THE RECKLESS MAN*

過ぎ行く時~後悔は少なめなMY LIFE を送ることをモットーに、日々、テキトーな日常を書き留めています。

日本人の誇り★奇跡の日系野球チーム~奇跡体験!アンビリーバボーより~⚾️

2014年02月27日 | 日記

こんばんわ!今日は、この時間めずらしく自宅にいます。雨と腰痛で、平日のワークアウトはひさしぶりにお休み~外気が妙にあたたかいですネ。

 

ジムに行かなかったので、いつもより早めの夕飯で腹を満たし~爪楊枝で歯をシーシーやりながら何か面白い番組はないか?とチャンネルをパチパチと回していると、『奇跡体験!アンビリーバボー』の後半でした…。

 

今日の番組内容は、カナダに移民した日本人の話し。アンフェアな相手に対して、一方的にやられても絶対に仕返しせずにフェアプレーを貫き戦いつづけた日本人野球チームが奇跡を起こした!!⚾️💨

 

『相手が、どうこうするから!』とかってことのリアクションの前に、その先にあるものをつかむためにやらなきゃいけないこと~やり抜かなきゃならないこと~それが、どんなに辛く困難なことでも、その試練を真正面から受け止め乗り越えた男 ”ハリー宮崎 ”、彼の『志』にスポーツマンとしても人間としても激しく胸を打たれ、人の心の光を教えられた…😢

 

 カナダ、西海岸の大都市・バンクーバー。 その一角に、かつて1万人もの日系人が生活する日本人街が存在した。 日本がまだ明治時代だったころ。 貧しい農村に住む人々が仕事を求め、世界中に渡った。カナダにも8000人を超える日本人が移住。日本人街は「リトル東京」と呼ばれ、多くの商店が立ち並び賑わいをみせていた。

 

今は公園になっている場所で、日本人野球チーム、バンクーバー朝日軍は誕生した。 今からちょうど100年前に生まれ、その後 27年間にカナダのリーグを席巻。 全盛期には5軍まである巨大野球クラブだった朝日軍。

 

現在、バンクーバーで暮らすケイ上西功一さん、92歳。 彼は晩年に朝日軍に活躍した一人である。 当時 2世は皆、バンクーバー朝日軍に入るのが夢だったという。

 

 バンクーバー朝日軍、誕生の裏には壮絶な歴史があった。 カナダへの移住が開始された当時、やって来た日本人の多くは林業や漁業など肉体労働に精を出した。 安い賃金でも勤勉に働く日本人は、重宝されたのだが、皮肉にも日本人達が働けば働くほど、仕事を奪われた白人達の憎しみは募っていった。

 

1907年、ついに5000人もの反日デモ隊が暴徒となり、日本人街を襲撃!! 日系人達は、家族を守るために団結。 暴徒を力で撃退せざるを得なかった。この時、暴動を目の当たりにした少年、ハリー宮崎。 彼は後に、バンクーバー朝日軍を率いることになる。

 

 元は白人が起こした暴動、だがそれに抵抗した結果、逆に日系人は危険な民族だというイメージが広まってしまった。 カナダ政府はこの事件以降、移民を厳しく制限。 日系人はカナダ国籍を取得しても選挙権は得られないなど、法的な差別を受け続けることになる。

 

そんなころだった・・・当時カナダでは野球は最も人気のあるスポーツ。 国内にいくつものアマチュアリーグが存在していた。 日本人の野球チームもあったのだが、レベルは低く、下部のリーグにさえ参加することは許されなかった。

 

そこで、日系人有力者の支援で、若い頃から育成し強いチームを作るという目的のもと、15歳前後の少年達が集められた。 バンクーバー朝日軍の誕生だった!!学校が始まる前、放課後、ひたすら少年達はボールを追い続けていた。 そして朝日軍は、日系人社会最強のチームへと成長。

 

チーム設立から4年後、ついに白人達の下部リーグへの出場が許されることになった。 そこで白人達から「ジャップに野球が出来るのかよ」と言われ、カッとなった日本人選手をチームメイトが「ケンカをしに来たのじゃない」と止めた。

 

彼こそがハリー宮崎だった。 あの暴動を目撃した少年が立派な若者となり、チームの中心選手となっていた。 彼は、厳しい人種差別の中でも、野球を通して日本人の誇りを保っていこうと考えていた。

 

 試合が始まると、そこには目を疑う光景があった。 小さな朝日軍が白人ぞろいのチームを翻弄。 そして、試合は朝日軍の圧勝に終わった。それは、快進撃の始まりにすぎなかった。 その後も朝日軍は白人チーム相手に連戦連勝!! そして翌年のリーグ戦、参戦2年目にして初優勝を果たしたのだ!!

