筑後守俊通為子…の前の竹泉は號だろうか?
筑後守といえば、波多野義通と同じであり、其の息子の俊通と見て良いのではないだろうか?
俊通は1160年に歿していて、治承三年(1179年)に十九歳の義定(俊職)は養子に行く…という事は、赤子の時に養子となることが決まっていたという事だろうか。
此の後に再起を計るために中原となって俊職と名も改めたのかもしれない。(勝手な想像)
筑後守俊通為子…の前の竹泉は號だろうか?
筑後守といえば、波多野義通と同じであり、其の息子の俊通と見て良いのではないだろうか?
俊通は1160年に歿していて、治承三年(1179年)に十九歳の義定(俊職)は養子に行く…という事は、赤子の時に養子となることが決まっていたという事だろうか。
此の後に再起を計るために中原となって俊職と名も改めたのかもしれない。(勝手な想像)
今日は、大雪注意報と有りましたが、kunorikunoriさんからすると小雪ですね。
都心はみぞれでしたが、和光の地上に出ると積雪が有り、ちょっと心配しましたが、朝霞台でみぞれで、今は積雪無しです。明日は凍るでしょう。
雪もコロナも早く消えて欲しいものです。
凍る道恐る恐るとペンギンに
あの京都の古地図では、源頼政のお宅の隣が「秀能邸」か、もしくは頼政の敷地内に秀能の邸があったと思われます。
毎日歌の手ほどきをうけていたとか???
と思ったのですが、秀能1184年生まれ。
頼政に歌を教えてもらう事はなかったですね。
しかし、二条院讃岐はいたかも?なんて想像しております。
この松田氏の系図のこの義職以下の部分ですが、荒木とか荒木田、とか、大中臣っぽいですので、そんな名前の歌人いませんでしたでしょうか?
古今和歌集にも関係した女性がいましたよ。
次の記事にしますね。
つくづくと思へばやすき世の中を心と歎くわが身なりけり
荒木田氏良
さみだれの雲のたえまをながめつつ窓より西に月を待つかな
の2人がいます。
長延
鎌倉時代前期伊勢神宮内宮権禰宜
氏良
平安時代末期(1153-1222)伊勢神宮内宮一禰宜。西行、俊成と交流が有りました。千載集初入集。
ヒントを頼り大中臣長延を調べておりましたら、公親女の歌が出てきました! 嬉しいです。
和哥所にて、春山月といふ心をよめる
越前(大中臣公親女)
山ふかみなほかげ寒し春の月
空かきくもり雪はふりつつ
(題しらず)
越前(大中臣公親女)
山里の庭よりほかの道もがな
花散りぬやと人もこそとへ
(千五百番哥合に)
越前(大中臣公親女)
秋はただ心よりおく夕露を
袖のほかとも思ひけるかな
海浜重夜といへる心をよみ侍りし
越前(大中臣公親女)
幾夜かは月をあはれとながめ来て
波に折り敷く伊勢の浜荻
久しき恋といへることを
越前(大中臣公親女)
夏引の手引きの糸の年経ても
絶えぬ思ひにむすぼほれつつ
百首哥奉りし時、海辺哥
越前(大中臣公親女)
沖つ風夜寒になれや田子の浦の
海人の藻塩火焚きまさるらむ
五十首哥奉りし時
越前(大中臣公親女)
神風や山田の原のさかき葉に
心のしめを掛けぬ日ぞなき