうですね。ちょい変化球だと思うんですけど繋がるようです。天神という枠の中に入ってるように思います。

あとなんだっけなあ?そう足利なんですけど、渡良瀬川の方行った時に川挟んで民族がちょっと違うような気配でして、ただ多分北条も足利の関係というかブレーンみたいなもの入っていると思います、勘だけですけどね。

父の探索で南朝後醍醐さんが必ず出てくるんですけど、それもとてもややこしい。武士の闘いとなると妥当な民族的に配置にもならない事や忠義というものもありここもややこしいです。

それからもう一つ、後醍醐天皇で出てくるのも楠木さんの関係ですけど群馬もかなり縁ありそうですよね。
で世良田にも行ってるんですけど、またそこに徳川なんですよね。太田が世羅という地域だとは知らずでしたけど、もう少し西の方の世良田エリアもどう関係するか?ちょっと楽しみです。また縁切り寺で女性の守護的なお寺なんですけど、鎌倉の源氏山公園の麓にも同じようなお寺があったようでそこのあたりは通って静香の舞に偶然出会ったんでそれも深読みしてます。

あと勾玉が奈良と群馬で似ていてこれもかなり深読みしてますよ、多分お水の神事とか子孫繁栄の文化継承が同じ関係の民族であったんだろうなあと考えてます。

タイミング的にも探索が重なる事で意識する事も最近多いですよ。あと別件で思った事がこちらにある事も。

ひとまず今は江戸なんで家康道灌と遡り中です。将門あたりまで行くと藤太にも繋がる時代になりますよね。
ただその時代の間の鎌倉がありいい意味でで両方が一度混沌としてその後意志ある民族に継承されているので鎌倉は特にややこしいとは思います。
で道灌家康でまたちょっと変になって綱吉で吉宗でヒントはビックネームで繋がる可能性はあります。

でこうした探求はおそらく自然の脅威でもあるお水への対策のヒントにもなり現代の人にも今後もとても大事になるはずです。
お水の道は、すでに大昔から地形で決まってしまってます。権力者も苦労しておりますがありのままのはず。苦労している分何か対策しているならこれからの対策への知恵になるはずです。
お水と風もどうもセットらしいので風への対策もお水の対策と一緒にヒント貰えるといいですよね。
九里さん大事ですよ、宜しくお願いいたします。
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