 

 下部リーグで優勝を果たした翌年、朝日軍はさらにレベルの高いターミナルリーグへ招待された。 ついに白人社会が朝日軍を認めたかに思えた。 だが・・・白人チームは朝日軍に乱暴なプレーを仕掛けてくるようになったのだ。

 

試合のたびに、日系人とカナダ人、それぞれの憎しみが球場でぶつかり合った。 さらに、審判も白人チームびいきの判定を下した。 パワーに任せた乱暴なプレーと白人よりのジャッジに苦しめられ、その年 朝日軍は連戦連敗。 リーグ下位に沈んだ。だがこの頃になると、朝日軍がリーグ参加の資格を剥奪されることはなかった。

 

初代エースピッチャー、テディ古本。 その長男、古本善庸さんによると・・・・白人チームが日系人チームを打ち負かす構図が多くの観客に受けていたためだったという。 白人に翻弄される日系人を見に来る客で球場は埋まっていたのだ。

 

しかし、白人達の差別に絶えかね、バンクーバー朝日軍は崩壊の危機に直面していた。 この頃、メンバーの誰からも信頼される存在になっていたハリーがメンバーにある提案をした。 その提案を聞いて、メンバーは奮起した。

 

その後、周囲に押され、ハリー宮崎が新監督に就任。 するとハリーは、徹底した守備練習を敢行。 さらに、バントや走塁などの練習を執拗に繰り返した。 白人のパワーに、機動力と組織力で対抗するスモールベースボールを目指したのだ。

 

だが、ハリーの改革はそれだけではなかった。 もう1つの改革、それは・・・フェアプレー精神の徹底だった。だが、結果は惨敗続き。日本人が抵抗しないのを良いことに敵はやりたい放題だった。

 

日系人の観客からは、あそこまでやられてなぜやり返さないのかと詰め寄られた。 だが13年前の暴動の時、憎しみを憎しみで返した結果、憎しみが憎しみが呼んだだけと説明した。 ハリーは、どんな不利な状況でも正々堂々と闘い勝つ、それが日系人の本当の姿だと示したかったのだ。

 

 それから、バンクーバー朝日軍の真の戦いが始まった。 どれだけ乱暴なプレーを受けても、偏ったジャッジも・・・どんな時でも朝日軍ナインはフェアプレー精神を貫き続けた。 その一方で、翌年もその次の年も朝日軍は最下位。

 

そんな中、ある事件が起こった。 その試合、勝利を目前に控えた朝日軍。 だが、3点リードで迎えた9回ウラ、朝日軍はランナー満塁のピンチ。

 

その時、走者一掃のロングヒット! 打ったバッターもホームへ向かう。 明らかにアウトだったにも関わらず、審判はセーフの判定を下した。 すると・・・朝日軍ナインとハリーが目にしたのは、審判に抗議するために乱入した白人観客たちの姿だった!!

 

あの時、ハリー宮崎が提案したのは・・・「正々堂々と戦い続けることでお互いの憎しみを消していこう」というものだった。 いつしか、フェアプレーを貫く日本人の精神が多くのカナダ人を魅了するようになっていたのだ。

 

そして、ハリー宮崎の監督就任から5年。 バンクーバー朝日軍は、ターミナルリーグ初優勝を果たした。 応援に駆けつけた5000人を超える日系人とカナダ人の観客は、一つになって喜びを分かち合った。 それは朝日軍が、憎しみ合っていた日系人とカナダ人の架け橋になった瞬間だった。

 

それから3年後、ハリー宮崎は朝日軍の監督を引退。 だがその後も、バンクーバー朝日軍は快進撃を続けた。 フェアプレー精神と共に。17歳になった上西さんも、その後、3年間にわたり選手として活躍。 1941年には、各リーグのチャンピオンが戦う最高峰の大会で5連覇を達成。 日系人とともに、多くの白人ファンを熱狂させた。

 

だが、栄光は長くは続かなかった。 その3か月後、太平洋戦争が勃発。 カナダの日系人2万人は、敵国の人間として全財産を没収され、カナダ各地の強制収容所に送り込まれた。バンクーバー朝日軍は、事実上の解散を強いられたのだ。 そして、戦後も再結成されることはなく、栄光は歴史の中に埋もれてしまったかに思えた。

 

だが、それから60年あまりが経った2003年、カナダ人の熱烈な歓迎を受けるケイ上西功一さんや朝日軍の元選手達。 実はこの日、朝日軍のカナダ野球殿堂入りが発表されたのだ!! それは、日本でも報道された。

 

殿堂入りするのは、ほとんどメジャーリーガーなど超一流選手。 日系人アマチュアチームのそれは、正に快挙だった!! スポーツを通じて2つの民族の憎しみを乗り越えた、奇跡の野球チーム。 バンクーバー朝日軍の精神は永遠に語り継がれていく。

 

朝日軍の物語は、1冊の本として出版されたことで、徐々に日本でも広まりつつある。 その著者であり、初代エースピッチャー、テディ古本さんの長男・古本善庸さんはこう語る。

 

「彼らが胸に抱いたのは、異国の地にあるからこそ、自分たちに流れている日本人の血を感じてその日系という民族が馬鹿にされてはいけないと、誇り高く日系人として生きていきたかった。」